NHKスペシャル 「救えなかった命 ~双葉病院 50人の死 ~」を視て

 昨夜(2012128日)21時から50分間、NHK総合で放送されたNHKスペシャル「救えなかった命~双葉病院 50人の死~」を視た。シリーズ東日本大震災の一つである。
 福島第一原発事故が発生した時、そこから約4.5キロの場所にある双葉病院に寝たきりの高齢者が入院していた。そのうち、事故当日に避難できなかった130人の多くは、行政から派遣されたバスで13時間かけて高校の体育館に搬送された。しかし、バスには医療関係者は1人も同乗しておらず、移動中に3人が亡くなった。さらに、搬送先の体育館では毛布一つで3日間、寝かされるだけとなった。結局、130人のうち50人が命を落とした。
 番組では、当時の双葉病院の医師・看護師や福島県の職員、かろうじて生きながらえたお年寄り、亡くなった人々の遺族などからの聞き取りを進め、このように悲惨な結果をもたらした原因はどこにあったのか、その教訓を活かして今、各地の自治体や医療機関で避難体制の見直しがどのように進められているかを伝えた。
 私は大震災・原発事故が発生して以降、この問題を取り上げたNHKの報道番組やドキュメンタリ-を視て、その感想をこのブログにいくつか書いてきた。今回の番組はその時の感想とはいささか違っているので、番組終了後、NHKスペシャルの専用サイトに設けられている意見投稿欄を通じて感想と要望を送った。以下はその全文(といっても制限時数600字)である。

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――番組専用サイトに送った感想と要望――

 

 これまで東日本大震災・福島原発事故を取り上げたNHKの報道番組やドキュメンタリィ番組を見るにつけ、「ことさら明るい話題に焦点を当て、過酷な現実をリアルに伝えきれていない」と感じてきました。しかし、この番組の中で、寝たきりの患者を病院に残して避難した医師・看護師、かろうじて生きながらえたお年寄りに取材し、その時の状況、現在の率直な思いを聴きとる場面は貴重でした。
 続編への希望として、①番組では受け入れ先の確保について、個々の自治体・医療機関レベルでの模索を紹介していましたが、大規模災害となれば、広域的な受け入れ体制の検討が不可欠と思えます。この点について政府の対策は、各省庁なり自治体なりに検討を指示したという類いのものが多く、こうした名ばかりの対応をいかに改めるかについて、取り上げてほしいと思います。②広域的体制を実のあるものとするには地域でのきめ細かな自主的避難体制づくりが不可欠です。近年、自主防災会が地域の自治会単位で作られています。しかし、その内容は防災訓練や講習会の開催といったイベント的なものが大半で、平日か休日かごとに、自力では避難できない高齢者・障害者を誰がどのようにして安心できる避難所へ誘導するのかというきめ細かで実践的な避難体制の確立は手つかずです。こうした地域における防災・避難体制の現状・改善策もぜひ取り上げてほしいと思います。

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関連するこのブログ記事
「過酷な現実を伝えることこそ放送メディアの使命」2011324

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-0101.html

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伊豆河津のバガテル公園で(2012年11月2日撮影)

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ホワイトタイガーと対面。伊豆稲取のアニマルキングダムで(2012年10月11日撮影)

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14カ月間、ユダヤ人を地下水道にかくまったポーランド人の物語 ~映画「ソハの地下水道」を観て~

 125日午前中に、千葉劇場で上映中の「ソハの地下水道」を観てきた。
 ソハとは、現在ポーランドを代表する俳優ロベルト・ヴィンツキェヴィッチが演じる、この映画の主人公レオポルド・ソハからとったものだ。私がこの映画のことを知ったのは、連れ合いがご近所の友人と発行している地域ミニコミ誌『すてきなあたたへ』No.66, 2012919日に掲載された菅沼正子さん稿の映画評論で、この映画が紹介されたのがきっかけだった。

菅沼正子の映画招待席38「ソハの地下水道――戦争を風化させてはいけない」
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sohanochikasuido_suganamimasako.pdf

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ナチスの殺戮を逃れて
 舞台は1943年、ナチス・ドイツの指揮下にあったポーランドのルヴフ。現在はウクライナ領に属するソ連との国境に近い地方である。ソハは下水道の修理を稼業にする傍ら、空き巣を副業にして妻子と3人の貧しい家庭生活を送っていた。
 ある日、彼は地下で仕事中に頭上から石を叩くような物音が響くのに気付いた。ナチスによる強制収容所への掃討作戦を逃れようと床下から地下水道へと脱出口を掘ろうとした詐欺師ムンデクらユダヤ人たちの決死の仕業だった。ドイツ軍に通報すれば報奨金を得られた。貧しい生活のソハにとってそれは大金を手にできるチャンスだった。しかし、彼は通報しなかった。ナチスを憎む、あるいはユダヤ人に同情する良心からではなかった。したたかな彼は、ユダヤ人たちを地下にかくまう代わりに見返りとして一日500ズロッチの報酬をせしめた。なにせ、彼は自分の家の庭といえるほど地下水道の入りくんだ迷路を知り尽くしていたのだ。

悪臭の立ち込める地下水道で
 そうはいっても、地下水道に潜むユダヤ人たちのもとへ食料を買い込んで運ぶのは難業だった。周囲に異変を察知され、ドイツ軍、あるいはドイツ軍にいいなりのポーランド軍に通報されたら、自分や家族の命が危い。仕事がら、ユダヤ人をかくまう手伝いをしてくれた相棒のシュチェペクは手を引くといって去っていった。旧知のポーランド人将校ボルトニックも報奨金欲しさからソハの挙動を不審がり、地下水道の捜索に同行させた。その時、ソハは間一髪、地下のユダヤ人たちを大人がどうにか通れる狭い通路に導いて別の隠れ場へと移動させた。食べ物にも満足にありつけず、ネズミが這いまわり、悪臭が立ち込める隠れ家で衰弱死する者が出始めた。心身ともに疲れ果てたソハはとうとう、もう手を引くと言い残して隠れ場所を後にした。

俺は無償で人を助けたなんてと思われたくないんだ

 ある日、いつものように地下水道の点検に回っていたソハは遠くから子どもの泣き声がするのを聞きつけた。近づいて見ると、あのユダヤ人避難者の中にいた子ども2人だった。仲間からはぐれて迷子になっていたのだ。驚いたソハは2人を隠れ場所へ連れていった。そこで、彼は子どもの母親に泣きつかれ感謝された。ユダヤ人避難者とソハの間にふたたび糸が繋がりかけたのである。
 そんなある日、物資を求めて地上へ出たムンデクは運悪くドイツ兵に目撃され、詰問された。その光景を廃墟と化したゲットーの2階から見つめていたソハは階段を駆け下りてドイツ兵をとりなそうとするが、通じるどころか自分まで銃剣を突き付けられる。あわや銃殺という場面でソハとムンデクはしめし合わせたような連携プレイでドイツ兵を打ちのめした。

 それから数日後、食料の買い出しに出たソハは衝撃的な光景に出くわす。正当防衛のため自分たちがドイツ兵をたたき殺したことへの報復として、ドイッ軍はユダヤ人ではなくポーランド人を次々と銃殺し、見せしめに路上で死体をつり下げた。その中にかつて自分のもとを去った相棒のシュチェペクがいたのだ。ソハは大きな衝撃を受ける。ナチスの掃討作戦からユダヤ人をかくまうことがもはや金目当てではなくなってきたのだ。報奨金を払う金は尽きたとユダヤ人のリーダーから告げられた彼はそっとポケットから数枚の札を出してリーダーに握らせ、「みんなの前では、これで報奨金を払ったことにしろ。俺は無償で人を助けたなんて思われたくないんだ」とささやく。

ナチスが去った地上へ歓喜の生還
 ソハ夫妻が一人娘の整体拝領の儀式に参列するため教会に出かけた。ところが式の途中から豪雨となり、道路は雨水があふれ出した。地下水道に潜むユダヤ人たちの安否がソハの脳裏をよぎった。儀式は進行中だったが、ソハは外へ飛び出し、流れ込んだ雨水にのみ込まれそうになりながら地下のユダヤ人たちのもとへ急ぐ。彼の後を追ってボルトニック将校も地下へ降りて来た。ユダヤ人たちは地下道の天井近くまであふれた洪水の上に頭を出してもがいていた。ユダヤ人の生活用品が流れてきたのを目撃したボルトニックはソハの後を追うが、迷路をさまよううちに洪水にのみ込まれ溺死してしまう。通路の行き来に慣れたソハはユダヤ人たちのもとに辿りつき、彼等を救出する。その後もソハはユダヤ人たちのもとへ食料を届け、かくまい続けた。
 そんなある日、ソ連軍が進駐してくるという情報が伝わるや、ドイツ軍は一斉に姿を消した。それ
を知ったソハはユダヤ人たちをマンホールへと導き、地上へと送り出す。そこには飲み物と手作りの料理を用意したソハの妻、ヴァンダ・ソハの姿があった。その光景を遠まきに見つめる地元住民の前でソハ夫妻とユダヤ人は抱き合って生還を喜び合う。ナチス時代のノンフィクションの記録映画には珍しいハッピーエンドである。


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ルヴフのユダヤ人を襲ったホロコーストの史実
 最後の字幕の映像によると、こうして生き延びたユダヤ人はアメリカとイスラエルに移住したという。また、実在のソハは愛する娘がソ連兵の車にはねられるのを止めようとして亡くなったという(その日付は字幕では1945512日と映されたが、久山宏一さんの解説によると1946512日)。
 さきほど、「ハッピーエンド」と書いたが、1年以上も地下水道で息をひそめ、ナチスの殺戮を免れたこの映画のユダヤ人は稀有な幸運だった。ドイツ近現代史専攻の芝健介さんによると、この映画の舞台・ルヴフも1941年以降、ナチスおよびソ連占領軍による残忍な殺戮行為の舞台となった。
 1941625日~26日には、この地に進駐したソ連軍によってウクライナ人政治犯が大量射殺された。その4日後の630日にはナチス親衛隊とウクライナ協力者は、上記のウクライナ人政治犯の殺害の責任はユダヤ人にあるとして老若男女を問わずユダヤ人を引きずり出し、暴行を加えた。118日には当地の一角にユダヤ人ゲトーが作られ、ユダヤ人はそこへ強制移住させられた。また移住の途中で老人や病人約5,000名が射殺された。
 1942年にはルヴフ・ゲトーに強制収容されたユダヤ人はベウジェツ絶滅収容所へ送られ、そこで15,000人以上がガス殺された。同じく同年8月には約5万人のユダヤ人がルヴフ・ゲトーからベウジェツ絶滅収容所に移送され、そこでガス殺された。
 19431月にはルヴフで15000人のユダヤ人が「労働不能」とみなされて「捕獲」され、郊外の森で射殺された。6月にはナチス親衛隊とその協力部隊の手でルヴフ・ゲトーの解体作戦が展開され、その中で多くのユダヤ人が殺害されたが、ごくわずかの人達が防空壕や下水道に逃れて生きのびた。芝さんによると、この映画に登場するユダヤ人たちもその一部だったと考えられる。翌1944726日にソ連軍はルヴフに侵攻したとき、ユダヤ人の生存者は823名だったという(以上、この映画のガイド冊子「ソハの地下水道」に収録された久山宏一氏の解説より)。

善の誘惑に揺れ動く人間の心理をリアルに
 この映画がソハの心理の変遷に焦点をあてようとしたことは間違いない。これについてアグニェシュカ・ホランド監督は、彼は善の誘惑に屈したのだと思う、と語っている(同上冊子、10ページ)。
確かに、彼も彼が救ったユダヤ人たちも根っからの善人だったわけではない。死に直面した人間なら誰しもがさいなまれる利己心、いらだち、猜疑心、そして、その合間になお生き続ける他者へのいたわり。こうした矛盾だらけの特徴が入り混じった生身の、どこにでもいる人間なのだ。そうした「普通の」人間が何度もわが身を死の恐怖にさらしながら、他者の身に死の危険が迫ったとき、人はどのように身を処すのかーーーこのありふれてはいるが先鋭なテーマにどう立ち向かうのかを、自らも生と死の岐路に立たされた主人公らを通して描いた点で、この映画は、同じナチスのホロコーストを題材にした他の映画にはない特色―――一人として歴史に名をとどめた人物がいるわけでもなく、レジスタンスの闘士が登場するわけでもない記録映画―――があるように思えた。それは、「悪の誘惑」ではなく、「善の誘惑」に揺れ動く主人公を描こうとしたホランド監督の意図に示されている。だからこそ、あのホロコーストの嵐が吹きあれたナチス占領下の地で、ユダヤ人のみならず占領地の人々が暗黒の時代を生き延びた息づかいが伝わってくる。また、それゆえに、身を体してナチスに抵抗した人々の記録映画とはまた違った意味で、ナチス・ホロコーストの歴史的残虐性をリアルに告発する迫力を備えているように思えた。

 
各地の劇場での上映予定は次のとおり(既に終了したところもあるが)。
http://sohachika.com/pc/theater/

千葉劇場のオフィシャルサイトはこちら。1214日まで。
http://www.cinemax.co.jp/chibageki/

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ナチス占領下のパリで~映画「サラの鍵」~

 2011714日付けの記事で、連れ合いが近所の知人と発行しているミニコミ誌「すてきなあなたに」No.63に掲載された菅沼正子さんの映画招待席35「一枚のハガキ」を菅沼さんの了解を得て紹介した。
 今回は同じミニコミ誌の最新号に掲載された菅沼正子さんの映画招待席36「サラの鍵~フランスよ、お前もか~、を転載させてもらうことにした。
 私の感想は次の記事に回すことにする。映画はナチス占領下のパリで194271617の両日、ナチスの命令に従ったフランス警察によって行われたユダヤ人1万数千人の一斉検挙と連行されたユダヤ人を待ち受けたその後の過酷な体験を1人の少女の運命を通じて描いたものである。
 1217日から銀座テアトルシネマで上映が開始され、全国各地で順次ロードショウが行われるが、そういう私はまだ見ていない。見た後でまた記事を書かねばと思っているが、前回同様、菅沼さんのきびきびした批評につい引き寄せられてしまう。

 
菅沼正子の映画招待席 36 
 
~サラの鍵~フランスよ、お前もか~
 
 ベルリンの壁が崩壊しソ連邦が解体してから、タブーとされていた戦時中の蛮行・非道が次々に明らかになってくる。最近でも「白バラの祈り」(
05年)「カティンの森」(07年)「縞模様のパジャマの少年」(08年)「黄色い星の子供たち」(10年)等をあげることができるが、今回の「サラの鍵」はフランスの<ヴェルディヴ事件>を題材にしたタチアナ・ド・ロネの同名のベストセラー小説の映画化。ノーベル平和賞受賞の劉暁波(リュウギョウハ)氏の獄中での愛読書だったという。<ヴェルディヴ事件>とは、ユダヤ人をアウシュヴィッツに送ったのは、ナチスドイツだけではなかった、という実話である。その事実は1995年にシラク大統領が公式に認め、世界に衝撃を与えたのだが、しかし、非公式には知られていて、映画では「パリの灯は遠く」(76年)がそれを扱っている。アラン・ドロン主演のサスペンス映画だが、監督が、アメリカのレッドパージでイギリスに亡命しヨーロッパで活躍したジョゼフ・ロージーだけに、サスペンスの裏に潜む政治の不当な弾圧や人権無視の恐怖が描かれている。フランス人の美術商(A・ドロン)が同姓同名のユダヤ人と間違えられ、アウシュヴィッツ行きの収容列車に乗せられるという物語。
 
 ナチス占領下のフランスに、ユダヤ人排斥運動の嵐が次第に厳しさを増していた
1940年代。ユダヤ人のサラ一家にフランス警察のユダヤ人一斉検挙が入ったのは19427月のことだった。10歳のサラ(メリュジーヌ・マヤンス)は怖がる弟をとっさに納戸に隠し鍵をかけた。「すぐ帰るわ」と約束をして。摘発された数万のユダヤ人は屋内競輪場<ヴェルディヴ>に閉じ込められる。水もトイレも食糧もない劣悪な環境下におかれ、やがて家族はバラバラにされ、それぞれ臨時収容所に分散される。最終的にはアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられるのだ。弟が気になる一人ぽっちのサラは脱走に成功するが……。
 
 現代。
2009年。パリに住むアメリカ人ジャーナリスト、ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)はヴェルディヴ事件を取材している。奇しくも、自分たちが改造して住もうとしているマンションの部屋は、サラ一家の住居だったことが判明。この家は、フランス人である夫の両親がユダヤ人から取り上げた部屋だったということも分かる。
 
 自分の身内がヴェルディヴ事件に無関係ではなかったことに衝撃を受けたジュリアは、さらに取材を進める。ホロコースト記念館で膨大な資料をチェック。サラの両親はアウシュヴィッツでの死亡が確認されたが、サラと弟の記録はない。
 
 脱走後のサラはどうなったのか。映画は、ジュリアの取材の現代と、サラが逃亡する
60年前の戦時下を交錯させて描いていく。さらに、成人してからのサラを追って、ニューヨーク、フィレンツェへと舞台は移るが、この映画のすばらしさは、単なるホロコースト映画で終っていないことだ。過去の過ちを認め、反省し、人種の融和と人権の尊さをうたいあげている。パンドラの箱を開けたら希望がでてきた、という感動のラストシーンが用意されている。
 
 (
1217日より、銀座テアトルシネマほか全国順次ロードショー)
 
映画「サラの鍵」公式サイト
http://www.sara.gaga.ne.jp/

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「一枚のハガキ」~菅沼正子さんの映画招待席より~

多くの人に読んでほしくて
 連れ合いがご近所の友人と発行しているミニコミ誌「すてきなあなたへ」にほぼ毎回、菅沼正子さんの映画招待席が掲載されている。いつも他のスタッフに先んじて原稿が届くと、印刷前に読ませてもらっている。以前、NHKラジオの深夜便の映画コーナーを担当されただけあって、読者を引き込む筆力には感心させられる。「戦場のピアニスト」を観たのも菅沼さんの紹介文を読んだのがきっかけだった。
 せっかくの映画評をぜひ多くの方に読んでほしいと思い、このブログに転載できないか打診したら、すぐに快諾していただいた。

「映画人生最後の作品」と新藤監督が公言するだけあって
 今回、菅沼さんが取り上げたのは813日から全国ロードショーが始まる「一枚のハガキ」である(「すてきなあなたへ」63号に掲載)。以下はその全文である。

一枚のハガキ~絶対、戦争をしてはいけない~
~菅沼正子の映画招待席35
 日本人だけではなく、世界中の人々に見てほしい。戦争の恐ろしさは、戦場だけではない、銃後の人々の人生をも狂わせてしまうのだ。反戦を生涯のテーマとしてきた99歳の現役監督・新藤兼人が「映画人生最後の作品」と公言して98歳でメガホンをとった、驚くほどにパワフルな映画。
 開巻そうそうからドッとばかりに涙があふれ。太平洋戦争末期の日本はもう負け戦で、戦場に送られる兵士は死ににいくようなもの。明日からそれぞれの戦地に赴く100人の兵士。その壮行会を盛り上げるために、上官の命令で<君恋し>を歌う森川定造(六平直政)の純粋な顔。死を覚悟した人間は、こんなにも純粋になれるものなのか。その純粋さが涙を誘うのだ。
 案の定、定造はあっけなく戦死、妻の友子(大竹しのぶ)は定造の弟と結婚させられるが、その弟も白木の箱で帰ってくる。息子2人に戦死された義父(柄本明)はショックのあまり心臓麻痺で急死、義母(倍賞美津子)は人生を悲観して自殺する。ひとり残された友子は気丈にもこの地にとどまって、定造の分まで生きようと決意する。
 終戦になって、漁師の松山(豊川悦司)は帰還してくるが、自宅はもぬけのから。妻と自分の父親が不倫していて、夜逃げしてしまったのだ。喪失感がぬぐえない松山は、新天地ブラジルをめざすことにして荷物を整理していると、定造に託された一枚のハガキがでてくる。─「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので何の風情もありません。友子」─このハガキを友子に届けてほしいという依頼だったのだ。
 約束を果たすため友子を訪ねた松山。古ぼけた家の暗い部屋。いろりをはさんで向かい合う2人。静かな会話のなかで、戦争の愚かさを痛烈に批判する新藤監督の人生観がはっきり見える。「なぜあなたは生きて帰れたの?」と友子。兵士100人のうち6人が帰還しただけ。その生死を分けたのは、上官が彼らの任務先を決めるためにひいたクジだった、と説明する松山。こんなシンプルなシーンで私が心を激しく揺さぶられたのは、信念を曲げない人間の尊厳をうたいあげた「白バラの祈り」(05年)以来だ。人間のいのちがクジで決められていいのか。運がよかったとか悪かったで人生が左右されるほど、人間のいのちは軽いものなのか。スクリーンの奥から新藤監督の叫びが聞こえてくるようだ。
 松山のキャラクターは戦争で生き延びた監督の体験を投影しているという。「戦死した94人の魂がずっと私につきまとっていて、これをテーマにして生きてきました」と監督。私の父も太平洋戦争で死んだ。教職にあった父は赤紙一枚で召集され、開戦間もない19411225日死亡。勝ち戦の勢いがあるときだったので、遺骨とともに、サーベル、軍服、軍靴、手帳、日記など遺品はすべて戻ってきて、大尉だったので名誉の戦死とか称えられ、村をあげての葬式だったという。だが、そんな名誉がなんになるのか。父は生まれたばかりの私の顔も見ないで死んだ。親子顔知らずのままだ。「正子」、これは父が戦場でつけてくれた名前、父とのつながりを持つ唯一の贈り物。夫に戦死された母は、戦争を憎み、その憎しみをバネにして3人の子どもを育て上げた。60年の母の苦しみを思うと、いまや旅立ってしまった母に、感謝の気持ちでいっぱいである。


戦場で付けてくれた名前が父親からの唯一の贈り物
 一読して、封切りが待ち遠しい映画評であるが、最後のくだりで、映画のストーリーとご自分の出自を重ね合わせ、父親が戦場で付けてくれた「正子」という名前が親子のつながりであり、まだ見ぬ父親からの唯一の贈り物だという菅沼さんの言葉にはっとさせられる。しかも、夫を戦争で失った憎しみをバネに3人の子どもを育てられた母君への感謝を綴った一節は映画評を超えた、実直な、心に沁みる言葉である。

「一枚のハガキ」公式サイト
 http://www.ichimai-no-hagaki.jp/

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羽田澄子演出「遥かなるふるさと 旅順・大連」を観る

大連生まれ、旅順育ち~映画のおいたち~
 昨日、神田神保町の岩波ホールで上映中の羽田澄子演出「遥かなるふるさと 旅順・大連」(配給:自由工房作品)を見に出かけた。「大連生まれ、旅順育ち」の羽田さんが昨年6月、「日中児童の友好交流後援会」が企画した旅順へのツアーに参加して異国のふるさとを訪ねた機会に、撮影、ロケーションを準備し、工藤充氏の製作により完成した映画である。羽田さんは演出兼ナレーター役を務めている。ということで、この映画は「シネエッセイ」と称されている。

 羽田澄子さんは1926年、大連で生まれ、高校教師を務めた父の転任に伴い、1931年に三重県の津市に移って幼稚園時代を過ごしたが、2.26事件が起こった1936年、旅順に移住し、日中戦争・第二次大戦中、当地で小学校、高等女学校に通った。女学校卒業後、東京の自由学園を経て、大連に戻り、満鉄中央試験所に勤務。日本の敗戦後は大連日本労働組合本部に勤務したが、1948年、日本に引き揚げてきた。その2年後に岩波映画製作所に入社し、以後、日本の女性監督の草分けとして、「痴呆性老人の世界」(1986年)、「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」六部作(199194年)、「住民が選択した町の福祉」(1997年)、「元始、女性は太陽であった――平塚らいてうの生涯」(2001年)、「嗚呼 満蒙開拓団」(2008年)など90本を超すドキュメンタリーを手掛けてきた。
 このように書くと、羽田さんの作品をいくつも観賞してきたように聞こえるが、実は羽田さんの映画を見るのはこれが初めてだった。

旅順~今は昔~
 ツアーの一行は成田空港から3時間ほどで大連に着き、バスで旅順へと向かう。日本語が上手な3人のガイドが要領よく日清・日露戦争時の旅順の模様(旅順口閉塞作戦など)を説明する。バスを降りた一行はまず、山頂に表忠塔がある白玉山へ向かう。羽田さんが小学生の頃は歩いて上った岩山も今は道路が整備され、車で山頂に辿りつける。「表忠塔」とは日露戦争のあと、日本の戦没者を慰霊するために日本が建設した高さ65.4mの塔である。一行は山頂から旅順港を見下ろし、ロシア軍が建設した東鶏冠山の北保塁を訪ねる。乃木将軍率いた日本軍は3度にわたる総攻撃をしかけたが、想像を超える強固な保塁に陣取ったロシア軍の守りは堅く、日本軍は1万人余の死傷者を出した。しかし、ロシア軍を率いたコンドラチェンコ将軍が軍事会議に居合わせる場所を突き止めた日本軍の軍砲で将軍が戦死して以降、戦意を喪失したロシア軍は次々と保塁を明け渡し、日本軍は二〇三高地を制圧した。一行は旅順港を囲む山々にロシア軍が築いた保塁を見て回る。

 その後、スクリーンは、二〇三高地を制圧した日本軍の総攻撃に降伏したロシアのステッセル将軍と乃木将軍が会見して終戦の条約を交した水師営の会見所に移る。会見所は東鶏冠山から10kmほど離れた場所にあり、当時は民家だったが日本軍が野戦病院として使っていたという。今は観光スポットになっている。会見は旅順陥落後の1905(明治38)年1月5日に行われた。映画では、佐々木信綱作詞、岡野貞一作曲の「水師営会見の歌」をバックに、

 「旅順は日露戦争で最も烈しい戦いのあったところです。150日あまりにわたる戦いで、日本軍は59000人、ロシア軍は23000人もの死傷者を出したといわれています。」

 「ステッセル将軍は帰国したロシアで死刑の宣告を受けました。しかし後に減刑され、静かな余生を送ったそうです。乃木将軍が明治天皇の崩御に殉じて自決したとき、ステッセルから香典が送られてきたといいます。」

というナレーションが流された。

 続いて、一行は日本国内からも学生を受け入れたという旅順工科大学、旧旅順中学校を経て、羽田さんが通った旅順高等女学校に着く。しかし、校内は驚くばかりの変わりようで、道沿いの校舎は商店が並ぶビルになっていた。校舎跡は軍関係者のマンションとのこと。

 その後、一行は車で二〇三高地へ向かう。高地の裾にある桜花園が作られた折、日中児童の友好交流後援会の会長川畑文憲氏から支援の基金が寄せられたという。ここで一行は交流後援会の設立20周年の記念碑の除幕式を行なった。碑には一行に参加した旅順女子師範学校卒業生の遠藤節子さんの詩が刻まれており、除幕に合わせて朗読された。
 その夜、一行が宿泊したホテルでは、日中児童の友好交流後援会の設立20周年を祝う会が行われた。スクリーンには後援会現会長、旅順政府代表のあいさつの模様、地元の小学生の歓迎の歌と踊りが映し出された。

思い出の小学校、そして旧宅を訪ねて
 
2日目、一行が最初に訪れたのは旧旅順第二小学校。羽田さんが津の小学校から転校してきた学校である。その日は休校日だったが校長が出迎えた。昔の講堂の壇上に上がった一行は、そこで演じた学芸会の模様を語り合い、感慨にふける。

 その後、一行は商店が並ぶ旧市街を巡り、羽田さんら2人と一行に参加したKさんはいっしょにKさんの旧宅を確かめようと歩く。ガイドの依頼が通じて現住人の了解を得、二人は2階に上がる。1階は別人が住んでいるとのこと。2階に上がったKさんは部屋が綺麗に使われているのを見て感謝する。別の部屋には老夫婦が住んでいたが、そこでガイドはKさんを「62年前にここに住んでいた人」と紹介する。老夫婦はこの45年間、ここに住んでいるという。Kさんはいきなり訪ねてきた自分を部屋に通してくれた住人に何度も感謝して旧宅を出る。
 続いて、Aさんの旧宅に向かう。ここでも住人はAさんらを快く部屋に通す。Aさんは感慨ひとしおの面持ちで、「6つのときに、母が死んだんです。それで、ここに棺を置いたのです」と家人に話しかける。

 新市街の中心にある列寧街広場の料亭で昼食を終えたところで羽田さんは一行と別れ、旅順に残る。さっそく羽田さんが向かったのは羽田さんが両親、妹と4人で小学校~高等女学校時代を過ごした旧宅。赤レンガの同じスタイルの家が3軒並んだ、その一番手前が羽田さんの旧宅。通訳の青年の交渉で若い住人は羽田さんを2階の部屋へ通す。父の書斎だった部屋はベッドの置かれた洋間に変わり、物置場にしていた6畳の間は台所になっていた。子供部屋兼寝室兼遊び場だった別室は別人が住んでいるとかで留守とのこと。ここでも住人に謝辞を述べて1階へ。そこには老夫婦が住んでいた。16年間住んでいるとのこと。昔の台所や風呂場はすっかり改造され、全く違うインテリアになっていた。
 映像が旧宅を離れる際、「私が感銘を受けたのは、どの家も突然の訪問なのに快く受け入れてくれたことです。いくら昔住んでいた人といっても、とても考えられない好意でした」という羽田さんのナレーションが流れた。旧宅を出た羽田さんはかつて両脇にロシア様式の建物が並んだアカシアの並木道を思い起こす。しかし、今はアカシアがとても大木になり、記憶のかなたにある並木の姿と一変していたのに驚く。

一家4人ののどかな生活の傍らで
 
続いて出向いたのは旅順博物館。羽田さんが通った付属小学校の近くにあったので、よく覗きにきたという。そこには中国の古代から近代までの多くの美術品が納められており、大谷光瑞の西域探検隊が収集したコレクションの多くもそこに納められている。
 博物館の前の広場には1955年、ソ連軍が旅順を友誼的に引き渡して撤退したことを記念して建てられた「中ソ友誼塔」がある。そして、その塔のすぐ後ろには旧関東軍司令部の記念館が立っており、「この広場は中国とソ連軍と関東軍が重なって存在する不思議な空間でした」というナレーションが流れた。

 「思い返すと、戦争の時代だったのに、我が家にとっては一家4人が揃って、楽しく暮らした」時代だったと羽田さんは振り返る。しかし、今回の旅は羽田さんにとって単なる「思い出探し」のツアーではなかった。

 「思えば、私が暮らしていた頃の旅順・大連は、日本人の支配する社会であって、下働きの労働をするのは、すべて中国人でした」「このことに初めて気が付いたのは、三重県の津から戻って、大連港に入ったときです。下働きをしているのは、すべて『苦力(クーリー)』といわれる中国人でした」「旅順で、日常接する中国人も、お店の注文取り、洗濯おばさん、石炭運び、馬車の御者、人力車夫といった人達で、対等のお付き合いをした中国人は本当に僅かでした」

と羽田さんは振り返る。それだけに、羽田さんたち一行が旅順滞在中に、地元の人々が日本による旅順統治時代を今、どのように回顧しているのか、生の声を確かめあえたら、一層、有意義な旅になり、記録映画としても深みが出たのではないかと思われた。しかし、途中までツアーへの参加、滞在に数わずか4日という条件を考えれば、これはないものねだりといえるだろう。

 しかし、そのような条件の中でも、この映画は随所に何層にも歴史の重さが重なる旅順の姿をコンパクトに描いている。

 旅順博物館前の広場を経てカメラは鳩湾へ、そして万忠墓へと向かう。ここは日清戦争末期、旅順を攻略した日本軍によって虐殺された兵隊、市民合わせて約2万人の遺体をまとめて埋葬した地である。中国政府は万忠墓を「愛国主義教育基地」の一つに指定した。「旅順で暮らしながら、殆どの日本人は、そんなことがあったとは全く知らずに暮らしていました。私もそうでした」と羽田さんは振り返る。

 この後、映像は旧旅順監獄に進む。1902年にロシアが造りはじめ、1907年に日本が旅順を統治した時期に完成したものである。今は陳列館としてすべて開放されているが、当時は犯罪者ばかりでなく、中国人、韓国人、そして日本の多くの政治犯も収容されていたという。内部は水桶と便器だけがそっけなくおかれた独房、拷問部屋などからなるが、カメラが大きく写したのは伊藤博文を射殺した安重根が収容された部屋だった。展示室には安を移送したという馬車や彼の胸像が収容されていた。
 この後、映像はソ連軍烈士の墓、旅順の山々にロシア軍が気付いた保塁などを映したがここでは省略する。

敗戦の詔勅を聞いた大連を訪ねて
 
羽田さんらスタッフ一行はふたたび大連へ向かう。旅順・大連間は約40kmというが、小学6年生の時、羽田さんたちは「旅大踏破」といって旅順から大連まで歩いて出かけたという。朝5時ごろ出発して大連に着いたのは夕方近く。
 旧大広場(現在の中山広場)周辺はヨーロッパ風の建築物が並び、大連の発展ぶりを象徴するスポットだ。一行は旧満鉄大連病院、旧弥生ケ池(現市植物中心湖)へと進む。自由学園を卒業して大連に戻った羽田さんは動員で旧満鉄試験所で勤務した。ここで天皇の終戦の詔勅を聞いたが、意味はのみ込めなったという。羽田さんの印象に残っているのは周りの日本人が沈み込んでいるのに、一人主任だけが腰かけを揺すりながら嬉しそうに笑っていたことだった。後でその主任は韓国人だとわかった。日本人にとって815日は敗戦の日であるが、韓国人にとっては祖国が日本の支配から解放された日なのである。まもなくして退職する時、羽田さんは研究室から青酸カリを渡されたという。

 その後、羽田さんは1年ちょっとだったが大連に在住の時の旧宅を訪ねた。しかし、なんとそこはマージャン店になっていて、中に入らせてもらったが客がいるということで撮影は許可されなかった。

 敗戦の翌年5月にソ連軍が大連にも進駐してきた。羽田さん宅もソ連軍に接収され、家財道具もそのままに東京で自宅を世話してくれた知人宅に身を寄せた。それ以降、日本に引き揚げるまでの2年間、羽田さん一家は9回も引っ越しをしたという。

 大連に在住の間、羽田さんは大連日本人労働組合に勤務した。奥地からの避難民に寝食を保障し、日本に引き揚げる事業を担ったところだった。そこで1年間働いた後、羽田さんと母、妹の3人は先に帰国した父に続いて日本に向かった。その時の心境を羽田さんはナレーションでこう語った。

 「懐かしい大連を離れたくなかった私ですが、日本人が引揚げて殆どいなくなった街では、日本語も聞こえず、今まで見たこともなかった元気な中国人の姿があふれ、恥ずかしいことに私は『ここは中国なのだ』と改めて気づいたのでした。」

 その後、カメラは大連港を俯瞰し、星が浦の海岸線、旧中央公園(現労働公園)へと進む。労働公園では「北国の春」を胡弓で奏でる人々、それを囲む人々の姿を大写しに。また、賑やかな露天の店の活気ある風情も映し出された。

 終幕に近付いたところで、旅の終わりを告げる羽田さんのナレーションが流された。

 「植民地時代にヨーロッパの国々と日本から、大きな被害と差別を受けた中国。しかし現在、旅順・大連にあふれている中国人の、国と人のエネルギーからは、過去の姿は全く消え去っていました。」「旅順・大連の見事に繁栄する姿を嬉しく思うのとともに、『ふるさとは遠くなった』と思うのでした。」

ただ懐かしいでは済まない旅順・大連
~歴史の重さを伝えた羽田映画の真髄~
 私は中国はもちろん、アジアに出かけたことがない。いまどき、珍しい人間だろうと思う。しかし、この映画は日本が中国を戦地として、あるいは植民地として統治した時代に旅順・大連に在住した人々にとって、思い出を手繰り寄せる貴重な記録映画であることは私にも想像できる。上映開始30分前に入場し、受付で買ったこの映画の小冊子を読んでいるとすぐ後ろの列で、「大連まで行ったのだけれど、その時は旅順には入れず、ワイン5本を買って発送して済ませたのよ。」「お父さんがいなかったら満州をさまよっていただろうに」と語り合う2組の年配の人たちの会話が耳に入った。そういう体験の持ち主が入場者の相当数を占めていたのではないかと思えた。

 しかし、上記の小冊子に収録された文章の中で羽田さんは次のように記している。

 「しかし悲しいことに旅順を簡単に『懐かしい故郷』ということができません。何故なら旅順も大連も本来は中国の土地なのに、日本人が支配し、中国人は下積みの労働をさせられる社会が構築されていたのです。日本人は中国人に下働きをさせて、いい暮らしをしていたのです。単純に懐かしいとは言えないのです。」「この作品に向き合って、何層にも重なる歴史の重さを、改めて考えさせられ、表現の難しさを痛感することになったのでした。」

 短いながらも羽田映画の真髄が凝縮された言葉と思われた。

岩波ホール上映期間:7月上旬まで
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自由の抑圧が人間道徳を崩壊に導く危機への警鐘~映画「懺悔」観賞記(2・完 批評)~

隠喩に託した現世界への警鐘
 法廷でのリアルタイムの場面と主人公ケテヴァンの8歳の頃の回想が交差し、さらに幻想の世界が挿入されたこともあって、この作品のメッセージ、余韻をどう読み取るかは、人によって様々ではないかと思う。それが制作者の意図だったのかも知れないが、旧ソ連邦下の厳しい検閲を経て完成されたという事情が絡んでいるようにも思える。
 たとえば、騒音が響き渡る聖堂の温室の中で教会の建物の保存を訴えた画家のサンドロに対し、強権市長ヴァルラムが恫喝まがいの言葉を吐いてその場を去った後、突然、聖堂内に“偉人シリーズ”の放送と称して、アインシュタインの言葉を朗読するアナウンサーの声が流れる。

 「現代の科学者の運命は悲惨だ。何よりも自由と明晰さを欲する彼の創り出したものが、自分の隷属や人類滅亡のための道具として使われてしまうからだ。彼はものを言う権利も奪われる。・・・・頭脳と研究の成果を、科学者が自由に活用し、世の中に貢献できた時代は既に終わったのか。研究に没頭するあまり科学者は、社会的責任も自尊心も忘れ果てたのか。現代の危機の規模を権力者達は知らない。」

 いささか唐突なシーンではあるが、幻想の世界で科学者の権威の力を借りることによって検閲をかいくぐり、自由を失った科学者の不幸、科学者の自由を奪う権力者の野望が全人類を不幸に追いやる危機への警鐘を隠喩に託して伝えようとしたのだろう。

国の命運を盾にした強権正当化への懐疑
 私がこの映画の中で特に印象に残るのは、ヴァルラムの遺体を掘り返した罪を問われたケテヴァンの法廷での証言を聴くうちに、事件の真相、背景を知ったトルニケが父親アベルに詰問する場面である。

 アベル「彼は悪人じゃなかった。難しい時代だったんだ。お前には分からないさ。」
 トルニケ「時代は関係ない。」
 アベル「大いに関係ある。国の命運がかかった時代だったんだよ。周りの国はすべて敵だ。そんな時は国内の敵をまずやっつけるんだ。」
 トルニケ「国の安定が先だなんて言うけど、言い訳じゃないか。」
 アベル「知った口をきくな。公務に就いている者は、社会の利益を真っ先に考えた。個人のことは後回しだ。」
 トルニケ「公務員だって結局は個人じゃないか。」
 アベル「お前は現実無視の理想論だ。オヤジは公益を優先してた。自分の意に反する事もやらざるをえなかった。」
 トルニケ「命令されたら皆殺しもやったわけだ。」

 こうしたやりとりは、ある時代、ある国、ある地方でたまたま見られる会話ではない。その後も、現在も少なからぬ国で、ある時は「国体の護持」、「公共の安寧の維持」と称して、ある時は「テロの脅威とのたたかい」と称して、繰り返されてきた会話である。この映画では、「国の安定」を訳知りに語る大人と、そうした言い回しにストレートに疑問を投げかける少年を向き合わせることによって、問題の本質を観賞者に突きつけたのだ。

人間を道徳崩壊の危機に追いやる自由の抑圧

 この映画を観る前、予備知識を持っておこうとネット上で紹介記事をいくつか読んでみた。しかし、あらすじと「懺悔」というタイトルの関係が今一つ理解できなかった。観終わってもしばらく、誰の、何に関する「懺悔」なのか、腑に落ちなかった。しかし、こうしてブログ用の記事を書き進むうちに、この映画の主題は自由を抑圧された人間の苦悶と絆を描くこともさることながら、それ以上に、自由の抑圧は抑圧した側の人間、そして抑圧を黙過した人間を道徳崩壊の危機に導くという悲劇を描くということだったのではないかと感じるようになった。ストーリ―をふりかえれば、これは平凡な感想なのかも知れない。それはある夜、アベルが燭台をかざして自宅の地下に降り、十字架に向かって次のように語りかける場面に隠喩されている。一部は紹介済みだが、改めてその前段から引用しておこう。

 アベル「神父様、懺悔に参りました。私の心は分裂しています。」
 アベル「私は良心の分裂に悩んでいるのです。無神論を唱えながら、宗教にすがり、迷っているのです。」
 男「無神論を宣伝した後に、教会で懺悔をするのは立派なことだ。」
 アベル「そんな事ではなくて、私の道徳の基準が崩れたのです。善と悪の区別がつきません。信念を無くしました。」
 男「どんな信念を?」
 アベル「私はすべてを許したい。密告、裏切り、欺瞞、嘘・・・・すべての卑劣な行為を許したい。」
 男「すべてを許せるなら、お前はキリストだ。本当にそうか。」
  <中略>
 アベル「確かに怖い。空しさの恐怖を、自分をだましながら耐えてきた。仕事に没頭した。自分と向き合う暇を作らないためだった。考えたくなかったのだ。」
 男「一体何を?」
 アベル「最も大切な何かを。自分は何者なのか。なぜ生きているのか。自分の存在価値は何か。」

 つまり、この映画は、アベルの上記のような苦悶、懺悔を赤裸々に描くことによって、自由の価値を、自由を抑圧された人間にとっての問題としてだけでなく、抑圧した側の人間、自由の抑圧を看過した人間にとっての問題――そうした人間を襲う道徳崩壊の危機の問題――として描こうとしたのではないだろうか? 
 さらにいえば、こうした道徳崩壊の危機は孫をも襲ったし、研究に没頭するあまり、社会的責任も自尊心も忘れ果てた科学者にも実は忍び寄っているのだ――この映画は自由への抑圧が襲う人間道徳崩壊の危機をこのように普遍化して描き、警鐘を発したのではないか? そして、自由の価値を限られた人間――先鋭な反政府主義者など――にとっての問題に局限せず、広く市井の人間にひとしなみ関わる問題として訴えようとしたのではないか思われる。

 この映画の主人公は誰かと問われれば、誰しも、独裁市長を「墓地で眠らせない」と言い放ち、実行したケテヴァンを挙げるにちがいない。また、ケテヴァン役を演じたゼイナブ・ボツヴァゼが法廷で悠然と語る回想談はこの映画の骨格を描くにふさわしい力強さを見せつけている。また、映画のポスターに登場する少女時代のケテヴァン役を演じたナト・オチガワがマフラーで顔をすっぽり包んだ姿で父親を探すあどけない光景にも魅せられる。
 と同時に、独裁市長ヴァルラム・アラヴィゼを演じたアフタンディル・マハラゼの、鎧の下に剣を隠したかのような陰湿な演技は、この映画が発するメッセージを引き立たせるのにひときわ貢献している。

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独裁政治下での人間の苦悶と絆を描いた作品~映画「懺悔」観賞記(1 あらすじ)~

グルジアのことをもっと知りたくて
 岩波ホールで上映中の『懺悔』を観てきた。4つ前の記事で書いたように、NHK教育テレビの「新日曜美術館」で放送された画家ピロスマニの伝記を通じてグルジアに関心を持ったのがきっかけだ。岩波ホールのホームページに掲載された紹介記事には、「グルジア映画の巨匠テンギス・アブラゼの『祈り』(68)、『希望の樹』(77)に続く、“懺悔三部作”の悼尾を飾る大作」と評され、「ペレストロイカ(改革)の象徴となった、ソビエト連邦崩壊前夜の伝説的映画」と記されている。198412月に完成したが、政治的理由で直には公開されなかった。19871月、ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)を掲げ、グラスノスチ(情報公開)を打ち出したのを機にようやくモスクワで公開されるや、最初の10日間で70万人以上の観客がつめかけたという。
 さいわい、岩波ホールのロビーで買い求めたこの映画の小冊子に、春日いずみさん作の採録シナリオ(全編の脚本)が収録されているので、それを基にこの記事では映画のあらすじを紹介したい(ただし、以下のあらすじは採録シナリオの摘記である。表現も一部手直ししている)。そして、次の記事では自分なりの観賞記を書きとめることにする。ただ、その前に、スタッフとキャストを紹介しておきたい。それによって、この映画の輪郭を知っていただけると思う。

スタッフとキャスト
監督:テンギズ・アブラゼ
脚本: ナナ・ジャネリゼ/テンギズ・アブラゼ/レゾ・クヴェセラワ

ヴァルラム・アラヴィゼ(独裁市長):アフタンディル・マハラゼ
アベル・アラヴィゼ(ヴァルラムの息子):アフタンディル・マハラゼ
 <父子をアフタンディル・マハラゼが12役>
アベル・アラヴィゼ(子供時代):ダト・ケムハゼ
グリコ(アベルの妻):イア・ニニゼ
トルニケ(ヴァルラムの孫):メラブ・ニニゼ
サンドロ・バラテリ(画家、ケテヴァンの父親):ディシェル・ギオルゴビアニ
ニノ・バラテリ(ケテヴァンの母親):ケテヴァン・アブラゼ
ケテヴァン・バラテリ(サンドロの娘。墓を掘り起こした犯人):ゼイナブ・ボツヴァゼ
ケテヴァン・バラテリ(子供時代):ナト・オチガワ


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父親の消息を追う少女時代のケテヴァン・バラテリ


3たび
掘り掘り返された市長の遺体
 物語はある地方都市のケーキ店を営む1人の女性が、強権をほしいままにした独裁市長ヴァルラム・アラヴィゼの死亡を伝える新聞記事を客から知らされ、立ち止まる場面から始まる。アラヴィゼ家では市長の生前の功績を讃える弔問者とそれに応対する息子アベル夫婦でごった返す。葬儀は滞りなく終わり、アベル夫妻は床につく。翌朝、犬の鳴き声に気付いた妻のグリコが庭に出るや、大声で叫んでアベルを呼んだ。「ヴァルラムの死体よ」。近づくと、父ヴァルラムの遺体が庭の大木にもたれかかるように置かれていた。その夜、アベル一家は懐中電灯を照らしながら、ヴァルラムの遺体を墓地に運び、元の位置に埋めて帰る。しかし、翌朝、目を覚まして寝室の窓辺から庭を見下ろしたグリコはまたもや同じ木に寄りかけられたヴァルラムの遺体を発見する。アベル夫妻は向いの男の勧めるままに、今度はヴァルラムの墓地を柵で囲い、カギをかけて帰ったが、翌朝、またもや庭の木に寄りかかるヴァルラムの遺体を発見する。
 そこでアベル家は次の夜は警察官とともに墓地に潜んで犯人が現れるのを待つ。警察官が各々勝手な理由をつけて墓地を離れた深夜、一人の人間が墓地に近づくのを見とどけたヴァルラムの孫のトルニケはその人物をめがけて発砲した。飛びかかったトルニケが見届けたのは何と男性ではなく、ケテヴァンだった。

墓地で眠らせない
場面は法廷。パロディ風の衣装をまとった判事が正面中央に、その両サイドにコの字形に原告・被告双方の弁護士が着席するのは日本と同じだが、なぜか、被告のケテヴァンは弁護人の背後の最後列の椅子に悠然と座る。反対側の数列にはアラヴィゼ家の遺族や友人が着席している。

 裁判長「被告ケテヴァンは、3度にわたり遺体を掘り返し、遺族の家に運んだことを認め、自分を有罪と認めますか?」
 ケテヴァン「事実ですが、無罪です。掘り返したことが罪だとは考えません。私が生きている限り墓地で眠らせません。私が決めたことです。邪魔はさせません。こうなるのが私と彼の運命なのです。必要なら300回でも掘り返します。」

 ここで、彼女の弁護士は被告人に動機を詳細に語らせるよう求める。やがて、裁判長の許可を得たケテヴァンの長い回想の場面が始まる。


独裁市長との息詰まる会話
 ヴァルラムがその都市の市長に就任したのはケテヴァンが8歳の時だった。バラテリ家の向いの建物のテラスで市長就任の演説をするヴァルラム。見下ろす広場では大勢の市民が喝采を送る。ケテヴァンとニノがその様子を楽しそうに眺めていたところへサンドロが現れ、2人を促して窓を閉める。その様子をヴァルラムはしっかりと目撃していた。

 場面は変わって、老朽化した教会の中庭(?)の温室。何やらの実験による騒音が聖堂内に響き渡る。ヴァルラムと向き合った老人の傍らからサンドロは聖堂の保存を訴える。
 サンドロ「音の引きおこす振動でフレスコ画や壁全体がひび割れしています。この実験が続けば聖堂は崩壊します。」
 ヴァルラムはサンドロらの訴えに理解を示す素振りを見せるが、実験場所を移す研究所の建設には資金が足りないと、うやむやな返事をする傍ら、不気味な笑いを浮かべて、「他になにか? それでは皆さんの身元調査でもやりますか。私は何も見逃さない。だから、君たちも私には用心した方がいい」
と捨てゼリフを残す。

 場面はある夜のサンドロ家。親子3人がくつろいでいたところへベルが鳴る。駆け寄ったケテヴァンがドアをあけると、赤いチューリップの花束を持った2人の男。といきなり、2人の後ろから白いマントをまとったヴァルラムが踊り出る。そばには息子のアベルが立っていた。それから20分ほど、用件を告げるでもなく、部屋中をなめ回すように観察したり、陰湿に絡みついたりするヴァルラムとサンドロ夫妻の息苦しいやりとりが続く。その間、サンドロ夫妻の娘ケテヴァンとヴァルラムが連れてきたアベルは子供部屋でキリストについてあどけない会話をかわす。それから数十年後に、法廷で被告・原告の席に分かれて座るとは思いもよらない2人だったが。

暗い部屋で黒猫を捕まえることができる。たとえそこに猫がいなくても
 ヴァルラムがサンドロ家に押しかけてきてから、しばらく過ぎたある夜、ニノは鎧兜をまとった兵士に追われて逃げ惑う夫婦の夢をみた。その後、スクリーンには、地上に首だけを出して土に埋められてもがくサンドロ夫妻の姿が大写しされる。目が覚めたニナは泣きながらサンドロを抱きしめ、どこか遠くへ行こうと言いだす。しかし、サンドロはあきらめ顔で、どこへ行っても彼らは探し出すと答えるだけだった。とその時、玄関の鈴が鳴る。開けると槍をもった鎧兜の兵士たち。たちまち、サンドロは連れ出される。おまけに部屋に飾られた絵もごっそり持ち去られた。

 幻想の世界も交えながら展開する物語の途中で、市長ヴァルラムの演説が流れるが、その中に次のような一節がある。

 ヴァルラム「中国の孔子という哲学者は次のように言った。“暗い部屋では黒猫は捕まえにくい。いないなら尚更だ。”・・・・われわれの課題は確かに困難なものだ。だが、われわれは不屈だ。暗い部屋で黒猫を捕まえることができる。たとえそこに猫がいなくてもだ。」

 そんなある日、ヴァルラムの秘書がニノのもとを訪れ、今晩、あなたは逮捕される。急げば助かる、といってお金と切符をニノに手渡して足早に立ち去る。ニノとケティヴァンは家を離れる支度をするが、衣類を包んで出ようとしたところを兵士に踏み込まれ捕まってしまう。馬車で連行される途中でケテヴァンだけが降ろされ、戸を叩きながら泣き叫ぶケテヴァンを振り切ってニノを乗せた馬車は行ってしまう。
 
孫の反抗、そしてアベルの懺悔
 ここで、画面は法廷に戻る。ケテヴァンの回想談が終わるやアベルは立ち上って叫び、グリコも怒鳴り出す。しかし、ケテヴァンは動じる気配はなく、右ひじを椅子にかけて悠然と言い返す。

 アベル「異議ありだ。その女の話したことはすべて嘘だ。中傷だ。」
 グリコ「なぜ掘り返すの!」
 ケテヴァン「彼には墓に入る資格がないからよ。人並みに葬れば、彼の罪を許すことになる。・・・」

 こうしたやりとりに聴き入っていたアラヴィゼ家の遺族の中で激しく動揺した人物がいた。ヴァルラムの孫のトルニケである。
 その日からトルニケは、罪は叔父の市長にあったのだと父親に迫るが、アベルは息子の前では頑として聞き入れない。とはいっても、アベル自身も一人になると、自分の良心の分裂、道徳の基準の瓦解にさいなまれ、神にすがるのだが。しかし、神は、「お前は偽善者だ。心に分裂などない。お前は自分が手に入れた名誉と自分が築き上げた立派な家庭を失うのを恐れているだけだ」とアベルを突き放す。
 トルニケは留置場に出向き、ケテヴァンに会い、許しを乞う。ある日、アラヴィゼ家ではこの問題をめぐって激しい口論が起こる。トルニケはケテヴァンを精神鑑定と称して病院に強制収容しようとした父親に激しく詰め寄った。しかし、アベルは聞き入れる気配がない。絶望したトルニケはついに自分の部屋で銃で自殺を図る。妻の知らせでそれを知ったアベルは愕然とし、一挙に動揺が噴出する。自分の罪を何も知らない息子に負わせてしまった懺悔の意識にさいなまれた彼は自ら、スコップを持ってヴァルラムの遺体を掘り返し、絶壁から放り投げるのだった。

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映画「犬と私の10の約束」を観て考えたこと

 先日、近くのシネマ・ホールで松竹映画「犬と私の10の約束」を観てきた。NHK総合18時10分からの「首都圏ネットワーク」で紹介されているのを見たのがきっかけだった。映像の予告編であらすじをご覧いただくのが早いと思うので、ネットで知ったURLを貼り付けておく。
 http://www.inu10.jp/trailer/index.html

あらすじ
 両親と娘の3人家族の斎藤家が庭に迷い込んだ子犬のゴールデン・レトリバ-を飼い始めたことから物語は始まる。母親芙美子(高島礼子)が体調の急変で入院した病院へ子犬を連れて出かけ、家で飼いたいと言い出した娘のあかり(福田麻由子→田中麗奈)に向かって芙美子は「犬との10の約束」(ルーツはインターネットで広まった作者不詳の短編詩「犬の十戒」とのこと)を教える。
 
 子犬は前足の片方が靴下を履いたように白いことから「ソックス」と名付けられた。しかし、新しい家族を迎えた生活も束の間、母親はまもなく他界する。そのショックであかりは首が回らなくなるが、それを癒し治してくれたのは母親の形見のソックスだった。その後、父娘の2人暮らしが続いた。その間、大学病院に勤める父親祐市(豊川悦司)は仕事に多忙を極め、遅い帰宅が続く。あかりはそれに不満をもらしながらも、同級生でギタリストを目指す星進(佐藤翔太→加瀬亮)との楽しい語らいの時間を過ごした。しかし、その進は両親の強い勧めでロンドンへ留学に旅立つことになった。この別れを機に二人の間には強いきずなが芽生えた。ある日、街角で見かけた演奏会のポスターで進が帰国していたのを知ったあかりは進との再会を果たし、結婚へとストーリーは進行する。このあたりはありふれた展開である。

 話しは前後するが、父親の祐市はあかりと一緒の時間を増やしたいと大学病院を辞して開業医として再スタートする。しかし、それとすれ違うかのように、大学の獣医学部を卒業したあかりは旭川の動物園に就職し、獣医の仕事を始める。そして、今度は動物の世話に追われるあかりの方が帰省もままならず、帰宅した時も仕事のストレスからソックスを邪険にするようになる。しかし、ソックスの方はそんなあかりに対し、これまでと変わらないひたむきなまなざしを向ける。そんなある日、あかりの携帯電話に父親からソックス危篤の連絡が入る。仕事のために旭川にとどまろうとするあかりに対して上司の中野(ピエール瀧)は強い口調で帰宅を悟した。実家に駆けつけたあかりは居間に横たわったソックスを父親ととともに看取るのである。

犬との10の約束
 さて、母親があかりに教えた犬との10の約束とは次のとおりである。
 1.私と気長につきあってください。
 2.私を信じてください。それだけで私は幸せです。
 3.私にも心があることを忘れないでください。
 4.言うことを聞かないときは、理由があります。
 5.私にたくさん話しかけてください。人の言葉は話せ  ないけど、わかっています。
 6.私をたたかないで。本気になったら私の方が強いこ  とを忘れないで。
 7.私が年を取っても、仲良くしてください。
 8.あなたには学校もあるし友達もいます。でも、私に  はあなたしかいません。
 9.私は10年くらいしか生きられません。だから、でき  るだけ私と一緒にいてください。
 10.私が死ぬとき、お願いです。そばにいてください。  そして、どうか覚えていてください。私がずっとあな  たを愛していたことを。

犬への過剰で身勝手な感情移入の戒め
 上のあらすじからわかるように、この映画のストーリーはいたって平凡であり、安直さを覚える場面も少なくないが、ホームドラマと思えば、自然なことなのだろう。だから、私自身、犬との長いつきあいがなければ、さらに、今、わが家にいる犬(ウメ)も前足の両方がソックスどころか、「ストッキングを履いているみたい」と通りがかりの人に何度か言われた体験がなければ、この映画に関心を持たなかっただろう。

 しかし、それでも、この映画を見た多くの愛犬家は自分と犬の関わり方、自分にとっての犬の存在の大きさを改めて考えさせられたのではないか?
 犬がかくも人間と親密な間柄になれた理由は何かと考えると、それは、自分に対する人間の接し方がどう変わっても、犬は変わらぬまなざしで人間と接してくれるという安心感ないしは犬は人間と違って自分を裏切らないという深い信頼を犬に寄せるからではないか? 言い換えると、犬と人間の深い絆は、人間と人間の絆の希薄さ、はかなさの裏返しといえなくはない。そうだとすると、いつか人間は、人間という大きな身体の小心な動物から身勝手な精神的扶養を求められる犬から疎まれる日が来ないとも限らない。あるいは、今現在、犬から、<自分に依りかかってばかりいないで、人間同士の絆を回復するよう努めてはどうか>と諭されているのかも知れない。犬への過剰な感情移入を戒めながら、犬と静かに意思を通い合わせることができる共生の関係をどのように築けばよいのか――そんなことを感じさせられた映画だった。

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衛星映画評「ジュリア」――反戦の知性に裏打ちされた2人の女優の演技に魅せられる作品――

作品紹介
 昨夜220日)21時~2259分、BS2衛星映画劇場で放送されたアカデミー受賞作品特集「ジュリア」を観た。原作リリアン・ヘルマン、監督フレッド・ジンネマンの1977年作の知る人ぞ知る作品である。原作者のユダヤ人劇作家ヘルマンの回顧録を映画化したものといわれ、彼女の人生に大きな影響を与えた2人の人物――幼馴染のジュリアと恋人のハードボイルド作家ダシール・ハメット――との交友と愛情が展開していく。特に、アメリカの大富豪の娘として生まれながら、当時ベルリンで反ナチスの運動に身を投じたジュリアとの再会と別離の息の詰まるようなシーンが圧巻だった。以下では、ナチス統治下のベルリンで反ナチス運動を続けるジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーブ)の下へジェーン・フォンダ扮する主人公が活動資金を携えて出向く場面を中心に紹介しておきたい。

反ナチ運動の資金の運び役を引き受けた主人公
 主人公がモスクワ演劇祭に招かれてパリに滞在中に、ジュリアからの言伝を携えたヨハンと名乗る男が主人公に近づき、5万ドルをベルリンに居るジュリアのもとへ運ぶ役を引き受けてくれないかと持ちかける。ベルリン経由でモスクワに行くことにして、途中、下車してもらえないかというのである。
 宿泊のホテルでヨハンと朝食をとった後、二人はホテルの向かいのチェルリー公園のベンチに腰をかけてベルリン行きの話をする。(以下、不正確な箇所があるかも知れない。)

「わたしたちのために、ベルリンまで5万ドルを運んでいただけませんか? 獄中にいる仲間を釈放させるための賄賂として使うのです。私たちはナチに抵抗するグループです。特定のイデオロギーも宗教もありません。カトリック教徒、共産主義者など思想はさまざまです。ただし、よく考えてけっして無理はしないでください。たぶん大丈夫だとは思いますが。」

 「ちょっと飲みものをとりませんか?」

 「いえ、もう一度言います。心配はないと思いますが、よく考えて無理はしないでください。」

 「ちょっと考える時間をください。2、3時間ほど」

 「あまり突き詰めて考えない方がいいですよ。それでは明日の朝、北駅のホームにいます。決心がついたら、とおりすがりにハローと言ってください。もしお引き受けにならないなら、わたしの前を通り過ぎてください。」

 次の日、制止も聞き入れず見送りについてきた友人といっしょに北駅のホームに着くと、あの男がこちらへ近づいてきた。主人公はどうにか友人を振り切ると、目の前を通り過ぎた男の背後から、大声で叫んだ。

 「ミスター・ヨハン、ハロー、ミスター・ヨハン」

ヨハンは向き直ってしばらくこちらを見つめた後、近づいて来た。

「ポーランドに発つ甥がこの列車に乗車します。2等の4号車です。」

 乗車して通路を進むと、まもなくスーツケースと箱をふたつ持った青年と行き会った。すると青年はこう話しかけてきた。

 「わたしは2等の4号車です。これはジュリアからのお誕生日プレゼントです。」

 箱の中には丈の長い帽子と、「この帽子をかぶるように」というメモが入っていた。

ジュリアとの再会、そして・・・
 その後、車中での手荷物検査、検問所でのパスポートチェックを無事通過して、なんとかベルリン着。その間、主人公のそばには次々と見知らぬ男女が寄り添い、リレー式に彼女の道案内をした。そして、ベルリン駅に下車した主人公は言われるままに駅近くのレストランに入ると、テーブルに座ったジュリアの姿が目に飛び込んだ。

 テーブルに向き合って言葉を交わして間もなく、ジュリアはテーブルの下の足を指して「義足なの」と告げた。傍らには二本の松葉杖が置かれていた。二人は再会を喜び合う間もなく、平静を装いながら短い食事をとると、ジュリアは立ち上がって化粧室に入り、しばらくして笑顔で戻ってきた。

 ジュリアは無事、資金を受け取ったことを告げると、なおも話しかける主人公を突き放すように、早くここを離れるようにせかす。こうしてジュリアと別れた主人公はワルシャワ行きの列車に乗り込んだ。

 しかし、主人公とジュリアの出会いはこれが最後となった。 1938523日、パリへ戻った主人公の下へロンドンから電報が届いた。ジュリアが殺害されたことを伝える電報だった。

 2人の女優の見事な演技とそれを裏付けた実践活動
 ドイツ軍占領下のワルシャワでユダヤ人の殺戮を平然と続けるナチス兵士の残忍な行為を容赦なく描いた「戦場のピアニスト」を自宅の近くのシネマホールで見た時のことを思い出した。「ジュリア」には、あの映画の中の椅子に座ったユダヤ人老女を椅子丸ごと窓から投げだすような残酷なシーンこそなかったが、息をつめて見入る場面の連続であった。

 生死と背中合わせの状況に立たされた人間は周りの人間への疑心暗鬼を余儀なくされる。しかし、主人公を演じるジェーン・フォンダとジュリアを演じるレッドグレーブの感情を抑え平静を保つ、息の詰まるような知性がにじみ出た演技は圧巻だった。これは役回りに徹する女優としての力量もさることながら、反ナチズム、反戦に共鳴した彼女らの実生活における思想信条の裏打ちがあればこそ役柄に徹し切れたのではないかと思えた。

 事実、ジェーン・フォンダはベトナム反戦運動に身を投じた闘士として知られている。また、ジュリア役のレッドグレーブはこの映画での演技でアカデミー賞助演女優賞を受賞したが、授賞式のスピーチが政治的であったということで物議をかもした。

赤狩りの非米活動調査委員会でも友人を売り渡さなかったヘルマン
 1950年代のアメリカを席巻した「赤狩り」(共産主義思想の弾圧・排除)は映画人も例外ではなかった。下院に設けられた「非米活動調査委員会」に召喚された映画人の多くは自らの保身のために次々と友人の名前を挙げ、弾圧に加担していった。
 そんな中、1952
5月、委員会へ召喚され、共産党に参加した友人の名前を挙げるよう求められたヘルマンは、あらかじめ用意した次のような文書を読み上げた。

 「自分を救うために長年の知己である無実の人たちを傷つけるのは非人間的で品位に欠ける不名誉なことです。私は政治的な人間ではなく、いかなる政治的団体に身を置いたこともありません。しかし、私は昨今の流行に順応して良心を裁断するようなことはしたくありません。」

 このような証言によってヘルマンは監獄にこそ送られなかったが、以後、ハリウッドの世界のブラックリストに載せられ、長きにわたって仕事から排除された。彼女の生涯については、様々な負の部分を指摘する議論もある。しかし、あの全米を覆ったマッカーシズムに敢然と立ち向かい、堂々と良心を貫いた強靭な理性の劇作家が存在したことはアメリカ映画界の輝かしい記念碑と言ってよい。「ジュリア」はそのような作者の知性を静かに、しかし、確実に視聴者に伝える作品であった。

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