質問制限どころか「弁士中止」の再来
2019年2月18日
事実誤認はどちらなのか
官邸は昨年12月28日に、菅官房長官の会見における特定に記者の質問が事実誤認の連続として、是正を求める要請文書を内閣記者会に送った。
しかし、2016年に沖縄防衛局がまとめた報告書で明記されていた辺野古沖における軟弱地盤の存在を「承知していない。防衛局に聞いてほしい」としらを切り、フェーク発言であることが明らかな安倍首相の「サンゴ移植」発言を弁護して見せた菅氏が記者に向かって「事実誤認」と決め打ち発言をしたり、記者の所属する新聞社に9回も注意をしたと得意げに語るのはおこがましい。赤土問題は事実誤認ではなく、地元では周知の事実である。語調の強さは真実の証しにならない。
「弁士中止」の再来
官邸が内閣記者会に要請文書を出したことについて、菅氏は「会見は記者会の主催なので協力を依頼したまで」と語った。それなら、主催者でもない官邸の一員(報道室長)が特定の記者の質問の時に限って、約10秒ごとに「簡潔に」を連発するのは「質問制限」ではなく、「質問妨害」である。質問を受ける官邸がこれほどあからさまな発言妨害をするのは言論統制時代の「弁士中止」と同じだ。
新聞労連は抗議声明を出したが、「要請」を受け、「問題意識の共有」を求められた内閣記者会が沈黙を続けるのはどうしたことか? 官邸と「問題意識を共有」するつもりなのか?
後藤謙次氏の気骨ある発言
2月12日の「報道ステーション」は8分16秒にわたって、「質問制限」問題を取り上げた。この番組で解説を務める後藤謙次氏については、官邸との親密さが問題になったことがある。しかし、この日のこのコーナーの最後に後藤謙次氏が語った発言は記者出身のベテラン解説委員の気骨を発揮した傾聴に値するものだった。以下は後藤氏の発言を私が原稿に起こしたものである。
「今回の問題は1人の記者と菅官房長官の構図のように見えるが、本質は国家権力とメディアがどう向き合うのか、そこにある。政府のスポークスマンが国民の知る権利に誠実に応える、これが基本なんですね。どんな形にせよ、それが制限につながることはしてはならない。
われわれ新聞記者は国民の知る権利を担って国民の目となり、耳となり、そして権力の考え方、方針、それを国民に提示していくというのが仕事なんですね。
私はその記者を直接知りませんけれども、その記者が発言する質問、それは我々全体に課せられた問題なんですね。 今回の官邸から『東京新聞』あるいは記者クラブ宛てに文書が出たようですが、記者クラブ宛ての文書は、記者クラブ全体で、この記者を村八分にしてくれよ、そういうメッセージと受け取れるんですね。
これ記者クラブ側の問題があると思うのですが、こういう問題があった場合、なぜ、一致団結して、それをはねのけないのか、我々かつてやりましたけれども、どんな問題であるにせよ、考え方の違う人も一致して権力側に向かい合っている。それが記者のあるべき姿だと思うのですね。
これを一記者の問題、あるいは一会社の問題として捉えている、そこ自体が私は間違いだと思う。現役記者の奮起を促したい。」
| 固定リンク
「メディア」カテゴリの記事
- 質問制限どころか「弁士中止」の再来(2019.02.18)
- 宮城前の土下座写真、実はやらせだった?(2019.02.03)
- テレ朝の無断録音放送についてBPOに審議を申立て~有志8名で~ (2018.09.14)
- NHKに意見を送信~体操の宮川選手の勇気ある告発に応える調査報道を~(2018.09.01)
- 天皇夫妻の沖縄訪問をめぐる報道を考える(2018.03.29)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
> 果たして、記者は「国民の代表」なのだろうか。
(中略)
>私は、記者が「国民の代表」という表現には違和感を覚える。
>私自身は、新聞記者時代も含め、自分は「国民の代表」ではないと思う。
「不毛なバトルの陰で危惧される『報道の自由』の後退」
江川紹子の「事件ウオッチ」第122回:2019.02.26
ttps://biz-journal.jp/2019/02/post_26839_2.html
”国民の代表”との字句を広辞苑の僅か数行の定義に求める、
上掲、ごく限定された土俵と経験則からの記者のお作法を念頭に置けば
東京新聞記者の会見上での振る舞いについては、作文や主張が
過剰と映る点も多々ある:つまり、事実関係の上で相手の非、
論理的矛盾が示されれば、そこに質問者の解釈や評価を下す多弁や
雄弁は蛇足、との立場だろう。
個人的には頭の悪いと知れた首相を捕まえ、
「救いようのない馬鹿であり、ナチス政治の無法と同じだ」と
評価を下すより、外堀を埋め、理詰めで立ち往生させる方が
第三者の受け手にとって、広く効果的だろうと考えている。
但し、この件については政権側の言い分に詭弁があるのだから、
江川記者のような「どっちもどっち」と言う点に的がそれてしまうと、
結果としては、党派的な発言を容認し、議論の足を引っ張る
「不毛な」足手まといになってしまう:「怪文書の様な」虚報でも
引き分けにでも持ち込めば、デマを撒いた方は大勝利であるからだ
>県は「赤土が大量に混じっている疑いがある」として
>沖縄防衛局に現場の立ち入り検査と土砂のサンプル提供を求めたが、
>国は必要ないと応じなかった。その後、防衛局が出してきたのは、
>赤土投入の件とは関係のない過去の検査報告書だった。
「言論統制が深刻化…確実な証拠がないから追及が必要なのだ」
『それでもバカとは戦え 』 適菜収 (日刊ゲンダイ):2019/03/02
ttps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248550
「報道機関の記者は紛れもなく主権者国民の代表である」
『小林節が斬る』(日刊ゲンダイ)2019/03/02
ttps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248548
◇
中立を気どる擬態として、たとえば、定義の変更
→ 縮小/拡大解釈や、辞書的な意味に限定しての相対化は、
法学や外交安全保障については門外漢、学部卒に過ぎない
論者が、専門家を相手に容喙するときの常套だが、
しかし近年、言論を鍛える基礎としての議論――論拠や反証を示して
持説を説く、そうした提起が非常に希薄である、と映る。
作文や主義・主張、自己顕示に頼るばかりの空回りは論外にせよ、
我々とは異なり、報告記事や著作を通して社会に発言権をもつ、
そうした報道機関に属する人間が、互いに論拠や裏付けを示し合っての
議論を畏れているようでは、政府会見に出席する意味はない。
東京新聞記者の発言に同業者や官邸の官僚が神経質になるのも、
高等教育における議論を踏まえていないからとしか受取れず、鼻白む。
>南:だから、これは望月さんだけの問題ではないということなんです。
>たとえば民主党政権のとき、
> 産経新聞の阿比留(瑠比)さんは菅直人首相の会見で直接、
「総理の存在自体が国民の不安材料になっている」
「一体、何のためにその地位にしがみ付いていらっしゃるのか」と
>退陣を迫る質問をしていましたが、いまの状況は、そんな質問が
>できなくなるということなんですから。
「新聞労連・南彰委員長が語る“望月記者排除”の構造(後編)」
リテラ(取材・構成/編集部):2019.03.01
ttps://lite-ra.com/2019/03/post-4577_3.html
そもそも記者として、知る権利を代表する意義を理解せず、
己の職能と責任の元に独自に取材した裏付けも用意できず、
”審判者・裁判官として”のみ振舞うだけ、それでは議論として
永遠に並行線のまま、事実は何も動きはしない。
如上の理屈も知らぬ、そんな社員記者の目を覚ます為にも、
言論の一翼を担う研究者・専門家として、今後も当ブログからの
積極的な提起、「踏み込んだ」論説を期待したい。
以上。長文ご容赦。
投稿: 私の雑記帳:ご存じでなければどうぞ | 2019年3月 9日 (土) 15時47分