春の上野公園界隈を歩く

 「東京新聞」に同じ猫?の写真が
 昨日(4月8日)の「東京新聞」の26面を見てびっくりした。「ニャンパスライフ満喫~東大の自由気ままな猫たち」という大見出しの記事に載った、車のうえで寝そべる猫の写真が目に飛び込んできたからだ。
 
45日の昼休み、研究室から降りて三四郎池に向かって歩いていたら、1人の女性が駐車中の車の屋根に携帯電話のカメラを向けていた。近づくと一匹の猫が人の気配など無視するかのように足を投げ出して寝そべっていた。急いでシャッターを押したのが、このブログのひとつ前の記事に載せた写真である。もっとアップで撮れたらと後で思うが。いずれにしても、「東京新聞」に載った写真は場所といい格好といい、同じ猫に間違いなさそうだ。

 「あゝ上野駅」
 先日、陽気に誘われて久しぶりに京成上野で降りた。桜の季節の上野公園を歩くのが目的だが、その前にJR上野駅の広小路口近くにある「あゝ上野駅」の歌碑を見ることにした。何度もそばを通ったが気がつかなかったようだ。近くで見ると、平成152003)年76日、設立というから、井沢八郎が亡くなる2年半前に建てられたわけである。歌碑を見にいこうと思い立ったのは今年の1月、ある新聞で井沢八郎の二周忌を記念して美代子夫人が『素顔の井沢八郎とともに』(文芸社)を出版したのを知り、買い求めて読んだのがきっかけだ。スポーツ刈りの姿のせいか、享年70歳と知って驚いた。また、この本に序文を寄せた遠藤実氏もこの本の刊行を目前にした2008126日に他界された。「歌は世につれ」というが、「世につれない歌」が出回る昨今、「あゝ上野駅」は生活者が自然に口づさむ稀有な歌である。

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上野公園を経て不忍弁天堂へ

 その後、JR上野駅の公園口まで歩き上野公園に入った。入口近くにある東京文化会館前には都響メンバーによるティ-タイムコンサート(入場無料)の看板が立ち、その向いの国立西洋美術館の前には「ルーヴル美術館展~17世紀ヨーロッパ絵画」(614日まで)の大きな看板が掲げられていた。さらに進むと、東京都美術館で近く開かれる「日本の美術館名作展」(425日~75日)の予告の看板が立っていた。が、この日はすべて素通り。
 噴水池前の広場(交差点)を左に切ると満開の桜並木の道。両脇はビニールシートの上で宴会に興じるグル-プで賑わっていた。

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桜並木の大通りの途中、五條天神社に通じる石の坂道を下り、弁天堂を通って不忍池へ出た。池にはいつもながらユリカモメが群がり、道路を挟んだボート池では満開の桜の下でボートを漕ぐ人々で華やいだ情景。

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無縁坂

 上野公園を抜け、東大の龍岡門に向って無縁坂を上る。今は大手町経由の通勤だが、以前は京成上野で降りて不忍池に沿って歩き、水上音楽堂の脇を経て無縁坂を上るコースだった。無縁坂というと、「忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂 かみしめる様なささやかな 僕の母の人生」というさだまさしの歌ので知られているようだが(私自身はこの歌をあまり聴いたことがない)、坂の上に無縁寺があったことに由来するという。坂の途中にある講安寺にも無縁寺という庵がある。
 知る人ぞ知るだが、無縁坂は鴎外の「鴈」の中で岡田青年の散策道として登場する。

 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が決まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。」

 鴎外というと、私は『青年』の中に出てくる次の一節に魅かれ、自著『会計学講義』(第3版まで)の第3章のエピローグに掲載してきた。

 「いったい日本人は生きるということを知っているのだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり付くと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先に生活はないのである。
 現在は過去と未来との間に画した一線である。この線上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。」(岩波文庫、6667ページ)

 経済学部では毎学期末に受講生から授業アンケートを回収する。私の担当科目の受講生のアンケートを読んでいくと、最後の自由記述欄に、上の一節を引いて感慨を書きとめる学生が数人いた。受験時代を駆け抜けた自分と重ね合わせたからだろうか。

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年越しの風景

 皆様、新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 皆様はどのような年越しだったでしょうか?

 すぎもとまさと「吾亦紅」によせて
 私は大晦日は近くのマンションに住む姉のところで22時ごろまで一緒に紅白を見た。その中では、すぎもとまさとの「吾亦紅」(われもこう)の歌詞とそれを情感を込めて歌ったすぎもとさんの場面に惹かれた。バイオリンとのハーモニーのよさも熱唱を盛り上げたように思った。ただ、後で歌詞を活字で読み返すと、後半の母を慕う平板なセリフに興ざめを感じた。「マッチをすればおろしが吹く 線香がやけにつきにくい」というてらいのない、しかし意表をつく歌詞が後半までつながっていたら、と一人思いをした次第である。

 ゼミ生の卒論と向き合う日々
 さて、この時期は例年のことながらゼミナールの4年生の卒業論文の追い込みの期間である。今年も夏から一人ずつ、中間発表を2巡したが、年末年始は2稿目、3稿目が進行中である。今年のテーマは、
 *ストック・オプション会計
 *株式会社における剰余金の配当規制
 *環境負債の認識と測定
 *包括的長期為替予約の会計処理
 *国立大学法人会計
と多岐にわたる。
 正月休みの今はゼミ生からE・メールで原稿を受け取り、それに変更履歴付きでコメント・添削を返送する毎日である。教員のコメントに真険に応え、稿を改めるごとに内容が充実していく卒論を見届けると、打てば響くの責任の重さを感じる。
 学部に提出して終わりではなく、学生の意欲に報いるために、大学内外の多くの人々の目に留まるような卒論の公表、優れた作品の顕彰や雑誌への掲載など、もっと考慮されてよいと思う。私が担当するゼミではひとまず、ゼミのHPに完成論文を掲載したいと考えている。

 今年のブログの抱負

 昨年はNHK問題を取り上げた記事が多かった。政治介入の申し子ともいうべき経営委員長に加え、その経営委員長と親しい間柄の財界人が会長に就任するとあっては、NHKに対する視聴者の監視が一層重要になる。その意味では今年もNHKに関係した記事が多くなると予想される。

 ただ、それとともに、現在私が専攻分野で手掛けている会計の研究についても逐次、紹介したいと思っている。さしあたり、1月前半には、昨年12月22日に東大で開催した公会計シンポジウムの模様、特に、昨今「霞が関の埋蔵金」と通称されている特別会計の積立金の活用、不透明性の問題を取り上げたいと思っている。
 
 ↓ 元旦の日差しが注ぐ近くの公園内の池で遊ぶカモ
人目を意識したパフォーマンスなのか、それとも食べ物をねだ
るしぐさなのか、こちらへ近づいてきて何度も水面で羽根をばた
つかせ、しぶきを飛ばしていた。

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↓ わが家の姉妹犬
視線の先は? → 台所でコーヒーを挽く私。姉妹ともどもコーヒー
を混ぜて温めた牛乳が大好物。
(後方は昨年1月に他界した姉犬、手前は9歳の妹犬)
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雑感 NHK「思い出のメロディ」を視て

感動とふるさとの押し売りは相変わらずだったが

 昨夜、NHK総合で「第39回 思い出のメロディ」が放送された。番組表で確かめていたわけではなく、夜7時のニュースを視たまま切らずにいると、この歌番組が始まったことから、今日が放送日と初めて知った。最初の3曲ほどがなじみの曲だったのにつられて、連れ合いと会話しながら最後まで視た。

 タイトルは「ありがとう青春の歌~心を支えた大切な一曲~」だった。友人と懐メロの話しをするとき、私は「演歌ではなく青春歌謡だ」と言い続けてきた。それにしても、番組を制作する側から、「ありがとう」とか「心を支えた」などと押し付けがましく命名されるのは気持よくない。何に感動するかは視る人それぞれの生い立ちや感受性によりけりだ。感動を押し付けるかのような司会者の振り付けは控え目にして、淡々と歌手に歌ってもらった方がすがすがしい。「ふるさとのありがたさ」を押し売りするあたりもNHKの変わらぬ体質だった。

 しかし、こんな不平不満を書き連ねると、それこそ独断の押し売りと言われかねないので、この記事ではなるべく淡白に視聴後の雑感を書き留めることにしたい。

歌手の歳月の歩みを彷彿とさせた曲

 昨夜の「思い出のメロディ」に限らず、最盛期から数十年経た歌手が同じ歌を歌う姿を視て、歌よりも、歌手自身の歳月の歩みに想いを誘われる場面が少なくない。22歳のとき、「若いふたり」というドドンパ調の歌が大ヒットした北原謙二が30年ほど経ったある日のテレビ画面に半身麻痺の姿で現れたときの驚き、その後に北原氏の病状、各地の医療施設を慰問して回っていることを知ったときの歳月の落差は今でも鮮かに記憶している。

 昨夜の「思い出のメロディ」で言うと、「柿の木坂の家」を歌った青木光一、「夜明けの停車場」を歌った石橋正次、「折鶴」を歌った千葉紘子などにその思いを感じさせられた。3人とも初出の頃と変わらぬ、否、それ以上に丹精込めた歌い方に歳月が刻んだ深みを感じさせられた。後で調べると、千葉紘子は現在までに法務省篤志面接委員を委嘱され、非行に走った女子の相談役を務めたり、青少年問題審議会、中央教育審議会委員など各種審議会委員を務めている。それを知ってテレビの画面を想い返すと、なるほどと納得してしまう。やたら、政府の審議会委員に名前を連ねる経歴からは、社会活動の中身が気になるが。

 3人の中で一番、年輪を感じさせたのはやはり最年長の青木光一だった。同氏の歌はどれもいまや「懐メロの中の懐メロ」の感があるが、全盛期と比べてスピードを落とし、その分、高低や強弱の付け方に気を使っている様子が画面からいやというほど伝わってきて、視る人と曲を大切にするプロの心にいつも打たれる。

曲と歌手のミスマッチ

 以上は同じ歌手が数十年の歳月を経て同じ曲を歌った場面についての雑感である。しかし、昨夜も、目下流行中の歌手数人が、自分がこの世にいないか、生まれて間もない頃に流行った歌を歌っていた。その中で、坂本冬美が歌った「一杯のコーヒーから」は本人の歌唱力にもよるが、古臭ささを感じさせない伸びやかな青春歌謡そのものだった。

 しかし、小林幸子が歌った「湖畔の宿」、氷川きよしが歌った「ああ上野駅」はいただけなかった。小林幸子の場合は明らかに曲と歌手のミスマッチ。この歌は元々映画俳優で歌手ではなかった高峰三枝子が素人っぽく歌った気取らない(連れ合い評)曲である。それをこぶしを利かせた演歌調で歌ったのでは清新さは台無しである。小林幸子に恨みはないが、昨日の顔ぶれでいえば、坂本冬美が歌えば元歌のよさを再現できた気がする。氷川きよしの「ああ上野駅」は、のっぺらぼうな歌い方で、曲を歌いこなせていなかった。井沢八郎が墓場で聴いたら「10年早い」と嘆いたのではないか。

「長崎の鐘」の出自へのこだわり

 番組の最後の曲は「長崎の鐘」だった。それまでにぎやかに番組を進行させていた司会者が襟を正して「原爆・・・・」と言い出したとき、私は思わず画面に向かって、「あの曲じゃないだろうね」とつぶやいた。あの曲とは「長崎の鐘」である。そして数秒後にやはり、この曲を秋川雅史が歌い出した。秋川のクラシック歌手しての歌唱力を云々する能力は私にはないが、それまで「流行歌手」の歌を聴いた後だけに、声量といい、発声力といい、この曲に似つかわしい歌手だと思えた。

 また、「長崎の鐘」を番組の最後に持ってきた制作者の思いも分かったつもりである。それでも私がこの歌に抵抗を感じたのは、この歌の原作とされる永井隆著『長崎の鐘』が刊行されたいきさつが、かの久間防衛大臣(当時)の「原爆仕方がない」発言とダブルからである。私のこだわりを簡潔に言うと、次の通りである。

 今年の春ごろ、あるきっかけで私は占領期にGHQが敷いた原爆被害の報道・言論に関する禁圧(プレス・コード)に関心を持ち始めた。そこで、いろいろ資料を調べていくうちに、横浜の日本通り駅そばにある放送ライブラリーに長崎放送が放送した原爆関連の番組が保存されていることを知り、出かけた。お目当ては2000年5月31日に長崎放送が放送した「報道特別番組 神と原爆~浦上カトリック被爆者の55年~」だった。最初はざっと流し視するつもりだったが視て行くにつれ、コマを止めてはノートを取る繰り返しになった。

「被爆者は神に差し出された小羊」!?

 そのわけは、原爆投下の直後、自らも被爆しながら、あちこちでもがき苦しむ多くの被爆者の看護に当たった長崎医科大学教員、永井隆作の『長崎の鐘』がGHQによる言論・出版統制をくぐりぬけて刊行されたいきさつが赤裸々に描写されていたからである。中でも衝撃的だったのは、この本の出版を許可すべきかどうかについて、GHQ内で賛否が分かれ、本国の判断を仰いだこと、その結果、アメリカ本国の判断で、フィリピンで日本軍が多数のキリスト教徒を殺害した蛮行を記した連合軍総司令部諜報課著「マニラの悲劇」を合本することを条件に出版が許可されたことだった。そればかりか、この条件を受け入れて出版する場合は、3万部分の用紙をアメリカ側が提供するという申出まで付けられた。

 問題は、なぜアメリカ側が『長崎の鐘』に異例とも思える厚遇を申し出たのかである。上記の長崎放送の番組によると、そのわけは永井隆が『長崎の鐘』の中で原爆を「神の摂理」、地震、津波といった天災(catastrohe as earthquakes, tidal waves)かのように描いているからだった。これなら、原爆投下に対する日本人の反感を打ち消すことができる、とアメリカは考えたという。

 帰宅後、資料を調べていくと、永井隆は原爆投下の同じ年の11月23日に行われた天主公教合同葬で天主公教浦上信徒代表として読み上げた弔辞の中で、天皇による「終戦の聖断」が聖母の被昇天の大祝日に下されたことは単なる偶然ではなく、「天主の妙なる摂理」であると解釈し、被爆者は神に差し出された「汚れなき小羊」であると謳いあげていたことを知った(長崎総合科学大学教授の高橋真司氏は著書『長崎にあって哲学するーー核時代の死と生』1994年、北樹出版、の中でこうした永井隆の論説を「浦上燔祭説」と呼び、厳しく批判している)。原爆投下に対する日本人の批判・反感の広がりを恐れたアメリカが永井隆『長崎の鐘』に高い利用価値を見出したゆえんであろう。

 歌としての「長崎の鐘」はこうした歴史的背景とは無関係に今後も原爆の悲しみを静かに歌い上げた名曲として愛唱され続けるのかもしれない。しかし、歌詞に即していっても被爆者が経験した辛酸を「うねりの波の人の世に気高く生きる野の花よ」と、つつましく生きる人の姿を礼賛するかのように昇華したのでは原爆体験を刻む歌には、およそ不似合いではないか? 

 先の参議院選挙の長崎選挙区では、原爆投下を「仕方がない」と発言した久間前防衛大臣が推した候補が下馬評に反して落選した。今や、「祈りの長崎」の市民も祈りだけで平和と核のない世界は到来しないことを悟った証しであろう。そういえば、上記の長崎放送の番組は最後のシーンで、「原爆は神の摂理などではない」と悟り、原爆語り部に参加していったカトリック教徒Kさんの姿を紹介していた。「長崎の鐘」が原作とは離れて、市民が主体的に平和に関わっていく意思を込めた歌として愛唱されることを願いたい。  

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