「カティンの森」を観て~歴史と向き合うことが人間の尊厳と理性を研ぎ澄ます~

 2010年1月1日
 皆様、よい新年をお迎えのことと思います。このところ、更新が滞りがちですが、アクセスいただき、ありがとうございます。今年も政治、経済、歴史、メディア、映画、絵画、旅行のことなど、なるべく体験を通じて得たこと、考えたことを書き留めながら、時々、私の専攻の会計が関わる問題も取り上げたいと思います。どうか、よろしくお願いいたします。

 昨年暮れは(今もですが)ゼミナールの4年生の卒業論文のレビュ-に追われましたが、冬休みに入ったところで、神保町の岩波ホールで上映中の「カティンの森」を観に出かけました。1940年、1万5000人といわれるポーランド将校がソ連軍によってソビエト領のカティンほか3ヶ所に連行され虐殺された事件を伝えた作品です。第2次世界大戦後もソ連がポーランド政府に強い影響力を及ぼしたことから長くタブーにされてきた事件ですが、父をこの事件で亡くした巨匠アンジェイ・ワイダ監督が旧知の作家・脚本家のアンジェイ・ムラルチクに映画用の原作を依頼して、事件後70年近く経った今、ようやく明かされたものです。原作の翻訳本(工藤幸雄・久山宏一訳)が同名のタイトルで集英社文庫として出版されています。それでも、ナチによる虐殺行為に比べ、この事件は日本ではあまり知られていないのではないでしょうか。

 列車を乗り継いでカティンの森に着いたトラックから一人ずつ引き出された将校が、突然視界に飛び込んだ死体の山を目の当たりにして顔面を引きつらせ、祈りをつぶやくのも束の間、背後から頭に銃弾が打ち込まれるラスト・シーンは息をのむ思いでした。これでもか、これでもかと一人ずつ銃殺されるシーンが繰り返された後、ぷつんと画面が消え、スタッフとキャストの名前が流れ出します。その間、館内は静まりかえり、誰も席を立とうとしませんでした。

 この映画は残酷さを売り物にしたわけではありません。生死の極限状態でも人間としての尊厳を貫こうとしたポーランド人の、理性を支えにした強靭な意思を伝えることで、無念の死に追いやられた人々を弔おうとした作品だと感じました。会場出口の受付で買ったガイドブックの中で久山宏一さんが紹介しているワイダ監督の言葉を引用しておきます。

 「芸術――わたしたちが墓参りをするのは、死者たちと対話をするためです。そうしない限り、彼らは立ち去りません。いつまでもわたしたちに不安をかきたてるのです。過去に親しむこと、それ以外に有意義な未来へ至る道はありません。」

 「歴史――歴史認識を持たない社会は、人の集合にすぎません。人の集合はその土地から追い出されるかもしれないし、民族としての存在をやめるかもしれません。今日、歴史の果たす役割は以前よりずっと小さなっています。人間の意識に歴史が占める場所を取り戻すために戦わなくてはならないのです。」

上映は2月上旬まで。詳しくは、岩波ホールのHPで。
http://www.iwanami-hall.com/

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グルジア人の誇りと友愛の精神を描いた放浪の画家、ニコ・ピロスマニ

NHK教育テレビ「新日曜美術館」で
 1月25日にNHK教育テレビの「新日曜美術館」で<絵筆とワイン、そして誇り~グルジアの愛した画家ピロスマニ>が放送された。所用で放送時間帯は不在だったので録画を取り、先日、再生で視聴した。素晴らしい番組だったので翌日もう一度メモをとりながら視聴し、このブログに感想を書くことにした。

 グルジアといえば、昨夏のグルジア紛争が記憶に新しいが、カスピ海と黒海に挟まれた地理的事情もあって、歴史的にはビザンツ帝国、オスマン帝国、ペルシャなどに編入され、1991年にソ連邦から独立したばかりの国である。しかし、前記のとおり、今も南オセチア自治州の分離・独立問題で米露両大国の介入も絡み不安定な内政が続いている。

1杯のワインと引き換えに
 ピロスマニは1862年、グルジアの東部のミルザー二の農家に生まれた。後年の森の中のブドウの大甕やニワトリの親子を題材にした作品などは幼年期の故郷の情景を描いたものといわれている。しかし、両親が相次いで亡くなり、8歳の時、独学で絵を始めた。さらにその後、頼りにしていた姉もなくなり、一人きりの生活が始まった。28歳の時、首都トビリシで鉄道員の職についたが長続きせず、その後は一夜の宿、1杯のワインと引き換えに店の看板や壁に飾る絵を描くその日暮らしの放浪生活を続けた。絵の題材の多くは宴に興じる市井の人々、農場や森で出会う動物などだった。

 そんな中でピロスマニは奇抜な出来事を起こした。グルジアを訪れたフランス人女優マルガリータに一目惚れし、求愛の情にかられて町中の花屋からバラを買い集めて彼女が泊まったホテルの前の広場を埋め尽くした。加藤登紀子が歌ったロシア民謡「百万本のバラ」に登場する「貧しい絵描き」は彼をモデルにしたと言われている。

おごりを拒み、胸を張って生きる人間の魅力
 1913年、51歳の時、ピロスマニはロシアの美術界から注目され、モスクワで開かれた展覧会に出品した。そして、1916年にはグルジア画家協会に迎えられた。しかし、新日曜美術館では触れられなかったが、プリミティズム(原始主義)に分類された彼の作品はその素朴さのゆえに一部の批評家や新聞から「幼稚だ」とか「稚拙だ」などと批判された。これを苦にしてピロスマニは絵を描く意欲を失い、失意と貧困の中で1918年、建物の階段下の小さな一室で衰弱死していたのを発見された。彼の作品が本格的に評価され始めたのは没後であった。今日では彼は、貧しくても売れる画家を目指さず、グルジア人の矜持と友愛の精神を貫いた国民的英雄と称えられ、紙幣にも登場している。

 番組(「新日曜美術館」)では、3人の在日グルジア人が登場し、各々自国民としてピロスマニ像を語った。大阪に在住するチェロ奏者、ギア・ゲオンシバリさんはピロスマニの作品「宴にようこそ」を紹介しながら、初対面の訪問者も長年の友人のように何度も乾杯で歓待するグルジアの慣習を紹介し、ピロスマニのことを「貧しくとも誇りを持って生きたグルジア人」と称賛していた。また、つくば市に在住の遺伝子研究者、アレクサンダー・レシャバさんのご夫人は「自分の感情のままに生きた人。売れる画家を目指さず、人々を慈しむ謙遜を持ち合わせたグルジア人」とピロスマニを評した。そう語るアレクサンダー夫妻の居間には、食事を運ぶ女性の姿を描いたピロスマニの絵が飾られていた。
 最後に、ゲストとしてスタジオに招かれた在日グルジア語教師のメデア・ゴツィリゼ・児玉さんは自分が物心ついた頃には実家にピロスマニの絵が飾られていた。グルジア人にとって彼は空気のような存在、なぜなら、彼の作品のテーマ――葡萄、復活祭、宴はグルジア人にとって身近なものばかりだから、と語ったのが印象的だった。また、メデア・ゴツィリゼ・児玉さんは、個性やオリジナリティを大切にするグルジア人の誇りの高さも語った。家庭では弟が兄のまねをすると、自分の考えで行動するようにと親からきつくたしなめられるという。会話の時、相手と目を合わせて話さないと聞いてもらえない、胸を張って行動するプライドもグルジア人の特徴だという。

 そういえば、ピロスマニが描いた娼婦も宴のワインを運ぶ居酒屋の男性も小熊を連れた親白熊も農夫とともに働く馬も、すべて背筋をのばし、凛とした目つきが印象深い。そこには不遇にもしおれない、自分の尊厳は自分で守るという気概と魅力が漂っている。メデア・ゴツィリゼ・児玉さんとともにゲストとして登場した、絵本作家のはらだたけひでさん(著書に『大きな木の家~わたしのニコ・ピロスマニ』冨山房インターナショナル、2007年、がある)が、ピロスマニの作品に描かれた市井の人々、動物の毅然とした目つきには、人間のおごり、不条理を包むやさしさがあると語ったのも印象的だった。はらださんによると、ピロスマニが画材にした動物がどの面にも光があてられ、白く描かれているのは、自分にとっていとおしいもの、崇高なものという意識があったからだろうという。

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「宴にようこそ!」(1910年代の作)

グルジアとピロスマニのことをもっと知るために
 今まで私にとってグルジアは未知の国であったが、この番組を通して、ピロスマニともども深く知りたい国に変わった。さしあたり、次の催しに出かけたいと思っている。

映画「懺悔」
(1984年/グルジア映画/デンギス・アブラゼ監督/1987年カンヌ国際映画祭審査員特別大賞受賞。岩波ホールで2月中旬まで上映中)
 岩波ホールのホームページに掲載された解説によると、「ペレストロイカ(改革)の象徴となった、ソビエト連邦崩壊前夜の伝説的映画」。「旧ソビエト連邦の厳格な検閲の下、グルジア共和国で製作された本作は、1984年12月に完成した。86年10月、グルジアの首都トビリシでようやく公開された。
 物語はかつて両親を粛清のうえに殺害した(架空の)地方都市の市長の遺体を墓から掘り起こして、独裁政権の罪を告発しようとした一人の女性の不幸と苦悩を時に幻想的に、しかし力強く描いているという。ソビエト連邦の崩壊で終止符を打ったわけでは決してない自由への抑圧にどう向き合うのか――いずれ観た上で感想を書きたいと思う。

企画展「青春のロシア・アヴァンギャルド」
(埼玉県立近代美術館。2009年2月7日~2009年3月22日)
 埼玉県立近代美術館のホームページに掲載されたこの企画の解説によると、20世紀初め、帝政への不満、革命への機運が高まっていた時代にロシアの若い画家たちが西ヨーロッパのマティスやピカソなどの最先端の絵画を学ぶ一方、ロシアに根ざした民衆芸術の素朴さも取り入れた作品を集めたという。ピロスマニの作品がまとまって見られる貴重な機会とも記されている。なお、関連の催し物の一つとして、3月20日(金・祝)、ミュージアム・シアターでピロスマニの生涯をめぐる映像詩「ピロスマニ」(1969年。グルジアのゲオルギー・シェンゲラーヤ監督作)が上映されるという。

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醍醐志万子の短歌(1)

醍醐志万子の略歴
 去る917日、姉・醍醐志万子は肺炎で他界した。享年82歳。志万子は歌人・小島清氏の知遇を得て、1947(昭和22)年から同人誌『六甲』、『短歌山脈』に出詠を始めた。1949(昭和24)年7月には「くさふぢ短歌会」(現「ポトナム」)に入会、1951(昭和26)年には「女人短歌」に入会した。1993(平成5)年にポトナムを退会、翌年、『風景』を創刊し、2005(平成13)年に第115号を以て終刊するまで編集・発行にあたった。その後、親しい4人の歌人とともに『塩』を刊行したが、編集にあたった志万子が体調を崩したことから、20087月に4号で終刊となった。
 この間、志万子は『花文』(1958年)、『木草』(1967年)、『花信』(1977年)、『霜天の星』(1981年)など、9冊の歌集を刊行した。最後の歌集『塩と薔薇』(2007年)は前記4冊の歌集からの自選歌集である。
 不特定の方に公開するブログに、身内の生前の足跡を書き留めるのには躊躇いがあった。しかし、晩年の1年10カ月間ほど、近くで姉に接し、姉が死の間際まで自己抑制を保ちながら、作歌に意欲を持続させる姿を目の当たりにして、いつしか私も姉の歌の世界に引き寄せられていった。そこで、世間でいう忌が明けた今、姉であると同時に、戦中・戦後を生きた一人の女性としての醍醐志万子とその短歌について私なりの感想を書き遺しておきたいと思うようになった。
 もとより、私は短歌の世界の門外漢であるから、姉の短歌に関する以下の文章は歌人の方々からすると、稚拙な感想にすぎないことを初めにお断りしておく。

若き日の姉
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最晩年の個人誌「暦」

 自他に厳しい気質を通してきた姉であったが、今年の春、体調の不良を訴え、2週間の入院後、ショートステイへ転所した。一時は食欲も回復し、気持ちの張りを取り戻したが、気力・体力の衰えは否めず、ふさぎこむ日が続いた。そんな中、7月下旬にショ-トステイを訪ねると、枕元に置かれたティシュペーパーの箱や食事の献立カードの余白に、なにやら書きこまれているのが目にとまった。よく見ると、往年、書道教室を開いていた姉の字体からは想像もできないような弱々しいメモ風の短歌だった。思わず、「それなら、今度は個人誌を出し、それに載せれば」と言葉をかけた。「近況報告に代えて、親しい人に送るといいと思うよ。原稿をもらったら編集・入力や印刷はやるから」。
 すると、考え込んで10分もしないうちに、「題は『暦』にする」と言い出した。この前訪ねた時の様子からは想像もできない反応に正直、驚いたが、「それじゃ、1人で出すんだから、だいぶ原稿が要るよ。しっかり用意してね」と言い残して施設を後にした。
 翌々日、連れ合いが施設に出かけたが、夜、帰宅した私に向って、「こんな原稿を預かってきたよ。どうしたの」と話しかけてきた。題まで付けたものの、その頃の姉の様子から言って、本当に原稿が出来上がるのか半信半疑だったので、連れ合いには何も話していなかったのだ。手渡された原稿を見ると、「醍醐志万子 個人誌『暦』 原稿」という表紙付きで、短歌数首とあとがき用の短い文章が書きこまれていた。言い出したら、すぐに取りかからないと気が済まない姉の気性は変わらないなと感じさせられた。
 姉の素早い反応に背中を押される思いで編集と入力にとりかかった。「個人誌」といっても手作りの4ページ建て(B4サイズ両面印刷)のワープロ文書である。用紙は厚口の若草色にした。第1号は8月半ばに完成し、下の姉の助言に従って、とりあえず、『塩』に参加された4人を含む10名足らずの方々に送った(姉自身はもっと多くの人に送って欲しげだったが)。ポトナム時代以来、厚誼をいただいてきたEさんから早々にいただいたE・メールをプリントして持参すると、無言で読み返していた。
 その後、姉からどんどん原稿を手渡され、第3号分まで溜まった。結局、2号、3号は姉の死後となったが11月の忌明けに合わせて完成させ、お供えをいただいた方々への返礼に添えて送った。以下は、その全文である。
 
 「暦」第1
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/reki_No1.pdf
 「暦」第2
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/reki_No2.pdf
 「暦」第3
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/reki_No3.pdf


 以下、上の「暦」に収録した晩年の作品を含め、醍醐志万子の短歌の中から、私なりの興味に沿って作品を選び、感想を記していくことにしたい。

食卓の歌
林芙美子死にたる朝もさくさくと生の胡瓜を食めば香に立つ
                       (『花文』所収)
それほどの食の好みの変わるなし煮物のありて今日の食卓
      (西紀短歌会『短歌作品集』第37編、2007年度、所収)
白菜をちぎりて鍋に入れてゆく白菜の香はわが生を呼ぶ
                     (『暦』第1号、所収)

 母の介護を終えてからは個食が多かったせいか、姉は食事が不規則になったが、もともとは料理が好きで上手だった。帰省すると、幼年時代から慣れ親しんだ手料理を用意してくれた。物資不足の時代を体験し、食欲も細かったこともあってか、姉が用意した食卓は質素な方だったが、あり合わせの食材で食欲をそそる盛り付けの料理を用意する手際のよさは見事だった。
 1首目で、「林芙美子の死」というニュースが伝わる朝も、「生の胡瓜を食う」という、いつもと変わらない食卓風景を「さくさくと」という切れのよい句でつないでいるところが感情移入を好まなかった姉らしい。

犬の歌
わが膝にかけたる犬の手の重さいずくよりきしものと驚く
                       (『花文』所収)
いきもののわが犬われを信じゐてねむるかたちの夕闇に見ゆ
                       (『花信』所収)
一匹が死に黒き犬ウメ太り来ぬ桜散るころ
                          (未発表)

 私の実家は家族みんなが無類の犬好きで、何代も犬を飼った。私が幼稚園に通っていた頃、わが家の飼い犬を「捕獲」して連れて行こうとした野犬狩りの保健所職員に立ちはだかって、「これは飼い犬です、野犬ではありません」と必死に食い下がった姉の光景を今でもはっきりと記憶している。母が他界してからは実家では姉の一人暮らしになったが、最後に飼った「チョコ」という犬(後掲の写真の犬)は、姉によると、朝、2階から姉が下りてくるのを待ちかねたように、よろよろと姉に倒れかかり、そのまま息を引き取った。2首目にあるような飼い主に信頼を寄せる飼い犬のもの言わないいちずな仕草は、人間同士の関係よりも濃いのではと感じさせられることがある。

 3首目はわが家の姉妹犬を歌ったものである。先だったのは姉犬チビで、1匹になった妹犬ウメは姉犬への遠慮がなくなったせいか、以前よりものびのびとふるまうようになり、ご近所からは「太りましたね」とよく言われる。散歩の途中で時々姉のマンションに寄ったが、前足を挙げて人懐っこく向き合う人によりかかるので、そうでなくてもやせた姉がよろけて転倒しなかいか、はらはらしたものだった。

実家で飼った最後の犬「チョコ」

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<ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展>へ出かける

現地で観たはずの作品だが
 82日の午前中、乃木坂近くにある国立新美術館で開催されている<ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展>に出かけた。ルーベンス、ヤン・ブリューゲル、ベラスケスら17世紀のオランダを舞台に描かれた宗教画、狩猟・果実などの静物、肖像、風俗画、寓意画などが4つの章立てで展示されていた。これらを所蔵するウィーン美術史美術館は2度訪れ、2階のカフェ(かつてはハプスブルグ家の御用達のケーキ店だったそうだ)での軽食を挟んで回ったものだ。そのときは十分な予備知識もないまま、旅ごころで入館したのだが、今回は作品も絞られ、ゆっくり鑑賞できた。

お見合い写真代わりの王女の肖像
 今回の展示でなにかと話題を集めているのは、ディエゴ・ベラスケス作<薔薇色の衣装のマルガリータ王女>(165354年頃)だ。

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 知る人ぞ知る作品であるが、1651年にスペインのハプスグルグ家の国王フエリペ4世と2度目の妻マリアーナの間に生まれた王女マルガリータは、幼少の時すでにウィーンのハプスグルグ家に嫁ぐことが決められていた。究極の政略結婚である。上の作品は将来お后となる王女のお見合い写真代わりにウィーンのハプスグルグ家に送られたことから、ウィーン美術史美術館に所蔵されることになったのである。なお、ベラスケスは1623年、国王フエリペ4世の寵愛を得て宮廷画家となり、この作品を含め、彼が描いたマルガリータ王女の幼少期の肖像画3点がウィーン美術史美術館に所蔵されている。高貴なふくよかさの中に、あどけなさが見事に描かれている。しかし、ベラスケスは王女が嫁ぐのを見届けることなく、王女が9歳の時に亡くなった。

 そのマルガリータ王女は14歳の時、神聖ローマ皇帝レオポルド一世に嫁ぎ、音楽や芸術を楽しんで幸せな宮廷生活を送ったといわれるが、難産のために22歳で他界した。ラベル作「亡き王女へのパヴァーヌ」はマルガリータ王女を指すのではないかという説があるが、たしかなことはわからないようだ。

贅沢への逆説としての風俗画
 マルガリータ王女の華麗な肖像画もさることながら、私が目を止めたのは第4章に収められた風俗画の数点だった。たとえば、62番のヤン・ステーン作<逆さまの世界>は男主人が女の膝に足を投げ出し、<贅沢に注意>という張り紙にもかかわらず、床には飲食物が散らかり、子供はたばこを吸っている様を風刺的に描いている。また、66番のマルティン・ディヒトル(ドイツの画家)作<台所道具を磨く女>には、「オランダの画家たちのような華麗な静物を描くのではなく、日常的な事物を抑制された表現で描写。この世の贅沢への戒め、名声のはかなさを表現した」という解説文が付けられていた。 

 昨年1127日、同じ国立新美術館で開かれていたフェルメール展に出かけ、その時の感想をこのブログに書きとめた。その時、展示されたのは19世紀のオランダの風俗画だったが、ヨーゼフ・イスラエルスの<小さなお針子>、ニコラース・ファン・デル・ヴァ-イの<アムステルダムの孤児院の少女>、ヤン・エーケルス2世<ペンを削る男>などの作品に魅かれた。台所で働く使用人を主役に据えた作品がこれほど多く描かれたということは、華やかな中産階級の生活の陰にうずもれがちな働く女性の存在に深い関心を注ぐまなざしがあったからに違いない。このような傾向が17世紀のオランダやドイツの画家たちの間に確かな形で息づいていたことを発見できたのが、今回の展覧会鑑賞で得た収穫だった。

 展覧会は915日まで。会場の国立新美術館へは東京メトロ千代田線、乃木坂駅を下車すると入口へすぐたどりつける。

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フェルメール展に出かける

 「レトリック会計学を超えて――M&Aの会計を題材にして――」
 日本大学経済学部でゲスト・スピーチ

 さる22日、日本大学経済学部の今福愛志氏のお招きで、同学部の会計学関係の院生、学生ほかの皆さん相手に表題のような話をさせてもらった。スピーチ用に用意したレジュメを掲載しておきたい。

「レトリック会計学を超えて――M&Aの会計を題材にして――」
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/retorikku_kaikeigaku_wo_koete.pdf

 私が「レトリック会計学」と呼ぶのは、

1.論証すべきことを前提に滑り込ませて、特定の結論を、それとは意識させず誘導する議論、
2.論証すべき難問を、用語の置き換えで論証・説明できたかのような錯覚をふりまく議論、
3.論証の過程に非学問的な感性に訴える用語を挿入することによって、論証の飛躍を取り繕おうとする議論

を指す。

 オランダ風俗画展で考えたこと

 ところで、日大でのスピーチは午後3時からだったので、前日、急に思い立ってその前の時間を利用して連れ合いと乃木坂にある国立新美術館で開かれている「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」に出かけることにした。本展はアムステルダム国立美術館に所蔵されるオランダ美術コレクションの中から選ばれた、女性のイメージを描いた油彩画40点、素描・水彩画9点、版画51点で構成されている。館内はオランダの風俗画を17世紀から19世紀後半までに時代区分して配列されていた。

 展示された作品の大半は台所や炉辺で調理や裁縫にいそしむ女性(使用人)の姿を写実したものだった。平日とはいいながら、相当な人出で館内はあちこちで人の流れが滞っていた。

 海外に出かけた時は滞在先の美術館やコンサートによく出かけるが、美術館に展示された作品のほとんどは聖書や古典を題材にした宗教画である。その生活感の希薄さに私はなかなかなじめないのが常である。絵画の世界では、風景・風俗画を、眼に見える世界を単に模倣したものに過ぎず、独創性も高尚な理想・思想もない一段劣った作品とみなす伝統が根付いているらしい。

 そういえば、パリのマルモッタン美術館へ出かけて、印象派の巨匠とされるクロード・モネの「印象・日の出」に出会ったとき、ある評者がこの作品を「単に印象を描きだしただけの作品にすぎない」と酷評したのが「印象派」という名称の始まりだと知った。

 しかし、もともと写実的作品に親近感を感じる私には、ヨハネス・フェルメール<牛乳を注ぐ女>とともに、ヨーゼフ・イスラエルスの<小さなお針子>、ニコラース・ファン・デル・ヴァ-イの<アムステルダムの孤児院の少女>、ヤン・エーケルス2世<ペンを削る男>などの作品に魅かれた。

 どこにでも見られる台所で働く女性の姿にドラマ性は全くない。そこから伝わってくるのは、≪静寂≫、≪ひたむきさ≫だけである。ちなみに、出口近くの売店で買い求めた展覧会解説書によると、<小さなお針子>を描いたヨーゼフ・イスラエルスについて、次のように記されていた。

 「ヨーゼフ・イスラエルスは下層階級の日常生活を描いた最初の19世紀オランダ画家の一人であった。とはいえ、彼の絵画は、何らかの社会批判を含むものではなく、むしろ貧困を空想的に美化する傾きがあったことを付け加えておかねばならない。この傾向は、当時の中産階級の都市的な環境からは消えつつあった古い儀式や習慣に対する懐古的な願望から生じてきたものである。」

 しかし、そうだとしても、台所で働く使用人を、脇役としてではなく、正面に据えた作品がこれほど多く描かれたということは、華やかな中産階級の生活の陰にうずもれてしまいがちなこうした女性の存在に深い関心を注ぐまなざしがあったからに違いない。展覧会は12月17日まで。

 出口で連れ合いと交互にポスターを背に写真を撮った後、近くにいた係員に教えてもらった近道を抜けてメトロの乃木坂駅へ向かった。

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茨木のり子さんの詩との出会い

訃報
 一昨夜、パソコンに向かった仕事の小休止のときにWEBニュースを開くと、茨木のり子さんの訃報が流れていた。西東京市の自宅の寝室でなくなっておられるのを訪れた親戚が見つけたとのこと。その後のニュースによると、6年前に心臓の大動脈破裂に見舞われ、一命をとりとめたものの、一人暮らしで療養中だったそうだ。

童話屋で
 私と茨木さんの詩との出会いは、1995年1月15日の『朝日新聞』の書評欄で、茨木さんの詩集『一本の茎の上に』を河合史夫さんが取り上げていたのを見たときだった。その中で、引用されていた「自分の感受性くらい」にしばし釘付けにされ、これはただの詩人ではないと直感した。すぐに、河合さん宛に、この詩が収められている書名を尋ねるハガキを出した。すると、数日後に、童話屋から出版された『おんなのことば』という詞華集に入っているという返事をもらった。さっそく童話屋へ電話をして渋谷駅からの道順を教えてもらい、駒場で講義をすませた帰り道、立ち寄った。
 想像に反して、『おんなのことば』はポケットに入るほどの小さな詩集で、ピンク色の装丁はちょっと気恥ずかしいくらいだった。ちなみに、昨日、童話屋の場所を思い出したくて電話をすると、渋谷の書店は1997年に閉めて、今は杉並区で出版業に専念しているとのことだった。

講義アンケート
 以来、私は、『自分の感受性くらい』(花神社、1977年)、『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫、1994年)、『一本の茎の上に』(筑摩書房、1994年)、『茨木のり子詩集』(思潮社、1969年)、『倚りかからず』筑摩書房、1999年)などを読んだ。まだ、自前の教科書を持っていなかった頃、気の向くままに読んだ文学作品の中で印象に残った一節を余白に書き込んだ講義用資料を駒場の教室でよく配ったものだった。そのときに書き込んだ作品といえば、森鴎外、芥川龍之介、坂口安吾、高見順などだったが、茨木さんの作品からも「自分の感受性くらい」など数編を選んだ。
 隔年担当の講義の最終回には受講生に講義アンケートをしたが、配った用紙の末尾の感想・意見欄には、講義についての感想のほかに、余白に書き付けた一こまの作品についての感想を記した受講生が十数名いた。その中には、「これが会計学とどう関係あるのですか」といった詰問調の意見や、「なんでそんなに暗い詩歌ばかり集めるのか。もっと明るくできないのか」といった拒否反応も見受けられた。しかし、こうした反応はある程度は予想したことだった。それよりも意外だったのは、「せっかく、いい作品を紹介したのだから、講義の中で触れてもよかったのに」、「毎回、若々しい詩歌を楽しませてもらった」といった感想がかなりあったことだ。目にとめてくれればいい、というぐらいのつもりで余技のように試みたことに、思いのほか反応があったことに報われた気がした。

教科書のエピローグに
 その後、講義資料に加筆して、自前の教科書『会計学講義』を東大出版会から出したとき、上記の余白で紹介した作品を各章のエピローグとして再録することにした。茨木さんの作品からは、上記の「自分の感受性くらい」とともに、『茨木のり子詩集』に収められた次の詩を採録した。

   世界に別れを告げる日に/ひとは一生をふりかえって
   じぶんが本当に生きた日が/あまりにすくなかったことに
   驚くだろう
   指折り数えるほどしかない/その日々の中の一つには
   恋人との最初の一瞥の/するどい閃光などもまじっているだろう

 『会計学講義』の初版を出版したのは1999年だったが、その後、第2版を出版するとき、東大出版会の編集担当のIさんに向かって、エピローグに採録したい作品のことをあれこれ話しかけると、「先生、そんなことは後でいいですから、早く本文の原稿を出してくださいよ」と言い返されたのが懐かしい。
 それはともかく、2001年に第2版を出すとき、エピローグに採録する茨木さんの作品のひとつを、『倚りかからず』に収められた次の詩に入れ替えた。

   もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの権威には倚りかかりたくない
   ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい

無頼派詩人 
もうひとつ、私にとっての茨木さんを記しておきたい。東大出版会は毎年、PR誌『UP』の4月号に「東大教師が新入生にすすめる本」という特集を掲載しているが、2000年のこの特集に私も執筆することになった。といっても、専攻の会計学関連の書物は全く取り上げず、経済学の書物2点のほかは、無頼派を共通項にした3冊ーー坂口安吾『教祖の文学/不良少年とキリスト』(講談社文芸文庫)、窪島誠一郎『無言館ー戦没画学生「祈りの絵」』(講談社)と茨木のり子『倚りかからず』ーーを選んだ。そして、茨木さんのこの詩集の中から、次の作品を引用したあと、門外漢も顧みず、このような詩を書きつけた茨木のり子は稀有な女性「無頼派」詩人であると記した。

   なぜ国歌など/・・・・・・口を拭って起立して
   直立不動でうたわなければならないか
   きかなければならないか
   私は立たない 座っています

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日本の民主主義を安楽死させないために(2)

■大逆事件後の文学の三角形■

大逆事件が明治末から大正期にかけての多くの文学者の作風に地下水脈のように影響を及ぼしたことは森山重雄『大逆事件―文学作家論』(三一書房、1980年)などで詳しく解明されている。永井荷風はその一人で、「花火」の次の1節は有名である。

「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折折市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。
 以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに姐くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知つた事ではない--否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立つたのである。

文中の「囚人馬車」とは、大逆罪で捕まった幸徳秋水ら7人を乗せた馬車のことである。荷風は黙って馬車を見送った自分に「嫌な心地がし」、そうした文学者たる自分に「甚だしき羞恥を感じた」という。そして、それ以来、自分の作品を江戸の偽作者の程度にまで下げる自虐的な作風に変わったという。

後年、平野謙は『石川啄木全集 第8巻』(筑摩書房、1978年)に寄せた一文のなかで、次のように記している。

 「いやしくも明治末年の文学者だったら、大逆事件に『稲光をあびたような』衝撃を受けなかったものはそんなにあるまい、と私は推定したいのである。・・・・・〔しかし〕、なんらかのかたちで制作にまで大逆事件の衝撃を造形化した人の方が異例だったにちがいない。・・・・・当時私の思いあたる範囲では、森鴎外と永井荷風と石川啄木とにもっとも精確な文学的反映を眺め得ると思えた。・・・・・『沈黙の塔』『食堂』を書き、『かのやうに』一運の五条秀麿ものを書き、『大塩平八郎』を書かねばならなかった森鴎外。『散柳窓夕栄』を書き、後年『花火』を書いた永井荷風。『時代閉塞の現状』を書き、『墓碑銘』を書き、『はてしなき議論の後』を書いた石川啄木。この三人はそれぞれ支配者の立場、知識人の立場、人民の立場から大逆事件とまともに組み、その資質・教養・社会的環境に応じて文学的に造形している。大逆事件をめぐる文学上の三角形として、それは今日もなお教訓的である。」

もっとも、このうち、前出の永井荷風については、「これ〔大逆事件〕を機会に、文学の大道を棄てて、江戸の戯作者見たいな態度で、世を茶化して過さうと、自卑的決心をした事が、意味あり気に伝へられてゐるが、私にはかういふ話は、お笑ひ草見たいに思はれる」(正宗白鳥)と突き放した批評をする同業者もある。これも故なき批評ではない。しかし、大逆事件について「わたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」というのは虚飾どころか、荷風の正直な心境の告白であったことは間違いない。それどころか、そうした心境を衆目に触れる作品に外形化したところに荷風の面目があったように思える。

さらにいえば、荷風をして自分の無為に羞恥心を感じさせた背景には、大逆事件を思想問題と捉え、それにコミットすることを自分たちの本分とわきまえていた明治の文学者の気骨があったのである。これが、

「このごろ明治の文学者にますます心をひかれる。作品にといより、文学者そのものに。その生き方に。文学に対する態度に。人生と文学に対する誠実に。」(『続高見順日記』第6巻、勁草書房、1965523日より)

という高見順の言葉に共感を覚えるゆえんである。

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