ルソーの直接民主政を考える
2018年10月27日
ルソーの直接民主政論
よく知られているように、ジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』の中でこう書いている。
「人々が自由なのは、議員を選ぶ間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、人々は奴隷となり、〔自由は〕無に帰してしまう。その自由な短い時間に、彼らが自由をどうやって使っているかを見れば、自由を失うのも当然である。」
もともとルソーが言う主権者の一般意志は、人々が公共の広場に会して形成されるものであり、政府に移譲されるものではなかった。
この点で、ルソーの国家論(正確にいうと主権者論)は、ホッブスの国家論(人々は互いの、あるいは外国の侵入からの恐怖に備えるための「公共の剣」を求め、自己保存のために権利をすすんで放棄し、国家に移譲したとみる思想)とは隔絶している。こう考えたルソーは直接民主政論者として知られている。
しかし、今日の民主主義は、議会を通じた間接民主主義と言われ、直接民主主義はそれを補完するものとみなされている。が、ルソーは逆で、直接民主政が基本で、それを補完するものとして間接民主政をとらえた。
ルソーも間接民主政=代表制それ自体を否定したわけではない。しかし、現代の間接(議会)制民主主義者と比べ、主権者の意志を代表(国会)に委任することへの懐疑が根深くあったことは明らかだ。それは多数の意志(数の正当性)に対する徹底した不服従の思想といってもよいと思う。
また、代表者(議員)は、ひとたび人々によって選ばれるや、主権者への奉仕者どころか、まるで自分が主権者かのようにふるまい、人々を見下す。
主権者と代表者の主従の逆転
こう述べると、分かるとおり、主権者と代表者の主従の逆転現象は今の日本の政治の姿そのものである。
人々が自由に選んだはず多数党議員と政府の要人は、不遇の人々を不摂生者と決めつけ、マイノリティを生産性がないと切り捨てる。
確たる科学的根拠もなく、というより、世界標準から外れた被ばくによる健康リスクの基準値を政府が勝手に年間20ミリシーベルトと定め、それから外れたエリアからの避難者を「自主」避難者と呼び、まるで「保護の対象外」と言わんばかりの風潮を蔓延させた。そのため、避難者一般がそうだが、とりわけ、「自主」避難者は、福島出身を伏せ、補償金で裕福に暮らす人という曲解――避難者いじめ――に苦しんでいる。
さらに、復興担当大臣は「ふるさとを捨てるのは簡単」と公言し、避難指示区域以外のエリアからの避難者は2017年3月末で災害救助法に基づく住宅提供を打ち切られた。
しかし、こうした棄民政治は人々の政治意識を大きく変えるには至っていない。 いつ自分も、過酷な避難生活者、重い要介護者となるかもしれないが、そこはケ・セラ・セラで、今が良ければという多数意志によって、また、代わるべき政権への期待感の低さから、今の政権は消極的ながらも、支持され続けている。
https://www.youtube.com/watch?v=OvLzMU5RIjw
(ケ・セラ・セラ 唄:ペギー葉山 1996年)
こんな日本の政治・社会・国会の状況を見ていると、ルソーの直接民主政に共感せざるを得ない。政府にいなされるばかりの野党の背中を押すことが人々の主たる務めなのか? 「パレード」なんていうハイカラな言葉より、悪徳「お上」や「代官さま」に対する「一揆」と言った方が似合っているのではないか?
代議制への体験論的不信
ただし、断っておきたいのは、私が代議制に不信を拭えない理由は、身近な体験を通して、保革を超えたところで、見出しているという点である。
自分自身が主催団体の一員になった集会でたびたび、経験したのは、国会議員のわがままな、あるいは、自己中心的なふるまいである。
各党(多くの場合、野党)の国会議員にあいさつを要請する。国会開会中などに議員会館で開催する集会などに、あわただしい日程をぬって出席してもらう場合はやむを得ないが、どのような場合かを問わず(地域の催しで同席した場合でも)、依頼されたスピーチの時刻の直前に会場に姿を現わし、スピーチが終わると、決まり文句のように、「次の予定が控えていますので」と一言して、そそくさと退席するのが通例である。
予定より、早く、あるいは遅れて到着しても、待ち時間を惜しむかのように割り込んでスピーチをさせてほしいと頼み込まれることも珍しくない。
事と次第とはいえ、市民が主催する催しに出席するなら、自分のスピーチの前後の他のスピーカー(市民も含め)の話しに耳を傾けるのも国会議員の務めの一部(本来は主たる任務)でないのか?
参加者(主権者)を自分のスピ―チの聞き役としかとらえず、主権者の意志に伺いを立てる機会にしようという姿勢など、まるで感じられない。
各党議員がさみだれ的に会場に現れ、その都度、予定を変更して、時には別のスピーチを中断して、議員のスピーチを割り込ませた結果、進行がぐちゃぐちゃになった経験も一度ならずあった。
「代表者」=通称「選良」の言葉とふるまいの乖離、主権者に対する横柄な態度は、体験に根差す、私の代議制に対する不信の理由である。が、それは、個人的な体験を超えて、代議制に対するナイーブな信任を許さない、代議制に宿る根源的な弱点の端緒を意味するのではないか?
直接民主政のささやかな実践
ただ、そうはいっても、直接民主政は、原理を離れて、一歩、制度設計の話しになると、技術的な実行不可能の壁―――散在する民意を選挙に依らず、どのように集約するのか―――にぶつかる。
しかし、考えてみれば、たとえば、地方自治体にはリコール制や監査請求制度があるのに、国政にはなぜないのか?
「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(日本国憲法、第15条1項)と謳っていながら、大臣、国会議員、一定以上の職階の公務員に対する罷免請求権制度がなぜないのか? それも立法裁量で済ませても、憲法15条1項の趣旨と違わないのか?
国政の空白、混乱の回避と言った秩序優先主義でお開きにせず、有権者に直接民主政を体験する機会を設けることが、長い目でみて、日本の民意を向上させ、民主主義を根付かせる一助となるのではないか?
他方、直接民主政をもっと身近に実践できる場がある。選挙がすべてではなく、その間に行われる世論調査や報道に市民の意志を反映させて、「悪代官」に民意の怖さを思い知らせることである。これが今の日本社会における、夢想ではない、その気になれば常に実行できる直接民主政の姿である。
この点で有権者は、とりわけ選挙を意識した「市民と野党の共闘」を唱え、国会と一体化する前に、ルソーが言うところの、既存の党派を超えた有権者の「一般意志」を形成することが基本的な務めである。それが直接民主政の威力を発揮するために不可欠である。「仲間内」でいかに意気投合しても、それは一般意志の形成には、ほど遠い。
人々が政府に怖れを抱かせるに足るパワフルな民意を形成できない時、人々は文字通り、愚かな政府の奴隷になるのである。
追記
この稿で扱ったルソーの直接民主政の理解については、高村是懿『科学的社会主義の源泉としてのルソー』(2004年、一粒の麦社)が参考になった。
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