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徴用工判決:河野外相の韓国政府への責任転嫁論は奇弁

20181119日 

 河野外相は113日、神川県内の街頭演説の中で次のように発言した。

 
「河野太郎外相は3日、神奈川県茅ケ崎市で街頭演説し、日本企業に賠償を命じた韓国人元徴用工訴訟判決に関し、韓国国民への補償は韓国政府が責任を持つ取り決めになっているとの考えを示した。1965年の日韓請求権協定に言及し『日本政府は一人一人の個人を補償するのではなく、韓国政府にその分のお金を経済協力として渡した』と強調した。」
 
(「徴用工判決 河野外相『韓国政府が責任持ち補償を』」「毎日新聞」2018
  113 2237)
 
https://mainichi.jp/articles/20181104/k00/00m/030/071000c?pid=14509

 
以下、この河野発言の真偽を逐条的に検討したい。

「個人への補償分を一括、経済協力として韓国政府に渡した」は本当か?
 1965年の協定書本体と附属の議定書には日本国は大韓民国に対して、経済協力の目的で一括して供与、貸付けをするという明文はあるが、「個人への補償」という記載は一切ない。
 繰り返しになるが、協定の第1条第1項では、「前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済発展に役立つものでなければならない」と明記され、同条第1項(a)で、日本が韓国に無償供与する3億米ドル相当は全額現金でではなく、日本の生産物、及び日本人の役務で供与するものと明記された。
 また、同条同項(b)で、日本が韓国に対して行う2億米ドル相当の貸付は、この協定にしたがって実施される経済協力事業に必要な日本の生産物、日本人の役務を調達するために充てるものと明記された。
 
 こうした条文から考えて、日本政府が韓国政府に渡す供与、貸付けは金銭(同等物)に換価できない生産物、役務だったから、分割して韓国の元徴用工に分配することは使途の点でも形状の点からも不可能だった。

 もっとも、協定成立に至る日韓政府間の交渉の過程で、韓国政府は、日本から受領した無償3億ドルは、請求要綱に記した各項目を積み上げたものではなく、総額決定方式で包括的に決定されたが、そのうちの相当金額を強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任がある、との公式意見を述べていた(「大法院判決、仮訳、9ページ)
 しかし、大審院判決も指摘しているように、無償供与3億円は政府、個人の請求権を項目ごとに積み上げたものでないばかりか、請求権と代価関係があるのかどうかも明らかでなかった。そもそも協定第1条で、経済協力として一括供与・貸付けされたものを個人の請求権の決済に充てるという発想自体に無理があった。
 協定発効後、後述のように、韓国政府が「強制動員犠牲者」に幾何かの資金を給付したが、それは大韓民国政府が独自に道義的次元から行った「補償」であり、その金額は被害者補償としては不十分なものだった(大法院判決、仮訳、9ページ)。また、今回、元徴用工が求めた「賠償」でもなかった(この点、後述)。
 
「韓国政府が責任を持つ取り決めになっている」は本当か?
 これも、協定書本体にも附属の議定書にも交換公文にも、該当する記述は一切ない。韓国政府が負ったのは、供与および貸付けを、大韓民国の経済発展に役立つものに充てるという責任だった。だから、厳密にいうと、供与等を換価処分して個人に分配することは協定の第1条第1項に違反する行為だった。

 もっとも、協定は1965814日に大韓民国国会で
批准同意され、これを受けて大韓民国は1969219日に「請求権資金の運用及び管理に関する法律」、続いて「請求権申告法」を制定して、補償の対象となる対日民間請求権の正確な証拠と資料を収集する作業を準備した。
 その上で、大韓民国政府は1974年に通称「請求権補償法」を制定し、1976630日までに83519件に対して合計9187693000ウォンの補償金を支払った。これは割合に換算すると、無償提供された請求権資金の約9.7%に当たった。(以上、「大法院判決」張界満・市場淳子・山本晴太仮訳、58ページ参照」

 これと関連して、大韓民国政府が2005年に一部を公開した日韓請求権交渉の経過を記した文書によると、交渉当時、韓国政府は、日本から受領した無償3億ドルは、請求要綱に記した各項目を積み上げたものではなく、総額決定方式で包括的に決定されたが、そのうちの相当金額を強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任があるとの公式意見を述べていた(「大法院判決、仮訳、9ページ)

 以上のような交渉経緯を確認した上で韓国大法院は次のような結論を下した。

 「本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下、「強制動員慰謝料請求権」という)である点を明確にしておかなければならない。」(判決文、仮訳、11ページ)

 「②原告らは、・・・・その後日本で従事することになる労働内容や環境についてよく理解できないまま日本政府と旧日本製鉄の上記のような組織的な欺罔により動員されたと見るのが妥当である。」
 「③さらに、原告らは成年に至らない幼い年齢で家族と離別し、生命や身体に危害を受ける可能性が非常に高い劣悪な環境において危険な労働に従事し、具体的な賃金額も知らないまま強制的に貯金をさせられ、日本政府の過酷な戦時総動員体制のもとで外出が制限され、常時監視され、脱出が不可能であり、脱出の試みが発覚した場合には過酷な殴打を受けることもあった。」(判決文、仮訳、12ページ)

 「(1965年の日韓)請求権協定は日本の不法な植民地支配に対する賠償を請求するための協定ではなく、基本的にサンフランシスコ条約第4条に基づき、韓日両国間の財政的・民事的な債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのものであったと考えられる。」「従って、上記の『被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他の請求権の返済要求』に強制動員慰謝料請求権まで含まれるとは言いがたい。」(判決文、仮訳、1213ページ)

 このように見てくると、
 ①河野外相が言うような「取り決め」は1965年の日韓協定文ならびにその附属文のどこにも明記されていない。仮に非公開の「密約」として取り決めが交わされていたとしても両国の国会で協定文が批准される際に公開されていないから、法的効力はない。

 ②大韓民国が国内的措置として「強制動員被害者」への補償金を支払ったのは事実であるが、それはあくまでも協定を離れた大韓民国政府による独自の道義的次元の措置であり、支払われた補償金と、協定に基づいて日本が経済協力として無償供与した生産物、役務との相関関係は、質的にも金額的にも、見い出せない。

 ③そもそも、日本からの供与:貸付けの目的を「経済協力」とすることにこだわったのは日本政府だった。これについては、このブログにアップした一つ前の記事で紹介した椎名外相の国会答弁に加え、政府は次のような国会答弁をしている。
 
 「国務大臣(佐藤榮作君)・・・・私は急転直下解決したとは実は思わないのです。十四年間の積み重ねで初めて解決したと、かように私は思います。池田内閣時分に大平・金メモができ上がって、そうして請求権問題が経済協力の形で話が進んだ。これあたりも大きな積み重ねの一つであります。」
(参議院、日韓条約等特別委員会会議録、19681126日)

 「国務大臣(椎名悦三郎君) あくまで経済協力でございまして、日本といたしましても、この供給する資金が、真に韓国の経済建設のために最も有効に役立つ方法であるかどうかというような点を十分に審議いたしまして、そしてこの供給に応ずる、こういう仕組みになっておる次第でございまして、・・・・」

 このような日本政府の説明から見ても、日本が無償供与した3億ドルを以て韓国政府が元徴用工を含む個人の請求権の充足させるよう取り決めたと見るのはあまりに無理な解釈である。
 
「賠償」か「補償」か
 ここで、注意したいのは、協定交渉当時、また協定締結後、日本政府が無償供与の性格を「賠償」とみなすことを拒み続けたことである。
 日本からの供与を「賠償」とみるか、「補償」とみるか、あるいは「経済協力」とみるかは、それと相対する「請求権」の性格を見極める上で決定的な意味を持つ。これについて、大審院判決で、多数意見を補充する意見を示された金哉衡大法官、金善洙大法官の意見の中で以下のような理由を列記して、協定により放棄された「請求権」には「不法行為」を前提にした「慰謝料請求権」は含まれていなかったと指摘している。

 ①日韓請求権協定は、基本的にサンフランシスコオ条約第4条(a)で定められた「日本の統治から離脱した地域の施政当局・国民と日本・日本国民の間の財産上の債権・債務関係」を解決するためのものであることは明らかである。したがって、ここでの「債権債務関係」は日本の植民地支配の不当性を前提とした精神的損害賠償請求権が含まれる余地はない。

 ②第一次日韓会談において韓国側が提示した8項目、具体的にはその第5項の「大韓民国法人または大韓民国自然人の日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他の請求権の弁済要求」は財産上の請求権(例えば、徴用の対価として支払われるべきだった賃金の未収分など)に限定されたものであり、不法な強制徴用に対する慰謝料請求権まで含まれていると見ることはできない。
 また、ここでの「徴用」は国民徴用令による徴用だけを意味するのか、募集方式、官斡旋方式による強制動員まで含むのかも明らかでない。

 ③前記第5項では「補償金」という用語を使用しているが、これは適法な「徴用」を前提した用語であり、不法性を前提した「慰謝料」を含まないことは明らかである。
 ちなみに、当時の大韓民国と日本の法制では、「補償」は適法な行為に起因する損失を填補するもので、「賠償」は不法行為による損失を填補するものとして明確に区別していた。
 (以上、判決、仮訳、4345ページ)

 こうした2名の大法官の多数意見を補充する意見は、「請求権」の内容を十分吟味しないまま、政治決着を急いだ当時の韓国政府に対する厳しい批判となっている。

供与を請求権の対価と見ることを否定した日本政府
 しかし、だからと言って、今回の旧徴用工の請求は韓国政府が負うべきと主張するのは条理に反する。なぜなら、そもそも、供与を「賠償」とみるのを忌避したのは日本政府であり、「請求権の対価」とみなすことさえ忌避したのも日本政府である。
 そして、その根底にはアジア諸国に対する日本の侵略責任、旧植民地住民を従軍「慰安婦」、徴用工等として強制動員し、その人権、人間としての尊厳を蹂躙した責任を問い、問われることを頑なに拒む、あるいは侵略・植民地支配責任を薄めようとする、忌まわしい「自虐史観」があった。また、今もこうした史観は日本政府にとどまらず、国民の間にも、広く、根深く残っていることを直視しなければならない。
 
 たとえば、日本政府は、国会審議の中で、1965年の日韓協定で合意された「供与」が請求権の対価ではなく、純然たる経済協力であるとする答弁を繰り返してきた。

 「国務〔注:外務〕大臣(大平正芳君) ・・・・それから請求権の問題と経済協力の関係でございますが、私どもがいま大筋の合意を見ておりますのは、純然たる経済の協力でございまして、請求権の問題とは直接の関連はございません。われわれが目ざす有償無償の経済協力を将来にわたってやるということを約束することによりまして、その随伴的な結果として、平和条約にいうところの請求権の問題が解決したことを双方認め合うと、こういう考え方に立っておるわけでございまして、経済協力は一〇〇%経済協力でございまして、請求権とは何らの関係がないわけでございます。」
(参議院「本会議」会議録、1964313日。下線は醍醐の追加)

 「○椎名国務〔注:外務〕大臣 請求権のいきさつ、経済協力と請求権の関係は、この審議のいきさつから申しますと関連はございます。そして同じく経済問題でありますから、同じ場所において取り扱っておるのでありますけれども、御指摘のとおり、この請求権の問題と経済協力の問題は、何らそこに法律上の因果関係はない。あくまでこれは有償、無償、総計五億の経済協力は、韓国の経済建設に役立つために日本がこれを供与するものであるという趣旨でございます。」
(衆議院「日本国と大韓民国との間の条約及び協定等に関する特別委員会」会議録、19651030日)

 かつて、国会でこのような答弁をした日本政府が、今回の元徴用工の賠償請求訴訟において、1965年の日韓請求権協定で一切の請求権は完全かつ最終的に解決したと語るのは自己撞着も甚だしい。

供与を「賠償」とみなすことを忌避した日本政府
 さらに、日本政府は、これまでの国会答弁の中で、1965年の日韓協定にもとづいて供与した3億ドルは「賠償」ではなく「経済協力」であるという解釈を繰り返してきた。

 「○楢崎委員・・・・私は、いまの日本政府の態度に、どうもかつての日韓併合時代の朝鮮人に対する支配者意識というものが魂の底にあって、そうしてそれがちらちらとしてまいる。・・・・あるいは、今度問題になっておる経済協力にしても、これは本来賠償的な性格を持つべきであろう、過去三十六年間の日本の支配あるいは圧制に対する償いの意味であろうと思いますが、これを、何か困っておるからやるのだというような、下に見るような関係でこの日韓会談をとらえておられるのじゃないか、こういう会談の進め方では、ほんとうに日本と韓国の両国の人民の真の正常化、友好親善にはならない、このように思うわけですが、こういう点に対して、池田内閣は、もう一ぺん根本的に、この交渉の姿勢について、私の申しましたような韓国に対する過去の圧制に対する贖罪と申しますか、申しわけないというような態度で進められるべきであろうと思いますけれども、・・・・この点についての池田総理の御見解を承っておきたい。」

 「○池田国務大臣 ・・・・請求権の問題につきましても、われわれは、誠意をもって、ほんとうに前向きに両国が手を握っていこう、助け合っていこうという気持ちで、いままでの過去の実績あるいは法律的根拠とかいうようなことを言っておってはとてもまとまりがつかぬから、いまの平和条約四条のあれを、経済協力によりまして、無償・有償の協力によりまして、そして、過去を捨てて、忘れて将来に向かっていこう、こういう気持ちが、いまあなたが言われた気持ちで、われわれの気持ちなんです。しかし、これは日韓交渉ここ二、三年のことでだんだんそれが国会にも出てきたわけなんです。二年前にはあなたのような議論はなかなか聞かれなかった。これがやはり正常化のあれで非常によくなった。私はその気持ちでいっておるのであります。だから、罪があったとかないとかいうふうなことを言うよりも、まずお互いにまっ裸になって助け合っていこうじゃございませんかということで・・・・」
(衆議院「外務委員会」会議録、196448日。下線は醍醐の追加)

 「○椎名国務〔外務〕大臣 日本は、御承知のとおり数カ国に対して賠償を支払う、現にそれを実行しておるのであります。この支払いの手段、方法が、今回の無償供与に、ただ方法論として、そのほうが便利である、いわゆる手段として便利であるという意味においてこれを採用しておるのでありまして、その本旨はあくまで経済協力である、かように申し上げます。」
(衆議院「日本国と大韓民国との間の条約及び協定等に関する特別委員会」会議録、19651030日)

 「過去を捨てて、忘れて将来に向かっていこう」「罪があったとかないとかいうふうなことを言うよりも、まずお互いにまっ裸になって助け合っていこうじゃございませんか」・・・・被害国の国民からの呼びかけならともかく、加害国の政府がこのような能天気で慇懃無礼な意識で交渉に臨み、それが玉虫色の政治決着を帰着した大きな理由だった。

問われているのは日本国民の歴史認識
 
あらためて、日本政府はもとより、日本国民が明記しなければならないのは、元徴用工や韓国政府だけでなく、韓国の民意が日韓協定交渉をどのように注視してきたかである。

 「当時の韓国国民が求めたものは、経済協力資金といった形態ではなく、植民地時代の収奪等を踏まえた賠償金であった。・・・・そうした中で、1962年に政権ナンバー2となっていた金鍾泌と外務大臣であった大平正芳の間で合意された『日本側が賠償という形ではなく、有償・無償併せて5億ドルを供与する』との内容が広まると、韓国国内は収拾がつかない状況に陥ったのである。」

 「植民地時代から20年近く経過していたものの、韓国人にとって、その記憶は創氏改名をはじめとした文化的基盤を無視した政策、および隣国に支配されたという屈辱と共に生々しく残っていた。にもかかわらず、36年間におよぶ高圧的な植民地支配が公式な謝罪のないまま『解決済み』とされることは、多くの韓国人には受け入れ難かったのである。」
 (以上、「金恵京「日韓基本条約成立過程にみる韓国の選択」、朝日新聞『WEBRONZA20171019日」)

 河野外相や歴代の日本政府が、日韓で「合意」された1965年協定の実態を吟味せず、いわんや問題の根底にあった日本による植民地統治時代の「賠償」を頑なに拒み、「経済協力」という名義で幕引きを図ろうとしてきた経緯を反省せず、「日本は無償の供与を渡した、後は韓国政府の責任だ」と言い放つ高圧的な外交姿勢を続ける限り、第2、第3の徴用工裁判が起こることは避けられない。

 こうした日本政府の恥ずべき外交を正せるかどうかは、日本国民一人一人が自力と真摯な対話を通じて歴史認識を深めるかどうか、周囲の嫌韓意識に染まらず、首をすくめず、声をあげる勇気を持ち合わせるかどうかにかかっている。



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徴用工判決:韓国政府に請求せよという小林節氏の主張は的外れ

20181119日 

 元徴用工をめぐる韓国の大法院判決について、日本政府は「1965年日韓協定で完全かつ最終的に解決済み」と繰り返している。しかし、その一方で、個人の請求権まで消滅させたものではないという従来の外務省見解を否定するつもりはないと述べている。が、「解決済み」と「消滅していない」は両立しない。

小林節氏の「韓国に請求すべき」論に条理はあるか?
 このジレンマから脱出する(?)ためか、無視するつもりか、一部の論者は、個人の請求権の存否には触れず、元徴用工は韓国政府に請求すべきと主張している。たとえば、小林節氏は『日刊ゲンダイ』の紙上でこう主張している。

 「韓国の最高司『法』府である最高裁は、その事件に判決を下すに当たり、その国際的問題に関する国際「法」(つまり条約、つまり政府の意向として既に公式に対外的に表明されたこと)を「正しく」認識して、それに従って判決を下すべきで、それが三権分立の意味である。」

 「韓国最高裁としては、本来、外交権を有する政府が署名・発効させた国家としての対外的約束(条約、これは紛れもなく国際法秩序の一部)に従い、「日本企業でなく韓国政府に補償を請求すべきである」と威厳を持って判決を下すべきであった。」
 
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241557/2

 こういう小林氏の主張に条理はあるのか? 
 問題は、ほかでもない小林節氏自身が1965年日韓協定ならびに今回の韓国大法院の判決を「正しく」読み込んでいるのかどうかに尽きる。
 もともと、この件は韓国の個人(元徴用工)が日本企業に賠償を求めた訴訟であり、政治判断の次元ならともかく、法理論的には、元徴用工の損害賠償請求の相手方を、日本企業から韓国政府に転換するロジックはどこからも導けない。

 1965年の日韓協定書を咀嚼すれば、一つ前の記事で説明したように、本協定の実質は、請求権協定というより、「経済協力協定」だった。そのことは協定の第1条第1項の末尾に「前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済発展に役立つものでなければならない」と明記されたことからも明らかだ。
 また、同条第1項(a)で、日本が韓国に無償供与する3億米ドル相当は全額現金でではなく、日本の生産物、及び日本人の役務で供与するものと明記されたこと、また、同条同項(b)で、日本が韓国に対して行う2億米ドル相当の貸付は、この協定にしたがって実施される経済協力事業に必要な日本の生産物、日本人の役務を調達するために充てるものと明記された。
 こうした条文からして、1965年の日韓協定の実質は経済協力協定であり、日本政府から韓国政府に引き渡された供与、貸付けは、元徴用工個々人に分割して分配できるものでなかった。
 また、この協定に附属して両国が交わした第一議定書の第6条陀3項では、「日本国の国民及び法人は、生産物又は役務の供与から生ずる所得につき、大韓民国における課税を免除される」と定められ、経済協力事業に参画した日本企業が当該事業から得る利益は韓国には帰属しないものとされている。
 
 このような1965年日韓協定の条文に照らすと、この協定にもとづいて日本が韓国に引き渡した供与、貸付けは経済協力事業に充てる旨、使途が特定され、分割して個人に分配する(できる)趣旨のものでなかったことは明らかである。
 したがって、1965年日韓協定の実質は、少なくとも韓国の元徴用工らから見れば、請求権を整理・決済する協定ではなかった。また、国家間の次元でいえば無償供与の部分に何らかの「補償」の意味があったとしても、貸付けの部分を含め、全体としては、国家間の経済協力協定とみるべきものだった。

 さらに、本件裁判で元徴用工が請求したのは、戦時下の反人道的不法行為に対する慰謝料で、それらは日韓請求権協定の交渉過程で韓国側が提出した8項目の請求外のものだった(大法院判決、張界満・市場淳子・山本晴太仮訳、811ページ参照)。こうした加害・被害の対称関係を考えれば、元徴用工の請求権を加害国の企業から被害国の政府に転換させることがいかに不条理かは明らかである。

「条約は司法審査の外」とする小林節氏の主張は根拠のない独断
 小林節氏の主張で見過ごせないのは、「条約」という国家の対外公約に司法審査を及ぼすべきではないという見解である。
 憲法学者の小林氏に向かって、専門外の私が言うのはおこがましいが、この問題は「違憲立法審査権は条約にも及ぶか」という形で長年、日本でも議論されてきた。小林氏の主張は、及ばせるべきではないという考え方だとみて間違いない。

 確かに、日本国憲法第81条には違憲審査の対象は「一切の法律、命令、規則又は処分」と定められている。しかし、今日の通説、判例は憲法が条約に優位するという立場を採用し(衆議院憲法調査会事務局「憲法訴訟に関連する用語等の解説」平成125月、22ページ)、憲法第81条の「法律、命令、規則又は処分」は例示にとどまり、条約の国内法的効力については違憲審査の対象となり得るとみなされている(諸橋邦彦「違憲審査制の論点」、国立国会図書館『調査資料』20052a20062月、18ページ)。

 もちろん、司法審査の対象内としても、その先の司法判断は、司法消極説をとるか、積極説をとるかで結論は分かれると言うのが従来の通説的解説だった。

司法積極主義に期待される今日的役割
 しかし、1117日に「国策に加担する司法を問う」と題して開かれた司法制度研究集会(日本民主法律家協会主催)に参加した澤藤統一郎弁護士によると、司法積極主義といっても、「逃げるな最高裁」「違憲判断をためらうな」「憲法判断を回避するな」という従来の主張だけではかみ合わない現実になってきたようだ。
 澤藤氏によると、「最近の判決では、司法部が積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた『人権擁護の司法積極主義』ではなく、『国策加担の司法積極主義』の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。言わば、『人権侵害に目をつぶり国策遂行に加担する司法』の実態があるのではないか。これは社会の根幹を揺るがす重大な事態である。」
(「第49回司法制度研究集会『国策に加担する司法を問う』」、澤藤統一郎の憲法日記、20181117日、
http://article9.jp/wordpress/?p=11499 )

 そうであるなら、今回の徴用工裁判で、韓国の大法院が原告の尊厳と人権を蹂躙する強制労働に対する慰謝料を加害企業に請求した訴えを正面から受け止め、日韓協定の条理を慎重に咀嚼しながら、その枠組みを超えてでも条理にかなった結論を求めた司法積極主義を非難するいわれはない。それどころか、韓国の大審院の判断は、先例踏襲に逃げ込んで、人権蹂躙の救済を求める市民の訴えをことごとく斥ける日本の司法機関とって、範とすべき判決と言わなければならない。この点、改めて、小林節氏の見解を問いたい。

個人の賠償請求権をめぐる国際訴訟における日本政府の主張 
 もっとも、上記のような条約の違憲審査論は、国内法的効力に関するものであって、国際法に通じる論理かどうかは別途、具体的に検討しなければならない。
 この点で、参考になるのは、戦後補償をめぐる国境を超えた訴訟において日本政府が示した見解である。
 たとえば、日本の原爆被爆者が、サンフランシスコ平和条約第14条(b)、第19条(a)によって被爆者の対米損害賠償請求権を日本政府が放棄したのは自国民の財産権を不当に消滅させたものであるとして、日本政府に補償請求訴訟を起こした。この時、日本政府は次のように主張した。

 「対日平和条約第19条(a)の規定によって、日本国はその国民個人の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことにはならない。
 (一)国家が個人の国際法上の賠償権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利を国家が外国との合意によって放棄できることは疑いないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異なるから、国家が外国との条約によってどういう約束をしようと、それによって直接これに影響は及ばない。」
 (東京地裁、昭和38127日判決、下級裁判所民事裁判例集、第14巻、24502451ページ。下線は醍醐追加)

 また、シベリア抑留訴訟においても日本政府は次のように主張した。

 「日ソ共同宣言62文により我が国が放棄した請求権は、我が国自身の有していた請求権及び外交的保護権であり、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。ここに外交保護権とは自国民が外国の領域において外国の国際法違反により受けた損害について、国が相手国の責任を追及する国際法上の権利である。」
 (山本晴太「日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷」、23ページ)
 
http://justice.skr.jp/seikyuken.pdf

 こうした日本政府の主張を踏まえると、政府自身の請求権は放棄したとしても、日本国民個人の請求権は国境を超えて生きているという解釈になる。であれば、請求権を韓国国民の立場に置き換えても、同じ論理、すなわち、元徴用工の国境を超えた損害賠償請求権は、たとえ韓国政府が放棄したとしても、生きているとみなすのが条理である。
 このように検討すると、元徴用工は韓国政府に請求せよとか、韓国の大法院に対して、政府が交わした条約を覆すような判決を出すべきではなかったという小林節氏の主張は、1965年日韓協定、ならびに一連の戦後補償訴訟における日本政府の見解に関する小林氏の無知または認識不足に起因する的外れな主張と言わなければならない。




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1965年日韓協定の実質は経済協力協定、個人の請求権は未解決

20181116日 


 韓国の大法院が日本企業に対する元徴用工の賠償請求を認める判決を言い渡したことについて、河野太郎外務大臣は猛反発し、本件請求権は1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決しており、あとは日本政府が渡した供与等で韓国政府が元徴用工11人に補償をすれば済む話だと発言している。
 本当にそう言えるのか? この問題を考える上で、重要なのは次の2つである。

個人の請求権は消滅していない(再論)
 一つは、日韓請求権協定で何が決着し、何が決着していないかである。この点で重要なことは、すでに多くの論者(私もそのうちの1人)が指摘しているように、1965年の日韓協定で決着したのは国と国の請求権(正確にはそうとも言えない。後述)であって、個人の賠償請求権は消滅していないことを韓国の大法院だけでなく、日本の外務省も認めているということである。
 たとえば、外務省の柳井俊二条約局長はで、「これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。」(1991827日の参院予算員会)、「韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない」(1992226日、衆院外務委員会)と答弁している。
 とすれば、1965年の日韓請求権協定で元徴用工の請求権も決着済みという日本政府の主張は通らなないことになる。

1965
年日韓協定の実質は国家間の経済協力協定 
 しかし、そうはいっても日韓協定で、日本が韓国に支払う3億ドルの供与と2億ドルの貸付を以て「両締約国及びその国民の財産、権利、請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決された」(第2条)と明記されている。これをどう考えればよいのか? 
 ここで重要なことは、1965年の日韓協定はしばしば「日韓請求権協定」と呼ばれるが、正式名称は「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との協定」である。しかも、内容に即していうと、実質は請求権協定というより、経済協力協定である。それは、協定の第1条第1項の末尾に「前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済発展に役立つものでなければならない」と明記されていることから明らかである


椎名外相(当時)も賠償ではなく経済協力と明言
 現に、日韓協定の交渉に当たり、日本政府を代表して協定書に署名した椎名悦三郎外務大臣(当時)は19651119日に開かれた参院本会議で次のように発言している。 

 
「何か、請求権がという形に変わったというような考え方を持ち、したがって、経済協力というのは純然たる経済協力でなくて、これは賠償の意味を持っておるものだというように解釈する人があるのでありますが、法律上は、何らとの間に関係はございません。あくまで有償・無償五億ドルのこの経済協力は、経済協力でありまして、これに対して日本も、韓国の経済が繁栄するように、そういう気持ちを持って、また、新しい国の出発を祝うという点において、この経済協力を認めたのでございます。」 

 であれば、
 ①1965年の日韓協定第1条第1項にもとづいて日本が韓国に提供した供与、貸付けはもともと韓国の経済発展のために使うことが義務付けられ、韓国内の個人に分割分配できるものではなかったことは明らかである。
 ②また、交渉に当たった日本の外務大臣も賠償ではなく、純然たる経済協力だと国会で発言していることから考えても、1965年の日韓協定は事実上、個人の分も含む請求権協定ではなく、二国間の経済協力協定だったと解釈するのが正解である。


 しかも、協定書の第1条第1項(a)では、日本が韓国に無償供与する3億米ドル相当は全額現金でではなく、日本の生産物、及び日本人の役務で供与するものとされた。
 
また、同条同項(b)では日本が韓国に対して行う2億米ドル相当の貸付は、この協定にしたがって実施される経済協力事業に必要な日本の生産物、日本人の役務を調達するために充てるものとされた。
 
このような条文に照らしても、1965年の日韓協定で定められた日本から韓国への供与・貸付は、国家間の賠償に当たるとしても、韓国の個人に属する請求権を決済するものでなかったことは明らかであり、同協定で元徴用工個々人の請求権も消滅した、あとは韓国政府の処理に委ねられていると言う日本政府、河野外務大臣の見解は条文解釈としても事実と道理に背く強弁である。

 
また、「ボールは韓国に投げられている」などと論評する日本のマスコミ(例えば、『毎日新聞』20181115日付の大貫智子論説委員の見解)
https://mainichi.jp/articles/20181115/ddm/004/070/019000c
は不勉強も甚だしい。


被爆者訴訟で日本政府は個人の請求権は条約に縛られないと明言 
 
元徴用工の賠償請求権も1965年の日韓協定で完全かつ最終的に決着済みという目下の日本政府の主張は、戦後賠償請求裁判で日本政府が示した見解にも背くものである。
 日本の被爆者が原爆投下の被爆によって蒙った損害を補償するよう日本政府に求めた裁判で、日本政府は次のように主張した。

「五、対日平和条約による請求権の放棄 
 
対日平和条約第19条(a)の規定によって、日本国はその国民個人の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことにはならない。
 
(一)国家が個人の国際法上の賠償権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利を国家が外国との合意によって放棄できることは疑いないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異なるから、国家が外国との条約によってどういう約束をしようと、それによって直接これに影響は及ばない。」
(東京地裁、昭和38127日判決、下級裁判所民事裁判例集、第14巻、24502451ページ。下線は醍醐追加)

 もともと、国家はその国民の持つ請求権を、当の国民の意思にかかわりなく、国家の名において放棄することができないのは、近代主権在民国家に共通する道義であるが、原爆裁判における上記のような日本政府の主張に沿って考えると、
 
1965年の日韓協定において、個人の請求権をも放棄するという文言は、日韓両国政府がそれぞれの国民個人の国際法上の賠償権を基礎として外国と交渉する国家の権利(外交保護権)の放棄を意味したことは明確であり、
 
②そうした日本国あるいは韓国政府の意思とは無関係に、条約にどのように記載されていようが、韓国国民(ここでは元徴用工)の請求権は奪われていない、と解釈するのが正当である。

 
1965年の日韓協定交渉において、個人の請求権まで放棄したかの解釈を生むような協定に応じた韓国政府にも責任がある。しかし、日本政府と日本の加害企業は、植民地支配の時代の負の歴史、責任を直視し、徴用・強制労働の犠牲者への補償に真摯に応じることが求められている。

(追記)
 この記事をまとめるにあたっては、次の文献・記事を参照した。

*山本晴太「日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷」
*岩月浩二弁護士のブログ記事 http://ur2.link/N7gN 

 

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外務省条約課・国際法課と交わしたやりとりメモ~元徴用工の賠償請求について~

20181112

 今日の1420分頃、件名のことで外務省の代表番号に電話したところ、北東アジア課→条約課→国際法課、と3つ課の担当職員と延べ約30分間やりとりする結果になった。
 以下は、中身のやりとりをした2つの課の応対者との問答メモである。


 (醍醐) 外務省ですね。日本政府は(韓国最高裁が下した)元徴用工の賠償請求判決について「国際法に明確に違反している。毅然と対処する」と発言しています。政府が言う「国際法」とは何を指すのか、マスコミは伝えていないのでわかりません。それを教えてほしくて電話しました。

 (代表) お待ちください。

 (北東アジア課) 北東アジア課ですが。

 (醍醐) <先ほどの用件の繰り返し> 政府が言う「国際法とは何を指しているのですか?

 (北東アジア課)その件でしたら、私どもではなく、条約課ですので、そちらに回します。

条約課とのやりとり

 (条約課) 韓国の最高裁で判決が確定した時点で、(1965年の)日韓請求権協定に違反する状態になったので、政府としてそのような発言をしています。

 (醍醐)とすると、政府が言う「国際法」とは1965年の日韓協定を指しているということですか?

 (条約課) そうです。

 (醍醐) 「国際法」というと、多国間の法のことかと思ったのですが、そうではなくて、日韓2国間の協定のことなのですね?

 (条約課) そうです。

 (醍醐) その点は、外務省の理解は事実としては分かりました。
 他方、外務省は1990年頃、国会で、日韓協定で国の外交保護権は消滅したが、個人の賠償請求を消滅させたものではないと複数回、答弁しています。たとえば柳井(俊二)さんは伊東秀子議員、土井たか子議員の質問に対して、そのように答弁されています。
 そうした外務省の国会答弁と今回の政府発言は、どのような関係になるのですか?

 (条約課)その点はこの課ではなく、国際法課になりますので、回します。

 <国際法課に転送される>

国際法課とのやりとり

 (醍醐)<上と同じ質問>

 (国際法課) 日韓協定で完全かつ最終的に解決
済みということです。外交保護権と個人の請求権に関する解釈は、お話しのとおりですが、個人の請求権も含めて解決済みということです。

 (醍醐) しかし、外交保護権は消滅したとしても、今回の裁判は韓国の個人と日本の企業間の争いです。とすれば、個人の賠償請求権は消滅していないと言いながら、解決済みというのでは一貫しないと思いますが。

 (国際法課)個人は裁判所に訴えることはできても「出口」はなくなっているということです。

 (醍醐)「出口」? 出口がなくなっているようなら、請求権がないのも同然で、無理な解釈ではないですか?
 日本政府は韓国政府に対して善処をと言っていますが、韓国政府に対して、司法当局に働きかけを求めるような発言は韓国での三権分立を否定するに等しく、おかしな発言ですよ。

 (国際法課)おっしゃっている意味は分かりますが・・・

 (醍醐)河野外務大臣はずいぶん、強気の発言をされていますが、大丈夫なんですか? 専門の職員の方からご覧になって、どう思われますか?

 (国際法課)・・・・

 (醍醐)政府は賠償請求を受ける日本企業を集めて、説明会を開き、請求に応じるな、と言っていますが、それこそ、日本企業に対して、消滅したはずの外交保護権を使っていることになりませんか?

 (国際法課)それは外務省ではなく、政府がやっていることなので・・・・

 (醍醐)最後ですが、そちら様のお名前を教えていただけませんか? 私も名前を伝えますので。
 (国際法課)名前は伝えないことになっていますので。

 (醍醐)そうですか、ありがとうございました。

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強気に反して拠り所を欠いた日本政府の対韓逆切れの言動

 「国際法に反する」と日本政府が連日、声高に発言するので、何か具体的な「国際法」があるのかと確かめたら、1965年の日韓協定のことだった。それなら、あえて「国際法」と語らなくても済む話である。

 私の一番の関心事だった、日韓請求権協定で個人の賠償請求権まで消滅したわけではないというこれまでの外務省の国会答弁と、政府がいう「国際法違反」は、どうつながるのか、について、外務省の担当課の説明は結局、「日韓協定で完全かつ最終的に解決済み」という空回りの説明だけだった。
 これでは、日韓請求権協定で個人の賠償請求権まで消滅したわけではない、という外務省の見解と全くつじつまが合わない

政府の強気の発言に追随する日本のマスコミ

 日本のマスコミは、今回の韓国最高裁(大審院)の判決を受けて、連日、「韓国大統領府 沈黙 元徴用工判決 対応に苦慮」(『朝日新聞』2018114;「韓国政府 対応に苦慮」(『東京新聞』2018111日;「韓国最高裁の徴用工判決 条約の一方的な解釈変更」『『毎日新聞』20181031日、社説、などと韓国政府の状況を伝えている。

 これまでの韓国政府の対応を辿ると、そのような状況があることは間違いない。
 しかし、それなら、日本政府の自信満々の発言に確たる根拠があるのか・・・・この点を日本のマスコミはなぜ検証し、真相を伝えないのか?
 そもそも、今回の裁判は、韓国の個人と日本の企業の間で争われた事件であって、国と国の係争ではない。
 そのような基礎的事実を国家間の係争かのようにすり替えて、強気の発言を繰り返す自国政府の対応に引きずられるように、追随する日本のマスコミに「自立」した報道は見る影もない。
 こうした日本のマスコミの政権追随報道を正すのは、日本の市民の務めである。

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このブログを訪ねていただいた皆さまへ

20181110 

イッターに書きつけています
 更新が途切れ途切れのブログを訪ねていただき、恐縮です。
新しい記事を書くとなりますと、資料調べや文章書きに時間がかかり、思うに任せないあり様です。
 そこで、最近は、日々のニュースに感じたことなどを私設のツイッター(今年の3月から始めました)に気ままに書きつけています。
 https://twitter.com/shichoshacommu2 

 動物記、旅行記、ふとしたきっかけで見始めた「まんぷく」(NHKの朝ドラ)の視聴感想など、関心の赴くままの書き
込みですが、たまにお立ち寄りいただけましたら幸いです。

yasusan
さんとの往復コメント
 このプログの右サイドの中の「最近のコメント」欄にyasusanさんとの計7回の往復コメントを公開しています。「自衛権とは」、「戦争責任の履行の仕方とは」、が主なテーマです。
 いろいろな意見が予想されるテーマですが、ご覧いただき、感想をお送りいただけましたら幸いです。


     奥日光 戦場ヶ原 遊歩道(2018年10月9日、撮影)
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    奥日光 竜頭の滝(2018年10月9日、撮影)

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「虚妄の自由貿易原理主義で農業を荒廃させてはならない」

2018112

 日本ほか11ヶ国が合意したTPP11がこの1230日に発効することになった。これを受けて、JAcom(農業協同組合新聞)が緊急に企画した「TPP11 1230日発効」に寄稿したところ、今日、同紙の〔電子版〕にアップされた。以下はその全文である。
 https://www.jacom.or.jp/nousei/tokusyu/2018/11/181102-36561.php 

 なお、
この緊急特集には、今の時点で、田代洋一さん(横浜国立大学名誉教授)、小林光浩さん(JA十和田おいらせ代表理事専務)の寄稿も掲載されている。
 https://www.jacom.or.jp/nousei/tokusyu/111230-1/ 

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  虚妄の自由貿易原理主義で農業を荒廃させてはならない

                          醍醐 聰

農業に相容れない自由貿易原理主義

 自由貿易主義を支えるのは、生産性で比較優位の財を輸出し、比較劣位の財を輸入することで、貿易当事国双方の利益を最大にするという国際分業論である。はたして、農業に対等な国際的分業は成り立つのか? 多国籍ならぬ無国籍企業が幅を利かせるTPPやEPSに国際分業は当てはまるのか?
 人間の生命維持に関わる農産品の需要は工業製品のように価格弾力性が高くはない一方、農産品の供給は収穫が自然環境に左右されて変動する。そのため、世界的規模での農産品の価格は、わずかな供給量の変動でも大きく変動し、供給過剰の時は価格が暴落して生産者は打撃を蒙る一方、供給不足の時は、生産国は自国の需要充足を優先し、余剰品は購買力の大きな先進国が買い占めるため、購買力の乏しい国々では飢餓が絶えない。
 生産不足の時の輸出制限、生産過剰の時の輸出補助金によるダンピング輸出の奨励、相手国の需給バランスを無視した余剰米の押し売り輸出(ミニマムアクセス米など)などは、農業に国際分業が成り立ちにくい事情を物語っている。

 かつてクリントン米大統領が国際世界食料デー(20081016日)で「食料は他の商品と同じではない。われわれは食料自給率を最大限高める政策に戻らなくてはならない。世界の国々が食料自給率を高めることなく、開発を続けることができると考えることは馬鹿げている」と演説したのも至極、正論だった。
 そもそも食料自給率38%(穀物自給率28%)の日本と穀物自給率が押しなべて100%を超えている米国、カナダ、EU先進国が同じ土俵で自由貿易を議論する(できると考える)こと自体、ナンセンスなのである。いわんや、穀物自給率28%の日本の政府が自由貿易を牽引するなどと得意げに語ること自体が滑稽なのである。自国ファーストのトランプ米大統領から「いうことを聞かなかったら自動車にものすごい関税をかけるぞと脅かすと、直ぐに〔二国間〕交渉をすると言ってきた」と見くびられた安倍政権が自由貿易主義を牽引すると語るのは笑止の沙汰である。

 

◆TPPを上回る譲歩

 結局、この先の日米二国間交渉は、自動車をカードに使って、日本にTPPを上回る農業市場の開放を迫るトランプ流の大国主義的「ディール」に安倍政権が、巨額の兵器購入も含め、屈する売国交渉となることが避けられそうにない。農業に関しては、全容が定かでない、TPPに備えた国内対策を織り込んで試算された影響額はあてにならない。また、目下、政府が検討している外国人労働者向けの在留資格の緩和措置に対象業種に農業が含まれた場合、TPPそれ自体の影響かどうかは別にして農業に及ぼす影響が懸念される。

 そもそも、性格の異なる自動車と農業を「ディール」と称して天秤にかけること自体、不見識である。また、自動車も農業分野の交渉のカードで終わるわけではなく、来年1月からの交渉入りを待たず、早くも、米国内の雇用拡大を目指す米国政府に、輸入関税の大幅引き上げや現地生産の拡大を迫られている。
 政府は農業など物品の分野ではTPPの水準を守ったというが、国内向けのPRに過ぎない。合意文書では「尊重する」と謳われただけで、対米交渉でアメリカを拘束するものではない。TPPはひどい内容だと不満を募らせて政権発足早々にTPP合意から離脱したトランプ大統領がTPP合意を尊重する意思などあるはずがない。

 そもそも論を言えば、TPP水準ならいいなどと日本の農業・酪農関係者は誰一人考えていない。たとえば牛肉の関税を今の38.5%から16年後に9%まで下げるというTPP並みの水準は、これ自体、激変である。しかも、16年かけてというが、初年度に27.5%まで一気に引き下げるスケジュールになっている。また、合意停止のセーフガードも牛肉の場合は16年目以降4年間連続で発動されなければ廃止(豚肉は12年目で廃止)となっている。
 しかも、政府は米国のTPP復帰の見通しが消えた場合、セーフガードの発動基準数量などを見直すとしてきたが、今現在、いつ、どのように見直すのか不明である。経済成長といえば、GDPと企業の経営環境しか眼中にない安倍政権にとっては、それでよいのかもしれないが、基幹的食料の自給率の低迷は百年の災いとなって後代にのしかかる。

 昨年12月に合意された日・EUEPA(経済連携協定)について農水省は大臣談話(201776日の大筋合意の時点)で、長期の関税引き引き下げ期間と輸入急増に対するセーフガード等を確保したというが、ソフト系チーズ、スパゲティ、マカロニ、小麦、ワインではTPPよりも譲歩した内容となっている。たとえば、ワインのセーフガードはTPPでは8年目撤廃であるが、日・EUEPA合意では発効時に撤廃となっている。年間醸造量が100kl以下の小規模ワイナリーが80%を占めると言われる日本のワイン業への影響が懸念される。

 そもそも、新規就農/離農は経営の将来見通しをもとに判断されるのであるから、関税の段階的引き下げとかセーフガードの一定期間後の撤廃という猶予の意味は乏しい。
 こうした農業への甚大な影響を阻止、緩和するには日米二国間交渉の中止、日EUEPAの見直しが不可欠であるが、今の政府に日本農業を守るという意志がないなら、農業者は政権選択まで踏み込んだ意思表示と行動が必要になってくる。

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