死刑支持は85.6%ではなく、52.6%と伝えるべき~NHKに意見を提出~

 330日、NHKニュース番組制作担当宛てに、「死刑制度に関する内閣府世論調査の報道のあり方について」と題した意見を提出した。
 詳しい経過は、このブログの1つ前の記事に書いたが、意見の要点は、2009年に内閣府が行った死刑制度の存廃に関する世論調査の集計結果を多少なりとも冷静に読めば、「死刑支持は85.6%」ではなく、「死刑支持は52.6%」と伝えるのが的確な報道だ、ということである。
 なお、文中、「人が人を殺す」と書いたが、死刑は私人間の行為ではなく、私人に対する国家の意思行為であることを銘記しなければならない。

 
 今回、小川敏夫法務大臣が3人の死刑執行に踏み切ったことを伝えた3月30日の朝日新聞朝刊(2面)では、「法務省、『転換』を歓迎、法相代わるたび機会うかがう」という見出しの記事を掲載した。その中で、小川氏が法務大臣に就任直後から法務省刑事局は死刑囚2人を候補に挙げ、死刑執行の署名を求めていたと記している。

 こうした背景を知るにつけ、政府が実施・集計・公表する世論調査をメディアが国民に伝えるに当たっては、設問の仕方、回答の選択肢の設け方、集計の仕方に恣意性はないか、年代別・性別・職業別など調査対象ごとの回収率に偏在はないか等を原資料にあたって主体的に吟味し、必要とあればしかるべきコメントを添えて報道する自律性が強く求められることを痛感させられる。そして、常日頃から政府の言動にこうした鋭利な注意力、理知的な懐疑心を研ぎ澄まし、報道に活かすことがメディアの国家「からの」の自由、国家「への」自由の要であると私は思う。

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                     2012330
NHK
ニュース番組制作担当 御中

  死刑制度に関する内閣府世論調査の報道のあり方について

                        醍醐 聰

 昨朝(329日)、殺人などの罪を犯した3人の死刑囚に対する死刑が執行されました。おととし7月以来、18ヶ月ぶりの執行でした。
 昨夜7時のNHKニュースはこの件を伝えた後、死刑制度の存廃について24ヶ月前(200911月~12月)に内閣府が行った世論調査を画面に示し、「死刑を容認する国民は約85%に上っている」と伝えました。今朝の各紙も、小川敏夫法務大臣は「85.6%が死刑容認」という内閣府の公表数字を挙げて、「死刑執行は国民の支持を得ている」と語ったと伝えました。たとえば、朝日新聞朝刊は内閣府が公表した調査結果を基に折れ線グラフを掲載し、2009年の時点では85.6%が「死刑存続(「存続」と表記していることに要注意)を支持」、「死刑廃止を支持」は5.7%と作図しています。

 しかし、私は昨夜のNHKのニュース画面にこの85.6%という数字が「場合によっては死刑もやむを得ない」という選択肢への回答だったことが映されたのを見て奇異に思いました。「場合によっては」という条件を付けた死刑に関する意見を「死刑容認」と一括りにカウントしてよいのか? こうした回答は「死刑の是非はケースバイ・ケース」という意味だと解釈することも大いにありうるのではないか? ・・・・・NHKのニュース制作担当者にはこういう素朴な反問は思い浮かばなかったのだろうか? という疑問です。

 もちろん、死刑制度をめぐっては世論の意思は重要な要素ですが、制度の存続を支持するにせよ、支持しないにせよ、それぞれの意見の根拠――死刑制度は犯罪の抑止力になるという主張は実証されているか? 応報思想で死刑を正当化できるのか? 更生の可能性がないことを以て人が人を殺すことを正当化できるのか? 犯罪被害者およびその遺族の求める償い、癒しに死刑を以て応えることが正当かつ望ましい方法なのか、等々――を理知的に検証することが求められます。

 また、より現実的な問題として、近年、わが国では長期に拘留された死刑囚が再審を請求する事例が生まれ、中には請求が認められ、無罪(冤罪)に至る例も生まれています。また、殺人の罪で拘留された被疑者に対する違法な取り調べがあったと法廷で断罪されたり、別人の犯行を示す有力な証拠が提出されたりする事例も生まれています。こうした現実を直視しますと、死刑制度の存廃をめぐっては、無罪か死刑か、死刑が無期懲役かという生死を分ける判断の重みを受け止めた熟議が不可欠です。

 その点を断った上で、死刑制度をめぐる内閣府の世論調査に関するNHKの報道のあり方に絞って意見をお伝えします。
 なにはともあれ、原資料に当たるのが先決です。そこでインターネットで検索しますと、

 「基本的法制度に関する世論調査」平成2112月調査(内閣府大臣官房政府広報室)
  http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-houseido/index.html

というサイトが見つかります。問題の回答集計はこの中の表21(死刑制度の存廃)にあります。その質問事項に対する回答として、次の3つの選択肢が用意され、回答の分布が( )のように示されています(a, b, cは私が追加)。

 内閣府が公表した回答の集計結果:
 
  a. どんな場合でも死刑は廃止すべきである(5.7%)
   b. 場合によっては死刑もやむを得ない(85.6%)
   c. わからない・一概に言えない(8.6%)

 こうした質問形式に私は3つの疑問を感じました。

〔疑問:その1〕 「場合によっては」という条件付き選択肢がなぜ「死刑容認」の回答にだけ付けられ、「死刑廃止」の回答には付けられなかったのか(「場合によっては死刑廃止もやむを得ない」という選択肢がなぜ設けられなかったのか?)

〔疑問:その2〕 「場合によっては」の中味は一様だったのか、様々だったのか? その中味を問うことなく「死刑容認」と括ってしまってよいのか?  

〔疑問:その3〕年代別の回収率と年代別の意見分布の開きを突き合わせて回答結果を吟味しなくてよいのか?

 このうち、疑問12は論点が重なるので一緒に検討します。

 「場合によっては」の内訳も調査されています。なぜそれも伝えないのでしょうか?

 内閣府大臣官房政府広報室の上記のサイトを見ていきますと、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた者を対象にした「将来も死刑存置か」という設問があることがわかります。回答の選択肢としては、「将来も死刑を廃止しない」、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」、「わからない」の3つが用意されていますが、この設問に対する回答の集計結果(表61)は次のとおりです(d, e, f は私が追加))。

  d. 将来も死刑を廃止しない(60.8%)
  e. 状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい(34.2%)
  f. わからない(5%)

 とすれば、死刑制度の存廃に関する世論は次のように集約するのが正しいはずです。
 
  g. 将来とも存続させるべきである(85.6×0.608=)52.6
  h. 現在はやむを得ないが、将来、状況が変われば廃止してもよい(85.6×0.342=) 29.3
  i. どんな場合でも廃止すべきである 5.7
  j. わからない・一概に言えない(8.685.6×0.05=)12.9

 これをもとに言えば、「死刑制度存続に賛成」は85.6%ではなく52.6%と伝える方が正しいことになります
 内閣府あるいはNHKは、hを「少なくとも現在は容認」と解釈したのかもしれませんが、皇室のあり方に関する調査と似て、死刑制度は今日明日に変わるものではありません。したがって、死刑制度に関する世論調査は、単に現時点での容認・否認を確かめるだけでなく、制度の今後のあり方も含めた世論の動向を調査しようとしたものではなかったでしょうか? 「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えた人のうちの34.2%が「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と答えている点に着目しますと、朝日新聞の記事のように、85.6%を「死刑存続を支持」と括るのは明らかに誤りです

 この点で言いますと、hの回答が約3割を占めたことは、少なくない国民の間で死刑制度に関する揺らぎが起こっていることを物語っています。
 にもかかわらず、上記のような報道のあり方では、政府が公表するさまざまな情報や資料を扱うに当たってメディアが備えるべき注意力を欠き、その結果、視聴者に誤った心証を形成させる恐れが高いことは否めません。NHKの上のニュースの中でも、「死刑制度に関する国民的な議論が必要」と語られましたが、これはメディアにとって他人事ではなく、死刑制度をめぐって国民の間で理知的な熟議がなされるよう、必要な判断材料を公共の電波を通して国民に伝えることは公共放送NHKの根幹的な使命です。

 年代別の回収率と年代別の意見分布の開きを無視してよいのでしょうか?

 死刑制度に関する内閣府の世論調査の集計結果を利用する時に、重要と考えられる点をもう一つ指摘しておきます。それは、内閣府の上記のサイトに掲載されている「9.性・年齢別回収結果」の読み方です。また、表21には「死刑制度の存廃」に関する年代別の意見分布が示されています。これら2つの資料をもとに、年齢別の回収率と意見分布をまとめますと次のようになります。

 

(注:以下、意見書に挿入した3つの表はブログにはうまくアップできないので、PDF版のURLを貼り付ける。)

<死刑制度の存廃について:年代別の回収率と意見分布>
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_nendaibetu_shukei_1.pdf

<将来も死刑制度存置か>(年代別の回収率は同前)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_nendaibetu_shorai_no_zonpai.pdf

 これら2つの資料を重ね合わせますと、死刑制度の存廃に関する年代別意見は次のように集約するのが正しいといえます。

<死刑制度に関する年代別の意見集約> 

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/sikei_sonpai_nendaibetu_ikenshuyaku.pdf

 これを見ますと、回収率は年代が下がるにつれて大きく減少すると同時に、年代が下がるにつれて、「将来も存置」が減り、「無条件廃止」、「将来は状況によっては廃止可」が増える傾向が読み取れます。こうした傾向から判断して、仮に年代を問わず、回収率が近似していれば、全体の集計結果は「将来も存置」が減少し、「無条件廃止」、「将来は状況によっては廃止可」が増加したと考えられます。したがって、回収率の年代別の偏りを考慮せず、集計結果だけから死刑制度の存廃に関する世論の分布を忖度するのは不適切です。

 以上をまとめますと、内閣府の死刑制度に関する世論調査から死刑制度の存廃に関する世論を利用するにあたっては、①「場合によっては死刑を容認」という回答を「死刑支持」と括ってしまう恣意的な集計がなされていること、②その前提として、「死刑を容認」が大勢という集計結果を導くような不適切な選択肢や設問の仕方がなされていること、③相対的に「死刑制度廃止」の意見がかなりの割合を占める若い年齢層の回収率が低いこと、に十分留意する必要があります。

 こうした意見をどう受け止められるのか、感想をお聞かせいただけると幸いです。また、今後、死刑制度のあり方を番組制作において取り上げられる場合、上記のような私の意見を参照していただけましたら、幸いです。

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浅ましいのはどちらか?~メディアの自死を意味する消費税増税路線への翼賛~

野田政権に消費税増税をけしかけるメディアの異様な光景
 
 『毎日新聞』は1229日、民主党が今年度中に消費税増税の法案提出を決定したのは先の選挙で同党が掲げたマニフェストに違反するとして同党の9名の議員が離党を表明したのを受けて、「浅ましい年の瀬の混乱」と題する社説を掲載した。この社説は、昨年末に民主党政権が消費税増税や八ツ場ダムの建設再開などを決定したのは、同党が政権交代を果たした選挙の折に掲げた公約は総崩れしたことを意味するとみなし、「党の主要政策の方向と離党議員らの主張はかけ離れており、同じ党にいることがもはや不自然にすら思える」と記している。しかし、そういう一方で、9名の民主党議員が離党に踏み切った行動を「次期衆院選での逆風をおそれ、党に見切りをつけた自己保身」と断じ、野田首相に対して「時期や税率も含めた意見集約と法案化への作業をひるまず断行すべきである」と主張している。これでは野田政権に対して、公約違反も辞さず、消費税増税路線を突き進むよう叱咤激励するに等しい。

 離党した議員に対して、あくまで党にとどまり、マニフェストの履行を執行部に粘り強く迫るべきだと促すのなら道理がある。彼らに、このまま民主党にとどまるよりも離党した方が次期選挙にとって得策という読みがなかったとはいえないだろう。しかし、選挙の時に掲げたマニフェストが総崩れしたと断じながら、それに抗議して党を離れた議員を自己保身と決めつけるのでは論理が支離滅裂であり、公約を反故にしてでも消費税増税路線を突き進めと『社説』でけしかけるのは異様としか言いようがない
  この点では、9人の民主党議員の離党を「公約破りへの警鐘」とみなし、「政権幹部が彼らの行動を支えている国民の怒りを軽んじるなら民主党にもはや存在価値はない」と言い切った『東京新聞』の1229日付けの社説の方が道理にかなっている。

メディアは政治のプレイヤ―ではなくウオッチャーに徹すべき
 論理が支離滅裂なのは『毎日新聞』だけではない。『朝日新聞』は1231日の朝刊に「首相と増税――豹変して進むしかない」という社説を掲載し、野田首相が「『君子は豹変す』という立場で行革にも取り組む」と語った言葉を引き、覚悟を決めて消費税増税を断行するよう迫っている。しかし、行政改革を断行することは、その中味こそ問われなければならないが(注)、一般論としては当然のことであり、野田首相自身、民主党代表選にあたって発表した政見のなかで明言していることである。したがって、それを実行するのに政策を「豹変」する必要は全くない。むしろ、「行財政革が増税の地ならしに使われるようでは困る」(『北海道新聞』20111231日、社説)というのが正論である。

 (注)消費税増税に先立って政治家が「身を切る」努力の証しとして民主党は衆議院議員の定数を80名削減することをしきりに唱えている。また、大半のマスコミもこのような主張にそっくり同調している。はたして、日本の国会議員の定数が人口比で多すぎるのかどうかはこの先の記事で触れたいと考えているが、この問題は消費税増税と何の因果関係もない。むしろ、昨今の民主党の公約破りから、民・自2大政党の基本政策は限りなく近似していることが明らかになった。そうした中で、少数政党の議席の削減に帰着する衆議院の議員定数を削減することは、有権者の政策選択の幅を狭め、少数政党に期待する民意を切り捨てることになる。こうした選挙制度のあり方と直結する議員定数の削減を消費税増税に絡めるのは論外である。

 「豹変」というなら、政権交代時のマニフェストに全く掲げず、政権発足時に4年間は消費税を増税しないと明言した公約を翻して消費税増税路線を突き進むことこそ「豹変」である。朝日新聞の社説がこうした野田首相の発言を引き合いに出して消費税増税を断行するよう激励するのであれば、それは民主党のマニフェスト違反を擁護するにとどまらず、マニフェスト違反を奨励するに等しい
 ところが朝日社説は「8月の党代表選で、野田氏が勝った時点で、増税方針は決着していたのではなかったのか」という物言いで、政府・与党執行部が消費税増税法案の国会提出を決したことがマニフェスト違反にあたる事実から目をそらし、そうした党執行部の「豹変」に反発して離党を決意した9人の民主党議員の行動に非難の矛先を向けている。しかし、このような『朝日新聞』社説子の物言いは事実誤認・無視に基づく支離滅裂な主張である。
 
 まず、昨年8月の民主党の代表選にあたって決選投票を争った海江田、野田両氏が発表した政見のうちの財源論に関する見解を確かめてみよう(以下、民主党のHPより)。

海江田万里氏:
 「基礎的社会保障財源として、景気回復後に消費税導入を検討する。その場合には逆進性に配慮する。」
野田佳彦氏:
 「震災対策における財源措置を含め、財政健全化の道筋においては、税金の無駄使いを徹底的に排除する等歳出面での改革に全力を挙げなければならない。その上で歳入面での改革も併せて実行していく。」

 つまり、消費税増税というなら、野田氏よりも海江田氏の方がその点を明記しており、野田氏は増税についてさえ明記しておらず、「歳入面での改革も併せて実行していく」と記すにとどまっている。なお、代表選の投票直前に同党の全国会議員を前にした演説のなかでも野田氏は「議員定数削減、公務員定数と人件費削減にも全力で戦う。それでも足りないときは国民に負担をお願いするかもしれない」と語っているが、そこでの「負担」が何を指すのか、一切明言していない。

 
つまり、消費税増税というなら、野田氏に敗れた海江田氏の方が、景気回復を前提にして、と断りながらも明確に政見に掲げていたことがわかる。この意味で、朝日の社説が「国民に負担をお願するかもしれない」という野田氏の発言をさして増税方針と読み取り、「8月の党代表選で、野田氏が勝った時点で、増税方針は決着していた」と解釈するのは消費税増税に前のめりする主観に災いされた牽強付会な主張である。そもそも、増税というだけでそれが消費税増税を意味すると了解すべき理由がどこにあるのか?増税=消費増税という論調は自民党政権時代から政府・財務省が常用した世論誘導のなし崩し手法である。それと同じレトリックを民主党が用いているという意味では、政権交代ではあっても政策転換ではなく政策継承である。

 朝日社説が、増税といえば消費税増税を指すと了解しているのであれば、それは朝日社説が、自民党政権以来、政権政党が世論誘導のために常用してきたレトリックに一蓮托生で同化している実態の証左にほかならない。これでは時の政府与党の財政運営の批判的オブザーバーであるべきメディアの使命放棄にほかならない。なぜなら、消費税増税をめぐって日本のメディアに求められる最も基本的な役割は増税=消費税増税という論理の飛躍に待ったをかけ、それとは異なる歳入確保の選択肢を国民に指し示す自立した言論だからである。

 言いかえると、時の政権が推し進めようとする「なし崩しの現実に流されない」理知と知見を世論に付与することこそ、政治ジャーナリズムに課される最大の使命である。このような使命を忘れて、時の政権が唱える消費税増税路線に「進軍ラッパ」を鳴らすのではメディアは自死を選んだのも同然である。(『東京新聞』20111225日、<新聞を読んで>欄に掲載された水無田気流「『なし崩し社会』の問題」はこうしたメディアの役割を考えるうえで示唆に富んでいる)。

 次に、議論をもっと前に戻していうと、民主党代表選での各候補の政見はあくまでも党内向けの政見であって、そこで、あれこれの候補者が、かりに、政見交代時のマニフェストに掲げたわけではない消費税増税方針を打ち出したとしても、それによって民主党のマニフェスト違反を正当化できるわけではない。国民向けの公約と党内向けの政見を区別して議論をすべきことは政治評論のイロハである。

問題は増税の実施時期ではなく法案提出の時期である
 ところで、「浅ましい」という評語に話を戻すと、この言葉は離党した9人の民主党議員に向ける言葉ではなく、野田代表ら民主党執行部の党内合意の取り付け方にこそ向けられるべきである。なぜなら、増税反対派の抵抗にひるまずなどと大義を振りかざしているが、その実、民主党執行部が消費税増税について党内の了承を取り付けるにあたっては、8%への引上げ時期を当初案の201310月から半年ずらして20144月とするという小細工を弄している。そうすることで、増税実施の半年前には閣議決定が必要というタイムスケジュールを考慮しても、現衆議院議員の任期中(20138月まで)は増税しないとした政権交代時の公約をクリアできると考えたそうだ。しかし、選挙公約に違反するかどうかは増税の実施時期が任期内かどうかではなく、国会への法案提出が任期内かどうかで決まると考えるのが常識である。マニフェストに反する消費税増税の法案を現衆議院議員の任期内の今年度中に国会に提出しておいて、実施時期を任期外にずらすことで公約違反でないなどと言い募るのは、まさに姑息で浅ましい言いくるめである。それでも公約に反する増税を民主党政権下で行いたいのなら、解散して民意を問いなおすのが正論である。そうした手順を踏まず、将来の消費税増税を先食いする交付国債を発行するのも姑息の上塗りというものである。

 さらに、消費税増税にとどまらず、沖縄普天間基地の移設(撤去)、子供手当、八ッ場ダムの建設再開など、民主党が掲げたマニフェストは昨年末には総崩れの状態になった。私は民主党を離党した議員も、ここに至るまでの間にフニフェストを反故にしようとした党運営のあり方にどこまで異議を投げかけ、有権者に公約したことを守る主体的な努力をしてきたのか厳しく問われなければならないと考えている。しかし、「浅ましい」というなら、民主党が有権者に対する公約を反故にし、自民党政権時代の政策に回帰する政策を次々と打ち出して、政権交代に託した多くの国民の期待を裏切った自党の方針を結局は了承して鉾を納める議員の方がよほど浅ましくないか? それでも政権政党にとどまるのであれば、この先、党運営を抜本的に改めるよう自党に対して異議申し立てをする「覚悟」が求められる。そうした「覚悟」もなしに適当に「ガス抜き」をされて終わるのなら、そうした民主党議員の不作為あるいは無策こそ、自己保身として断罪されなければならない。

国民を熟議に導く取材報道こそメディアの使命
 もちろん、消費税増税をめぐって問題なのは、マニフェストとの整合性や政権・政党の政策の一貫性だけではない。それ以前に、財源といえば消費税しか俎上に乗せない民主・自民2大政党の異床同夢の発想、それに同化するメディアの報道姿勢がはたして正当化なのか? 今回、消費税の逆進性対策として提唱されている給付付き税額控除は逆進性を緩和・解消するうえでどれほどの効果を期待できるものなのか? 消費税の逆進性というと、最終消費の段階での逆進性が重要であることは確かだが、問題はそこだけなのか、仕入れ・販売の段階での転嫁の逆進性(販売力の格差に起因する転嫁の能力の格差)をなぜ問題にしないのか?全ての税目の滞納額の中で消費税の滞納が最も多いのはなぜなのか?滞納というと決まって「益税」が俎上に載せられるが、政府・与党は、なぜ、中小零細事業者が訴える「損税」(消費税を転嫁できない事業者が「自腹」切って納税をすること)の実態把握に努め、是正を検討しないのか?

 政府・財務省の広報を受け売りするのではなく、こうした消費税の転嫁、納税の実態を独自に調査し、国民に伝える「取材報道」こそ、メディアの存在価値の根幹である。そして、メディアはこうした取材報道に徹してこそ、消費税増税問題、広くは社会保障等の財源問題についてありうべき選択肢を示し、国民を熟議へと導く本来の任務を果たせるのである。

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浅ましいのはどちらか?~メディアの自死を意味する消費税増税路線への翼賛~

野田政権に消費税増税をけしかけるメディアの異様な光景
 
 『毎日新聞』は1229日、民主党が今年度中に消費税増税の法案提出を決定したのは先の選挙で同党が掲げたマニフェストに違反するとして同党の9名の議員が離党を表明したのを受けて、「浅ましい年の瀬の混乱」と題する社説を掲載した。この社説は、昨年末に民主党政権が消費税増税や八ツ場ダムの建設再開などを決定したのは、同党が政権交代を果たした選挙の折に掲げた公約は総崩れしたことを意味するとみなし、「党の主要政策の方向と離党議員らの主張はかけ離れており、同じ党にいることがもはや不自然にすら思える」と記している。しかし、そういう一方で、9名の民主党議員が離党に踏み切った行動を「次期衆院選での逆風をおそれ、党に見切りをつけた自己保身」と断じ、野田首相に対して「時期や税率も含めた意見集約と法案化への作業をひるまず断行すべきである」と主張している。これでは野田政権に対して、公約違反も辞さず、消費税増税路線を突き進むよう叱咤激励するに等しい。

 離党した議員に対して、あくまで党にとどまり、マニフェストの履行を執行部に粘り強く迫るべきだと促すのなら道理がある。彼らに、このまま民主党にとどまるよりも離党した方が次期選挙にとって得策という読みがなかったとはいえないだろう。しかし、選挙の時に掲げたマニフェストが総崩れしたと断じながら、それに抗議して党を離れた議員を自己保身と決めつけるのでは論理が支離滅裂であり、公約を反故にしてでも消費税増税路線を突き進めと『社説』でけしかけるのは異様としか言いようがない
  この点では、9人の民主党議員の離党を「公約破りへの警鐘」とみなし、「政権幹部が彼らの行動を支えている国民の怒りを軽んじるなら民主党にもはや存在価値はない」と言い切った『東京新聞』の1229日付けの社説の方が道理にかなっている。

メディアは政治のプレイヤ―ではなくウオッチャーに徹すべき
 論理が支離滅裂なのは『毎日新聞』だけではない。『朝日新聞』は1231日の朝刊に「首相と増税――豹変して進むしかない」という社説を掲載し、野田首相が「『君子は豹変す』という立場で行革にも取り組む」と語った言葉を引き、覚悟を決めて消費税増税を断行するよう迫っている。しかし、行政改革を断行することは、その中味こそ問われなければならないが(注)、一般論としては当然のことであり、野田首相自身、民主党代表選にあたって発表した政見のなかで明言していることである。したがって、それを実行するのに政策を「豹変」する必要は全くない。むしろ、「行財政革が増税の地ならしに使われるようでは困る」(『北海道新聞』20111231日、社説)というのが正論である。

 (注)消費税増税に先立って政治家が「身を切る」努力の証しとして民主党は衆議院議員の定数を80名削減することをしきりに唱えている。また、大半のマスコミもこのような主張にそっくり同調している。はたして、日本の国会議員の定数が人口比で多すぎるのかどうかはこの先の記事で触れたいと考えているが、この問題は消費税増税と何の因果関係もない。むしろ、昨今の民主党の公約破りから、民・自2大政党の基本政策は限りなく近似していることが明らかになった。そうした中で、少数政党の議席の削減に帰着する衆議院の議員定数を削減することは、有権者の政策選択の幅を狭め、少数政党に期待する民意を切り捨てることになる。こうした選挙制度のあり方と直結する議員定数の削減を消費税増税に絡めるのは論外である。

 「豹変」というなら、政権交代時のマニフェストに全く掲げず、政権発足時に4年間は消費税を増税しないと明言した公約を翻して消費税増税路線を突き進むことこそ「豹変」である。朝日新聞の社説がこうした野田首相の発言を引き合いに出して消費税増税を断行するよう激励するのであれば、それは民主党のマニフェスト違反を擁護するにとどまらず、マニフェスト違反を奨励するに等しい
 ところが朝日社説は「8月の党代表選で、野田氏が勝った時点で、増税方針は決着していたのではなかったのか」という物言いで、政府・与党執行部が消費税増税法案の国会提出を決したことがマニフェスト違反にあたる事実から目をそらし、そうした党執行部の「豹変」に反発して離党を決意した9人の民主党議員の行動に非難の矛先を向けている。しかし、このような『朝日新聞』社説子の物言いは事実誤認・無視に基づく支離滅裂な主張である。
 
 まず、昨年8月の民主党の代表選にあたって決選投票を争った海江田、野田両氏が発表した政見のうちの財源論に関する見解を確かめてみよう(以下、民主党のHPより)。

海江田万里氏:
 「基礎的社会保障財源として、景気回復後に消費税導入を検討する。その場合には逆進性に配慮する。」
野田佳彦氏:
 「震災対策における財源措置を含め、財政健全化の道筋においては、税金の無駄使いを徹底的に排除する等歳出面での改革に全力を挙げなければならない。その上で歳入面での改革も併せて実行していく。」

 つまり、消費税増税というなら、野田氏よりも海江田氏の方がその点を明記しており、野田氏は増税についてさえ明記しておらず、「歳入面での改革も併せて実行していく」と記すにとどまっている。なお、代表選の投票直前に同党の全国会議員を前にした演説のなかでも野田氏は「議員定数削減、公務員定数と人件費削減にも全力で戦う。それでも足りないときは国民に負担をお願いするかもしれない」と語っているが、そこでの「負担」が何を指すのか、一切明言していない。

 
つまり、消費税増税というなら、野田氏に敗れた海江田氏の方が、景気回復を前提にして、と断りながらも明確に政見に掲げていたことがわかる。この意味で、朝日の社説が「国民に負担をお願するかもしれない」という野田氏の発言をさして増税方針と読み取り、「8月の党代表選で、野田氏が勝った時点で、増税方針は決着していた」と解釈するのは消費税増税に前のめりする主観に災いされた牽強付会な主張である。そもそも、増税というだけでそれが消費税増税を意味すると了解すべき理由がどこにあるのか?増税=消費増税という論調は自民党政権時代から政府・財務省が常用した世論誘導のなし崩し手法である。それと同じレトリックを民主党が用いているという意味では、政権交代ではあっても政策転換ではなく政策継承である。

 朝日社説が、増税といえば消費税増税を指すと了解しているのであれば、それは朝日社説が、自民党政権以来、政権政党が世論誘導のために常用してきたレトリックに一蓮托生で同化している実態の証左にほかならない。これでは時の政府与党の財政運営の批判的オブザーバーであるべきメディアの使命放棄にほかならない。なぜなら、消費税増税をめぐって日本のメディアに求められる最も基本的な役割は増税=消費税増税という論理の飛躍に待ったをかけ、それとは異なる歳入確保の選択肢を国民に指し示す自立した言論だからである。

 言いかえると、時の政権が推し進めようとする「なし崩しの現実に流されない」理知と知見を世論に付与することこそ、政治ジャーナリズムに課される最大の使命である。このような使命を忘れて、時の政権が唱える消費税増税路線に「進軍ラッパ」を鳴らすのではメディアは自死を選んだのも同然である。(『東京新聞』20111225日、<新聞を読んで>欄に掲載された水無田気流「『なし崩し社会』の問題」はこうしたメディアの役割を考えるうえで示唆に富んでいる)。

 次に、議論をもっと前に戻していうと、民主党代表選での各候補の政見はあくまでも党内向けの政見であって、そこで、あれこれの候補者が、かりに、政見交代時のマニフェストに掲げたわけではない消費税増税方針を打ち出したとしても、それによって民主党のマニフェスト違反を正当化できるわけではない。国民向けの公約と党内向けの政見を区別して議論をすべきことは政治評論のイロハである。

問題は増税の実施時期ではなく法案提出の時期である
 ところで、「浅ましい」という評語に話を戻すと、この言葉は離党した9人の民主党議員に向ける言葉ではなく、野田代表ら民主党執行部の党内合意の取り付け方にこそ向けられるべきである。なぜなら、増税反対派の抵抗にひるまずなどと大義を振りかざしているが、その実、民主党執行部が消費税増税について党内の了承を取り付けるにあたっては、8%への引上げ時期を当初案の201310月から半年ずらして20144月とするという小細工を弄している。そうすることで、増税実施の半年前には閣議決定が必要というタイムスケジュールを考慮しても、現衆議院議員の任期中(20138月まで)は増税しないとした政権交代時の公約をクリアできると考えたそうだ。しかし、選挙公約に違反するかどうかは増税の実施時期が任期内かどうかではなく、国会への法案提出が任期内かどうかで決まると考えるのが常識である。マニフェストに反する消費税増税の法案を現衆議院議員の任期内の今年度中に国会に提出しておいて、実施時期を任期外にずらすことで公約違反でないなどと言い募るのは、まさに姑息で浅ましい言いくるめである。それでも公約に反する増税を民主党政権下で行いたいのなら、解散して民意を問いなおすのが正論である。そうした手順を踏まず、将来の消費税増税を先食いする交付国債を発行するのも姑息の上塗りというものである。

 さらに、消費税増税にとどまらず、沖縄普天間基地の移設(撤去)、子供手当、八ッ場ダムの建設再開など、民主党が掲げたマニフェストは昨年末には総崩れの状態になった。私は民主党を離党した議員も、ここに至るまでの間にフニフェストを反故にしようとした党運営のあり方にどこまで異議を投げかけ、有権者に公約したことを守る主体的な努力をしてきたのか厳しく問われなければならないと考えている。しかし、「浅ましい」というなら、民主党が有権者に対する公約を反故にし、自民党政権時代の政策に回帰する政策を次々と打ち出して、政権交代に託した多くの国民の期待を裏切った自党の方針を結局は了承して鉾を納める議員の方がよほど浅ましくないか? それでも政権政党にとどまるのであれば、この先、党運営を抜本的に改めるよう自党に対して異議申し立てをする「覚悟」が求められる。そうした「覚悟」もなしに適当に「ガス抜き」をされて終わるのなら、そうした民主党議員の不作為あるいは無策こそ、自己保身として断罪されなければならない。

国民を熟議に導く取材報道こそメディアの使命
 もちろん、消費税増税をめぐって問題なのは、マニフェストとの整合性や政権・政党の政策の一貫性だけではない。それ以前に、財源といえば消費税しか俎上に乗せない民主・自民2大政党の異床同夢の発想、それに同化するメディアの報道姿勢がはたして正当化なのか? 今回、消費税の逆進性対策として提唱されている給付付き税額控除は逆進性を緩和・解消するうえでどれほどの効果を期待できるものなのか? 消費税の逆進性というと、最終消費の段階での逆進性が重要であることは確かだが、問題はそこだけなのか、仕入れ・販売の段階での転嫁の逆進性(販売力の格差に起因する転嫁の能力の格差)をなぜ問題にしないのか?全ての税目の滞納額の中で消費税の滞納が最も多いのはなぜなのか?滞納というと決まって「益税」が俎上に載せられるが、政府・与党は、なぜ、中小零細事業者が訴える「損税」(消費税を転嫁できない事業者が「自腹」切って納税をすること)の実態把握に努め、是正を検討しないのか?

 政府・財務省の広報を受け売りするのではなく、こうした消費税の転嫁、納税の実態を独自に調査し、国民に伝える「取材報道」こそ、メディアの存在価値の根幹である。そして、メディアはこうした取材報道に徹してこそ、消費税増税問題、広くは社会保障等の財源問題についてありうべき選択肢を示し、国民を熟議へと導く本来の任務を果たせるのである。

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被災者に寄り添う報道とはなにか(2012年1月2日)

新年のごあいさつ
 
 皆さまそれぞれに、日本中が揺れ動いた2011年の記憶を留めながら新しい年をお迎えのことと思います。月並みではありますが、皆さまには実り多い1年をお過ごし下さいますようお祈りいたします。
 このブログを始めたのは2006213日。それから6年が経過しました。昨年は1年間で43の記事を掲載しましたが、後半は更新が滞りがちでした。今年はマイペースとはいえ、ムラの少ない頻度で更新をしていきたいと思っています。どうか、よろしくお願いいたします。

「明るい話題」を追いかける被災地報道への疑問
 311以降のNHKの震災報道(夜7時のニュースやその前の首都圏ネットワークなど)をみてきて感じるのは、「被災者に寄り添う」というフレーズで、人気タレントが被災地を慰問したニュースや各地で被災者を励ます催しが行われたニュースに何度も接したことである。私も被災者に寄り添おうとする善意や「自分にできることを実行する」市民の姿を軽んじるつもりは毛頭ない。しかし、メディアがそうした「善意」に感情移入し、「明るい話題」、「ほほえましい話題」さがしに努める状況には強い違和感を覚える。
 というのも、被災者に寄り添うというなら、被災者の非日常的な一過性の話題ではなく、今の被災者が日々直面している重い現実、つまり、元の生活に戻れるのか、それとも新しい地で生活の基盤(住まい、職業、子どもの学校など)を築き直すことになるのか、について具体的な展望を探る番組こそが求められていると思うからである。

 そして、元の生活拠点に戻って生活を再建するのであれば、放射能除染の目途はどうなるのか、その際の死活問題になっている汚染物質の仮置き場の確保、最終処分の方法と工程づくりに行政はどう取り組んでいるのかを追跡する取材報道が求められるはずである。政府が掲げた冷温停止状態にこぎつけるという目標にメディアまでが照準を当て、政府発表を右から左へ流すだけの報道ではメディアの役割を果たしたことにならず、それでは真に被災者に寄り添う報道とは程遠いものである。
 また、元の住まいに戻ることを断念し、新しい生活の拠点を確保てし、そこで生活の再建を図るのであれば、新しい住まいの確保、職探しへの国や自治体の支援はどうなっているのか、当面、各地に散り散りになった避難者へ被災地の行政情報が滞りなく届けられているのか、子どもの転校は円滑に進んでいるのか、ばらばらになった家族が行き来するための経費や生活環境の激変に起因する健康被害の治療についても迅速に補償がされる仕組みができているのか――考え出せば、メディアが追跡すべき課題が山積していることが分かるはずである。

 被災者への精神的励ましを軽視するものでは決してないが、ストレスなどの健康被害もその原因と考えられる先の見えない避難生活をどう打開するのかという生活実態を直視することなく、いっときの被災者激励のイベントを追いかける報道では、真の被災者支援にならないことに思いを致さなければならない。
 
 以下では、元の地に戻ってか、新しい地でか、を問わず、被災者が生活を再建する上で必須の条件になっている被害補償のあり方を考えてみたい。なぜなら、メディアが被災者を励ます「明るい話題」を追いかける一方で、被災者にとって生活再建にもっとも切実な被害補償の現実と進捗状況をメディアはほとんど伝えていないからである。

4
人分を書くのに15時間
 
~被災者の根負けを誘導するかのような分厚い補償金請求書類~
 
 東京電力は昨年912日から福島第1、第2原発事故被害者のうち、仮払金を支払った人々に対し、補償金請求に必要な書類一式の発送を行った。しかし、書類は60ページ、それとは別の説明書は160ページに上るうえに、表現も難解で書類を受け取った被災者の評判は頗る悪い。そのせいか、事故発生時から昨年8月までの損害分を対象にした第一次請求の提出は昨年11月末時点で、書類を送った約7万件の3割強(約22400件)にとどまり、うち東電との間で合意に至ったのは約1,560件(計34億円)で発送件数の約2%に過ぎない(『河北新報』20111226日)。

 同じ『河北新報』の20111226日の記事(焦点/東電の損害賠償請求書/「多い、難解」被害者悲鳴)は、南相馬市で農業を営んでいたIさん一家(7人家族)に依頼して実際に請求書を書いてもらったところ、4人分の避難生活に係る補償金請求を書き終えるのに15時間かかったという。その間、東電のコールセンタ-に問い合わせの電話を7回、毎回避難生活の状況を説明するため15分以上かかったという。それから数日後、Iさんが今度は南相馬市の自宅での生活にかかる被害補償の請求書を記入したところ、8時間かかったという。その際、問題は時間の長さだけでなく、精神的損害の請求が避難生活をした場合に限られ、自宅にとどまった場合は請求が認められない点にIさん家族は強い不満を訴えたことも記されている。

メディアが伝えない損害賠償請求の盲点
~日弁連の注意喚起~
 東電が公表した損害賠償請求手続については請求書の説明書類が膨大で、被災者に大きな負担を強いる点については、メディアも報道をするにはした。しかし、それは請求書が発送された時の一過性の報道にとどまり、その後、請求手続がどのように改められたのかを追跡した報道はほとんどなされていない。まして、請求の範囲、損害の証明方法等にみられた問題点は全くといってよいほど伝えられていない。被災者にとって生活再建のための必須の条件である損害賠償にはだかるこうした問題についての入念な取材報道を怠ったメディアが国民個々の善意から生まれる「明るい話題」探しに奔走する様は、「被災者に寄り添う」報道の安直さを如実に示している。

 メディアが「被災者に寄り添う」報道を心掛けるというなら、東電に対する原発被害の損賠賠償請求に関して被災者に立ちはだかる問題点を被災者はもとより、広く全国の国民に具体的に伝え、関心を喚起するよう努めるべきである。その際、東電に対する原発被害の損賠賠償請求に関して被災者に立ちはだかる問題点を知る上で、昨年9月以降、日弁連が会長声明の形で公表した以下のような一連の見解が非常に参考になる。

東京電力株式会社が公表した損害賠償基準に関する会長明(日連:2011年9月2日)

東京電力株式会社が行う原発事故被害者への損害賠償手続に関する会長声明(日弁連:2011年9月16日)

東京電力福島第一、第二原子力発電所事故における避難区域外の避難者に対する損害賠償に関する会長声明(日弁連:2011年9月30日)

東京電力福島第一、第二原子力発電所事故における避難区域外の避難者及び居住者に対する損害賠償に関する指針についての会長声(日弁連:2011年12月2日)
 
 これら一連の日弁連会長声明の中で私が特に重要と考えた点を摘記しておきたい。

1
請求を認めるべき損害の範囲について(その1
  昨年830日に東電が発表した損害賠償基準は賠償請求する被害額を(1)避難生活による精神的損害、(2)避難、帰宅費用、(3)医療費など生命、身体に関わる損害、(4)失業、休業による減収の補償、(5)放射性物質検査費、等に区分しているが、畜産農家にとって死活の問題である牛肉の放射性セシウム汚染に対する補償を認めるべきとの指摘、また、観光業とは違って、解約や予約控えといった形で被害を捉えられない小売業や外食産業等については、過去数年の売上げと利益の実績に基づいて損害額を算定することがより公平である、と指摘していること。

2.
請求を認めるべき損害の範囲について(その2
 
子どもや妊産婦の安全を考えて避難対象とされた区域以外の地域からも多くの人々が自主的に避難をし、それが長期化している実態に照らして、これら自主的避難者にも賠償請求を認めるべき、との指摘をしていること。

3
請求を認めるべき損害の範囲について(その3
 避難区域等にとどまって生活を続けてきた住民も、原子力発電所事故に伴う社会的混乱の中で多くの生活上の不利益を受け、放射性物質により汚染されている可能性のある地域で将来の健康上の不安などを抱えて生活することを余儀なくされているのであるから、避難区域等にとどまって生活を続けてきた住民の精神的損害も賠償請求を可能とするべきである、と指摘していること。

4損害を証明する書類の整備について
 緊急の避難や避難先の移動を迫られるなどの理由により、東電が求めるような損害を証明する資料を整えることが困難な被災者が請求を断念して泣き寝入りすることがないよう、こうした被災者に対して、東京電力の窓口への相談のみに頼るのではなく、各地の弁護士会に相談をするよう呼び掛けていること。また、各弁護士会が作成している「原子力災害被災者・記録ノート」を紹介し、これを活用するよう呼び掛けていること。
  原子力災害被災者・記録ノート

5
東電が提出を求めた賠償請求書ならびに合意書を提出することへの注意喚起
 東電が合意書を添えて提出を求めている請求書は複雑な書式になっており、請求漏れが起こったり、他の救済手段が採れなくなったりする恐れがあるという注記を被災者に喚起し、賠償額に不満あるいは疑念があるときには、安易に合意書に署名せず、原子力損害賠償紛争解決センターへの申立てや裁判所に対して訴訟を提起するなど他の手段も検討するよう呼び掛けていること。

 以上は、東電福島原発事故による被災者の生活再建にかかる損賠賠償に限定した問題点とそれに対処するために日弁連が発表した声明を紹介したものである。当然のことながら、これとは別に、津波によって生活の基盤を根こそぎ失ったり、地震によって家屋の被害を蒙るなどした人々の生活再建に不可欠な災害からの復旧・復興のための国・地方自治体の施策の具体化とその進捗状況を持続的に調査報道することもメディアに求められる役割であることはいうまでもない。

 繰返していうが、メディアに求められる「被災者に寄り添う」報道とは、被災者を和ませ、勇気づける「明るい話題」を追い求め、伝えることが主ではない。被災者が切実に求める生活再建の前途に立ちはだかる課題を調査報道で追跡し、掘り下げて国民に伝えること、それをとおして、被災者の生活再建の展望を具体的実体的に示すことこそ、メディアに求められる本来の使命であると私は思う。

2012 元旦に近くの神社に出かけた帰り道で。ウメは昨夏、体力が衰え、散歩の足取りも弱々しくなって気をもんだが、秋以降は元気を取り戻して、ご覧のような様子で年を越すことができた。

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デジタル放送普及率94.9%は確かなのか?

 浸透度94.9%への疑問符
 総務省、NHK、民放がデジタル放送への一斉切り替えを予定している724日まで、後70日ほどになった。気になるのは、視聴者の側でデジタル放送への対応がどこまで進んでいるのかである。
 総務省は社団法人デジタル放送推進協会に委託して「地上デジタルテレビ放送に関する浸透度調査」を実施し、その結果を公表してきた。直近では201012月に同調査(注1)を実施し、その結果を今年の3月に公表した。
 (注1)「地上デジタルテレビ放送に関する浸透度調査(平成2212月実施)  
   http://www.soumu.go.jp/main_content/000106190.pdf 
  全国47都道府県の男女15歳以上80歳未満の個人を対象にRDD法と呼ばれる方法でサンプルを抽出した後、郵送で調査。有効サンプル数13,109


 これによると、地上デジタルテレビ放送対応受信機の世帯普及率は、受信機普及台数の伸長を反映して、昨年9月に実施した前回調査(90.3%)の時よりも増加して94.9%になったという。この勢いで、本年4月には普及率100%を目指すというのが総務省の目標だったが、どうなったのだろうか?

 ところで、NHK放送文化研究所が発行している『放送研究と調査』の本年4月号に「201011月『全国接触者率調査』単純集計結果」(注2)が掲載されている。総務省が委託した「浸透度調査」とほぼ同じ時期に行なわれた調査であるが、これによると、「地上デジタル放送」を受信しているテレビは何台あるかという質問に対して、「ない」と答えた人の割合は20.1%で、総合テレビをデジタル放送で見たという人の割合は48.3%、アナログ放送で見たという人の割合は23.0%となっている(注3)。
 (注2)「201011月『全国接触者率調査』単純集計結果」 
       http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/broadcast/pdf/101222_02.pdf

  全国の7歳以上の国民3,600人(12人×300地点)を対象に配布回収法(日記式調査票に1日単位で記入)で実施。調査有効数2,538人(70.5%)。
 (注3)各パーセンテージはいずれも20101115日~1121日の1週間に1日でも「見た」「聞いた」「読んだ」人の率を集計した<リーチ>と呼ばれる数値。


 総務省が公表した「浸透度」(地上デジタルテレビ放送対応受信機の世帯普及率)94.9%と、放送文化研究所が調査した「地上デジタル放送」受信テレビの保有状況(ここでは保有しない割合20.1%)、あるいは同調査で集計されたデジタル放送によるNHK総合テレビの視聴割合(48.3%、アナログ放送での視聴割合23.0%)はほぼ同じ時期の、同じ事項の調査でありながら、大きな乖離がみられる。この理由をどう考えればよいのか、以下、私なりに吟味してみたい。

サンプル構成の疑問
~所得階級200万円未満の世帯の割合が異常に低い~

 上で紹介したように、総務省「浸透度調査」はRDD法を採用し、放送文化研究所の「全国接触者率調査」は「配布回収法」を採用している。RDD法(Random Digit Dialing)とは、市外局番と市内局番計6桁の中から実際に使われている可能性が高い番号を選び、それに4桁の番号を付けて、コンピューターで無作為に10桁の番号を作り、その中から機械的に選んだ番号から法人を除く。そのうえで、残った一般世帯に電話をかけて世帯の中から1人を選び、調査への協力を依頼する。そのうち、応諾した対象者に調査票を送って回答を得るというやり方である。
 このようなRDD法については、固定電話にかけるため、携帯電話やIP電話のみを使う割合が高い若年世代や単身世帯がサンプルに入りにくい、郵送のため住所を聞き取ることや、世帯の中から1人を選ぶ際に家族構成などプライバシーに関わる情報を聞き取る必要があるため、調査への協力を得にくい、そもそもこの方法には住民基本台帳や有権者名簿といった、調査対象となる母集団を代表する正確なサンプリング・フレーム(標本抽出枠)が存在しないため、代表性を持つ正確なサンプルを抽出することができない(山形良樹「世論調査の正しい見方」『メッセージ@pen』(綱町三田倶楽部電子ジャーナル誌)、20112月号)などの問題点が指摘されている。ただ、こうした限界があることは承知の上で、RDD法は限られた時間とコストで結果が得られるため、今日、マスコミの世論調査などに広く用いられている。

 他方、放送文化研究所が採用した配布回収法(日記式調査票に1日単位で記入。調査有効数2,538人(70.5%)とは、前もって郵送などで調査票を配布し、訪問して回収したり郵送で回収したりする方法である。回答の仕方には、面前記入法もあるが多くは一定期間、調査対象者のもとに留め置き、その間に記入してもらう留め置き法が多い。この場合、対象者をどのように選定するのかが問題になるが、放送文化研究所の調査では全国の7歳以上の国民3,600人(12人×300地点)から抽出したと記され、男女別・年代別、職業別・都市圏別のサンプル構成が示されているが、具体的な抽出方法は記載されていない。

 私が注目するのは、総務省が公表した「浸透度調査」の年間所得階級別で見た浸透度のばらつきである。全世帯の普及率が94.9%となっているのに対して、年収200万円未満の世帯での普及率は87.7%で、依然として全世帯の平均普及率をかなり下回っている。それだけではない。『国民生活基礎調査』(平成21年)によれば、所得金額別の世帯数の相対度数分布では200万円未満の世帯の占める割合は19.4%となっているのに対して、総務省の「浸透度調査」におけるサンプル構成では200万円未満は10.0%となっており、『国民生活基礎調査』における相対度数分布と大きな乖離が見られるという点である。かりに、総務省「浸透度調査」において年間所得200万円未満の世帯から抽出された個人がサンプル構成に占める割合が19.4%程度であれば、地上デジタルテレビの浸透度は公表数値をかなり下回ったことは確実である。
 この点から、放送文化研究所の調査において年間所得階級別のサンプル構成がどうなっていたか、知りたいところである。

「デジタルテレビ普及率」の意味に要注意
 総務省の「浸透度調査」では、地上デジタルテレビ放送対応テレビ、同対応録画機、外付けチュ-ナ-、チューナ-内臓パソコンもしくはパソコン用の外付けチュ-ナ-、セットトップボックス(CATV)のいずれかを保有している場合を指して、地上デジタルテレビ放送対応受信機ありとみなし、そうした世帯数が調査対象世帯総数に占める割合を「地上デジタルテレビ放送の浸透度」と称している。
 他方、放送文化研究所の調査では、質問6で「『地上デジタル放送』を受信しているテレビは何台あるか」と尋ねている。総務省の調査と比べ、その意味が厳密ではないが、「受信している」という文意から、総務省の調査と実質的に同じ範囲の受信機を意味すると考えられる。
 となると、「地上デジタルテレビ放送を受信する」の定義が同じであるにもかかわらず、普及率の調査結果にかなりの差が生まれたのはなぜだろうか?

 その主な要因として私は年間所得階級別のサンプル構成の差異があったのではないかと推定するが、放送文化研究所の調査における年間所得階級別のサンプル構成が不明なので断定はできない。しかし、放送文化研究所による調査結果との対比ではなく、厚労省『国民生活基礎調査』における年間所得階級別に見た世帯度数分布との対比で見て、総務省調査が導いた地上デジタルテレビ放送の全世帯平均普及率94.9%という数字が実態よりもかなり高くなっていることは間違いないと言える。

 総務省調査が得た地上デジタルテレビ放送の全世帯平均普及率(94.9%)が、放送文化研究所の調査が得た地上デジタルテレビの保有割合(10020.179.9%)もしくはデジタル放送による総合テレビの視聴割合(66.7%:下記の注を参照のこと)よりも1528パーセント・ポイントも上回っているその他の理由として次のような要因が考えられる。
 (注)デジタル放送での視聴48.3%を、アナログ放送での視聴23.0%+デジタル放送での視聴48.3%+ワンセグでの視聴1.1%の合計72.4%で除した数値

 ①総務省の浸透度調査の結果、得られた地上デジタルテレビ放送の全世帯平均普及率94.9%の中に、地上デジタル放送対応の受信機を保有しているが視聴できないと答えた人が2.7%、無回答が1.8%あったという点である。視聴できない理由の40.7%は「アンテナや分配器などが地上デジタル放送に対応していない」で、「ビル陰、高圧線付近などの受信障害、山間部での難視聴解消対策の未達」13.5%などがこれに続いている。
 「地上デジタルテレビ放送の全世帯平均普及率」というなら、もともと、こうした世帯を除いた視聴可能な世帯の割合を用いるべきである。

 ②総務省の浸透度調査の結果、得られた地上デジタルテレビ放送の全世帯平均普及率94.9%の中には、地上デジタルテレビ放送を視聴できる環境にあるが、視聴していないと答えた人が2.4%、視聴の可否について「無回答」が5.8%あった。こうした世帯ないしは個人が存在することが、総務省の調査結果と放送文化研究所の調査結果に差異を生む要因のひとつになったのではないかと考えられる。①の世帯に、こうした②の世帯を加えた数値を94.9%から差引いた数値が「デジタルテレビ放送を実際に視聴している」割合になるが、総務省の調査結果ではその割合は82.2%である。

 とはいえ、この82.2%という数値は概念的には放送文化研究所の調査でいうと、デジタル放送によるNHK総合テレビの視聴割合(66.7%)をなお、15.5パーセント・ポイントも上回っている。このことから考えて、さらに別のより大きな要因が作用して、総務省の地上デジタルテレビ放送の全世帯平均普及率と放送文化研究所の地上デジタル放送視聴割合の間に乖離が生じた可能性が推定されるが、今のところ、私はその要因を把握できていない。

 もっとも、それ以前に二つの調査の方法なり結果なりに関する私の解釈に基礎的な誤り、理解不足があるのかも知れない。そこで、以上のような私なりの吟味も添えて、52日と5日に放送文化研究所にE・メールで質問を送った。その回答を待って、改めて二つの調査の結果について吟味をしてみたいと考えている。

 NHK放送文化研究所宛て質問(201152日送信)
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/hobunken_ate_situmon20110502.pdf

 NHK放送文化研究所宛て質問(201155日送信)
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/hobunken_ate_situmon20110505.pdf

全世帯普及率94.9%を疑う確かな理由
 とはいえ、この記事で行ったここまでの吟味をまとめて、次の2点を指摘することは十分可能である。
 ①すでに上で指摘したことではあるが、厚労省『国民生活基礎調査』における年間所得階級別の世帯度数分布との対比で、総務省の調査における所得階級別のサンプル構成を見ると、200万円未満の割合が前者では19.4%であるのに対して、後者では10.0%で、倍近い差がある。しかも、総務省の調査によると200万円未満の世帯におけるデジタルテレビ放送の普及率は、地上デジタル放送対応の受信機を保有しているが視聴できないと答えた世帯や地上デジタルテレビ放送を視聴できる環境にあるが、視聴していないと答えた世帯を含めても87.7%で、全世帯普及率の94.9%を相当下回っている。
 この点を勘案すると、総務省の調査において所得階級200万円未満の世帯が『国民生活基礎調査』における構成割合に準じて19%程度まで引き上げられたら、全生体普及率もかなり押し下げられることになるだろう。

 ②総務省がいう、デジタルテレビ放送の全世帯普及率94.9%の中には、地上デジタル放送対応の受信機を保有しているが視聴できないと答えた人(2.7%)、この質問への無回答(1.8%)が含まれている。しかし、デジタルテレビ放送の普及率というなら、デジタルテレビが視聴可能な世帯の割合を指して用いるべきである。このように定義すると、全世帯普及率は90.3%となる。

そもそも論
~まだ使えるアナログテレビを国策で廃棄させる不条理~

 ①時期遅れのそもそも論かも知れないが、総務省がデジタルテレビ放送の浸透度調査を、「デジタル放送推進協会」に委託したこと自体、調査の客観性に疑念を抱かせる。特に、RDD法には、サンプル選定の過程で(例えば、10桁の電話番号からサンプルを抽出し、確定する過程で、存在しない番号、法人と考えられる番号をどのように推定し除外するか、留守の世帯をどこまで追跡するか、世帯の中から1人をどのように選ぶかなどに関して)実施主体の裁量的判断が介在する。そのような場面でデジタルテレビ放送を推進するという調査実施主体の利害と、調査に客観性、公平性を担保するという要請との間に利益相反が起こらないか、危惧される。

 ②324日、地上デジタル放送への移行問題について「開かれたNHKをめざす全国連絡会」の世話人の一人として総務省に申し入れに出向いた折、応対した地上放送課の職員は、「震災前の段階までは普及率も上がって、最後の追い込みというところだった」と語った。しかし、「最後の追い込み」とはどういう意味だろうか? 総務省に言わせると、外付けのチューナーを配布したり、国の補助金を活用し「デジアナ変換サービス」を実施するCATV事業者を支援するなどしてデジタルテレビ放送の受信環境を整備することを指す。

 しかし、こうした措置はデジタルテレビ放送の視聴対応をめぐって視聴者を差別的に扱うことを意味し、国の補助を受けられないアナログテレビ保有者に、まだ視聴できるテレビの廃棄、買い換えを国策として強制するに等しい。こうした措置が理不尽なことは大震災の被災地におけるデジタル化を一定期間延期したからといって済む問題ではない
 デジタルテレビ放送への移行を決定した時点から起算してアナログテレビの経済的耐用年数が経過するまでの間を移行期間とすることによって、税金の投入も視聴者の側での財産の逸失損失も生むことなく、デジタル放送に計画的に移行するのが理にかなったやり方である。
 国会議員も報道機関も、以上のようなそもそも論を今からでも提起し、拙速で強引で不条理なアナログ放送の一斉停止、デジタル放送への一律の移行に待ったをかける世論を喚起することが求められる。

 今年もわが家の庭の生垣に鉄線が咲いた。(5月6日撮影)
 20110506

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メディアの今とこれから(5・最終回)~NHK問題大阪連絡会のインタビューに応えて~

NHK問題大阪連絡会「サテライトNo.4 別冊    (20114・1発行)

醍醐 聡氏 インタビュー  

メディアの今とこれからを熱く発信!!(Part.5


●NHK経営委員会が地デジについて何も発言しない

醍醐
 ところで、NHKの経営委員会に質問書を出したときに、会長選に絡んだことでしたので、やむを得なかったと思っているのですが、本来、NHKも当然ですが、経営委員会がこれに何も意見を表明しないということは考えてみれば非常におかしなことです。先に紹介した4人のメディア関係者によれば、100万単位の視聴者がデジタル化に取り残されること、この問題について日頃、「いつでもどこでもNHK」と言ってきたNHKを監督する経営委員会が、何も意見を言わないのはどうしたことでしょうか。もう1つ、視聴者とか、経済的な弱者が取り残されるというだけでなく、NHK自身も、100万単位の視聴者を失い、それに伴って受信料収入を失うわけです。その金額をNHKは91666億円と見積もっています。これは放送局の側にとっても、拙速で地デジ化を見切り発車することが経営的にも大きな打撃になることを意味しています。受信料を下げる、下げると言っている一方で、このようにNHKから離れていく人が多数に上ることについては何も感じないということのほうが本来無責任ですよね。そういうことを私は強く訴えていく必要があるのではないかと思っています。

河野 重複しますが、メディアの現状ということで先ほどもいろいろお話を伺いましたが、改めて、いまのメディアの有り様に対してご意見をいただきたい。

醍醐 民放のことについて日頃意見が乏しいと自分でも反省しているのですが、NHKの場合、視聴者と放送局という関係がはっきりあるのですが、民放の場合は民放とスポンサーという関係があっても、民放に対して視聴者という存在が向き合っているという意識を持つことが非常に少ない。何か低俗番組があったり、プライバシーの侵害があったら、BPO(放送倫理・番組向上機構)のほうに苦情を伝えていくということはありますが、民放の放送局と視聴者とが対話をするとか、直接的なチャンネルが乏しいですよね。民放だって「番審」がありますよね。私はその民放ももっと視聴者が放送局と直接に何か対話するというチャンネルをもっとしっかりと持つべきではないかと思います。

河野 いまはありませんね。

醍醐 「受信料を払ってないからあなた方は関係ありません」という、そういう言い方をされてしまっていいのか。だから逆に私はもっと視聴者意識を持つ上でさきほどお話しましたように、受信料の一部を民放に回すべきだと言うんです。それが1つの根拠となって、私たちだってあなた方のスポンサーなんですよという意識をもち、もっと対話を成り立たせるようなことになればいいと思っています。

●視聴者に義務はあっても権利はない

河野
 苦情の担当者も民放もおりますけどね、われわれの運動を支援してくれている方がおられます。その人はいま定年になられて嘱託でその担当をやっているのです。そういう窓口は持っているみたいです。

醍醐 私たち視聴者がNHKと交わす受信契約は双務契約だと言われながら、実際は義務ばかりがあって、視聴者に権利がないわけです。そのためにはもっと放送法の世界で消費者契約法に準拠して、NHKが取り交わす受信契約のなかでも、視聴者の権利を明記しなくてはいけない。ですから言ってみれば消費者契約法をバックボーンにして、もっと視聴者が権利を求めていく、そういう運動をしていくことが大事ではないかと思っています。

具体的にいま考えていることで、放送法が変わってよかったことは、視聴者と語る会というのが全国各地にありますね。あれも参加したい人が何十人というレベルでしょう。私は各地でやった語る会を、例えば月1回でも2時間ぐらいの番組枠でとれば全部伝わるじゃないですか。番組のなかに組み込み、それを聞いた側で、自分が参加していない人も、ああこういう意見を出しているのか、こういうやりとりがあったのかということを知ることがまず参考になる。自分とはちがう意見をもっている人に出会うということが非常に大事だと私は思っています。NHKに対して、まず第一歩はそういうところからやっていくように求めていくことが大事かと思っています。

河野 大変手前勝手のご質問ですが、「大阪の会」運営を3年間ほど市民目線でやってきましたが、今後、どのような活動をのぞまれ、またどのように運営をすれば良いかお考えになるでしょうか。

醍醐 これはおこがましくて、刺激を受け合っている側ですから、お世辞じゃなくて、とやかくなんてとてもそんなことを言える立場ではないです。

具体的に要望を出す視聴者運動を

河野 ざっくばらんにアドバイスをいただけたらと思っています。

醍醐 私たちの「コミュニティ」自身もだし、他の団体もそうなんですが、今日もなるべく心がけたつもりですが、私たちの運動、例えば、NHKに何か要望を出すときに、やはり具体的でないといけないということを感じます。例えば、会長選考にしても、経営委員の選任にしても、放送番組審議会の委員の人選にしても、積極的にここをこう変えてもらいたいというそういう提案型の運動というか、そういうことが視聴者の方たちに少しでも関心を向けてもらう点ではないかと思います。私自身も「語る会」に行って、何か非常に先鋭的な人たちが、手厳しく糾弾しているという姿を見ることがあります。はっきりとモノを言うことは大事なことですが、ただ、普通の方が来られたときに何か特異な集団がいて、何かしゃべるだけしゃべって帰ったとなると「あの人たちはどういう人なんだろう…」みたいになってしまう。ある意味では激励も交えながら建設的に、批判と言っても「ここをこういうふうにしたらもっとよくなる」みたいな建設型の運動も心がけないといけないように感じるわけです。

河野 ついつい批判型になってしまうのですね。心がけないといけませんね。

醍醐 批判を聞く側は批判ばかり言われるとどうしてもかたくなに構えてしまう。やはり俺たちだって一生懸命にやっているんだという、主観的にそう思っている人に、「ここはよかったですね」ということも大事だと思います。

河野 おっしゃる通りだと思います。犯人捜しとは違いますからね。きょうは貴重な時間をいただきましてありがとうございました。とくにわれわれ運動をしているもの同士というのは失礼な言い方ですが、先生も「コミュニティ」のほうも運動を非常に積極的にやっておられる。今回、NHK会長と経営委員長辞任の問題については即座に、機敏に、タイミングよく対応なさったことにも敬意を表します。今日のインタビューも、私たちが考えだせない貴重なご意見をいただきました。本当にありがとうございました。

 庭に咲いた紫モクレン(2011年4月20日撮影)
20110420

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メディアの今とこれから(4)~NHK問題大阪連絡会のインタビューに応えて~

NHK問題大阪連絡会「サテライトNo.4 別冊         201141発行)

醍醐 聡氏 インタビュー   

メディアの今とこれからを熱く発信!!(Part.4


メディアは争点提示型の報道をせよ

河野
 会長選と経営委員長の辞任問題、非常に内容的にはマスメディアが注目している問題と、先生が中心になっておっしゃっておられます「コミュニティ」の質問状等と、この問題はさらに今後発展性がございますので、また次の機会にお伺いするとしまして、次のテーマです。

NHKを中心としたメディアが当面する消費税増税、TPPやJALの整理解雇問題など国民各層に重要な問題の報道が大変「おかしな」スタンスで伝えられている点についてご指摘いただきたいと思います。

醍醐 消費税とかTPPについてですが、私たちは市民の間では、消費税に的をしぼった財源対策とか、増税がいいのか悪いのか、TPPはどうなんだということを、それ自体の賛否をめぐっても議論を交わす必要があると思っています。いまこの問題で私が非常に疑問に思っているのが、政治あるいは経済問題であっても、意見が分かれている問題についてメディアはどう扱うかという根本の問題です。そのときに、意見が分かれている問題についてはただ多様な意見を反映させるということはもちろんですが、それをもう少し厳密に、争点はどこにあるのか、争点提示型の報道をするというのが本来のメディアの役目だと思います。それによって視聴者の賢明な、理性的な判断の一助にするというのが、とくに報道分野のメディアの役割だと思います。
ところがいまの消費税、TPPの報道を見ると、争点提示型ではなくて、結論誘導型、つまり世論を束ねようというやり方です。こういう国の根幹にかかわる問題については与野党の差はないとか、与野党でいつまでもゴタゴタしているんじゃなくて、知恵を出し合えと。つまり国論を束ねる役回りをしようという、そういう形になっている。一種の大政翼賛です。

戦争の時だけではなくて、平時の政治、経済問題についても大政翼賛ということはあるわけで、いま、まさにそういう格好になっているのじゃないかと。
そうすると、よく街頭でインタビューをして賛成意見、反対意見をマイクで拾いますね。そのときにTPP賛成という人の理由を聞きますと、日本だけが閉じていると世界から取り残されるという、そういう発想が目立ちます。消費税だって、このままいけば日本は世界一の借金で破綻してしまう、社会保障のために使うのだったら消費税増税もやむを得ないという、言うなれば自分の頭から出てきた理由じゃなくて、おしきせられたステレオタイプの理由です。強迫観念ですね。取り残されるというけども、日本だけが取り残されるのか、日本はそれほど閉じているのか、では世界はどうなんだろう、という話、こうした争点が全く示されていません。

●メディアの本来の役割を果たせていない

醍醐
 もう少し言えば、そう思っている人がいるとしても、そうは思わない人だっているのに、逆の意見、違った意見が伝えられていません。だから議論の軸が示されていない。これではジャーナリズムではないと思うのです。要するに賛成するにせよ、反対するにせよ、自分の頭で咀嚼して、意見を形づくれるような市民をつくるというメディアの一番の役目をまったく果たせてない。どうこう考えないうちに世論を束ねてある方向に誘導しようとしている。それは非常に怖ろしいことです。今はそういう状況ではないかと思います。

消費税の中身はどうだとなりますと、メディアの問題から離れますから、この場ではお話をしません。結局、メディア自身が政府発表を流すだけではなくて、あるいは「有識者」とかいう怪しげな、私が一番嫌いな名称の常連たちの引用を使って、それで国民を説き伏せる。そうじゃなくて、メディアの基本は取材報道だと言いますね。ところが、実態はどうかといいますと、最近会った大手マスコミの記者たちがいうには、毎日、記事をデスクにあげるのに追われていて調べている時間なんてとてもない。結局、忙しいときに記者クラブ官僚から渡されるお役所資料をもとに少しそれに手を入れて手際よく記事を書くということになるわけです。記者自身が自分で考え、自分で調査し、取材して記事を書くという、基本をおろそかにして記者クラブ発の報道ができあがる、知れば知るほど恐ろしいことです。

●本当のところ“記者クラブは諸悪の根源”

河野
 どうしても政府サイドに、官僚サイドになった記事になっているのですね。

醍醐 ですから新聞にしても、記事はこうつくられるとか、そういう本を書いてみたらいいんじゃないか。取材源、発生源は、どういうところか、どこまでが現場で、どこからが官庁出なのか、それが分かると、出来上がったニュースをどう受けとるべきかという心得ができるように思うのです。記者クラブは諸悪の根源と言いますけれど、クラブに所属する記者たちと話をしていてそれは決してオーバーではなくて、確かにその通りだと実感しました。
今、私が読んでいる本で『政治報道とシニシズム』(J・N・カペラ、K・H・ジョンソン。ミネルヴァ書房)という、アメリカの人が書いた本があります。シニシズムというのは「冷笑主義」と訳されます。真面目なことを言う人を斜めに構えて嘲笑するという意味です。例えば、いま民主党政権や自民党政権に失望した人がどこへ行くのかと言ったらほとんど無党派に行きますよね。一部、「減税日本」「みんなの党」とかに流れている部分がありますが、大部分は無党派に行くでしょう。最近、いろんな選挙で一見盛り上がっている。しかし、選挙前は投票に必ず行くという人が90%ぐらいあってもふたを開けると投票率は50%越えるか越えないか。これは有権者のなかにあきらめを通り越した、何かもうシニシズムというものが浸透していっているような気がします。

●失望感を助長する政局報道が「シニシズム(冷笑主義)」を生む

河野
 俗に言う閉塞感ということですか。

醍醐 それは政治のていたらくに対する閉塞感が土台なんですけど、『政治報道とシニシズム』の著者たちは、政治報道の在り方がそういう失望感をシニシズムへとさらに退化させているとみなすのです。どういう政治報道がシニシズムを蔓延させるのか。著者たちは政治報道の仕方を2つのタイプに分けて議論をしています。1つは戦略型報道、もう1つはそれと対照的な争点提示型報道です。戦略型報道は、政治報道ではなくて、政界報道と言うか、要するに「政治家なんて所詮は自分の利害でうごめいているんだ」という、そういうシニカルなモノの見方です。政治家は、自分の次の選挙を考えて利己的な行動ばかりやっているという舞台裏を暴く政局報道をやりますね。著者たちはそれを「戦略型報道」と言う。あきらめから冷笑主義を生むのはこの戦略型報道だというのです。要するに政治家、政党は所詮、利己的にしか動いていない。そのことを執拗に報道されると有権者は政治家の誰に望みを託しても結局、裏切られるだけだという思いをよけいに募らせる。著者たちは、こういう悪循環を断ち切るためには政治報道は争点提示型の報道でなければいけないと言っています。私はこの本を興味深く読んで、最近出会ったマスコミの人にぜひ読んでみてと言ったばかりです。

よく政局報道と言いますが、いかにも何か自分はリアルな現実を伝えているかのように思いこんでいるようだけれども、有権者にあきらめを諭すのも同然だと言う気がします。
消費税報道にしても、結局は、それは争点提示ではなくて、政局報道です。そのため、政治報道が消費税について政治家に向かって言っている注文は、本気度を問うとか、決断を問うとか、そういう精神論的なことばかりです。一種の煽り、けしかけですね。

河野 昨年1024日、神戸で、安保50年日米政府の密約について映画と合わせた集会で、元月刊誌の編集長も参加されて、ジャーナリストのあり方について、先ほど醍醐先生がおっしゃったような記事を書く記者の有り様を問うておられ、現状報告をされておりました。先ほど、おっしゃっていましたが、こういうことに対して改めてどのようにお考えでしょう。

醍醐 日本のメディアというのはTPPにしても国の財政危機にしても、1つの経済的な意味での国難ととらえる意識がすごい強いと思うのです。こんな時に政党間の争いごとをやっている場合じゃないという構図が、いまの大手全国紙に染みついている。国益とか、国難とか、国威発揚とか、そういう問題に直面したときにメディアの真価が試される気がします。
戦時かどうかは別にして国が大きな困難に直面したときに、メディアはどうそれに向き合うのか。各メディアの上層部、経営陣、論説陣の間で、その点のきちんとした見識、トレーニングがない。何かこういうときにはすぐに世論、国民を束ねるために一致して事にあたるのが国益なんだという罠で自分をしばっているように思えます。

●メディアに中身を調べよとボールを投げることが大切

醍醐
 ただそれだけ言っていてもしかたがない。じゃ、どうしたらいいのかと言えば、私は政治そのもの、経済の実態そのものをもっと調べてそれらを批判的に国民に伝えるようメディアを促し監視する、そういういう運動が必要ではないかと感じています。ただちょっと難しいのは、そうなってくると現実の伝え方、メディア論だけの話ではすまなくて、現実そのものについて私たちが知見、意見を持つことが必要になってくるという点です。例えば、消費税を批判するのはいいですが、消費税の増税しかないと思いこんでいる人、財源なんてあるのかといぶかっている人にどう向き合うのかを考えることが必要です。その役割を担うのがメディアの調査報道であり、争点提示型報道ですね。私たちもメディアに「この点についてもっと突っ込んで取材して報道してほしい」というボールを投げることぐらいの勉強をしないといけないと思います。

その点で、私が注目したいのはいま、NHKの解説委員が一同に集まって討論をする番組があります。ご覧になりましたか? 私が見た前回は、TPPを取り上げていました。その番組には経済担当、労働担当、外交担当など、様々な分野を担当する解説委員がいろんな角度からTPPをめぐる問題を取り上げて議論をしていました。あれはなかなかおもしろかった。もちろん、政府が言っていることに近いようなことを言う人もいましたが、互いに矛盾点を指摘する解説委員もいる。この番組でおもしろかったのは、討論をはじめる前、途中、大体終わったところというふうに視聴者の意見調査をやるのです。聞いている人の賛否がどう変わっていったかという、そういうデータをその場で伝えたのも興味深い企画でした。

河野 その番組は単発ですね。定期ではやっていない?

醍醐 テーマはいろいろ変えて定期にやっています。そうすると、最初と比べて、慎重論、反対論が半数を越えました。私はあれこそ争点提示型報道で、それを判断材料にして世論がどう変わっていくかを追跡するという企画は有意義だなと感じました。私もブログで書きましたが、韓国併合100年を記念して日韓の若者の討論番組をやったじゃないですか。あれなんかは、私は進行のさせ方について思うことがありましたが、結構、ぶっつけ本番で論争もやっていました。ゲスト同士が論争しあっていましたしね。韓国の若者が、日本の若者は何も知らない、「エエッ、そんなことあったの?」と言われると頭にくると言っていました。消費税にしてももっとああいう討論型番組が必要です。

河野 結局、中身を伝えない。こうなる、ああなる、こういう実体だということを。とくにTPPの問題などはそうだと思う。自給率が絶対に下がるし、農水省が数字を出しているのに、それを伝えないで「明治維新以来の開国…」なんてことを言うから先ほど先生がご指摘になった街のインタビューだけでも日本だけが閉じこもって、だから賛成しなさいという。束ねられた報道に操られて発言するという人が圧倒的に多い。いま先生がおっしゃった解説員の在り方、日韓併合の問題も含めて、そういう点ではメディアの果たす役割というのは対案的なことも勉強しながら、学習しながら、問題提起をメディアにもっとあびせかけないといけないということをご指摘いただいたと思います。
次は、地デジ問題をはじめとしたメディアの在り方に対してご意見を述べていただけませんか。

醍醐 地デジ問題も全国連絡会がいま取り組まないといけないテーマです。すでに岩崎貞明さん、坂本衛さんらメディア関係の4人の方を中心に終了プロジェクトというのをやっておられますし、関西の市民団体が、大阪の会もいつも早い時期から取り上げてこられた大きなテーマですね。あと5か月を切ったいまの時期に何が必要かということを考えないといけないですね。具体的には、総務省への働きかけが重要になっていると思っています。全国連絡会は近く総務省、NHK、民放連にアナログ停波の延期を申し入れることになっています。

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メディアの今とこれから(3)~NHK問題大阪連絡会のインタビューに応えて~

NHK問題大阪連絡会「サテライトNo.4 別冊     (2011・4・1発行)

醍醐 聡氏 インタビュー  

メディアの今とこれからを熱く発信!!(Part.3


NHK会長選出の過程はまったくの闇の中

河野
 いま醍醐先生が湯山さんと共同代表をされています「コミュニティ」のほうで、ごく最近、申し入れをされている問題ですが、非常に熱い思いをわれわれはしているのですが、今春のNHKの会長選と経営委員長小丸氏辞任などについて、その経緯と問題点は何でしょうか。

醍醐 運動論から言えば、こういう市民運動だけに限りませんが、運動はタイミングが非常に大事だなということを痛感します。主張すること、意見が真っ当なことであることは大前提ですが、そうであるとしてもタイミングを逸すると価値が劣化してしまう、私たちの意見も生き物だということを常々私は感じているのです。今回のNHK会長の選び方、ひいては選ぶ側の経営委員会のていたらくをかなりの全国紙が指摘しています。NHKの会長を誰がどう選んでいるのかとか、選んでいる経営委員の顔ぶれはどうなのかについて、一般の人が目にとめることはまずないと思います。そういうなかで私たちがいくらNHK会長の選び方を力説しても、なかなか関心を向けてもらえません。その点から言えば今回、経営委員会の失態、機能不全という禍を転じて福となすではないですが、そういうのを1つのきっかけとして多くの人にNHK会長選びのあり方を考えてもらうよい機会にする必要があるじゃないかということで、「視聴者コミュニティ」のなかでだいぶ議論しました。
非常に短期的な議論でして、定例の経営委員会が開かれる前に届けようということになりました。しかし、私たちが言うだけではなかなかインパクトがないのです。私がいつも思うのは、マスコミにうまくそれを取り上げてもらう。悪い意味じゃなくて、そういう広報戦略というのか、メディア戦略というのが市民運動では絶対に大事です。経営委員会が終わったあと、記者会見をやりますね。経営委員長と最近であれば監査委員が出席して。そのときに例えば私たちが前もって「こういう意見を出しました」ということをメディアに伝えておきます。そうすると経営委員会のあとの記者会見に参加する記者が「この点について市民団体からこういう意見が出ていますが、経営委員会としてどうお考えになりますか?」「何か議論をされましたか?」みたいなことをフォローしてくれることがままあるのです。そのことが翌日の報道に載るわけです。そうなると経営委員会としてはいい加減な対応では済まないというふうになるわけです。

●会長選出の漏えいの犯人探しは本末転倒で合議制の無視

醍醐
 話はその中身なんですが、今回、会長選考が終わったあと監査委員から外部へ「情報の漏洩があったのではないか」という嫌疑が起こり、マスコミもセンセーショナルに話題にしました。私自身はそういうところに問題を収れんさせていくのは、問題の矮小化だと思います。他方、経営委員会で候補者を決める2日前に小丸委員長がその特定の候補者に独断で打診していたといわれています。これは情報の漏洩とは次元がちがう、経営委員会の合議制をないがしろにした独断です。しかも打診する相手は小丸さんの意中の人ですから、この場合の独断は選考結果にも影響します。その点が非常に問題ですが、私がもう1つ問題だと思っているのが、途中で候補者に挙がった安西さんの資質についてはいろいろ話題になっていたのに、松本さんに最終的に決めたときの経過については、あまり問題がなかったかのごとく全員一致で、シャンシャンで拍手でもって、みなさんが喜び合ったそうです。そのようなことになっていますが、新聞報道では、松本さんの名前が経営委員会で挙がったのは1月15日が最初だそうです。だとすると、初めて名前が出た人を即日決定したことになります。

●NHK会長選考を 財界人脈から開放することが急務

醍醐
 ところが1月16日付けの毎日新聞によると、その2日前の13日に松本氏が、自分が選ばれたあとインタビューを受けて、「打診を受けたのは15日が初めてですか?」と聞かれたときに、「13日にJR西日本の葛西さんからその話は伺っていました」と言っています。そうすると安西さんのときと同じじゃないですか。しかも同じ業界ですよね。いまの経営委員会のなかにも同じ鉄道業の人がいますよね。やっぱり経済界の同じ業界のルート、裏のルートでほとんどの経営委員があずかり知らないところで、経済人の人脈で話が先に出来ていたことになります。これは単なる手続き論ではなくて、選考方法そのものの問題です。「コミュニティ」の質問では、大きな組織を動かすリーダーシップということにばかり選考基準がおかれ、それについては異を唱える委員はいないというところが非常に深刻です。単なる手続き論ではなく、「なぜはじめに経営者ありきなのか」という点にまで踏み込んで私たちもメディアも議論を喚起しないと現状の抜本的な改革にならない、情報漏洩というセンセーショナルな話題を追うだけで終わってはいけないと痛感しています。

河野 質問状をお出しになったことに対して、当事者からどういう回答が寄せられるかということによって、またこの運動がさらにすすんでいくと思うのですが、「その出方によっては…」というお考えは先生のほうではなさっておられるのですか?

醍醐 そうですね。今回はやはりどんな回答が来るのかをそういう意味では関心をもって注目しているのですけど、今回の質問事項のなかで井原監査委員に「報酬の一部返上」を求めました。あまりこういうことを「コミュニティ」は要求してこなかったのですが、質問書の案文のなかでこちらから「これだけ返せ」みたいなことまで書くのかどうか、迷いはありました。ただ、何かカネの話をするのはあさましいというような、そんな気持ちがあるのなら…、それは違う。今回、その点に踏み込んでビシビシ言ったらいいんじゃないかという意見が他の運営委員からも出たわけです。

●経営委員の報酬にも厳しい視線を

醍醐
 市民団体がやる視聴者運動はむしろ海外だったらはっきり言うようなことでも、日本人的体質というべきか、いままであまり報酬のことに触れませんでした。しかし、報酬に見合う仕事をしているのかということを視聴者がウォッチするのは当たり前のことですね。調べてみますと、常勤の監査委員の年間の報酬は非常勤とは言え小丸経営委員長の報酬の3.5倍です。小丸さんが650万ぐらいで、常勤の監査委員の井原さんは約2300万です。その常勤監査委員が「小丸さんの独走でした」、「小丸委員長の辞任で経営委員会としての責任は包括的に区切りをつけました」などと言っていていいんでしょうか? そういう委員長の言動を監視するために置かれた監査委員の責任を監査対象の責任と一蓮托生にしてしまうのでは開いた口がふさがりません。こういう職責に無自覚な態度を報酬との見合いできちんと質していこうと考えて、「報酬の一部返上」という要望を出したわけです。

河野 いや、僕は賛成です。あれ読んで思いました。シビアに書いてあると思いました。

醍醐 ああいうふうに言われてどう答えていくのか。「返しません。いただいたものはしっかりとそのままいただきます」と言うのか。質問は、井原監査委員にだけ提出するのではなくて、他の経営委員にも全部届けています。そこで、他の経営委員も「井原さん、ああいうふうに言われてどうするのかな…」と関心もって見てくれていたらいいなと思っています。【追記:その後、要望した期限を過ぎても回答は届きませんでしたので、回答を督促する文書を送りました。】

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メディアの今とこれから(2)~NHK問題大阪連絡会のインタビューに応えて~

NHK問題大阪連絡会「サテライト」No.4 別冊  (2011・4・1発行)

醍醐 聡氏 インタビュー
 

メディアの今とこれからを熱く発信!!(Part.2


視聴者をテレビ漬けにさせない

醍醐
 以下は5年ほど前のシンポジウムで発言したことです。NHKも朝から深夜まで放送をやっていますが、例えば、週のうちまずは試行的に何曜日でもいいと思うのですが、「この時間帯はお休み」という、そういう時間帯を設定してみたらどうかと思うのです。その間、「みなさんテレビ漬けにならないで家庭でいろんな団らんを過ごす時間にしてください」とか、「もっといろんなところに出かけてください」「ご近所の方とお茶の時間を」というふうに、テレビから解放された時間を作ってみてはどうでしょうか?それによってとかく人間関係が希薄になりがちな「巣篭もり」人間を改造する一助になるのではと思うのです。そしてNHKにしても、受信料がこれだけあるからどう使おうかという発想から、少し減った受信料でいかに中身の濃い番組を作るのかという発想に変わっていく契機にならないかと思うのですが、どうでしょうか?そういう広い意味での受信料制度、受信料が高い、安いだけではなくて、受信料の使途・配分まで含めて徹底討論をする場が必要だと痛感しています。NHKOBの津田道夫さんなどは、早くから民放ではなくて市民メディアに受信料の一部を配分するよう訴えておられます。私は市民メディアももちろんいいのですが、NHKに全部まわしてしまう必然性はないという考えはある程度共通したところです。

●一部でいい番組があるからと悪質番組の免罪符にするな

醍醐
 最近、NHKには優れたドキュメンタリー番組が少なくありません。そのような番組に激励の声を送ることは非常に大切です。しかし、それをあたかも免罪符のようにしてその他の公共放送の理念をおざなりにしたような番組づくりをしています。私たちの周辺でも、優れた番組を激励しようとするあまりに、NHKの、「意見が対立したテーマを忌避する姿勢」、「少数意見を軽くあしらう姿勢」、「民放で売れたタレントを無節操に起用して視聴者接触率を稼ごうという姿勢」を毅然と批判する態度が弱まっているのではないかと危惧しています。
また受信料制度にしても、いまの制度をただひたすら守るだけで本当によいのか。私たちはNHKを受信料で支えないといけないという原理原則を反復するだけで本当にいいのか。そのあたりは若い世代のテレビ離れも考えながら、もっと大胆に改革をしていく必要があるのではないかと感じています。先ほど、民放のほうはどうですか?というお話がありましたが、民放を民放としてだけいまの枠でどうだと言われると、なかなか私も「こういう改革が」というのは思い浮かばないのですが、NHKを含めて受信料制度と絡めてもう少し大きな枠組みで考えられないかと思っています。

●放送法「改正」で政府の権限を強めようとしている

河野
 貴重なご意見をお聞かせいただいてありがとうございます。

昨年秋、民主党政権が充分な審議を得ずして放送法を「改定」いたしましたね。これに対してどのような点で指摘ができるのでしょうか。

醍醐 まとめて言えばいい見直しではなかった。改悪の面のほうが主だったというのが、市民運動のなかでは共通した見方だと思います。私もその見方自身は大体同じです。ただ、最初の原案から見ると、審議のなかで電波監理審議会の監督権限が削られ、NHK会長が経営委員を兼ねるという条項も削られた。そういう意味では、改悪の方向への変化を食い止めたという点があったことも記憶しておきたいと思います。とはいえ、前回の改定の時もそうでしたが、総務省の権限をなんとかして広げたいという、行政当局者の思惑が基調となった改定で、視聴者の目線から変えようという視点が非常に乏しいという点は共通しています。私はむしろこの間の放送法改定では、何が変えられたか、その改定点はいいことだったか、悪いことだったかという、現になされたことについての評価もさることながら、変えられなかった点、不作為の方に注目する必要があると思っています。放送法を見直すのだったらこういうところを見直すべきなのに、それをまったく議論にもならなかったという、その不作為のことのほうを私は問題にするべきだと思うのです。こういう点はもっと改められるべきではなかったかと、私たちの側から積極的に提案して、要望をどんどん出していって、改正を求めていくという、能動的な運動が必要だと痛感しています。放送法だけではないと思うのですが、戦後の日本の市民運動では抵抗運動はある程度あった。しかし抵抗運動をやっても現状維持です。その現状がいい現状だったらいいとして、例えば、憲法というのは現状がすぐれた憲法だからそれを守るという点でそれ自体大きな価値があると思うのですが、いまの放送法というのは守ればそれでいいのか、守らないといけないところはあるけども、むしろ変えないといけないところのほうが私は多いと思っているのです。特に視聴者の権利という点では。そういうことがなかなか国会の話題や改正の作業に乗せられないというのが常ですね。このような現状を打ち破る視聴者運動をこれからの私たちは目指すべきではないかと考えています。

河野 われわれも放送法というのが充分に周知ができていないので、どの点をどういうふうに変えるということを、この場ですべて先生にお答えいただくことはできませんが、例えば、なされていない主な点はどういう点があるのでしょうか。

醍醐 今回の会長選のことがまた話題になると思いますが、それに絡む放送法の問題はちょっとあとにして、それ以外のことで言えば、私たちの運動のなかで視野に入ってきていないこととして、放送番組審議会というのがありますね。番審、番審と言っていますが、あれについて、私たちはこれまで公選制とか、そもそもどんな議論がされているのかということは何も話題になっていないわけです。放送法の世界では「法律に基づく場合を除いて番組に干渉してはならならい」となっています。

プレイヤー(NHK)がアンパイアー(放送番組審議委員)を人選している?

醍醐
 「法律に基づく場合を除いて」という法律のなかには、放送法で定めた番組審議会(番審)が入っています。視聴者がいろいろモノを申すのは別にして、そういう公の機関が個別の番組について意見を述べるというのは数少ない組織なんです。ところが現行の放送法では、その審議会の委員を、NHKが推薦して決めることになっています。もちろん経営委員会に「任期がきた方の後任にこの方を選びたい」と諮っていますが、人選は全部NHKがやっている。自分がつくった番組を審査してもらう人を、番組をつくる人が同時に決めている、プレイヤーがアンパイアーまで決めているというのはおかしなことです。

1年ほど前、番審の委員をやっておられた森まゆみさんという方が、委員を辞めたあと書かれたエッセーの中で、NHKの人たちは番組をほめてあげた時はニコニコ笑顔満面だけれど、ちょっと苦言めいたことを言ったとたんに顔が曇って渋い顔をする。そういう苦言は何度言っても聞き入れてもらえなかった、と書いておられます。NHKは自分をほめて、喜ばせてくれる委員を選ぶケースが多いですね。
番組制作に関して視聴者はNHKとのチャンネルが非常に細いわけです。私たちが言っても言いっぱなしということが多いですよね。そのチャンネルをどうやって広げていくのか。番組に対する監視・激励という日常日々の私たちの声を届けるということがもちろん基本ですが、それで終わらず、公式のチャンネルをしっかりと持つことも大事ですね。

視聴者運動は、放送法にのっとって行えるよう規定されるべき

醍醐
 その公式のチャンネルづくりとなるとどうしても放送法の裏づけを持たないとできないことです。ひと言で言えば視聴者が自分たちの声をNHKに届けるルート(チャンネル)を制度としてつくっていく。そういう放送法の手だてです。審議会の委員についてもっと開かれた選び方をするような選考方法を放送法のなかで定めることが必要です。

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メディアの今とこれから(1)~NHK問題大阪連絡会のインタビューに応えて~

 以下は、NHK問題大阪連絡会の会報「サテライト」No.4201141日発行)の別冊として刊行された私のインタビュー記事である。インタビューは今年の228日、NHK問題大阪連絡会の世話人代表の河野安士さんと佐々木有馬さんがわざわざ上京され、都内で約1時間半、お二人と懇談したものである。なお、このインタビューの概略は「サテライト」No.4の第1面に掲載されているが、河野安士さんの了解を得て、同号の全文を転載させていただく。

NHK
問題大阪連絡会 会報「サテライト」第4
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/satelliteNo.4.pdf


 遠路、わざわざ上京していただき、拙い私のメディア論、NHK論の全文を会報の別冊として発行していただいた河野安士氏さんと佐々木有馬さんに厚くお礼を申し上げる。また、「サテライト」の編集を担当されている
㈱かんきょうムーブの國本園子さんには、この別冊の編集・校正にあたって大変、お世話になった。この場を借りて厚くお礼を申し上げる。

 以下、河野安士さんの了解を得たので、別冊インタビュー全文を5回に分けて、このブログに転載することにした。転載にあたってはブログの書式に合うよう、原文の書式を変更した。

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HK問題大阪連絡会「サテライト」No.4 別冊
                                                  
(2011・4・1発行)

醍醐 聡氏 インタビュー

メディアの今とこれからを熱く発信!!(Part.1

河野 今日は、お忙しいところありがとうございます。私たちNHK問題大阪連絡会は、3年前からニュース「サテライト」を発行しております。去年は残念ながら1号しか発行できなかったのですが、「サテライト4号」のメイン記事として先生のインタビューを掲載させていただきます。現在のメディアはいろんな問題をかかえていると思います。醍醐先生も幅広い角度で、実際に湯山先生と共同で、「視聴者コミュニティ」を立ち上げておられますし、そういう活動を通じて感じておられる、いまのメディアの有り様をざっくばらんに述べていただけますか。

醍醐 今日はこういう機会をいただきましてありがとうございます。「サテライト」を送っていただいて拝見しているのですが、少人数でよく頑張っておられると、いつも感銘しています。今日はあまり堅苦しい話ではなく、「私個人としてはこんなことを考えています」というようなざっくばらんなお話をさせてもらいたいと思っています。

●NHKはなぜ「接触者率」にこだわるのか疑問

河野
 まず、NHKを中心とした日本のメディア全般の現在と将来に対してどのようなお考えをお持ちでしょうか。

醍醐 私がNHK問題の中で非常に危惧しているのは、NHK5か年計画の中で『視聴者接触率』というものを「何年までに何%」という数字の目標を掲げて、それを達成しようとしている点です。NHKを監督する経営委員会も、その尻を叩くようにやっている。私は『視聴者接触率』というものをNHKが掲げて数字を追いかけようとしていることが長い目で見て、NHKの公共性を非常にむしばむものではないか、それを脅かすものではないかという心配を2年ほど前からしているのです。接触者率(1週間にNHKのテレビ、インターネット、携帯端末、DVDなどで5分以上NHKの番組を見たり聞いたりした人の割合)というのは、番組を見ただけではなくて、ホームページなどのあらゆるNHKのネットワークにアクセスした人と時間をカウントしている。それとオンデマンドの利用までも含めている。
そのことがどういうふうに公共性を脅かすかと言えば、例えば「番組宣伝」が非常に多すぎるのではないか、それと、いろんな番組で、これまでは局のアナウンサーとか、番組担当のキャスターが進行させていたものを、最近、若いタレントをゲストとして招き、ときどきその人に質問を振ったりして番組を進行させる。具体例で言うと土曜日の夜、NHK海外ネットワークが挙げられます。この番組は、これまではスタジオのキャスターと海外の現地のスタッフがやりとりをする。もちろん、その日のテーマにかかわっている現地の人々が登場します。ところがこの半年ぐらい前から、スタジオに、いろんなタレントをゲストとして迎え、番組の途中でやりとりを挟んでいます。

番組の質を落とす安易なタレント起用

醍醐
 ところがそのゲストとのやりとりはというと、あまりに稚拙でたわいのないものです。結局、視聴者の目を引きつける、そういうことのためとしか思えないようなゲスト起用です。民放でよく売れているタレントを、見境なく起用する。途中でコマーシャルが入らなかったら、民放なのかNHKなのか、分からないという番組が少なくありません。なぜNHKがそこまでやるのか。受信料で成り立っているわけですから、そんなに視聴率を気にしなくてもやっていけるはずです。かつ視聴率を気にせずにいい番組をつくれるというNHKの強みはどこへいったのでしょうか? 「視聴者接触率」という数値目標を掲げたことがNHKの番組の質をむしばむ脅威となっているのではないかと私が危惧するゆえんです。

●テレビ離れの若者に何を発信するかが基本

醍醐
 最近の若者のテレビ離れが非常にすすんでいて、なんとか若者をNHKに引き寄せたいという思いがあるのではないかということは感じます。しかし、番組の中身を問わずに、1週間にNHKの番組やサイトに何分接触したかを気にかけるのではNHKは自分の持ち味を自分で殺してしまうことになってしまうのではないでしょうか。若者のテレビ離れをいかに食い止めるかということは真剣に考えないといけないのですが、NHKへの接触を通して若者に何を訴えたいのかということを抜きに、ただ数字だけを追いかけるというのでは、公共放送とは言えないのではないでしょうか。

NHKが民放化するのではないかと危惧する

醍醐
 この傾向がこれからどんどんすすみますと、番組づくりという面から見て、NHKの民放化というのでしょうか、質の劣化というのか、それがどんどんとすすんでいくのではないかと非常に気になります。

私たちも含め、多くの視聴者はNHKはいいドキュメンタリーを放送しているとよく言われます。私もその点は大いに評価しなくてはいけないと思っているのですが、ただ全体の番組表のなかの時間数からいけば、それはごく一部なんですよ。一部でもいい番組にはみなさんの目がとまりますけど、その横の週とか、前後の番組とかタテヨコを見ると、民放と区別がつかないような質の悪いバラエティ番組がずいぶん多いのです。これではいいドキュメンタリー番組を作っていると評価するだけではすまないのじゃないかと思います。

河野 民放に関してはどうですか。

醍醐 NHKと民放の二元体制という前にですが、公共放送がNHKひとつであることが自明なのかどうなのかを考えてみる必要があると思っています。多元化複数のテレビ局があり、いい意味でお互い切磋琢磨する、悪貨が良貨を駆逐するでは困りますが。私は当然二元体制として民放は民放としてあっていいと思うのです。しかし、いまの民放の姿がどうなのかと言われるとやはり問題を感じるのです。それはよくいわれる低俗番組が多いといったことだけでなく、視聴者との関係が希薄だということです。NHKは、視聴者と契約を交わさないといけないわけですが、現状では払った受信料は全部NHKに入る。逆に民放は見たいけどNHKは見たくないというテレビはないわけです。考えてみれば、民放の番組の実態がどうであれ、視聴者には番組を選ぶ権利があるはずです。その点から見て、いまの仕組みには問題があると思っているのです。だから民放だけ見てNHKを見なくてもいいとか、スクランブルをかけたらいいとか、従量制の料金にしたらいいというようなことを私は言うつもりはありません。しかし、とくにいまの若い人は、今言いましたような意識がなかなかぬぐえない。受信料と言ったら見た分だけ払うという対価主義が、いまの若者の感覚にはすごく合うわけです。それでNHKなんか見たくないのに、NHKに受信料を払わなかったら民放も見られないのはおかしいじゃないかという感覚はあながち否定できないのではないかと思います。

民放に受信料の一部をまわして良質な番組を

醍醐
 私が個人的に考えているのは、受信料の一部を民放にまわしていいんじゃないかということです。民放の報道番組、あるいは娯楽番組でもいいんですけど、「これはスポンサーを付けない。コマーシャル料をもらわない番組にします」ということを民放から自己申告してもらい、それを条件として、そうした番組の制作に受信料の一部をまわすという構想です。そこで例えば、報道番組などで、NHKの報道の仕方と、受信料で制作された民放の報道番組が放送されることにするわけです。報道番組は多様な意見を反映するべきといいます。民放がスポンサー企業の顔色を気にせず、NHKの伝え方とまた違った焦点のあて方で報道するのか。私たちも新聞を見比べるのと似たような感覚で、テレビメディアの報道を比較・評価する――そういう仕組みが望ましいのではないでしょうか。このような仕組みを通じて民放の報道番組や娯楽番組がどこまで変わるのか試みる価値は十分あると思っています。そしてなによりもこのような受信料の一部を民放へ配分するという仕組みを通じてして、民放と視聴者の間に双務的な関係を作り、視聴者からの監視・激励のパイプを太くすることを期待したいのです。もちろん、NHKは「いまでさえ足りない受信料をどうしてくれるんだ」と言うかもしれませんが。

視聴者をテレビ漬けにさせない

醍醐
 以下は5年ほど前のシンポジウムで発言したことです。NHKも朝から深夜まで放送をやっていますが、例えば、週のうちまずは試行的に何曜日でもいいと思うのですが、「この時間帯はお休み」という、そういう時間帯を設定してみたらどうかと思うのです。その間、「みなさんテレビ漬けにならないで家庭でいろんな団らんを過ごす時間にしてください」とか、「もっといろんなところに出かけてください」「ご近所の方とお茶の時間を」というふうに、テレビから解放された時間を作ってみてはどうでしょうか?それによってとかく人間関係が希薄になりがちな「巣篭もり」人間を改造する一助になるのではと思うのです。そしてNHKにしても、受信料がこれだけあるからどう使おうかという発想から、少し減った受信料でいかに中身の濃い番組を作るのかという発想に変わっていく契機にならないかと思うのですが、どうでしょうか?そういう広い意味での受信料制度、受信料が高い、安いだけではなくて、受信料の使途・配分まで含めて徹底討論をする場が必要だと痛感しています。NHKOBの津田道夫さんなどは、早くから民放ではなくて市民メディアに受信料の一部を配分するよう訴えておられます。私は市民メディアももちろんいいのですが、NHKに全部まわしてしまう必然性はないという考えはある程度共通したところです。

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