「国家の干渉からの自由」を超えて「国家への干渉の自由」を

20161110

 私も共同代表の末席に加わっている「東京・教育の自由裁判をすすめる会」から昨日、第12回定期総会の案内状が届いた。その中で出席がかなわない場合はメッセージを、と書かれていたので、欠席の通知と併せ、次のようなメッセージを送った。小見出しはこのブログに転載するにあたって追加したものである。

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                      20161110
東京・教育の自由裁判をすすめる会
12回定期総会へのメッセージ

                      醍醐 聰

「内心の自由」は個人の尊厳を守る最後の砦
 長らく名ばかりの共同代表となっていることを申し訳なく思っています。
 「絶望の裁判所」ともいわれる司法の扉を一歩ずつ開かせ始めた皆様の長期にわたる粘り強い運動に心より敬意を表します。

 私は日の丸、君が代の強制に反対する運動に関わって以来、「内心の自由」は人間の尊厳を守る最後の砦と考えてきました。
 と同時に、私は「内心の自由」とそれを表現する「外的行為の自由」を
切断する論法にも大いなる異議を感じてきました。
 なぜなら、言論の自由が奪われた極限的状況のもとでは「沈黙する自由」は人間としての尊厳を守る最後の砦と言えますが、言論の自由が強権的に封じ込められたわけではない今日、言論・表現の自由とは個人の興味にふける自由でもなければ、「
国家の干渉からの自由」だけでもなく、「国家への自由」、つまり、主権者たる国民に国家を奉仕させる能動的自由でなければならないと考えるからです。

意見の違いは「認め合う」だけでよいのか?
 
今回、お送りいただいた案内封筒に「この国をいろいろな意見の違いを認め合う寛容な社会に」というタイトルが付けられたパンフレットが同封されていました。日の丸、君が代の強制に反対する運動の啓蒙的な文書としてはもっともです。
 ただ、言論、表現の自由のそもそも論から言えば、意見の違いを認め合うことが究極の目的ではないと私は考えています。各々の意見、思想を尊重し合いながら、ぶつけ合うことによって、互いに自省し、啓発し合って、各人の理性を磨き、高め合うことこそ、言論の自由の究極の価値であり、目的であると思うからです。

 上記のパンフレットで使われた例えでいえば、「原発は安全だと主張する自由」も「原発は危ないと主張する自由」も認め合うことが言論、思想の自由の本意ではなく、真理に近づくために不可欠な、「思いの通りに物を言う」自由のことだと思うのです。

 日の丸、君が代にしても、教職員の方々自身の人権、尊厳という面からは別の議論があり得ると思いますが、教育という観点からは、「起立する自由」と「起立しない自由」、「歌う自由」と「歌わない自由」を認め合うことが究極の目標ではないと考えています。そうではなくて、日の丸、君が代の成り立ち、使われ方を共同で考え、討論すること通じて、日本の歴史、とりわけ近・現代史の真実を、世界史の中で、学ぶ機会にするという能動的な位置づけが重要ではないかと感じています。
 両方の自由を認め合うということは、意見の違いを「脇に置く」、「棚に上げる」ことでも、日の丸、君が代を「タブーにする」ことでもないと思うのです。

「日の丸・君が代」強制に対する「攻めの運動」を
 昨今、国家の統治権と人権を逆転させる動きが強まっています。しかし、本来、国家は人権の保障のために形成された機構であり、国家の統治権は人権の保障という目的に沿ってのみ行使されうるものです。

 天皇の生前退位、天皇の「公務」の範囲に関して議論が集まっています。しかし、それ以前に、私は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という日本国憲法の第1条で言われる「統合」とはいかなる行為、表象的効果を意図するのかに関心を向けています。

 「主権の存する日本国民の総意に基く」と断りながら、天皇の名において意図される「国民統合」とは何を意味するのか、象徴に過ぎない人物、造物が主権者を統合するとは、いかなる意味なのか、日の丸、君が代はそうした「国民統合」のツールとは無縁なのかどうなのか、という疑問です。

 過日のリオ・オリンピックでは、「国威発揚」を掲げ、国家が国旗・国歌というシンボルを用いて国民、世論を束ねようとする動きが顕著でした。東京五輪・パラリンピック組織委会長の森喜朗元首相は「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのか。国歌も歌えないような選手は日本の代表ではない」と公言しました。

 机上の理想論と言われることを承知のうえで、私は前記のような問いかけを掲げた「攻めの運動」を皆様に期待したいと思います。
 私も、この十数年、関わっているNHKの報道を正す市民運動の中で、また、ささやかな自分のライフワークの中で、言論、報道の自由を「国家からの干渉を拒む自由」にとどめず、国民の知る権利に応える「国家への自由」に近づける運動に微力ながら、参加したいと考えています。




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思想としての立憲主義、毒薬条項としての緊急事態条項

2016111

 今国会で安倍首相はこの夏の参院選(衆議院とのダブル選挙の可能性も論じられている)で改憲に必要な3分の2超の議席獲得に意欲を示している。その改憲で要注目は自民党の憲法改正草案で謳われている「緊急事態条項」である。

 私は昨年95日、6日、神戸で開催された第19回中小商工業交流集会の憲法講座のセッション(95日)に、石川康宏(神戸女学院大学)さんともにゲスト・スピーチをした。私のスピーチのタイトルは「日本国憲法から読み解く戦争法案の違憲性と欺瞞性」で、石川さんは「憲法をめぐるたたかいの可能性」だった。
 2人のスピーチの全文とその後の質疑の模様をまとめた報告集の抜粋(URL)を石川さんが、ご自身のツイッターに掲載されているので、目下の政治状況に照らして、このブログでも紹介することにしたい。ただし、ここでのスピーチは安保関連法案(戦争法案)が参議院で可決される日が近いと報道された時期に行ったものであるという事情を断っておく。

19回中小商工業交流集会 憲法講座(報告集からの抜粋)
醍醐聰「日本国憲法から読み解く戦争法案の違憲性と欺瞞性」
石川康宏「憲法をめぐるたたかいの可能性」
質疑)。『第19回中小商工業全国交流・研究集会 報告集』2016年12月
)。『第19回中小商工業全国交流・研究集会 報告集』2016年12月
http://walumono.typepad.jp/files/160107-%E5%85%A8%E5%95%86%E9%80%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%9B%86%E4%BC%9A-%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%AC%9B%E5%BA%A7-2.pdf

 全文を貼り付けると長くなるので、私のスピーチの中で、今の政治状況に照らして意味があると思える2つの部分――思想としての憲法・立憲主義に触れた部分と、緊急事態条項に触れた部分――の原稿を転載しておきたい。文中、不正確な話し言葉があるが、報告集に記載のまま転載することにした。

思想としての憲法・立憲主義
 
 醍醐と申します。私は憲法の専門家、法律の専門家ではございませんので、法律論をお話しするのは大変おこがましいと思いますが、きょうは憲法といいましても、とにかくこの戦争法案をどうするのかということで、皆さんの関心もそこに集中していると思いますので、国会審議を通じて浮かび上がってきた戦争法案の問題点、論点、核心部分を、立憲主義、あるいは、憲法に引き寄せて考えたいと思います。
 きょうは新幹線でこちらに出向いたんですけれども、車内のニュースのテロップでは、自民党、与党は15日に参考人招致をやる。16日に参議院の安保特別委員会で採決する。そして、同日、16日に本会議で即時可決する、採決すると、そういう方向で固まってきたと伝えてきております。従って、この1週間半の間が、本当に日本の歴史を左右するような重大局面に立っている、そういうつもりでお話をさせていただきたいと思います。

 まず、最初に、法律論としてではなく、思想としての憲法、あるいは、立憲主義というものはどういうものなのかということを考えておきたいと思うわけです。
 まず、立憲主義という言葉がこの間盛んに使われますが、その基礎にある考え方というものは、何なんだということを、少し歴史的にさかのぼって考えてみますと、アメリカの大統領のトーマス・ジェファソンという方を、皆さんもよくご存じだと思いますが、彼が講演したことが、ケンタッキーの州議会の決議という形で残されております。
 その中に次のようなくだりがあります。「信頼はどこでも専制の親である」信頼といえば、お互い同士の良好な関係のきずなのように、普通私たちは思うんですけれども、しかし、立憲主義の考え方、国民と政府との関係に関して言えば、逆だと。信頼というものは専制を生む土壌だということを言っているわけです。自由な政府は、信頼ではなく、疑い、猜疑(さいぎ)に基づいて建設されると。憲法の問題においては、他人に対する信頼に耳を貸さず、憲法の鎖によって、政府が非行、悪い事をしないように拘束する、縛っておく必要があると。この言葉は、まさに立憲主義の核心をずばり突いた言葉ではないかと思うんですね。国民は政府を疑ってかからなければいけない。やすやすと信頼したら、これは危ないことになるということですね。


 次に、またこれも日本で有名な思想家、植木枝盛という人を知っておられると思います。その植木枝盛の評論集が岩波文庫から出ている『植木枝盛選集』というのがございます。その中に、「世に良政府なるものなきの説」という、1877年に書かれた文章なんですね。「人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、ますますこれに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などといいて、これを信任し、これを疑うことなく、これを監督することなければ、必ず大いに付け込んで、いかがなことをなすかも、はかりがたきなり」と、こういう言葉を残しているんですね。ジェファソンが言ってることとほとんどぴったり同じですね。歴代の偉大な思想家というものの考え方は、こうやってくしくも一致するんだなっていうことを、今回非常に感慨深く思ったわけです。こんなような考え方が立憲主義の根底にあるということを、私たち、理解しておくことが大事だと思うんです。

自民党憲法改正草案が目指す国家ビジョンと国民像の危険性

 最後に私がお話ししておきたいのが、自民党の憲法改正草案についてです。憲法講座ですので、少しそこのところだけは触れておきたいと思います。緊急事態条項というのがありますので、ここだけ大急ぎでご紹介をしておきたいと思います。自民党の草案の中にこんなのがあるということを、ぜひとも知っておいていただきたいなと思って出しました。


 これは緊急事態というのを設けて、有事や大規模災害などが発生したときに、緊急事態宣言をすると。内閣総理大臣に一時的に権限を与えるということになっているのですが、どんな権限を与えるのかということなんですけども、二つあります。一つは内閣が法律と同じだけの効果を持つ政令を制定できるようになっています。2番目は、なにびとも公の機関、国とか、公の機関の指示に従わなければならないという条項です。緊急事態条項、これはまさに治安維持法だと思うのですけど、ここで非常に気になることは、要するところ、公の機関の指示に従わなければいけないといったって、何も限定されてないんですよ。非常事態を乗り切るためには、内閣は、こういうことが必要だと思ったら、国民はそれに従わなければいけないというのです。他の国からの武力攻撃に応戦するためには、今の自衛隊だけでは人が足りない。それは後方支援か、前線か、知りませんけど、ここで予備兵を募集すると言っちゃったら、嫌だとは言えない。これまさに徴兵制ですよね。自民党はこういう草案をつくっているんですよ。将来にわたって徴兵制は断じてあり得ないなんて、安倍首相がいくら言ったって、自民党の改憲草案ではそうなっていません。もちろん言論の自由だって、一時停止されちゃいますね。これは恐ろしい条項なんですね。こういうものが用意されているっていうことを、ぜひとも知っておく必要があるんじゃないかなと思います。


 それから、もう一つ、自民党の草案の、思想・表現の自由は、これを侵してはならないというのが今の憲法19条でしょう。それを変えています。「思想・表現の自由は、これを保障する」となっています。「侵してはならない」と「保障する」同じじゃないか、こう思われるかもしれませんけど、これは全然違います。「侵してはならない」ということは、これは人間に持って生まれて絶対的な権利として、これは認められるというのが今の憲法でしょう。「保障する」といったら、国が保障するということですが、国がこれは保障の限りではないなんてことを言いだしたら、制限付きの権利になりますよね。保障するっていうことは、これは国の政策的な判断に関わってきますよということを、暗に言っているのと同じじゃないですかね。非常にこれは怖いことを言っているんです。


 今の戦争法案の中で、いろいろと議論になっている問題について、自民党の憲法草案ではどう言っているのかということを見極めておきませんと、後になって、そうだったのかでは、われわれとしては、将来の世代に対して大変な負の遺産を残してしまうことになると思うんですね。私はこの1週間、ものすごく大事だと思います。

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護憲を掲げる団体が自由な言論を抑圧するおぞましい現実(2)

2014119
  ・護憲と破憲の内外落差
 ・護憲を掲げる資格が問われている
 ・構成団体にも問われる自浄の意思と能力

護憲と破憲の内外落差 
 日本国憲法の諸条項、特に、人種・信条・性別・社会的身分・門地を理由とした政治的・経済的・社会的関係における差別の禁止(第141項)、思想・良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社および言論・出版の自由(第21条)、学問の自由(第23条)などの精神的自由権の効力は私人間にも及ぶのかどうかは憲法解釈上の一大問題である。なぜなら、憲法、とりわけ精神的自由権はもともと国民の国家権力に対する防御権として制定されたものであり、私人間関係までも直接に律することを予定したわけではないからである。
 現に、学説上も判例上も、私人間の関係はあくまでも民法、商法、労働法といった関係法令によってあるいは個人が属する団体の自治によって律せられるものとし、憲法の自由権条項ないしは人権条項の効力は私人間関係にも直接及ぶとする「直接適用説」はほとんど支持されていない。むしろ、憲法の当該条項の効力は関係法令や契約自由の原則、私的自治の原則を介して間接的に及ぶとする「間接適用説」が通説になっている。これを今の問題に当てはめて考えるとどうなるだろうか。
 憲法会議のホームページを閲覧すると、同会の目的が次のように記されている。

 
「(目的)本会は日本国憲法のじゅうりんに反対し、民主的自由をまもり、平和的・民主的条項を完全に実施させ、憲法の改悪を阻止することを目的とします。

 また、憲法会議が20131023日に発表した「『戦争する国』づくりに直結し、憲法原理を覆す『秘密保護法案』に反対します」と題する声明の冒頭で次のように記されている。

 「憲法会議は、安倍内閣が25日の閣議で決定し、今臨時国会に提出しようとしている『秘密保護法案(特定秘密保護法案)』に断固反対します。それは同法案が、国民の知る権利、言論・表現の自由を脅かすなど民主主義の根幹と国民主権、平和主義の日本国憲法の基本原理を根底から覆すものだからです。」

 この文章に表わされた知る権利、言論・表現の自由が、国家権力からの国民の防御権という意味で用いられていることは明らかである。私も「特定秘密保護法案」の脅威をこのようにとらえ、同法案の成立・施行を阻止する運動を強く支持してきた。

護憲を掲げる資格が問われている
 しかし、今日、私たちが社会生活で直面する思想の自由や言論の自由の侵害、信条等を理由にした社会関係面での差別的処遇は、国家や公共機関と個人との関係だけで起こっているわけではない。企業内の労使関係、職域団体、大学、地域の自治会・町内会などでも例外といって済まない頻度で起こっている。さらに言えば、私が東京都知事選をめぐる問題を扱った一連の記事で取り上げたように、民主的市民団体と通称される団体内でも、「運動の世界で生きていきたければ騒ぐな」といった恫喝まがいの言動や執拗に異論を唱えるものを組織から排除するといった行為が起こったことが報告されている(そうした行為をしたと名指しされた当事者からはこれまでに反論なり反証はない)。
 このように、憲法の基本的人権を自治の中で活かすことが期待されているはずの団体の内部で、逆に基本的人権を侵害する行為がまかり通っているのは「悪い冗談」では済まない深刻な事態である。
 憲法会議が自ら掲げた「目的」の中で擁護すると謳った憲法の「民主的条項」に思想・良心の自由、言論の自由は入っていないはずがない。とすれば、自ら守ると擁護を唱える憲法の民主的条項を自らが蹂躙したのであるから、自己撞着の極みである。こうした自己撞着、言動のダブル・スタンダードを速やかに自浄すべきは当然である。それなしには憲法会議は憲法の民主的条項の擁護を国民に向かって呼びかけ、啓蒙する資格はないのである。

構成団体にも問われる自浄の意思と能力
 もうひとつ、私が指摘したいのは憲法会議に参加している諸団体の道義上の連帯責任である。憲法会議事務局から澤藤氏に送られたファックスの文面には、澤藤氏の論稿を『月刊憲法運動』の2月号に掲載するのは、宇都宮候補の当選をめざして、全力をあげて奮闘している憲法会議構成諸団体の納得を得ることはできないと記されている。

 私はこの構成団体がどういう団体か知らないが、構成諸団体の意向に沿わないとして澤藤氏の論稿掲載の延期(最終的には見送り)理由が説明された以上、各構成団体は憲法会議事務局が犯した言論・思想の自由侵害行為の関係当事者ということになる。したがって、これら諸団体は憲法会議事務局の当該行為をどう受け止めるのか――澤藤氏の論稿を機関誌の2月号に掲載することを本当に納得しないのか、しないのならその理由は何なのか――について態度表明があってしかるべきである。また、憲法会議事務局の取った対応の方にむしろ納得しないのなら、事務局にどのような善後策を要請するのかについて、しかるべき見解を表明するのが道義的責任である。

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護憲を掲げる団体が自由な言論を抑圧するおぞましい現実(1)

2014年1月19日
 ・「民主団体」の言動の内外落差を示す事態がまた一つ
 ・掲載延期の求め、なぜ?
 ・掲載延期に一理あったのか?
 ・宇都宮批判は前科?

「民主団体」の言動の内外落差を示す事態がまた一つ
 「革新陣営」「民主団体」の言動の内外落差――他者に批判を向けるのと同じ過ちを自らが犯すという自己撞着、その自己撞着を自覚せず自浄できない体質――を考えさせられる事態がまた一つ、伝わってきた。澤藤統一郎氏の私設ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」の本年115日付記事「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい-その26」が明らかにした事態である。
    http://article9.jp/wordpress/?p=1926
 
 http://article9.jp/wordpress/?p=1936
  それによると、この18日、憲法会議(正式名称は「憲法改悪阻止各界連絡会議」)の平井正事務局長が澤藤氏宅を訪ね、昨年1227日に電話で澤藤氏に執筆を依頼した同会機関誌『憲法運動』2月号(1月末発行)への寄稿を2月号に掲載できなくなった、3月号以降に掲載を延期したいが、いつになるかはわからないと告げたという。

掲載延期の求め、なぜ?
 澤藤氏のブログ記事によると、依頼された原稿のテ-マは「岩手靖国訴訟」で、澤藤氏も即座に応諾し、執筆の準備にとりかかっていた。それだけに、澤藤氏は掲載延期の申し出が腑に落ちず、理由を尋ねると、平井氏は「先生が宇都宮さんを批判していることが問題なのです」と答えた。さらに、こうした掲載延期を求めるのは誰かがそう言っているからではなく、憲法会議事務局の判断だと告げたという。
 澤藤氏は納得せず、自分には宇都宮氏を批判する言論の自由がある、あなたがやろうとしていることは私の言論への口封じだと反論した。しかし、平井氏はこれにはほとんど応答せず、持ち帰って再度内部で協議するといって澤藤宅を辞したという。
 それから6日後の今月14日、平井氏から澤藤氏に電話があり、再度、要請をしたいので訪問したいとのこと。前回とは別の提案なのかと澤藤氏が尋ねたところ、平井氏は前回の要請をさらに詳しく説明したいとの答え。澤藤氏が、それでは会う意味はないので翌日までに要請の趣旨と理由を文書にしてファックスで送ってほしいと伝えたところ、翌日、確かにファックスが届いた。しかし、そこでは、澤藤氏が掲載号延期の要請を受け入れない場合は「掲載見送り」となっていたことを知って澤藤氏は怒った。氏は、ファックスの文面の最後の4行に記された掲載拒絶の理由を原文のままと断ってブログ記事に転載している。重要な部分なので以下、そのままを引用しておく。

 「年が変わった時点で、澤藤先生がブログで『宇都宮健児君、立候補はおやめなさい』と題する文書を発信し続けていることを知りました。29日投票の東京都知事選挙において、宇都宮候補の当選をめざして、全力をあげて奮闘している憲法会議構成諸団体の納得を得ることはできません。」
 
 それから2日後の117日付けで澤藤氏が連載28として掲載したブログ記事には次のような経過が記されている。
 同日、澤藤氏が平井氏宛に電話をし、依頼を受けた原稿が完成したこと、それを送ったら2月号に掲載してもらえるか尋ねたところ、ファックスで要請したように3月号以降への掲載と依頼しているとおりとの返答。そこで、澤藤氏が、掲載延期の理由は同氏が宇都宮健児氏を批判する記事をブログに掲載したからか、と再度尋ねたところ、平井氏は「そのとおりです。そのこともファックスに記載しています」と答えたという。
 長々と経過を説明したのは、澤藤氏と平井氏のやりとり、送られてきたファックスの内容に重要な意味があると考えたからである。

掲載延期に一理あったのか?
 この問題を性急に論評するのを避け、論点を整理しながら考えていきたい。
 かりに、澤藤氏が依頼された原稿の中で、宇都宮氏の立候補を阻止・撤回させることを意図した記述をする公算が高いと考えられたとしよう。この場合、そうした内容を含んだ論稿を掲載した機関誌を都知事選の選挙期間さなかの1月末に発行することが公選法で禁じられた文書図画の頒布に当たらないかと憲法会議事務局が懸念し、選挙後の3月号以降への掲載延期を申し出たのだとしたらどうなるか?そうなら憲法会議事務局は、公選法のどの条項に抵触する恐れがあるのかを澤藤氏に丁寧に説明し、掲載延期を了解してもらうよう努めるのが道理である。
 しかし、事実経過を見ると、このような想定のもとに今回の事態を検討する意味はないことがわかる。澤藤氏がブログに書いた内容から判断して、同氏が依頼原稿に書こうとしたのは依頼されたテーマ(岩手靖国訴訟の記録と現時点での教訓)に沿ったもので、それと関係のない宇都宮氏の立候補をめぐる持論を展開するつもりがあったとは思えないからである。それでもなお、澤藤氏が言に反して出稿した原稿に、依頼したテーマとはずれた宇都宮氏の立候補に関する言及があったのなら、原稿の修正なり加除なりを、あるいは掲載延期なりを両者協議するのが道理である。

宇都宮批判は前科?
 しかし、憲法会議事務局はこうした対応を取らなかった。むしろ、事務局が澤藤氏に送信したファックスの文面から判断すると、澤藤氏が宇都宮氏の立候補について言及する意図がないことがわかっても、都知事選の選挙期間さなかに発行される機関誌に、「宇都宮氏を批判した実績のある」澤藤氏の原稿を掲載するのを忌避する意図があったと受け取れる。現に、澤藤氏が、自分が承諾した原稿は都政の問題でなはなく靖国問題である、宇都宮氏への批判が出てくるわけがない、と反問したのに対して平井氏は「それは分かっています。それでも先生が宇都宮さんを批判していることが問題なのです」と答えたという。これでは、原稿の内容以前に(内容を理由に掲載の時期を差別扱いすること自体も問題となりうるが)、特定の主張をした人物であることを理由に論稿の掲載時期を差別的に扱ったことになる。
 こうした憲法会議事務局の態度は、二重の意味で――日本国憲法の該当条項の効力が直接及ぶといえるかどうかは別にして――言論の自由、思想・良心の自由を抑圧するものだった。
 一つは、澤藤氏の原稿の掲載を正当な理由なく差別的に扱った点で言論の自由の抑圧に当たる。もう一つは、澤藤氏が過去に(といっても直近の時期であるが)執筆し公表した記事の中で特定の主義・主張を展開したことを理由に(まるで「前科」かのようにみなし)、論稿発表の自由を奪ったという意味で思想の自由の侵害にあたる。 

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国歌斉唱の拒否を理由に再雇用せずは違法――東京地裁判決

 「早く教室に戻って生徒に教えたい」
 ―-嘱託教員としての職場復帰の可能性を開いた貴重な判決――

 昨日(
27日)、東京都が卒業式で国歌に向って起立して、斉唱しなかったことを理由に、定年退職の後、嘱託職員として再雇用しなかったことの違法性をめぐって争われた裁判で、東京地裁(中西茂裁判長)の判決が言い渡された。

判決要旨
http://www.news-pj.net/pdf/2008/hanketsu-20080207_1.pdf


 これを見ると東京地裁は、教職員に国歌を歌うよう命じても特定の思想を強制したとはいえないと判断している。しかし、それだけの理由で再雇用しないのは合理性や社会的相当性を著しく欠く、また、原告の教職員らは積極的に式典を妨害しておらず、東京都はこれら教職員の定年までの勤務成績を総合的に判断した形跡がない、と指摘して、これら教職員の再雇用を拒むのは「裁量を逸脱、乱用している」とみなし、東京都に原告1人あたり約
212万円の損害賠償を命じた。

 この判決を伝えたニュース中に、喜びをかみしめる原告の一人の次のような言葉を見つけた。

 「君が代を歌わず、たった40秒間座ったままでいただけで再雇用の機会を奪われ、憤りを感じていた。君が代の強制が憲法に違反しないとされたのは残念だが、再雇用を拒否したことが違法と認められたことはうれしい。早く教室に戻って生徒たちに教えたいので、都と再雇用の交渉をしたい。」

 この言葉が今回の東京地裁判決の意味を一番的確に表わしていると思えた。しかし、ここでは判決の限界と意義を門外漢なりにもう少し立ち入って吟味しておきたいと思う。


 判決の重大な限界
 東京地裁が、学校行事において教職員に対し、国歌に向って起立、斉唱を強制すること自体に違憲性はないと判断した点は判決の大きな限界である。私がそう考える理由は以下のとおりである。

1.国旗・国歌は強制しないという立法経緯を無視
 判決は「卒業式等に参列した教職員が、国歌斉唱時に国旗に向って起立して、国歌を斉唱するということは、国旗及び国歌に関する法律・・・・にかなうものである」という。しかし、今回の訴訟で問われたのは起立・斉唱しない教職員を不採用、停職等にまで及ぶ処分をしてまで強制することの違法性である。これについて、判決は国旗・国歌を法制化した前後の次のような立法経緯を全く顧みていない。

*「国務大臣(野中広務君) 国民に対しまして、例えば法律によって国旗の掲揚とか君が代の斉唱を義務づけるべきであるとか尊重責任を詳細に入れるべきであるとか、こういった御議論もあるわけでございますけれども、基本的には私、思想及び良心の自由、すなわち憲法十九条にあります関係等を十分踏まえて、そしてこれは対処をしていかなくてはならない問題であると思うわけでございます。」(1999312日、参議院総務委員会会議録より)

*「内閣総理大臣(小渕恵三君) <中略> 法制化に際し義務づけを行わなかったことに関する政府の見解について、お尋ねでありました。御指摘の政府の見解は、政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務づけを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている旨を明らかにしたものであります。」(1999629日、衆議院議院本会議会議録より)

 その他詳細は、このブログのサイドバー「資料集成」欄に掲載している「国旗・国歌の強制をめぐる国会審議録(抄録)」を参照いただけると幸いである。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokkikokkasingirokushoroku.pdf

2
.思想・良心の自由が侵害されている現実を直視せず
 判決は国旗に向って起立して国歌を斉唱することを促した校長の「職務命令が原告らの思想及び良心の自由を制約するものであるなどということはできない」という。しかし、こうした職務命令に従わない教職員を次々と処分(停職、再雇用の拒否を含む)したり、再発防止の名目で呼び出し、長時間、個室に閉じ込めて「研修」を強要するのは、国旗・国歌に対する歴史観、思想・信条を問いつめ、精神的肉体的苦痛を加えて「思想の転向」を迫る残忍な行為にほかならない。これでも思想の自由を侵害したことにならない、と判断するのは現実に対するあまりにも無頓着な見識というほかない。
これでは法の番人たるべき裁判官としての資質、人権感覚が疑われてもやむを得ない。

 判決の重要な意義
 しかし、そのような限界があるにせよ、判決が、

 「原告らの不合格は、従前の再雇用制度における判断と大きく異なるものであり、本件職務命令違反をあまりにも過大視する一方で、原告らの勤務成績に関する他の事情をおよそ考慮した形跡がないのであって、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものといわざるを得ず、都教委はその裁量を逸脱、濫用したものと認めるのが相当である。」

と判断したことは、処分を見せしめにして国歌・国旗を強制する教育を強引に進めてきた東京都の違法行政を断罪した点できわめて大きな意義を持つ。

 判決を伝えなかった夜7時のNHKニュース
 昨夜7時のNHKニュースを最後まで見たが、放送された項目、それに当てられた時間(壁かけ時計でみた目分量なので、30秒程度の誤差はあり得るが)は次のとおりだった。

前時津風親方、逮捕間近     約11
中国制ギョウザ中毒問題     約  4
北京オリンピックの馬場馬術に
過去
最高齢の選手が出場     約  3
衆議院予算委の模様           2
米大統領予備選 民主党2人の
候補
の資金集めの状況                    2.5
米南部での竜巻                          2.5
JALでの個人情報流出に関する
訴訟
                                           1
奈良で最大級の石室発見       約  1
足を金具で挟まれた白鳥を保護    約  1
気象予報                                       約  2
                                     
 ニュース終了後、NHK視聴者センターへ電話をし、限られた時間枠のなかで、どのようなニュースにどれだけの時間を割り当てるのかの判断に関して大きな偏りがあったという意見を伝えた。
 最後になって、応対者は、
 「厳しいご意見があったことを担当に伝えます。」
と返答したので、
 「厳しい意見ではなく、普通のバランス感覚、見識を持った人間なら感じる意見です。」
と告げて10分ほどのやりとりを終えた。



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「これからの日本」(憲法9条をめぐるスタジオ討論)を視聴して

 昨夜(8月15日)、NH総合テレビで放送された「これからの日本」(憲法9条をめぐるスタジオ討論)を視た感想を番組のHPに設けられた感想・意見送信フォーマットを使って、番組担当宛にE・メールで送った。そのPDF版を掲載する。

 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/korekaranonippon20070815_heno_iken.pdf

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安倍晋三氏の憲法改正論、集団的自衛権論を左サイドバーの「資料集成」に掲載

 安倍晋三氏の憲法改正に関する国会での発言(質問、答弁)、ならびに、集団的自衛権に関する国会での発言(質問、答弁)を国会会議録システムで調査・集成した。何かに活用していただければ幸いである。

 安倍晋三氏の憲法改正をめぐる国会での発言録
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/abe_kenpokaisei_ron.pdf

 安倍晋三氏の集団的自衛権をめぐる国会での発言録
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/abe_shudantekizieiken_ron.pdf

 これらは、左サイドバーの「資料集成」にもアップした。
 この後、「集団的自衛権と憲法」をめぐる国会での質疑を調査・集成中である。少し時間がかかりそうだが、完成次第、これも掲載する予定。

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NHKスペシャル「日本国憲法誕生」を視聴して

 昨夜(4月29日、午後9時~10時14分)、NHKスペシャル「日本国憲法 誕生」を視聴した。さきほど、その感想をE・メールでNHKスペシャル担当へ送ったが、600字以内という字数制限のため、用意した原稿を大幅に削らざるを得なかった。そこで、元の原稿をこのブログに掲載することにした。

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 予告で番組を知り、視聴しました。全体を通して、豊富な資料を駆使し、関係者の肉声での証言も交えて、新憲法の制定過程を丹念に検証したドキュメンタリー番組であったと感じました。特に、天皇制の護持に執着する日本政府と日本の再軍備の脅威を根絶しようとするGHQの思惑、さらには天皇の戦犯と天皇制そのものの廃止まで迫ろうとした極東委員会の構成国の意思が絡み、戦争放棄と象徴天皇制が抱き合わせで盛り込まれた経緯が克明に描かれたのが印象的でした。

 しかし、こうした国際的な交渉の狭間で、日本の民間人あるいは各党代表者からなる憲法研究会、小委員会等の発案で生存権条項の追加、義務教育の年限の延長、戦争放棄の条項の補足等がなされた事実が史実に沿って明らかにされたことは貴重でした。こうした知見を提供するところにドキュメンタリー番組の真髄があると感じました。

 個別的なことをいいますと、「至高」か「主権」か、「前掲」か「前項」か、「輔弼」か「助言と同意」かなど、条文の一字一句をめぐる論議にも立ち入った場面は、解釈改憲が叫ばれる今日、示唆に富んだ編集であったと感じました。

 総じて、「押し付け」憲法論が喧伝されてきた中で、①日本人が自主的に新設・補足した条項が少なくなかった点を照射したのは貴重な知見の提供であったと思います。②他面、GHQや極東委員会の強い意思で制定された条項が少なくなかったことも事実として直視すべきと感じました。

 その上で、極東委員会の強い意向で主権在民が明文化されたこと、当時22歳だったベアテ女史の強い進言と起草で女性の地位向上を定めた条項が盛り込まれたこと等を「押し付け」、「戦後レジームからの脱却」などというレトリックで清算しようとしてよいのかという問いかけが重要と思われました。(ちなみに、安倍首相自身の思考回路について言えば、「戦後レジームからの脱却」ではなく、「戦前レジームからの脱却」が強く求められている。)

 
「押し付け」を言う前に、市民の総意を集約して自律的に新憲法を創造する基盤が成熟していなかった当時の日本社会における民主主義の成熟度こそ、現在・将来への反省を込めて、問いかけられるべきであった(ある)と思われてなりません。

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