今、有馬朗人氏に問うべきこと

一徹に帰依した人?
 2011610日、「朝日新聞」夕刊の「人脈記」欄に「俳句 師を選ぶ」として、有馬朗人氏が紹介された。記事の冒頭に、有馬氏が俳句の師と慕った山口青邨の、<こほろぎのこの一徹の貌を見よ>という句が掲げられ、有馬氏の作句歴と人となりが紹介されている。山口は高浜虚子の高弟の一人であるとともに、東大の工学部教授として鉱山学に関わった。東大入学前に古本屋で山口の句集を読んでいた有馬は入学してすぐに山口の研究室を訪ね、弟子になり、以来、38年間、山口が96歳で亡くなるまで師として仰いだという。
 そして、記事の後段では、上記の山口の俳句に関する有馬氏の「この一句には、誰が何と言おうが、我が道を歩もうとする深い信念、一歩も譲らぬ頑固さが感じられ」るという批評が記されている。そして、記者はそれに続けて、「こと『一徹』ぶりに関する限り、〔有馬氏は山口青邨の〕不肖の弟子と言えまいか」と結び、この記事に「この一徹に帰依した」という標題を付けている。

 私はここで俳人としての有馬氏のことを論評するつもりはない。私が言いたいのは、今この時期に有馬氏にスポットを当てるなら、国旗・国歌法制定当時、文部大臣の職にあった有馬氏に、この法律の運用に関する同氏の国会での答弁に照らして、さらには、言論・思想の自由の府ともいうべき大学の総長を歴任した有馬氏に、日の丸・君が代をめぐって今、日本で起こっている事態について、所感を尋ねる質問なり、別途の記事なりがあってしかるべきではなかったかということである。

国旗・国歌法制定時の文部大臣として
 「朝日新聞」も報道したように、この530日と66日に、最高裁は、国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付ける東京都立校の校長の職務命令は個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、職務命令は学校の式典の場で儀礼的な所作を求めるものであり、そうした場面では生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保する必要があるため、個々の職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動に制限を課すことは許容され、思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するとはいえないとする判決を言い渡した。また、大阪府ではこの5月議会で国旗掲揚時に起立して斉唱することを教職員に義務付ける条例を制定したが、これに続き、9月議会では、君が代強制条例に従わない教職員を懲戒免職も含め、処分することを定める条例を上程することを検討中と伝えられている。まさに憲法19条が危機に瀕する状況といっても過言ではない。

 ところで、有馬氏は国旗・国歌法を審議した国会の場で文部大臣(当時)として次のように答弁している(下線は私の追加)。

○国務大臣(野中広務君) 広島県立世羅高校の石川校長がみずからの命を絶たれましたことは、今、亀井委員から御指摘がございましたように、県下それぞれの学校における国旗の掲揚、国歌の斉唱に端を発して、そして教職員組合や解放同盟等の激しい糾弾の中でついにみずからの命を絶たれたということを私どもも承知をしたわけでございまして、まことに痛ましい事件でございました。心から改めて深い哀悼の意を表したいと思うわけでございます。
 今、それから数カ月を経た経過を亀井委員からお伺いをしながら、私は、一人の校長先生を死に追いやるに至って、その後一人も線香を上げることがないということは、その先生を死に追いやるところまで追い込んだ先生方がどうして一人も石川校長の心情をわかってやろうとしなかったんだろうと思うと、まことに教育の現場を思う者として非常に悲しく思うものでございます。その背景となるものにまた問題を感じるわけでございます。
 その後、先日も触れましたけれども、民放の報道を通じまして小森委員長が言っておる宮澤大蔵大臣に対する言葉を聞きながら、私はこういう先生方が石川校長の霊前に行きたくとも行けない背景を知らざるを得ない。そう考えるときに、やはり国旗・国歌を法文化して明確にして、そしてこれが強制じゃなく、強圧じゃなく、学校の場で自然に、そして過去の歴史のゆがめられたところは率直にゆがめられたところとして教育の中にこれが生かされて、そしてそれがこれから我が国の国旗・国歌として定着をしていくように、そして学校現場では、先ほど申し上げましたように、強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が私は必要ではなかろうかと思うわけでございます。再びこういうことによって先生が死を選ばれたり、あるいはそのことが新たなる差別につながるようなことのないように、我々は文部省を含め万般の努力を重ねてまいらなくてはならないと思うわけでございます。

○国務大臣(有馬朗人君) ただいま御答弁になられました官房長官と私は考え方を全く同じくしている人間でございます・・・・・・・

○国務大臣(有馬朗人君) 内心の自由については今まで御答弁申し上げたとおりでございますが、学習指導要領に基づくことについて一つ確認をさせていただきたいと思います。教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従いまして教育指導を行わなければならないものでございまして、各学校においては、法規としての性質を有する学習指導要領を基準といたしまして、校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は国旗・国歌に関する指導を含め教育指導を実施するという職務上の責務を負うものでございます。本法案は、国歌・国旗の根拠について、慣習であるものを成文法として明確に位置づけるものでございます。これによって国旗・国歌の指導にかかわる教員の職務上の責務について変更を加えるものではございません
 (以上、いずれも(平成1182日、参議院国旗及び国歌に関する特別委員会記録)

 このように、当時、有馬氏は野中官房長官(当時)が「ある意味において押しつけたり、あるいは強制をするようなものであってはならない、自然にはぐくまれていくような国家づくりをしていかなくてはならない」(平成11730日、国旗及び国歌に関する特別委員会儀録)と明快に答弁したのと比べ、相当、あいまいで腰が引けた答弁ではあったが、国旗・国歌法の制定によって教員の職務上の地位に変更が加えられるものではないと繰り返し、答弁した。

国旗・国歌法の行きついた先は
 しかし、その後、上記のように、東京都をはじめ、いくつかの自治体では、国旗・国歌法を援用して学校行事の場において日の丸を掲揚する際に起立して君が代を斉唱することを職務命令として発出し、これに従わない教職員を次々に処分するという事態が起こった。有馬氏は国旗・国歌に対する指導を実施することを教員の職務上の責務と語っている(この点に私は同意しないが)が、ここでいう責務に従わない者を処分することまで有馬氏は是認していたのかどうか、そうした処分は思想・良心の自由を定めた憲法19条に反しないと考えるのかどうかは極めて重要な論点である。なぜなら、身分上の不利益処分を盾に起立・斉唱を迫るのは強制以外の何物でもなく、野中氏の国会答弁と全く同感と答えた有馬氏の言動と相容れないことになるからである。

 有馬氏が東京大学総長、文部大臣の職を離れて、長い年月が経過したが、国旗・国歌法制定に関わる国会審議の場で自らが述べた答弁と相容れない事態が起こったことについて、しかるべき所見を述べる道義的責任があることに変わりはない。さらに、大学教員としての職を経た私としては、言論・思想・良心の自由がここまで蹂躙されている事態に関し、さまざまな場面で発言の機会を得ている有馬氏が、沈黙を続けているのが不可解でならない。

 と同時に、「朝日新聞」がこの時期に有馬氏にスポットを当てながら、同氏が深く関わった国旗・国歌法の制定から派生した君が代強制問題について、有馬氏に何らの見解も質さないことに疑問を感じざるを得ない。「人脈記」欄が有馬氏のことを「一徹の人」と評するのであれば、同氏が過去の国会の場で語った見解に対する「一徹さ」、「こだわり」のほどを質してしかるべきではなかったか? こうしたリアルな現実を直視せず、紙面に取り挙げる人物に賛辞を送るのでは、読者に登場人物の実像を正確に、多面的に伝えることにならない。

元原子力委員会委員長として
 なお、有馬氏は第58代科学技術庁長官に就任していた当時、総理府原子力委員会委員長も兼務したが、 2011327日、新潟県民会館で開かれた日本物理学会 市民科学講演会において「エネルギーと地球環境の未来を考える」と題する講演を行った。私はこの講演を聴いたわけではないが、主催者が作成したチラシによれば、同氏の講演について、次のような紹介文が記されている。「日本の家庭電力を十分供給し、日本の産業を保っていくために、現時点では原子力エネルギーは必要不可欠です。科学と技術を発展させて、安全性と効率をさらに向上させていかなければなりません。」 

 http://w3phys.sc.niigata-u.ac.jp/~jps2011/poster110215.pdf 

 私は原子力の有用性・安全性について様々な見解を述べる学問上の自由は徹底して擁護されなければならないと考えているが、今回の福島原発事故を経験して、原子力の安全性に関する従来の日本のこの分野の科学者の専門家責任が厳しく問われている。そのような中、有馬氏がなおも、「原子力エネルギーは必要不可欠」と説くのであれば、それを正当化する説明責任が従来にも増して加重されている。また、「朝日新聞」に限らず、マスコミが有馬氏の近況を伝えるのであれば、同氏のこうした言動についても質す必要があったと思える。ただし、上の講演の紹介文が有馬氏の実際の講演内容を正確に伝えていないのであれば、有馬氏はしかるべき方法で、その訂正を周知し、原子力の利用、安全性に関する自らの所見を明示されるよう要望したい。

「有識者バブル」を打破するためにも
 昨今、マスコミには「専門家」、「有識者」が頻繁に登場している。しかし、マスコミはそのような肩書きで大学人、文化人、評論家を登場させるのであれば、各人の「専門家」たるゆえん、「有識者」たるゆえんを読者が納得できるような人選をし、言動の一貫性、時の政権与党からの自立性を質すのがメディアに求められる報道責任である。それなしには、報道機関は自らが「有識者バブル」の発生・普及に加担することを免れないのである。

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教育の本旨に背理する最高裁の君が代命令合憲判決

 66日、最高裁第一小法廷は学校行事で教職員に日の丸起立・君が代斉唱を指示した東京都の校長の職務命令が、憲法19条の保障する思想、良心の自由に反し、違憲かどうかが争われた訴訟の上告審判決で、5月30日の第2小法廷判決に続き合憲と判断した。
 今回の判決の骨子は、国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付ける職務命令が個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、本件職務命令は学校の式典の場で儀礼的な所作を求めるものであり、そうした場面では生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保する必要があるため、個々の職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動に制限を課すことは許容され、思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するとはいえないと判断した点にある。しかし、私は以下の理由により、この判決には根本的な誤りがあると考えている。

自主自律の精神の涵養に背理する判決
 第1は、「生徒への配慮も含めた教育上の行事にふさわしい秩序」とは何かを一切、説明せず、「式典の場での儀礼的な所作」といった、合憲性を争う裁判にはおよそ疎遠で不確定な文言を引いて、かかる「秩序を確保する必要」を、憲法19条が保障した思想・良心の自由に優越させてしまった点である。
 宮川光治裁判官の少数意見でも指摘されているように、東京都立高校では国旗・国歌法施行後も少なくない学校の校長は式典において内心の自由告知を行い、一部教職員に不起立不斉唱行為があったものの式典は支障なく進行していた。このような経過からして、式典の秩序を乱す原因を一部教職員の不起立不斉唱行為に帰すのは現場の実態を無視した虚偽の認識である。式典の秩序を乱した原因を挙げるとすれば、職員を派遣してまで式の進行を監視し、命令に従わない教職員を不利益処分に課してきた都教委の理不尽な「踏み絵」指導にこそあったといえる。

 第2は、本判決は学校教育が目標とする「自主自律の精神の涵養」に背理するという点である。
 文科省が20083月に行った「君が代」に対する意識調査では、君が代の歌詞の意味を正しく解説できたのは小学生では1割以下、中高生・保護者でも3~4割程度だったという。そして誤答の中では、「君が代は」を「君が弱っ」(お前、弱いなーの意)と解釈する例、「千代に八千代に」を「千代・八千代という姉妹」と受け取る例、「さざれ石の」を「下がれ石野」(石野さんを退席させる)と解釈する例などが多かったといわれている。これほどに意味を理解できていない歌詞を斉唱するよう強制するのは教育ではなく「調教」であり、個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養う」ことを謳った教育基本法第2条2に真っ向から反する行為にほかならない。

 このことからすれば、断罪されるべきは、自らの歴史観、良心に反する行為を強制されない自由を行動で示した教職員ではなく、「形から入り形に心を入れればよい」、「形式的であっても立てば一歩前進だ」などといった方針で国旗・国歌に敬意を払うよう強制した都教委の反教育的行為である。なぜなら、「形から入り形に心を入れればよい」などと呼号するのは、行政権限を振りかざして個人の内心に手を突っ込む野卑な行為であり、これこそ、思想・良心の自由を保障した憲法19条を蹂躙するものだからである。
 また、私は自分の歴史観からして国歌・国旗に敬意を払う意思を持っていないが、「形式的であっても立てば一歩前進だ」などと言って、起立を強要すること自体に意味を置く行為は国旗・国歌への敬意を冒涜するものであり、自己欺瞞でもある。

社会的儀礼、多数の意思でも侵せない個人の良心の自由
 3
第3は、本判決は学校教育が目標とする「個人の価値の尊重」に背理するという点である。
 先に挙げたように、本判決は国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付けた都教委の10.23通達と、それに従った校長の職務命令は個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、個々の教職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動をするのは「社会一般の規範等と抵触する」とみなして、憲法19条に抵触しないと判示した。
 しかし、行政上の不利益処分(これには「再発防止のため」と称して行われる研修を受忍することに伴う精神的身体的苦痛も含まれる)を予告して起立・斉唱を強要する行為は露骨な「直接的」指導であり、これを「間接的制約」などと表現して、軽微な制約であるかのように印象づけるのは反近代的な「踏み絵」を突き付けられた教職員の苦悩に対する想像力の欠如を物語るものである。そもそも自分の内心に反する外形的行為を強制されない自由も含めた個人の内心の自由は、社会の多数の意思を以てしても制約されない絶対的自由である。こうした精神的自由権に対する制約(実態は不利益処分を予告した脅迫)を「社会一般の規範等」などという茫漠とした価値で正当化した最高裁は憲法の番人たる職責を放棄したのも同然である。

今に生きる内村鑑三の静かなる無意識の「愛国心論」
 かつて私はこのブログに「今に生きる内村鑑三の『愛国心』論」と題する記事を掲載した。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_65ff.html
 その中で紹介した内村鑑三の愛国心論を引いておきたい。

 「愛国心が純粋にして真実なる為には、其は無言にして無意識ならざるべ可からず。真実なる人にして 己が国に対し熱裂なる愛を有せざる者は有り得ざるなり。・・・・・・我等に真の人を示せ、然らば彼の愛国心を保証せん。然れ共、人の真心は其愛国心に依て保証すること能はざるなり、そは愛国心は餘りに屢々『悪漢の最後の拠り所』なればなり。」

 「しかして愛国心とは、我等が己れの国に負う明白なる義務を果すこと以外の何物なりや!隣人に親切 なること、貧しき者乏しき者に同情すること、謙遜にして鄭重なること、等々は、我等の見る所に依れば、 国家の拡大を策し我国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合は其以上に愛国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要とするものは、深き、無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあらざるなり。」
 (「病的愛国心」『万朝報』1898311日掲載)

 私は隣人への愛情と国家への熱愛を同一視することはできないと考え、無意識的にも愛国心を自分の内面に取り込む必要を感じていないので、この点では内村鑑三の愛国心論とは不一致がある。しかし、国旗・国歌への「敬意」を強制する権力、そしてそれを免罪する司法によって学校現場での思想・良心の自由が窒息させられる現実は、広く社会全般の思想・表現の自由まで窒息させられる危険が切迫していることを告げる「カナリア」といえる。恐ろしいのはこうした思想・良心の自由の侵害を追認する司法の判断を式典の「マナー論」、「社会の常識論」で受容してしまう市民の感性である。このような感性が社会に浸透している状況だからこそ、「深き、無言の愛国心」を本旨とし、「騒々しき愛国心」を拒んだ内村鑑三の思想が放つ理性の輝きを再評価したいのである。

 庭に咲いたアマリリス(6月5日撮影)
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 夕方、巣に戻ってきた子ツバメ(6月4日撮影)
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最終講義~教室では8ヶ月早い私の卒業式~

 今年度、私は本郷キャンパスで東京大学経済学部の34年生向けの夏学期授業科目「財務会計」を担当している。そういうわけで、今年度で東大教員の定年を迎える私にとって、通年開講の学部・大学院の演習・論文指導は残っているが、教室での講義は710日の「財務会計」の授業で終わることになった。予定していた講義内容は前回(77日)の授業で終わらせ、最終講義では今学期の講義を締めくくると同時に、東大での私の卒業式の意味も込めて、近年の内外の会計学界の動向について私が感じるところを話す準備をしてきた。
 特別、意気込むこともなく、あわただしい日課をこなしながら、ストック・オプションの費用認識の根拠をめぐる議論を題材にして、「会計と実体経済」と題して話す準備をして来たが、まじかになって連れ合いと娘が聴きに行くと言い出した。教壇で話す姿を家族に見られるのは教師生活初めてのことなので、緊張気味になった。
 かなり、欲張った分量になったが、なんとか前日に本体資料と参考資料を仕上げ、教室では時間内にすべてを話すことができて、ひとまずほっとした週末を過ごしている。
 この間、資料準備、配布、講義アンケートの配布と回収を手伝ってもらった多くの人たち、講義に静かに聴き入ってくれた受講生の皆さんに謝意を表したい。ただし、教室での講義は終わったが、当然ながら、冬学期も大学院、学部の演習と論文指導は続くので、正式のお礼はすべてが終わる来年3月まで待つことにしたい。
 ここで、最終講義に使った本体資料と参考資料を掲載しておく。なお、これら資料は近く発表する予定の論文でも利用するので、引用・転載は控えていただくよう、お願いする。

本体資料:「会計と実体経済~レトリック会計学を超えて~」
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/accounting_realworld20090710.pdf
参考資料:
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/materials20090710.pdf

 これらの資料をご覧になってもなじめないという方が少なくないと思う。そのような方にも、私がたどり着いた会計観の一端を伝えることができればという気持ちから、講義の冒頭で話した「日本の会計学界に思うこと」の部分を以下に貼り付けることにした。

 ******************************************************************

1.
プロローグ~日本の会計学界に思うこと~
 (1)レトリック会計学の危さ

*修辞を挿入・援用して会計(学)をめぐる焦眉の論点をずらしたり、争点に答えを出したかのような錯覚に自他を陥らせたりする議論が横行しているのではないか? 
 *そうした風潮が、多数説や既存の会計基準を安直に受け入れたり、わかったふりをして多数説や既存の会計基準に追随する風潮を生み、会計学研究者の自律性を蝕んでいるのではないか? これから会計を学ぼうとする人たちの自立した思考を育てにくくしているのではないか?
 *題材による検証 ~買入のれんの償却vs減損論争における自己創設のれん置換論の吟味~  <資料1>を参照 
 ・買入のれんを規則的に償却しないことは、買入のれんを自己創設のれん(資産として計上することを禁じられたもの)に置き換えることを意味するという議論は正当か?
 ・この議論は、当否を論証すべきこと(買入のれんは規則的に減価する)を前提においた一種の循環論ではないか?
 ・論証すべきことを前提に挿入して、特定の結論をそれと意識させず誘導するレトリックではないか?

(2)実体経済との対応関係を無視・軽視した会計自己完結型の会計基準論の危さ
 *会計固有の概念・原則で会計問題を自足的に解決しようとする議論に危さはないか?
 *抽象度の高い概念フレームワークから、たいていの会計基準が演繹できるかのように過信・錯覚し、会計基準と実体経済の対応関係に対する関心が希薄ではないか? 
 *会計基準をめぐる意見の不一致を目的観や方法論(○○観、○○アプローチ)の違いに安易に還元していないか? 不一致の原因はむしろ、事実認識の違いにあるのではないか?
 *題材による検証~付帯サービス付き製品販売の会計処理~<資料2>を参照
  ・単一要素取引説と複数要素取引説の違いは、認識しようとする負債の違い(負債性引当金か、繰延収益か)という会計上の負債観の違いにあるかの外見を呈する。しかし、実際は、顧客から受け取る対価を単一種類のものと見るのか、複数の種類なら成ると見るのかの違いに起因している。こうした対価の認識の違いは、アフタ-・サ-ビスが付帯している製品の価格の方が付帯していない製品の価格よりも割高であるという、会計外の経験的事実(プライシング)に還元することができる。そうすることによって、複数要素取引説の方が事実写像的であると考えられる。
 (以下、省略。上記の本体資料を参照いただきたい。)

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国歌斉唱の拒否を理由に再雇用せずは違法――東京地裁判決

 「早く教室に戻って生徒に教えたい」
 ―-嘱託教員としての職場復帰の可能性を開いた貴重な判決――

 昨日(
27日)、東京都が卒業式で国歌に向って起立して、斉唱しなかったことを理由に、定年退職の後、嘱託職員として再雇用しなかったことの違法性をめぐって争われた裁判で、東京地裁(中西茂裁判長)の判決が言い渡された。

判決要旨
http://www.news-pj.net/pdf/2008/hanketsu-20080207_1.pdf


 これを見ると東京地裁は、教職員に国歌を歌うよう命じても特定の思想を強制したとはいえないと判断している。しかし、それだけの理由で再雇用しないのは合理性や社会的相当性を著しく欠く、また、原告の教職員らは積極的に式典を妨害しておらず、東京都はこれら教職員の定年までの勤務成績を総合的に判断した形跡がない、と指摘して、これら教職員の再雇用を拒むのは「裁量を逸脱、乱用している」とみなし、東京都に原告1人あたり約
212万円の損害賠償を命じた。

 この判決を伝えたニュース中に、喜びをかみしめる原告の一人の次のような言葉を見つけた。

 「君が代を歌わず、たった40秒間座ったままでいただけで再雇用の機会を奪われ、憤りを感じていた。君が代の強制が憲法に違反しないとされたのは残念だが、再雇用を拒否したことが違法と認められたことはうれしい。早く教室に戻って生徒たちに教えたいので、都と再雇用の交渉をしたい。」

 この言葉が今回の東京地裁判決の意味を一番的確に表わしていると思えた。しかし、ここでは判決の限界と意義を門外漢なりにもう少し立ち入って吟味しておきたいと思う。


 判決の重大な限界
 東京地裁が、学校行事において教職員に対し、国歌に向って起立、斉唱を強制すること自体に違憲性はないと判断した点は判決の大きな限界である。私がそう考える理由は以下のとおりである。

1.国旗・国歌は強制しないという立法経緯を無視
 判決は「卒業式等に参列した教職員が、国歌斉唱時に国旗に向って起立して、国歌を斉唱するということは、国旗及び国歌に関する法律・・・・にかなうものである」という。しかし、今回の訴訟で問われたのは起立・斉唱しない教職員を不採用、停職等にまで及ぶ処分をしてまで強制することの違法性である。これについて、判決は国旗・国歌を法制化した前後の次のような立法経緯を全く顧みていない。

*「国務大臣(野中広務君) 国民に対しまして、例えば法律によって国旗の掲揚とか君が代の斉唱を義務づけるべきであるとか尊重責任を詳細に入れるべきであるとか、こういった御議論もあるわけでございますけれども、基本的には私、思想及び良心の自由、すなわち憲法十九条にあります関係等を十分踏まえて、そしてこれは対処をしていかなくてはならない問題であると思うわけでございます。」(1999312日、参議院総務委員会会議録より)

*「内閣総理大臣(小渕恵三君) <中略> 法制化に際し義務づけを行わなかったことに関する政府の見解について、お尋ねでありました。御指摘の政府の見解は、政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務づけを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている旨を明らかにしたものであります。」(1999629日、衆議院議院本会議会議録より)

 その他詳細は、このブログのサイドバー「資料集成」欄に掲載している「国旗・国歌の強制をめぐる国会審議録(抄録)」を参照いただけると幸いである。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokkikokkasingirokushoroku.pdf

2
.思想・良心の自由が侵害されている現実を直視せず
 判決は国旗に向って起立して国歌を斉唱することを促した校長の「職務命令が原告らの思想及び良心の自由を制約するものであるなどということはできない」という。しかし、こうした職務命令に従わない教職員を次々と処分(停職、再雇用の拒否を含む)したり、再発防止の名目で呼び出し、長時間、個室に閉じ込めて「研修」を強要するのは、国旗・国歌に対する歴史観、思想・信条を問いつめ、精神的肉体的苦痛を加えて「思想の転向」を迫る残忍な行為にほかならない。これでも思想の自由を侵害したことにならない、と判断するのは現実に対するあまりにも無頓着な見識というほかない。
これでは法の番人たるべき裁判官としての資質、人権感覚が疑われてもやむを得ない。

 判決の重要な意義
 しかし、そのような限界があるにせよ、判決が、

 「原告らの不合格は、従前の再雇用制度における判断と大きく異なるものであり、本件職務命令違反をあまりにも過大視する一方で、原告らの勤務成績に関する他の事情をおよそ考慮した形跡がないのであって、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものといわざるを得ず、都教委はその裁量を逸脱、濫用したものと認めるのが相当である。」

と判断したことは、処分を見せしめにして国歌・国旗を強制する教育を強引に進めてきた東京都の違法行政を断罪した点できわめて大きな意義を持つ。

 判決を伝えなかった夜7時のNHKニュース
 昨夜7時のNHKニュースを最後まで見たが、放送された項目、それに当てられた時間(壁かけ時計でみた目分量なので、30秒程度の誤差はあり得るが)は次のとおりだった。

前時津風親方、逮捕間近     約11
中国制ギョウザ中毒問題     約  4
北京オリンピックの馬場馬術に
過去
最高齢の選手が出場     約  3
衆議院予算委の模様           2
米大統領予備選 民主党2人の
候補
の資金集めの状況                    2.5
米南部での竜巻                          2.5
JALでの個人情報流出に関する
訴訟
                                           1
奈良で最大級の石室発見       約  1
足を金具で挟まれた白鳥を保護    約  1
気象予報                                       約  2
                                     
 ニュース終了後、NHK視聴者センターへ電話をし、限られた時間枠のなかで、どのようなニュースにどれだけの時間を割り当てるのかの判断に関して大きな偏りがあったという意見を伝えた。
 最後になって、応対者は、
 「厳しいご意見があったことを担当に伝えます。」
と返答したので、
 「厳しい意見ではなく、普通のバランス感覚、見識を持った人間なら感じる意見です。」
と告げて10分ほどのやりとりを終えた。



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教育に自由の風を吹き込んだ9.21東京地裁判決

10月8日付で発行された、「東京『日の丸・君が代』強制反対裁判をすすめる会」のニュース誌『リベルテ』第5号に表題のようなタイトルで小論を寄稿した。そのPDF版は次のとおりである。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/liberte_opinion.pdf

本稿はさる9月21日に言い渡された、国旗・国歌の強制反対裁判に対する東京地裁判決について論評したものである。この裁判は正式には「国歌斉唱義務不存在確認請求訴訟」(通称、予防訴訟)と呼ばれている。平たく言うと、卒業式等の学校行事において起立して国歌を斉唱する義務が教職員にはないことの確認を司法に求めたものである。

これについて東京地裁は原告の訴えを全面的に認め、国旗に向かって起立し、君が代を斉唱することを義務付けた東京都教育委員会の通達とそれにもとづく校長の職務命令を、違憲・違法と断じた。詳細は本文を一読いただけると幸いである。

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国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(2)

 NHKには国歌・国旗を助長する責務があると公言した国会議員

  NHKの決算を審議した今年6月15日の参議院総務委員会で、質問に立った柏村武明議員はトリノオリンピックや日本ダービーの放送場面で、NHKが日の丸・君が代を放映しなかったことを責め立てる発言を繰り広げた。
  また、昨年3月28日に放送された「クローズアップ現代」が、国旗・国歌の強制に揺れる東京都の教育現場の実態を伝えたことを取り上げ、都教委の指導が「強制」であるかのように印象付けたのは「非常に偏った放送」であったと非難した。しかし、強制ではないといいつつ、柏村議員は同じ質問の中で、

 「国歌・国旗はもう法律までなっているわけですからね。法律にまでなってて、国の誇りですよ。旗も歌も。そうすると、やっぱりそれを助長するような責務があるじゃないでしょうかね、NHKは、公共放送としてはですよ。」 (参議院総務委員会、2006年6月15日、会議録より)

とも述べ、NHKに対して国旗・国歌の放送を事実上、強要する発言まで行った。

  このように、国旗・国歌を助長することをNHKの責務とまで断じ、日の丸・君が代の放映をNHKに迫るのは公共放送と国営放送の区別さえわきまえない稚拙な議論である。しかし、稚拙とはいえ、NHK予算、決算の承認という職権を持った国会議員が国会質問に名を借り、NHKの番組内容に干渉するのは、表現の自由を保障した憲法第21条、あるいは、放送番組編集の自由を定めた放送法第3条に違反する言動であることは明らかである。詳しくは、私も呼びかけ人に加わって同議員宛に2度にわたって提出した次の文書で述べられているので参照いただきたい。

  国会審議に名を借りた柏村武昭議員のNHKに対する政治介入発言に抗議し、発言の撤回・訂正を求める申し入れ書(2006年6月29日提出)
   http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kasimuragiinhenomosiire1.pdf

  柏村武昭議員の回答に対する私たちの見解(2006年7月27日提出)
   http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kasimuragiinnokaitonitaisurukenkai.pdf

  また、柏村武昭議員は自分のホームページでこの件に触れて、「校長が学習指導要領に基づき法令の定めるところに従い、所属教職員に対して本来行うべき職務を命じることは、当該教職員の思想良心の自由を侵すとはいえません」と記している。はたしてそうなのか? 君が代を起立して斉唱することは法令の定めるところに従った、教職員の本来行うべき職務なのか?

 「国旗・国歌の義務付けはしない」、「生徒指導の結果まで求めない」ーーこの政府答弁はどこへ行ったのか?―-

  この点を検証するため、7月29日付けで柏村議員宛に提出した上記の文書には、〔資料2〕として、「国旗・国歌の強制をめぐる国会審議録(抄録)」が添付されている。これは1999年に国旗・国家法が成立する過程の国会審議の模様を抄録としてまとめたものである。日の丸・君が代強制の動きが全国化しつつある今日、この資料を1人でも多くの方々に読んでいただきたいと思い、そのURLを掲載しておく。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kokkikokkasingirokushoroku.pdf

  この中で、たとえば、小渕首相(当時)は1999年6月29日に開かれた衆議院本会議で次のように答弁している。

 「・・・・・・法制化に伴い、国旗に対する尊重規定や侮辱罪を創設することは考えておりません。・・・・・・政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務づけを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている旨を明らかにしたものであります。」(下線とゴチック体ーー醍醐追加)

  ところで、この小渕首相の答弁にある「国民」の範囲が2002年6月5日に開かれた衆議院文部科学委員会で問題になった。この「国民」には教員、生徒も含まれるのかどうかを質された遠山文部科学大臣(当時)は、「国民に教員それから児童生徒も含まれているという趣旨であろうかと思います」と答えている(下線ーー醍醐追加)。

  また、上記の国会審議録(抄録)には、本年3月29日に開かれた衆議院文部科学委員会における銭谷政府参考人の次のような答弁も収録されている。

 「・・・・・・国旗・国歌につきまして、校長、教員は児童生徒に対し国旗・国歌の指導はするわけでございますけれども、これは指導の結果までを求めるものではなく、あくまでも教育上、指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。お話にございました当時の初等中等教育局長の答弁も、指導の結果、最終的に児童生徒が、例えば卒業式にどういう行動をとるか、あるいは国旗・国歌の意義をどのように受けとめるか、そういうところまで強制されるものではないと答弁したものでございます。そのことは、児童生徒に対する指導の結果まで求めるものではなく、あくまでも、教育指導上の課題として受けとめて指導を進めることが必要であるという趣旨でございまして、その立場に変わりはございません。」(下線ーー醍醐追加)

  しかし、現実はどうかというと、前回の記事でも記したように、東京都では、卒業式などにおいて国歌を起立斉唱しなかったことなどを理由に、これまでに345人の教員が停職、戒告、減給、嘱託の解雇・不採用などの処分を受けている。また、今年3月の都議会で中村正彦教育長は生徒が起立斉唱しない場合は、教員の指導に問題があるとみなし処分の対象にすると答弁している。

  さらに、東京都町田市では昨年1月、市教委が国歌斉唱の声量を平素から指導するよう通知を出している。広島県でも昨年3月の卒業式で起立しなかった生徒数を調べ、公表までしている。また、広島県教委は昨年4月13日、学校行事における君が代斉唱の歌声の大小を、「式場内に響き渡る歌声であった」、「響き渡るとはいえないが歌声は十分聞こえた」、「歌っているとはいえない歌声であった」の3段階に分けて選択させる形式の調査を行っている。

  筆者はもともと、国旗・国歌を国の誇り、愛国心醸成の具として生徒に指導すること自体を否定する立場であるが、個人の信念として国旗・国歌をどう受け止めるにせよ、上記のような実態は、もはや「教育上の課題として」国旗・国歌を指導していくといったものではなく、「指導の結果を求める」行為そのものである。

  また、このように処分をちらつかせた「指導」は、教員にしてみれば、自分の思想・良心に背いてでも服従しなければ大小の経済的不利益と甚大な精神的苦痛を伴うものであるから、自分の「生活に影響を受ける」ことは明白であり、実質は「義務化」そのものと言ってよい。
  これでは、国旗・国歌法制化およびその後の国会での政府答弁は何だったのかということになる。
  
 「強制」というより「強迫」
 
 こうした東京都の学校現場の実態を「クローズアップ現代」が「強制」と伝えたのはきわめて自然な表現であり、それを「偏向」と咎める側の目こそ、歪んでいるというほかない。ただ、こうした実態を表現する言葉としては、「強制」よりも「強迫」の方が適確なように思われる。なぜなら、事前に処分をちらつかせ、声量指導までして起立斉唱を徹底させる指導は、「力によって他人を従わせること」(三省堂『大辞林』第2版)を意味する「強制」よりも、「民法上、相手方に害悪が生じる旨を知らせて畏怖心を起こさせ、自由な意思決定を妨げること」(同上)を意味する「強迫」の方がぴったり当てはまるからである。

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国旗・国歌をめぐる「内心の自由」を考える(1)

保護者・生徒・校長にまで広がる国旗・国歌強制の波

  東京都では卒業式等の学校行事で国歌斉唱の時に起立しなかったことを理由に停職・戒告・減給・嘱託の解雇・不採用などの処分を受けた教員が今年の629日現在で345人に上っている。こうした動きは東京都にとどまらない。広島でも、君が代斉唱で起立せずに懲戒処分された教員は2001年の入学式以降、延べで161人(広島市を除く)に達している(『毎日新聞』20065.13日)。
  
しかし、最近は、処分をちらつかせて国歌の起立斉唱を強制する動きが生徒、校長、市民にまで直接・間接に及んでいる。
  
たとえば、東京都では、さる316日の都議会予算特別委員会で、都立定時制高校の卒業式で卒業生の大半が起立して君が代を斉唱しなかった問題が取り上げられ、中村正彦教育長は「学習指導要領に基づく教職員の指導が適切に行われていれば、考えられないこと。処分の対象になる」との見解を改めて示した(『朝日新聞』2006316日)。こうなると、教員は生徒に起立斉唱させることを義務付けられたのも同然であり、起立斉唱の強制は教員を介して生徒にも及ぶことになる。
  
また、戸田市では、613日の市議会で「君が代斉唱の際に起立していない来賓がいる。市教委は把握しているのか」との質問に対し、伊藤良一教育長は「(起立しないのは)はらわたが煮えくりかえる」、「儀式の秩序を乱す」、「事実なら把握しなければならない」と答弁した(『朝日新聞』2006620日)。(ただし、後日撤回)
  
さらに、広島県教育委員会は714日、今年3月の卒業式で君が代斉唱の際に、起立しなかった教職員がいたにもかかわらず、それを報告しなかったなどとして、県立養護学校長を減給10分の1(6カ月間)の懲戒処分にしたと発表した(『毎日新聞』2006715日)。

「内心の自由」を保障するとは、どういう意味か?

  こうした国旗・国歌の強制に不服従を通して処分を受けた各地の教員は行政を相手どって処分取消の訴訟を起こし、法廷内外で争う構えを崩していない。これを支援する保護者、市民、研究者などの輪も広がりを見せている。
  
これらの裁判で争点になっているのは、日の丸・君が代をどう見るかではなく、国旗掲揚、国歌の起立斉唱を義務付けることが憲法第19条で保障された思想・良心の自由、特に、「内心の自由」の侵害にあたるのかどうかである。これに関する行政側の公式見解を要約すると、次のとおりである。

・学習指導要領に基づき国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう教員に求めた校長の職務命令に従うのは公務員たる教員の義務であり、処分はこの義務に違反したことを理由とするものであるから、内心の自由を侵すものではない。

・内心の自由は、それが内心に止まるかぎりは絶対的に保障されるが、学校の公式行事等の場でそれを外形的に表すことについては、公務員としての職務上、制約を受ける。

このうち、一つ目の問題には、学習指導要綱の性格、職務命令が正当で法的拘束力を持つための要件は何かなど、間口の広い論点が関係するので、短文を旨とするブログでは言い尽くせない。そこで、この記事では2つ目の「内心の自由」を保障するとはどういうことかについて考えることにしたい。
  
私は以前、内心と内心を外に向かって表現する行為を分断し、外形的表現行為を制約したからといって、内心の自由を侵したことにはならないという解釈を批判して次のように述べた。

「思想、良心の自由はそれを表現する(起立しない、歌わないという不作為も含めて)自由を伴わなけれ  ば、空疎なものとなるのは自明です。」

  しかし、最近改めて「内心の自由」の意味を調べ直したところ、こういう批判は的確ではないかもしれないと思い始めた。それは行政側の解釈に理があるという意味ではなく、思想・良心の自由を保障した憲法第19条の本旨をどう読み取るのかに関わっている。憲法には「内心の自由」という表現はなく、第19条の思想・良心の自由の解釈から導かれる概念といわれている。
  
つまり、憲法第19条で保障された思想・良心の自由には、国民誰しも自分がどのような思想を抱いているかを露見させることを強要されないという自由、いわゆる「沈黙の自由」も含んでいるというのが定説なのである。また、この沈黙の自由には、国民は自分の思想・良心とは異なる見解を表現することを強制されないという意味も含まれるという学説もある。
  
このようにいうと、裁判において証人に罰則付きで出頭を命じ、宣誓のうえ証言を義務付けるのはどうなのかという疑問が起こるかも知れない。しかし、証言義務とは「自己が知り得た事実」に関する告示の強制であって、思想・良心の告示とは別だとみなされえている。
  
では、「内心の自由」をこのように「沈黙の自由」と捉えることが、近年、各地の学校現場で起こっている国旗・国歌強制の問題を考えるうえで、どのような意味を持つのか――これを次に検討してみたい。(続)

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