2007年11月27日 (火)

フェルメール展に出かける

 「レトリック会計学を超えて――M&Aの会計を題材にして――」
 日本大学経済学部でゲスト・スピーチ

 さる22日、日本大学経済学部の今福愛志氏のお招きで、同学部の会計学関係の院生、学生ほかの皆さん相手に表題のような話をさせてもらった。スピーチ用に用意したレジュメを掲載しておきたい。

「レトリック会計学を超えて――M&Aの会計を題材にして――」
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/retorikku_kaikeigaku_wo_koete.pdf

 私が「レトリック会計学」と呼ぶのは、

1.論証すべきことを前提に滑り込ませて、特定の結論を、それとは意識させず誘導する議論、
2.論証すべき難問を、用語の置き換えで論証・説明できたかのような錯覚をふりまく議論、
3.論証の過程に非学問的な感性に訴える用語を挿入することによって、論証の飛躍を取り繕おうとする議論

を指す。

 オランダ風俗画展で考えたこと

 ところで、日大でのスピーチは午後3時からだったので、前日、急に思い立ってその前の時間を利用して連れ合いと乃木坂にある国立新美術館で開かれている「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」に出かけることにした。本展はアムステルダム国立美術館に所蔵されるオランダ美術コレクションの中から選ばれた、女性のイメージを描いた油彩画40点、素描・水彩画9点、版画51点で構成されている。館内はオランダの風俗画を17世紀から19世紀後半までに時代区分して配列されていた。

 展示された作品の大半は台所や炉辺で調理や裁縫にいそしむ女性(使用人)の姿を写実したものだった。平日とはいいながら、相当な人出で館内はあちこちで人の流れが滞っていた。

 海外に出かけた時は滞在先の美術館やコンサートによく出かけるが、美術館に展示された作品のほとんどは聖書や古典を題材にした宗教画である。その生活感の希薄さに私はなかなかなじめないのが常である。絵画の世界では、風景・風俗画を、眼に見える世界を単に模倣したものに過ぎず、独創性も高尚な理想・思想もない一段劣った作品とみなす伝統が根付いているらしい。

 そういえば、パリのマルモッタン美術館へ出かけて、印象派の巨匠とされるクロード・モネの「印象・日の出」に出会ったとき、ある評者がこの作品を「単に印象を描きだしただけの作品にすぎない」と酷評したのが「印象派」という名称の始まりだと知った。

 しかし、もともと写実的作品に親近感を感じる私には、ヨハネス・フェルメール<牛乳を注ぐ女>とともに、ヨーゼフ・イスラエルスの<小さなお針子>、ニコラース・ファン・デル・ヴァ-イの<アムステルダムの孤児院の少女>、ヤン・エーケルス2世<ペンを削る男>などの作品に魅かれた。

 どこにでも見られる台所で働く女性の姿にドラマ性は全くない。そこから伝わってくるのは、≪静寂≫、≪ひたむきさ≫だけである。ちなみに、出口近くの売店で買い求めた展覧会解説書によると、<小さなお針子>を描いたヨーゼフ・イスラエルスについて、次のように記されていた。

 「ヨーゼフ・イスラエルスは下層階級の日常生活を描いた最初の19世紀オランダ画家の一人であった。とはいえ、彼の絵画は、何らかの社会批判を含むものではなく、むしろ貧困を空想的に美化する傾きがあったことを付け加えておかねばならない。この傾向は、当時の中産階級の都市的な環境からは消えつつあった古い儀式や習慣に対する懐古的な願望から生じてきたものである。」

 しかし、そうだとしても、台所で働く使用人を、脇役としてではなく、正面に据えた作品がこれほど多く描かれたということは、華やかな中産階級の生活の陰にうずもれてしまいがちなこうした女性の存在に深い関心を注ぐまなざしがあったからに違いない。展覧会は12月17日まで。

 出口で連れ合いと交互にポスターを背に写真を撮った後、近くにいた係員に教えてもらった近道を抜けてメトロの乃木坂駅へ向かった。

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2006年2月21日 (火)

茨木のり子さんの詩との出会い

訃報
 一昨夜、パソコンに向かった仕事の小休止のときにWEBニュースを開くと、茨木のり子さんの訃報が流れていた。西東京市の自宅の寝室でなくなっておられるのを訪れた親戚が見つけたとのこと。その後のニュースによると、6年前に心臓の大動脈破裂に見舞われ、一命をとりとめたものの、一人暮らしで療養中だったそうだ。

童話屋で
 私と茨木さんの詩との出会いは、1995年1月15日の『朝日新聞』の書評欄で、茨木さんの詩集『一本の茎の上に』を河合史夫さんが取り上げていたのを見たときだった。その中で、引用されていた「自分の感受性くらい」にしばし釘付けにされ、これはただの詩人ではないと直感した。すぐに、河合さん宛に、この詩が収められている書名を尋ねるハガキを出した。すると、数日後に、童話屋から出版された『おんなのことば』という詞華集に入っているという返事をもらった。さっそく童話屋へ電話をして渋谷駅からの道順を教えてもらい、駒場で講義をすませた帰り道、立ち寄った。
 想像に反して、『おんなのことば』はポケットに入るほどの小さな詩集で、ピンク色の装丁はちょっと気恥ずかしいくらいだった。ちなみに、昨日、童話屋の場所を思い出したくて電話をすると、渋谷の書店は1997年に閉めて、今は杉並区で出版業に専念しているとのことだった。

講義アンケート
 以来、私は、『自分の感受性くらい』(花神社、1977年)、『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫、1994年)、『一本の茎の上に』(筑摩書房、1994年)、『茨木のり子詩集』(思潮社、1969年)、『倚りかからず』筑摩書房、1999年)などを読んだ。まだ、自前の教科書を持っていなかった頃、気の向くままに読んだ文学作品の中で印象に残った一節を余白に書き込んだ講義用資料を駒場の教室でよく配ったものだった。そのときに書き込んだ作品といえば、森鴎外、芥川龍之介、坂口安吾、高見順などだったが、茨木さんの作品からも「自分の感受性くらい」など数編を選んだ。
 隔年担当の講義の最終回には受講生に講義アンケートをしたが、配った用紙の末尾の感想・意見欄には、講義についての感想のほかに、余白に書き付けた一こまの作品についての感想を記した受講生が十数名いた。その中には、「これが会計学とどう関係あるのですか」といった詰問調の意見や、「なんでそんなに暗い詩歌ばかり集めるのか。もっと明るくできないのか」といった拒否反応も見受けられた。しかし、こうした反応はある程度は予想したことだった。それよりも意外だったのは、「せっかく、いい作品を紹介したのだから、講義の中で触れてもよかったのに」、「毎回、若々しい詩歌を楽しませてもらった」といった感想がかなりあったことだ。目にとめてくれればいい、というぐらいのつもりで余技のように試みたことに、思いのほか反応があったことに報われた気がした。

教科書のエピローグに
 その後、講義資料に加筆して、自前の教科書『会計学講義』を東大出版会から出したとき、上記の余白で紹介した作品を各章のエピローグとして再録することにした。茨木さんの作品からは、上記の「自分の感受性くらい」とともに、『茨木のり子詩集』に収められた次の詩を採録した。

   世界に別れを告げる日に/ひとは一生をふりかえって
   じぶんが本当に生きた日が/あまりにすくなかったことに
   驚くだろう
   指折り数えるほどしかない/その日々の中の一つには
   恋人との最初の一瞥の/するどい閃光などもまじっているだろう

 『会計学講義』の初版を出版したのは1999年だったが、その後、第2版を出版するとき、東大出版会の編集担当のIさんに向かって、エピローグに採録したい作品のことをあれこれ話しかけると、「先生、そんなことは後でいいですから、早く本文の原稿を出してくださいよ」と言い返されたのが懐かしい。
 それはともかく、2001年に第2版を出すとき、エピローグに採録する茨木さんの作品のひとつを、『倚りかからず』に収められた次の詩に入れ替えた。

   もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの権威には倚りかかりたくない
   ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい

無頼派詩人 
もうひとつ、私にとっての茨木さんを記しておきたい。東大出版会は毎年、PR誌『UP』の4月号に「東大教師が新入生にすすめる本」という特集を掲載しているが、2000年のこの特集に私も執筆することになった。といっても、専攻の会計学関連の書物は全く取り上げず、経済学の書物2点のほかは、無頼派を共通項にした3冊ーー坂口安吾『教祖の文学/不良少年とキリスト』(講談社文芸文庫)、窪島誠一郎『無言館ー戦没画学生「祈りの絵」』(講談社)と茨木のり子『倚りかからず』ーーを選んだ。そして、茨木さんのこの詩集の中から、次の作品を引用したあと、門外漢も顧みず、このような詩を書きつけた茨木のり子は稀有な女性「無頼派」詩人であると記した。

   なぜ国歌など/・・・・・・口を拭って起立して
   直立不動でうたわなければならないか
   きかなければならないか
   私は立たない 座っています

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2006年2月17日 (金)

日本の民主主義を安楽死させないために(2)

■大逆事件後の文学の三角形■

大逆事件が明治末から大正期にかけての多くの文学者の作風に地下水脈のように影響を及ぼしたことは森山重雄『大逆事件―文学作家論』(三一書房、1980年)などで詳しく解明されている。永井荷風はその一人で、「花火」の次の1節は有名である。

「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折折市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。
 以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに姐くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与り知つた事ではない--否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立つたのである。

文中の「囚人馬車」とは、大逆罪で捕まった幸徳秋水ら7人を乗せた馬車のことである。荷風は黙って馬車を見送った自分に「嫌な心地がし」、そうした文学者たる自分に「甚だしき羞恥を感じた」という。そして、それ以来、自分の作品を江戸の偽作者の程度にまで下げる自虐的な作風に変わったという。

後年、平野謙は『石川啄木全集 第8巻』(筑摩書房、1978年)に寄せた一文のなかで、次のように記している。

 「いやしくも明治末年の文学者だったら、大逆事件に『稲光をあびたような』衝撃を受けなかったものはそんなにあるまい、と私は推定したいのである。・・・・・〔しかし〕、なんらかのかたちで制作にまで大逆事件の衝撃を造形化した人の方が異例だったにちがいない。・・・・・当時私の思いあたる範囲では、森鴎外と永井荷風と石川啄木とにもっとも精確な文学的反映を眺め得ると思えた。・・・・・『沈黙の塔』『食堂』を書き、『かのやうに』一運の五条秀麿ものを書き、『大塩平八郎』を書かねばならなかった森鴎外。『散柳窓夕栄』を書き、後年『花火』を書いた永井荷風。『時代閉塞の現状』を書き、『墓碑銘』を書き、『はてしなき議論の後』を書いた石川啄木。この三人はそれぞれ支配者の立場、知識人の立場、人民の立場から大逆事件とまともに組み、その資質・教養・社会的環境に応じて文学的に造形している。大逆事件をめぐる文学上の三角形として、それは今日もなお教訓的である。」

もっとも、このうち、前出の永井荷風については、「これ〔大逆事件〕を機会に、文学の大道を棄てて、江戸の戯作者見たいな態度で、世を茶化して過さうと、自卑的決心をした事が、意味あり気に伝へられてゐるが、私にはかういふ話は、お笑ひ草見たいに思はれる」(正宗白鳥)と突き放した批評をする同業者もある。これも故なき批評ではない。しかし、大逆事件について「わたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」というのは虚飾どころか、荷風の正直な心境の告白であったことは間違いない。それどころか、そうした心境を衆目に触れる作品に外形化したところに荷風の面目があったように思える。

さらにいえば、荷風をして自分の無為に羞恥心を感じさせた背景には、大逆事件を思想問題と捉え、それにコミットすることを自分たちの本分とわきまえていた明治の文学者の気骨があったのである。これが、

「このごろ明治の文学者にますます心をひかれる。作品にといより、文学者そのものに。その生き方に。文学に対する態度に。人生と文学に対する誠実に。」(『続高見順日記』第6巻、勁草書房、1965523日より)

という高見順の言葉に共感を覚えるゆえんである。

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