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トマス・ジェファーソンにおける黒人問題

2020年6月27日

 一つ前にアップした映画「ハリエット」の鑑賞記を書いている途中で、「NHKは何を間違ったのか NHK動画に厳しく抗議 偏った黒人像を作った『400年制度化された差別』」 (『毎日新聞デジタル』2020年6月24日)を見つけた。
https://mainichi.jp/articles/20200623/k00/00m/030/330000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=2020062

 毎日新聞統合デジタル取材センターの記者國枝すみれさんが、米国研究者坂下史子さん(立命館大学教授)に聞くという形式で書かれた記事である。

番組本体にも偏見が 
 興味深かったのは坂下さんが、6月7日に放送されたNHK「これでわかった!世界のいま」は、黒人アニメの部分だけが問題ではなく、番組本体にも、米国警官による黒人殺害が「400年制度化された黒人差別」(奴隷制度、人種隔離、リンチ、警察の暴力、刑務所への大量送還など)に基づくものだという視点が欠けていた、と批判している点である。
 こうした米国社会で歴史的に形成された黒人に対する構造的差別への視点を欠き、黒人が怒る本当の理由を説明しないまま、今回の黒人殺害事件を、「筋骨隆々の〔黒人〕男性を登場させ、『粗野で、怒りのコントロールができない』という黒人に対する否定的な固定観念とくっつけてしまった」点に番組全体の大きな弱点があった、それが今回の抗議デモの深層を伝えない偏向につながった、と坂下さんは述べている。重要な指摘と思えた。

トマス・ジェファーソンの黒人像  

 さらに、私が注目したのは、坂下さんが上のような黒人に対するアメリカ社会の構造的差別を表す事例として、トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、1743∼1826年)の黒人像を挙げて次のように述べた箇所である。

 「独立宣言の主な起草者で、のちに第3代大統領となるトマス・ジェファーソンは建国直後の1785年に出版した書物の中で、黒人について,『肌が黒いので美的に劣る。暑さに強く、睡眠を必要としない。悲しみはすぐに忘れる。愛情よりも欲情から女性を求める。理性で劣る』などと主張しました。黒人は白人より劣っているので奴隷から解放することは難しい、と結論づけた。彼は南部の大農園主で奴隷を多く所有していましたから。」
 (注) トマス・ジェファーソンの履歴については次のサイトでまとまった説明がされている。
   <世界史の窓>「ジェファーソン」
    https://www.y-history.net/appendix/wh1102-026.html

 坂下さんのジェファーソン評はこれだけだが、上の指摘に続けて次のように述べている。

 「1808年に奴隷貿易が廃止されると、新たな奴隷を『輸入』することができなくなった。そうなると、国内で〔奴隷を〕増やすしかない。・・・・白人所有者は重労働に耐えられる体の黒人男性を、複数の黒人女性と関係させ、子供を産ませました。『血統書つき』の『種馬』のように扱ったのです。『動物的で筋骨隆々、精力絶大』などの黒人男性のステレオタイプはこうして生まれたのです。」

 黒人を文字通り「物扱い」するアメリカの奴隷主の思考を雄弁に伝え一文であるが、調べていくうちに、ジェファーソン自身も、「種馬」扱いではなく、なにがしかの「愛情」が交差していたにせよ、自分が「所有」し、農場で働いていた黒人女性サリー・ヘミングス(Sally Hemings, 1773∼1835年)との間に5人の子供をもうけていたことが知られている。

ジェファーソンをめぐる黒人女性~石田依子さんの探求~ 
 この事実を、徹底的に実証した研究として、石田依子「失われた真実のアメリカ史を求めて」『大阪商船高等専門学校紀要』2003年、があることを知った。 
 ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/on/file/214/.../OS10036000016.pdf

 この論文で、石田さんは、ヴァージニア大学の遺伝子学者らがジェファーソンとヘミングスの「愛情関係」の真偽を科学的に確定しようと、2人の子孫のDNA鑑定を試みた結果、1998年11月、両者が一致したことから、2人が子供をもうけていた可能性が高いと指摘している(DNA鑑定の詳細は石田論文の97∼101ページに書かれている。) 

 しかし、石田さんの関心はその先だった。

 「自己のプランテーションで235人もの黒人の『不可侵の権利』を剥奪しておきながら、どうやって彼は『人間は不可侵の権利、幸福の追求を与えられており・・・』などと書くことができたのか」(101ページ)。

 この疑問を解く手がかりとして、石田さんは、たぶん、前記の坂下史子さんが紹介したのと同じ、ジェファーソン稿の『ヴァージニア覚書』(1785年)の一節を原文で紹介している(101ページ)。しかし、ジェファーソンがヘミングスを「種馬」扱いしていたとは言えない、と石田さんは次のような事実を挙げている。
 つまり、ジェファーソンはヘミングスとの生前の約束どおり、5人の子供たちが21歳になる頃に全員を奴隷の身分から解放したからである。次男と長女は記録の上では「逃亡」となっているが、ジェファーソンは、ヘミングスの子供たちが「逃亡」する時、馬車を用意し、金銭まで持たせたからである。

 ただし、石田さんは、こうした事実を正当に評価しながらも、ジェファーソンとヘミングスの関係が黒人奴隷制度の例外ではなかったと結論づけている。石田さんが決定的とみなしたのは、ジェファーソンとの間に5人の子供をもうけ、彼の「所有物」であった黒人女性ヘミングスは、1830年、地元の郡のセンサステーカーによって白人のリストに加えられたという事実である。
 
 「それはジェファーソンを『異人種混合』の罪から守るための処置であったことは言うまでもない。だがこれは、生涯を『黒人』として生き抜いた彼女(サリー・ヘミング)にとっては最大の悲劇だったといえるだろう」(以上、石田、104ページ)

 ヘミングスは、ジェファーソンが死去した後もヴァージニアにとどまり、2人の息子と一緒に粗末な小屋で暮らした。1835年に62歳で亡くなり、その小屋の裏庭に葬られたと言う。しかし、今も、彼女には墓も記念碑もないとのことである(石田、104~105ページ)。

ジェファーソンの誕生日に代えて南部解放の日を祝日に
 
なお、2019年7月3日付のAFPニュースによると、米南部ヴァージニア州シャーロッツビル市は同月1日、地元出身の第3代大統領トマス・ジェファーソンの誕生日を今後は休日として祝わないと決定した。
https://www.afpbb.com/articles/-/3233400

 市の広報責任者によると、「シャーロッツビル市議会は1日夜、南北戦争末期に北軍によってシャーロッツビルが解放された日を代わりの休日とする条例案の採決を行い、賛成4、反対1で可決した。この経緯に関する公式な説明はないが、ウェス・ベラミー市議はこの条例案の審議中の6月17日、なぜ黒人を劣っていると考えていた人物を市が称賛しなければならないのかと疑問を呈していた」という。

 

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冷酷な黒人差別に敢然と立ち向かった女性の生涯~映画「ハリエット」鑑賞記~

2020年6月25日

 昨日、東京ディズニーランド近くの「シネマイクスピアリ」へ出かけ、友人から紹介された「ハリエット」を見てきた。

 アメリカ南部で林業を営む白人経営者のもとで奴隷労働を強いられた主人公ハリエット・タブリン(1822~1913年)が自由を求めて脱走を果たした後、奴隷州に残った黒人を次々と救出する姿を描いた作品である。
 ちなみに、ハリエットの肖像は2016年4月、新しい20ドル紙幣に採用することが決まったが、トランプ大統領の横やりで目下、頓挫している。
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自由か、それとも死か
 自由を求めて最初は単身で、「地下鉄道の車掌」(逃亡奴隷の誘導役)に介助されながらフィラデルフィアに辿りつき、自らの解放を果たしたハリエット。
 その後は、延べ10回、多くの黒人を救出するために奴隷州へ向かい、銃と捜索犬を従えた農場主らの追跡をかわして、70名の黒人を連れて、無事、自由州にたどり着いたハリエット。
 映画出演3作目でハリエット役を演じたシシアン・エリヴォを始め、各俳優が自分の役回りに徹した名演技も相まって、ハリエットのたくましい行動力と機敏な判断力に吸い込まれ、あっという間に2時間半が過ぎた。

 追手に挟み撃ちされた橋の上で、「殺さないから生け捕りになれ」と口説く雇い主の息子に向かって、ハリエットが「自由か、それとも死か」と言い返し、眼下の濁流に飛び込むシーンは、自由を求める彼女の固い意思を閃かせた。
 
 仲間の奴隷救出の作戦会議で、妥協的な主張をする自由黒人や白人たちに向かって、「あなたたちは苦労知らずで、美しい家、美しい妻を持ち、快適に暮らす人」、「私はおぞましいほど苦しむ奴隷たちを解放するために血の最後の一滴まで捧げる」と言い放ち、現に一度の失敗もなく、それをやってのけたハリエットの気迫と行動力は圧巻だった。

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改めて学んだアメリカ史における冷酷な黒人差別 
 アメリカの黒人奴隷というと南部の綿花プランテーションをイメージしがちだが、同じ南部と言ってもそれは南西部のこと。この映画の舞台は南東部沿岸で、黒人を使って林業を営む傍ら、経営難を乗り切る「含み資産」かのように、「所有した」奴隷を売りに出したり、貸し出したりする白人の事業所。
 ちなみに、主人公ハリエットの3人の姉妹は白人「所有主」によって売り飛ばされた。ハリエットが逃亡を決心したのも、次は自分も売り飛ばされる、そうなると、家族は離散してしまうと身の危険を感じたからだった。

 なお、同じ奴隷でも、一定の年齢になったら解放すると雇い主から約束された「期限付き黒人」が混在したことを初めて知った。
 しかし、映画の冒頭にも出てきたが、解放の約束は雇い主によって、反故にされることが珍しくなかった。ハリエット一家の農場主の曽祖父も、母リットが45歳になったら子供たちも一緒に奴隷の身分から解放すると記した遺言状を残していた。その約束を果たすよう弁護士を雇ったとハリエットの夫ミンティが告げたことに怒った農場主はミンティを追放した。

 黒人が、当たり前のように、白人経営者の「財産」とみなされ、家族まるごと黒人の運命を翻弄する奴隷制度の冷酷な現実を見せつけられた映画だった。

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朝鮮女子挺身隊の狡猾な徴用の真相を伝えた『報道特集』

2020年6月19日

 6月13日、『報道特集』が番組の中で約25分間、<朝鮮女子挺身隊~苦難の人生~>と題する特集を報道した。非常に啓発されたので、このブログに記録を残すことにした。
 なお、この番組のもとになった取材に当たったのは、富山の「チューリップテレビ」(1990年開局)の砂沢智史さんだった(番組の最後に登場)。

番組のあらすじ  
 戦時下の日本軍は若者を戦地に動員したため、国内での軍需労働力が逼迫した。これを補うため、国内では1943年9月から女子労働力の徴用を開始。朝鮮半島でも翌年から12以上の未婚の子女を技能者として動員し始めた。 
 番組は、これに伴って、当時、現地の国民学校に在籍中の朝鮮人小学生たちが1945年3月から、女子勤労挺身隊として、富山県の機械メーカー・不二越に送りこまれ、航空機の部品工場で働かされた経過を取材するとともに、日本の敗戦後、母国に帰った彼女たちがたどった苦難の人生を追跡した。

 終戦までに、朝鮮半島から3000~4000人が女子挺身隊として日本に送られたと言われているが、不二越の社史によると、1944年から、約1年間に1089人を受け入れたと記されているという。
 番組は、戦後、強制労働の賠償を求めて日本政府と不二越を訴えた原告のうち、今も韓国で暮らしている3人の元女子挺身隊員を取材し、体験談を肉声で伝えた。
 その一人、金正珠(キム ジョンジュ)さんは、戦後、結婚して3人の子供に恵まれましたが、女子挺身隊員だったことが知れたのを機に、夫から暴力を振るわれ、離婚させられた。夫は、女子挺身隊は「従軍慰安婦」と思い込んだからだ。
 金さんたちが日本で裁判を起こすと、周りから、「金をせびりに行くのか」と罵声を浴びたという。

彼女たちは、どのように口説かれて日本へやって来たのか?  
 この点は、資料でいろいろ記されているが、番組は当事者の肉声で、経過を生々しく伝えた。これが、この番組の圧巻と思えた。
 彼女たちの証言、それを裏付ける独自取材で明らかになったのは、主に次のような方法による事実上の徴用だった。

① 国民学校教師の甘言による勧誘  
 大半は当時、彼女たちが在籍した朝鮮の国民学校に勤めた日本人教師の「勧め」だった。教師たちは「内地」から送られてきた現実離れの映画を生徒たちに見せて安心させ、「内地」行きを勧誘したのである。 その映画というのは、先に徴用されて日本で働いていた隊員たちが、学校に通いながら、恵まれた宿舎にとどまり、生け花の稽古を楽しむ光景を描いたものだった。

② 朝鮮総督府の機関紙による宣言工作 
 この機関紙に、先発の挺身隊員の近況報告や勧誘の手記を掲載して、恵まれた労働、寮の生活を宣伝し、
  「はや こちらへきて 二つきになりました
  内地のみなさんの やさしい おみちびきで ほんたうに たのしく
げんきに はたらいて をります」
  「早く いらっしゃい  女子挺身隊員の手紙と獻金」
と言葉巧みに勧誘したのである。

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 その一方で、
  「コレハ ケッシテ チョウヨウ(徴用)デハナク クニヲ アイスル
   マゴコロカラ ススンデ シグゥワンシテ デルノヲ ノゾミマス」
と言い募っていた。特攻隊の場合と同じである。

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 番組は後半で、元女子挺身隊員が戦時下の強制徴用、強制労働に対する賠償を求めて不二越と日本政府を相手どって起こした訴訟の経過、韓国の司法に救済を求めて起こした訴訟の経緯を紹介した。これについては、かなり知られているので、ここでは省く。

強く印象づけられたこと 
 手短に2つのことを記しておきたい。
 一つは、金正珠さんが取材に応じて、不二越の工場で毎日、歌わされた「君が代」を、母国語を挟んで、流ちょうな日本語で歌った場面である。
  「皇国臣民の誓い 君が代は千代に八千代に」 

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また、朝夕、寮と工場を行き来する時は、
  「勝ってくるさと勇ましく」
と歌ったと、手を前後に振って行進の仕草をしながら、金さんが口ずさんだのを視て、当時、いかに軍歌を叩き込まれていたか、活字では知ることが出来ないリアリティを感じさせられた。

 もう一つ、見過ごせなかったのは、元挺身隊員との和解に応じた時の不二越社長(当時)井村健輔氏の会見の席での次の言葉である。
 「第二次世界大戦下における過去の事実をめぐる極めて不毛な争いを今後も続けるということは、当事者双方にとって不幸であると考えておりました。」

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 日本の多くの徴用企業が時効や日韓請求権協定(の誤った解釈)を盾に元挺身隊の訴えを拒み続けた中で、不二越が和解に応じたことを評価する意見が多いが、原告の訴えと向き合うことを「不毛な争い」と言い放った井村社長の発言は、金で罪を消そうとする姿勢が露わであり、謝罪とは程遠い姿勢であったことを思い知られた。 

 

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