朝鮮女子挺身隊の狡猾な徴用の真相を伝えた『報道特集』
2020年6月19日
6月13日、『報道特集』が番組の中で約25分間、<朝鮮女子挺身隊~苦難の人生~>と題する特集を報道した。非常に啓発されたので、このブログに記録を残すことにした。
なお、この番組のもとになった取材に当たったのは、富山の「チューリップテレビ」(1990年開局)の砂沢智史さんだった(番組の最後に登場)。
番組のあらすじ
戦時下の日本軍は若者を戦地に動員したため、国内での軍需労働力が逼迫した。これを補うため、国内では1943年9月から女子労働力の徴用を開始。朝鮮半島でも翌年から12以上の未婚の子女を技能者として動員し始めた。
番組は、これに伴って、当時、現地の国民学校に在籍中の朝鮮人小学生たちが1945年3月から、女子勤労挺身隊として、富山県の機械メーカー・不二越に送りこまれ、航空機の部品工場で働かされた経過を取材するとともに、日本の敗戦後、母国に帰った彼女たちがたどった苦難の人生を追跡した。
終戦までに、朝鮮半島から3000~4000人が女子挺身隊として日本に送られたと言われているが、不二越の社史によると、1944年から、約1年間に1089人を受け入れたと記されているという。
番組は、戦後、強制労働の賠償を求めて日本政府と不二越を訴えた原告のうち、今も韓国で暮らしている3人の元女子挺身隊員を取材し、体験談を肉声で伝えた。
その一人、金正珠(キム ジョンジュ)さんは、戦後、結婚して3人の子供に恵まれましたが、女子挺身隊員だったことが知れたのを機に、夫から暴力を振るわれ、離婚させられた。夫は、女子挺身隊は「従軍慰安婦」と思い込んだからだ。
金さんたちが日本で裁判を起こすと、周りから、「金をせびりに行くのか」と罵声を浴びたという。
彼女たちは、どのように口説かれて日本へやって来たのか?
この点は、資料でいろいろ記されているが、番組は当事者の肉声で、経過を生々しく伝えた。これが、この番組の圧巻と思えた。
彼女たちの証言、それを裏付ける独自取材で明らかになったのは、主に次のような方法による事実上の徴用だった。
① 国民学校教師の甘言による勧誘
大半は当時、彼女たちが在籍した朝鮮の国民学校に勤めた日本人教師の「勧め」だった。教師たちは「内地」から送られてきた現実離れの映画を生徒たちに見せて安心させ、「内地」行きを勧誘したのである。 その映画というのは、先に徴用されて日本で働いていた隊員たちが、学校に通いながら、恵まれた宿舎にとどまり、生け花の稽古を楽しむ光景を描いたものだった。
② 朝鮮総督府の機関紙による宣言工作
この機関紙に、先発の挺身隊員の近況報告や勧誘の手記を掲載して、恵まれた労働、寮の生活を宣伝し、
「はや こちらへきて 二つきになりました
内地のみなさんの やさしい おみちびきで ほんたうに たのしく
げんきに はたらいて をります」
「早く いらっしゃい 女子挺身隊員の手紙と獻金」
と言葉巧みに勧誘したのである。
その一方で、
「コレハ ケッシテ チョウヨウ(徴用)デハナク クニヲ アイスル
マゴコロカラ ススンデ シグゥワンシテ デルノヲ ノゾミマス」
と言い募っていた。特攻隊の場合と同じである。
番組は後半で、元女子挺身隊員が戦時下の強制徴用、強制労働に対する賠償を求めて不二越と日本政府を相手どって起こした訴訟の経過、韓国の司法に救済を求めて起こした訴訟の経緯を紹介した。これについては、かなり知られているので、ここでは省く。
強く印象づけられたこと
手短に2つのことを記しておきたい。
一つは、金正珠さんが取材に応じて、不二越の工場で毎日、歌わされた「君が代」を、母国語を挟んで、流ちょうな日本語で歌った場面である。
「皇国臣民の誓い 君が代は千代に八千代に」
また、朝夕、寮と工場を行き来する時は、
「勝ってくるさと勇ましく」
と歌ったと、手を前後に振って行進の仕草をしながら、金さんが口ずさんだのを視て、当時、いかに軍歌を叩き込まれていたか、活字では知ることが出来ないリアリティを感じさせられた。
もう一つ、見過ごせなかったのは、元挺身隊員との和解に応じた時の不二越社長(当時)井村健輔氏の会見の席での次の言葉である。
「第二次世界大戦下における過去の事実をめぐる極めて不毛な争いを今後も続けるということは、当事者双方にとって不幸であると考えておりました。」
日本の多くの徴用企業が時効や日韓請求権協定(の誤った解釈)を盾に元挺身隊の訴えを拒み続けた中で、不二越が和解に応じたことを評価する意見が多いが、原告の訴えと向き合うことを「不毛な争い」と言い放った井村社長の発言は、金で罪を消そうとする姿勢が露わであり、謝罪とは程遠い姿勢であったことを思い知られた。
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