「我今何ノ目的ヤアリテ此ノ地ニアル」~「餓死の島」(2020年8月20日 ニュース・ウオッチ9)を視て(1)~
2020年8月24日
”見捨てられた餓死の島” メレヨン島で
この夏のテレビは、NHKも民放も、”戦後75年”にちなんだ多くのドキュメンタリー番組を放送した。定時のニュース番組でも、10分前後と短い時間ながら、戦後75年にちなんだ貴重な特集を放送したが、ドキュメンタリー番組ほどには多くの人の目にとまらなかったのではないかと思う。
そこで、その一つとして、8月20日のNHKニュース・ウオッチ9が約10分間、放送した、「餓死の島 強いられた飢えとの闘い」を原稿に起こした。
特集のテーマは第二次大戦末期に、”見捨てられた餓死の島”と言われる南洋群島・メレヨン島で、飢餓の生死をさまよった日本兵の体験である。島からの生還者が記した記録や研究文献があるが、ひとまず、原稿起こし冒頭の和久田アナの説明とその後のナレーションで概要をご覧いただきたい。
続稿では、メレヨン島で起こった過酷な現実が意味したことを、いくつかの文献を基に考えた
い。
「終戦から75年 餓死の島」 原稿起こし
(和久田アナ)
およそ230万人の軍人・軍属が戦死した先の大戦。その4割から6割が餓死だったと言われています。そうした戦地の実態を象徴する場所があります。小さな島が点在する南洋群島メレヨン島。日本軍およそ6500人のうち4800人が死亡し、そのほとんどが餓死でした。
(有馬キャスター)
太平洋の小さな島でいったい何があったんでしょうか? その過酷な日々を記した新たな資料が見つかりました。島からの生還者に話を聞くことができました。
<字幕 “餓死の島” 語る新資料と証言>
(ナレーション)
柿本胤二(たねじ)さん。99歳。メレヨン島から生還した元軍人の一人です。23歳の時、メレヨン島防衛のため島に渡り、厳しい飢えとたたかってきました。
(柿本)
1年近く、じわじわと腹が減ってきて食べたいものが食べられない。
(ナレ)
柿本さんは壮絶な経験を忘れることができず、およそ20年前から自らの体験を絵に残してきました。横たわっているのは餓死した仲間。点々と列をなすアリが遺体に群がっていました。
(柿本)
人間ってこんな死に方させたくない。かわいそうに。
(ナレ)
悲劇の始まりは戦況が悪化した昭和18年。日本軍はアメリカ軍の攻勢に対し、絶対国防圏を設定。メレヨン島にあった滑走路を守るため、柿本さんらおよそ6500人が送り込まれ、アメリカとの決戦に備えました。
アメリカ軍はメレヨン島の滑走路を爆撃。島には上陸せず、向かった先は日本が絶対国防圏の要としたサイパンでした。昭和19年7月、サイパンが陥落するとメレヨン島は補給路を断たれ、食糧などを受け取ることがほとんどできなくなりました。いわば“見捨てられた島”となったメレヨン島。残された兵士たちを待っていたのは飢えとのたたかいでした。柿本さんは食糧を求め、密林の中を歩き回る日々を送っていたと言います。
(柿本)
毎日朝起きて自分で自分の食い物探すんだが、軍が何も食べるものないんだから。配給もない。ネズミの頭からかじって口の中でネズミの牙が残るでしょう。結構かたいんだ。それを出しながら、ネズミを焼きながら食ったもんですね。
(ナレ)
兵を輸送する船もなく、島から脱出することもできませんでした。補給路を断たれて半年が経つと貴重な栄養源だったトカゲやネズミも途絶し、餓死者が続出します。
今回、現地で書き綴られた新たな資料が見つかりました。柿本さんとは別の部隊にいた松良佐太郎曹長。見捨てられた島の実態を克明に記録し続けていました。
「胸部ノ骨ハ次第ニ溝ヲ深クシ手足ハ日ヲ加フル毎ニ細クナル」
「栄養失調症ニテ次々ト死亡」
「我今何ノ目的ヤアリテ此ノ地ニアル」
<昭和19年12月8日>
(ナレ)
精神的に追い込まれる軍人の姿も記されていました。
「食糧不足が極限に達し、全般の状況を悲観。手りゅう弾による自殺であった。」
<昭和20年1月8日>
(ナレ)
昭和20年になると日本本土への爆撃が本格化。沖縄にはアメリカ軍が上陸し、激しい地上戦が行われていました。一方で、戦闘が行われていなかったメレヨン島では、限られた食糧をめぐり、秩序が崩れていったといいます。
(柿本)
歩兵の中隊長が大隊長の畑に(盗みに)忍び込んで捕まって銃殺ということになった。まあ、人間の一番最低のところを見せつけられた。
(ナレ)
松良曹長の日記にも将校たちへの強い不満が綴られていました。
「将校は下士官、兵に比して遥かに多量の給與を受け」「下士官、疲労の度増大し活気なし」
<昭和20年1月12日>
「将校のみ元気なるを以てかっ歩す」 <昭和20年1月22日>
(ナレ)
見捨てられた島の実態を克明に記した松良曹長。戦後、家族に語った音声が残されていました。
「人間死ぬか生きるかの境だと どういうことをするか わからんのや。これが何の地獄というかの。」
<昭和20年8月15日>
「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び・・・・」(音声)
(ナレ)
メレヨン島に部隊が派遣されてから1年4か月後。日本は終戦を迎えました。
飢えとのたたかいを強いられた柿本さんの部隊。26人のうち生き残ったのはわずか3人でした。戦後、地元札幌に戻り、3人の子供に恵まれた柿本さん。自宅には亡くなった仲間を悼む位牌が置かれています。
(柿本)
お袋に(自分が)飢え死にしたことは決して言わんでくれというやつもいましたね。
“天皇陛下万歳“って言って死んだ人は知らんですね。
死にたくて死んでるわけではない。理不尽に死んでいるわけですよ。
(ナレ)
国を守るためと戦地へおもむいた仲間たちがなぜ飢え死にしなければならなかったのか。75年経った今もその答えを見つけられずにいます。
(和久田アナ)
理不尽な死とおっしゃっていたことがすべてを表している気がしますね。極限の状態にまで追いつめられて人間らしい死を迎えることが許されない。これが戦争なんだということを改めて突きつけられました。
(有馬キャスター)
さきほど飢え死にしたことは家族に知られたくないって話、柿本さん、おっしゃってましたけど、実は柿本さん自身は見捨てられた島のこと、自分たちに何があったかを広く皆なに知ってほしいと話しているということでした。
史実を知ること。今を生きる私たちの責任だと思いました。
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