中里介山の故郷、羽村を訪ねて

 仕事の合間をぬって書きかけ、資料探しに凝って未完成の記事をいくつか抱えている。気分転換のつもりで先日、連れ合いと出かけた羽村の中里介山の史跡のことを先に書くことにした。

 東西線で中野まで乗り、JR中央線に乗り替えて立川へ、そこからさらに青梅線に乗って約20分で羽村市に着いた。最初に出かけることにした羽村市郷土博物館は徒歩20分、場所も地図ではわかりにくそうだったのでタクシーにした。しかし、行き地を告げても運転手はよく理解できないようで、連れ合いが介山のことを話しかけたが、名前さえ知らなかった。だいぶ迷った末、11時過ぎに博物館に着いた。受付で帰りに乗る予定のコミュニティ・バス(はむらん)の発車時刻を確かめてから、玉川の郷土資料展示室もそこそこに「中里介山の世界」という札が付けられた部屋に入った。まず、介山の生い立ちをまとめた15分ほどのビデオを見た。展示室は10畳1部屋のこじんまりしたスペースだったが、前もって調べていたとはいえ、電話交換手や代用教員時代の集合写真、代表作『大菩薩峠』に関する同時代人の批評などを直に見ると、やはり、彼の故郷へ出かけた甲斐はあったと思う。

 年譜によると、介山は1885(明治18)年44日、神奈川県西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)の玉川上水の取水堰近くの水車小屋で生まれた。本名・弥之助。貧しい家庭を支えるため、13歳の時、西多摩小学校高等科を卒業と同時に、日本橋浪花町の電話交換局で交換見習いとして勤務し始めた。しかし、15歳の時(1900年)、そこを依願退職して、母校の小学校の代用教員となっている。

 その間、12歳の時(1897年)に介山の「さても憂たての世の中や」という一文が愛読雑誌『少国民』に掲載された。18歳の時(1903年)、幸徳秋水ら社会主義者と接触し、『平民新聞』の懸賞小説に応募した「何の罪」が佳作入選した。そして、翌19歳の時、『平民新聞』に発表した「乱調激
韵」に次のような一節がある。ちなみに、この詩の冒頭2行は自著『会計学講義』(東京大学出版会)の第9章のプロローグに掲載したものである。

  我を送る郷関の人、願ば、暫し其『万歳』の声を止よ。
  静けき山、清き河。其の異様なる叫びに汚れん。
  万歳の名に依りて、死出の人を送る。我豈憤らんや、
 
**************
   
敵、味方、彼も人なり、我も人也。

   
人、人を殺さしむるの権威ありや。
   
人、人を殺すべきの義務ありや。
   
あー言ふこと勿れ。
   
国の為なり、君の為なり。


 介山は故郷で村人が出征兵士を送る光景が脳裡に染みついたらしく、1938(昭和13)年に発表した自伝小説『百姓弥之助の話』にはその光景がしばしば登場する。「乱調激
韵」に収められた上の詩は日露戦争当時のことと思われるが、『百姓弥之助の話』には次のような一節がある。

  「今出征兵を送る一行を見て、弥之助は四十何年も昔の葬式の事が何となしに思い出されて来た。あれとこれとは決して性質を同じゅうするものではないが、ただ、聯想だけがそこへ連なって来た、勇ましい軍歌の声が停車場に近い桑畑の中から聞えて来る。・・・ それを聞くと、昔のなあーんまいだんぶつ――が流れ込んで、高く登る幾流の旗を見やると、「生き葬い!」 斯(こ)ういう気持ちが犇々(ひしひし)として魂を吹いて来た。」

 
誰もが心底では感じながら口に出さなかったこと・・・・・そうした戦争への嫌悪感が『百姓弥之助の話』の各所にちりばめられている。こうした直載な物言いこそ、介山の真骨頂である。また、こうした反骨精神が、1942(昭和17)年、日本文学報国会の結成にあたって、小説部会の評議員への推薦を辞退した彼の気骨につながったといってよい。
 展示室を出て、隣の敷地にある旧下田家屋敷に上がり、庵を囲んでガイド役のシルバー・グループのボランティアの説明を聞いた。

 その後、郷土資料館に戻り、ちょうど企画展として飾られていた「羽村のひな祭り展」を見て写真に収めた後(1250分ごろ)、寒気がきびしい館の外へ出て、すぐそばにあるコミュニティ・バスのバス停で待った。帰りはこのバスに乗って10分ほどの寺坂にある禅林寺近くの停留所で下車、道に迷ったすえ、寺の裏手の墓地の一角にある中里介山居士の墓に辿りついた。墓はそれなりの広さだったが、質素なところがよかった。隣には中里家の先祖一人一人の名簿を彫った大きな墓石があり、墓誌には「弥之助 五十九歳」と刻まれていた。墓参の記しにと桶で持ってきた水を供え、帰路についた。玉川上水の桜が美しい季節にまた来ようと連れ合いに話しかけながら、中野行きの電車に乗ったのである。

上から
羽村郷土博物館で
介山の墓所で

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通勤は自転車に乗って~コペンハーゲンで見た朝の光景~

通勤自転車の長蛇の列
 むかし、「お使いは自転車に乗って」という歌があった。
 http://www.youtube.com/watch?v=-iuoXW2b2-c
 作詞・上山雅輔、作曲・鈴木静一、歌・並木路子で、昭和18年に発売された歌である。しかし、私がコペンハーゲンで朝の散歩の折に見かけたのは「通勤は自転車に乗って」といいたくなるような軽快な自転車通勤の列だった。

 8月下旬、1週間ほど夫婦でオスロ、ベルゲン、コペンハーゲンを回ってきた。ベルゲン滞在中は途中、フロム泊でベルゲン・ミュルダール・フロム・グッドヴァゲン・ヴォス・ベルゲンという定番のフィヨルド周遊を楽しんだ。定番とはいえ、ミュルダール・フロム間のフロム鉄道の両側に広がる自然そのままの雄大な光景、フロム・グッドヴァゲン間の2時間余りのフィヨルド巡りの折、両岸に点在した小さな村々、切り立った岸壁から流れ込む滝の光景などはさすがだった。湖畔の宿のようなフロムのホテルとその前に広がる埠頭から見渡すフィヨルドの絶景も忘れられない。しかし、こうした周遊の旅の紀行記は後回しにして、この記事では、旅の最後に束の間の滞在をしたコペンハーゲンで出会った自転車通勤について記録をとどめておきたい。

 ホテルをチェックアウトする827日の8時半ごろホテルを出て市庁舎前広場からチボリ公園の東側道路を通る頃、向かって道路の右側を様々な模様を凝らした自転車が次々と通り過ぎるのに気がついた。前日、ローゼンボー宮殿を経て国立美術館へ向かう途中でも自転車で行き来する人の姿が多いのに気がついていたが、新カールスベア美術館そばの交差点からランゲ橋あたりを歩く時に見かけた自転車の列には驚いた。

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赤信号のたびに交差点には自転車の長い列ができた。一見して通勤者だとわかるが、よく見ると、いろんな型の自転車に各々好みのデザインを施し、サイクリングカー並みのスピードで走りすぎていく。それにはわけがあることがだんだんわかってきた。


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 1つ目の写真からもわかるように、大通りでは車道と歩道の間に幅
3mほどの自転車専用レーンが設けられている。また、一方通行で自転車同士がすれ違うことはない。交差点に近づくと、さっと右手を横に挙げて後続の自転車に右折の合図をする人が多い。私が見た限りでは接触や追突の危険を感じる場面は全くなかった。市民は互いに自転車運転の作法をよく心得ている様子で、カラフルな衣装で颯爽と通りすぎる若者の後ろ姿を見送りながら、自転車通勤が個性をアピールする場面のようにも思えた。また、狭い道路にマイカーがひしめく東京の光景がいびつに思えてきた。
 そうかと思うと、下の写真のように前に取り付けたボックスに2人の子供を乗せた自転車も何度か見かけた。ぜひとも写真に収めようと後方を振り返りながらシャッターチャンスを待ち受けたのだった。10時前、コペンハーゲンの一番の繁華街、ストロイエを散歩するころには通勤時間帯は終わり、通りでは時々、さらにユニークさを競うようなデザインの自転車に出合った。

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デンマークを自転車王国にした社会事情

 帰国して、改めてコペンハーゲンの自転車通勤の由来を調べ、少しずつその社会的背景がわかってきた。デンマークは、世界有数の自転車国家である。デンマーク人が自転車で走る距離は、年間20億キロ以上にもなるという。デンマークの地形が平であること、移動距離が短いことなども自転車利用の活性化につながったようだ。職住が地理的に遠隔化し、電車での1~2時間の通勤が当たり前の日本では自転車通勤はままならない。また、デンマークでは自動車保有税が非常に高いため、自動車に代わる移動手段として自転車が利用しやすいインフラ整備(自転車専用レーンや駐輪場の設置など)が進んだといわれている。
 ネットで調べたところでは、今日、コペンハーゲンの住民の約36パーセントが自転車を通勤の手段にしている。そのうえにコペンハーゲン市は、この自転車通勤率を、2015年までに50パーセントに上げることを目標にしているのだ。自転車の利用率が50パーセントになると、年間8万トンものCO2排出量が削減できるという。
 日本では、高速道路料金を無料化が提唱され、電気自動車の開発・普及でCO2の排出量削減につなげようという動きもある。確かに、今になって、自転車専用道路といっても空想に近い。しかし、自分が車の運転免許を持たない超マイノリティだからかも知れないが、すべての発想が車の個人所有・利用を前提に生まれることに何の抵抗も感じない人が大多数であることに違和感を覚える。コペンハーゲンでは自転車は単なる移動手段であることを超えて、<自転車文化>にまで成熟していると感じさせられた。

京都からコペンハーゲンへ~COP15
 200912月にコペンハーゲンで開かれるCOP15に先立ち、駐日デンマーク大使館は環境への関心を高めるためのサイクリングツアーを各地で開催した。これは日本サイクリング協会をはじめ、様々な公的機関や民間企業などが支援する、「カーボン・ニュートラル(包括的に二酸化炭素を排出しない)」なイベントである。これに備えて、デンマーク大使館では、外交官をはじめ自転車好きが集まり、毎週火曜日と木曜日に多摩川沿いを40キロ走行したそうだ。このサイクリングツアーは、2009523日東京からスタートし、安城、郡山、札幌、宮崎、広島、今治、和歌山、京都を巡り、200965日、コペンハーゲンで終了した。
 環境問題というと、「地球にやさしい」の合言葉が愛好される。しかし、地球環境保全・改善は言葉ではなく、自分の身の回りから一歩を踏み出すことだと実感させられた旅だった。

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「朝日新聞」<ひと>欄に掲載された記事をマイリストに追加

古くなったが、2003年2月2日の「朝日新聞」<ひと>欄に掲載された私のインタビュー記事をWORD文書に変換して、マイ・リスト(私の仕事:新聞記事等)に掲載した。

  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/asahisinbun_hitoran.pdf

これは、私が2003年1月の任期切れの折に、慣例に反して、情報通信審議会の委員を再任されなかったいきさつを語ったものである。聞き手は、私が情報通信審議会の委員当時、何度か取材を受けた「朝日新聞」経済部の宮崎記者である。
    

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「マイリスト」の「旅の思い出」にフランス旅行記をアップ

 10日間も更新が途絶えた。つなぎにというわけではないが、マイリストに「旅の思い出」を追加し、20049月から10月にかけて、大学の試験休みの間に夫婦でパリと南仏へ出かけた旅行記をアップした。といっても、今回新しく書き下ろしたわけではなく、旧HPに「きまぐれ日記」と題して掲載するつもりで書いたまま、約1年半、「工事中」にしていた記事が日の目を見た格好である。
 
ただ、旅の主目的だった南仏(アビニョン、エクス・アン・プロヴァンス)めぐりの記録が未完なのが心残りだ。いずれ追録したい。
 他人に見せるというよりは、自分のための記録といった方がよいが、私以上にフランスになじみの薄い方の参考になればと思う。これから「小さな旅」の思い出も書き留めていきたい。

 最近、アイフルの業務停止、「グレ-ゾ-ン金利」の撤廃問題が論議されているのに触発されて、消費者金融の決算内容を調べている。近いうちに、このブログに掲載したいと思っているが、学生ゼミの題材としても取り上げてみたい。

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