放送行政の独立機関化について提言を提出

 政権交代を機に放送行政を政府から切り離し、独立の第三者委員会(独立放送委員会・仮称)に移す構想が検討され始めた。その根本にあるのは「国家権力を監視する役割を持つ放送局を国家権力が監督するという矛盾を解消する」という理念である。この理念には国家と放送局のあるべき関係が凝縮されており、私も大いに賛同する。問題はこの理念を各論にどう貫くのかである。
 
これについて私も世話人として参加している「開かれたNHKをめざす全国連絡会」は1023日、代表者が内藤正光総務副大臣と面会し、「『日本版FCC』でない独立放送委員会を」と題する5項目の提言をまとめ内藤総務副大臣に提出した。以下は、そのPDF版のURLと全文である。その後に私のコメントを添えることにする。
~放送行政の独立機関化について提言します~
「日本版FCC」でない独立放送委員会を

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/teigen_dokurituhosoiinnkai20091023.pdf

    ~放送行政の独立機関化について提言します~
    「日本版FCC」でない独立放送委員会を


                       20091023
                 開かれたNHKをめざす全国連絡会

 原口一博総務大臣は、記者会見などで「通信・放送委員会」の創設を言明しています。民主党の『INDEX2009』にも「国家権力を監視する役割を持つ放送局を国家権力が監督するという矛盾を解消する」とあり、放送行政を政府から切り離して放送に対する国家権力の不当な介入を排除しようという姿勢を示したことは、率直に評価したいと思います。
 そのうえで私たちは、新しい委員会の創設にあたって、言論・表現の自由を守る観点から、最低限以下の各点の実現を求め、ここに提言します。今後の議論の参考にしていただくことを強く希望します。

1.新委員会には免許権限を、しかし内容規制はNO
 これまで政府は、放送局に対して放送内容に踏み込んだ行政指導を繰り返してきました。このような措置は憲法・放送法が保障する表現の自由・番組編集の自由から見て疑問の拭えないものでしたが、放送局は免許権限を政府に握られているために、反論もせず委縮してきたと言えます。こうした弊害を払拭するために、放送局への免許権限を政府から切り離して独立機関に委ねることが必要です。現に先進諸外国では、放送行政は政府から独立した機関が担っているところが主流であり、この機会に日本も世界の趨勢に倣うべきです。
 一方、放送局が番組で人権侵害などの問題を起こした場合、日本では放送倫理・番組向上機構(BPO)が迅速に、経済的負担も少ない形で救済する仕組みがすでに機能しています。屋上屋を架すことがないように、この仕組みを生かして、放送内容に関わる問題については、新委員会は一切タッチしないことが肝要です。
 この点で付言しますと、放送局に免許を付与する権限や電波の割当権限を総務省に残し、新委員会がその権限行使をチェックするという制度設計では、国家の介入から放送の自主・自律を守る制度にはなりえないことを申し添えます。

2.多数委員制と選任過程の透明化を
 アメリカのFCC(連邦通信委員会)は、与野党および大統領の推薦による5名の委員で構成されていますが、日本の場合、国民各層のさまざまな意見を放送行政に反映させるためには少なすぎると思われます。中央・地方からの委員選出などのバランスも考慮すれば、最低でも10名前後の委員が必要だと考えます。
 また、委員の選任に当たっては、選考委員会を設けて委員の候補を推薦する方法をはじめ、一般からの公募枠や、日弁連などいくつかの団体からの推薦枠を設けるなど、選任過程を可能な限り公開して、市民の目に見えるような形にすることが求められます。その際、政府・総務省は委員候補の選考過程には一切関与しない仕組みにするよう要望します。

3.議事の公開など組織運営も透明化を
 政府の審議会が曲がりなりにも公開の方向にあるにもかかわらず、総務省の電波監理審議会はその議事を一切公開しないままとなっています。市民各層の意見を反映した放送行政のために、新委員会における会議の公開は重要な検討課題です。少なくとも、発言した委員名を明示した議事録の速やかな公開を義務付けることは必須だと思われます。

4.事務局には役人OBでなく民間登用を
 アメリカのFCCは1800人に及ぶという事務局スタッフを抱えていますが、番組内容の規制を行わない組織なら、これほど巨大な事務局は必要ないと思われます。それでも、事務局スタッフを総務省などからの出向や天下りで占めてしまっては、独立行政委員会方式を採用する意義が大きく減じられることになります。電波行政は高度に専門的な知識や経験が必要でしょうから、官僚経験者をまったく排除することは非現実的かもしれませんが、なるべく民間から事務局スタッフを登用することにして、新委員会の独立性を高めることは重要なポイントであると考えます。

5.NHKと政府の関係も同時に見直しを
 放送行政の分離と合わせて、現在のNHKと政府の関係についても、見直しが必要だと考えます。国会がNHK予算の審議・承認の権限を持っているために、NHKが政治記者まで動員して質問取りなどの国会対策を行うという非常に不健全な慣習が続いています。政治介入を排除し、報道機関としてのNHKの自立・自律を促すためにも、NHK予算の国会承認制度の廃止を求めます(NHKと同様に受信料で成り立っている英国のBBCは、国会に対しては決算の報告のみで予算の承認は受けていません)。

 また、放送行政の新しい委員会について上記のように最高度の透明性を求めるのと同様に、NHK経営委員会のあり方についても改善が必要だと考えます。委員選出過程に公募枠を設け、政府・総務省は委員候補の選考に関与しない仕組みにするなど、市民の立場に立った経営委員会の改革を、この機会に強く求めます。

 日本は、アメリカのように民間放送のネットワークが圧倒的に普及している国や、ヨーロッパ諸国のように政府が関与した公共放送が主体になっている国々とはいずれも異なって、巨大な公共放送と複数の民間放送のネットワークという、非常に充実した放送実態を持っています。ですから、放送行政のあり方についても、日本独自の仕組みが求められるはずです。「日本版FCC」という言い方にとらわれず、諸外国の制度の良いところを参考にしながら、より豊かで自由な放送環境を創出できる放送行政の実現を、切に望みます。

                             以 上

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理念を各論に貫くために

 
提言の冒頭でも引用されているように、放送行政を独立の機関に移管しようとする構想の根底には「国家権力を監視する役割を持つ放送局を国家権力が監督するという矛盾を解消する」という理念がある。これ自体は、国家と政府のあるべき関係を簡潔に表すものであり、私も大いに賛同している。問題はこの理念を各論にいかに反映させるのかということである。
 この点で気がかりなのは、原口総務大臣が放送に関する行政権限は政府に残し、権力の不当な介入がないかどうかを監視するのが委員会の役割だという趣旨の発言をしている点である。しかし、独立放送委員会が総務大臣なり政府の放送行政権の行使を不当と判断した時、その権限行使を差し止めるほどに強い権限を持たないかぎり、委員会は総務大臣の諮問機関ないしは現在の電波監理審議会と大差ないものとなる。これでは放送局を国家が監督するという矛盾を解消できない。そうならないためには、放送行政権限そのものを独立放送委員会に移管する必要がある。

 もうひとつ気がかりなのは、内藤副大臣が、「緊急の場合に限って」と断りながらも、委員会に番組内容を規制する権限も持たせるべきと発言している点である。しかし、わが国では人権侵害や虚偽の放送がなされた場合は、放送倫理・番組向上機構(BPO)が迅速に審査にあたり、被害者を救済するなどの仕組みが機能している。独立の第3者機関といえでも、行政権限を持つ者が番組内容を規制する権限を併せ持つことは避けるべきである。

 最後に、独立放送委員会への国家権力の干渉・介入を排除する上で重要なことは委員の選任方法である。従来の政府審議会のように政府が自分の意に沿う「有識者」を物色して委員会に送りこみ、これら政府に「優しい」委員を遠隔操作することによって委員会を政府のコントロール下に置くのでは独立機関の名に値しない。そうならないためには、委員を選考するプロセスに政府は一切関与しない仕組み(選考委員会の設置、公募・推薦制の採用など)を工夫する必要がある。

政府・国会とNHKの関係も抜本的に改革すべき
 「開かれたNHKをめざす全国連絡会」がまとめた今回の提言の中でもうひとつ注目したいのは、放送行政の独立機関化と併せ、NHKに対する国家権力、政府の干渉、介入を排除するために不可欠と考えられる制度改革として、NHKの予算・事業計画に関する国会承認制の廃止を打ち出した点である。国民、有権者の代表が国政をめぐって審議をする公開の国会でNHKの事業活動の骨格をなす予算、事業計画を審議し、その承認をまって成立するという仕組みは一見、民主主義の手続きに沿うかにみえる。
 
 しかし、よく考えてみると、NHKの放送事業は「国政」ではない、むしろ、「国政を監視する有権者の知見を涵養する」活動である。国家権力を握る政府・与党がメディアによる監視の第1の対象であるといはいえ、メディアは国政全般を監視する使命を負っており、国家の三権――司法、行政、立法の各機関――から独立性を保つことが求められる。とりわけ、議員内閣制の下で多数党が立法府のみならず、行政府をも組織し、行政権の行使に強い影響力を及ぼす制度の下では、国会からの独立性を確保する必要がある。

 予算、事業計画の国会承認制があるがために、従来、与党議員は予算審議に名を借りて、NHKの個別の番組や人事にまで干渉し、番組制作に対する威嚇、牽制を繰り返してきた。また、予算、事業計画の国会承認制があるがために、予算案等の国会提出に先立ち、NHK役職員が総出で国会議員を回り、会長以下幹部は与党の非公式の部会等に呼ばれて、様々な注文をつけられてきた。さらにいえば、予算、事業計画の国会承認制があるがために、総務大臣はNHKから提出された予算案、事業計画に「意見を付けて」国会に提出する手続きが法制化されている。そして、その一環として、総務大臣が重要と認めた課題について特に留意して放送をするようNHKに「要請する」(従来は「命令する」)制度も法制化されている。しかし、数あるテーマの中で「何が重要か」を選別するのは編集の自由の根幹をなすものである。これについて所管大臣が判断を差し挟むことを可とする仕組みは放送の自由と本質的に相いれない。

 政権交代を機に、こうした行政府によるNHKへの不当不合理な干渉・介入を可能にした法制度を廃止することは放送行政の独立機関化を実効あるものとするためにも不可欠の課題であることを強調しておきたい。

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放送番組を監視する常設機関の設置を唱えた総務相

昨日から今日にかけての深夜にNHKは次のようなニュースを伝えた。

総務相 BPOと別機関を検討
08050012
 佐藤総務大臣は閣議のあとの記者会見で、BPO=「放送倫理・番組向上機構」とは別に、放送番組を常に監視する新たな機関を放送法に基づいて設立することを検討したいという考えを示し、今後、放送事業者などと協議していきたいという考えを示しました。 BPO=「放送倫理・番組向上機構」は、放送倫理の向上などを目的にNHKと民放各社が設置する機関で、放送番組への苦情や倫理上の問題などについて、第三者の立場から対応しています。これについて、佐藤総務大臣は閣議のあとの記者会見で、「わたしは、BPOの活動は高く評価しているが、NHKと民放が設置した組織であることから、『いわゆるお手盛り的な運用になるのでないか』といった意見もある」と述べました。そのうえで、佐藤大臣は「放送事業者に対して、総務省が規制をすることになれば非常に圧力的な話になる。そこから少し離れた立場で、一定の権限を持った機関が常に放送番組を監視するというシステムがあってもいいと思っている。現在のBPOは法律上の根拠を持たないが、例えば、BPO
とは別の新たな機関を放送法に基づいて設立するという選択肢があってもいいのではないか」と述べ、今後、放送事業者などと協議していきたいという考えを示しました。 

メディアに監視されるはずの公権力がメディアの監視に乗り出す本末転倒
 先月17日に、TBSの「情報7daysニュースキャスター」についてBPO(放送倫理・番組向上機構)が審理中に総務省がTBSに対し厳重注意をしたことについて放送倫理検証委員会が委員長名で重大な疑念を表明するとともに、総務省は放送界の自主的自律的機能を尊重すべきという談話を発表したばかりである。また、さる426日にはETV2001の番組改編問題に関してBPOが格調の高い見解を発表したことにも注目が集まっていた。
 さらに、さる730日には、日本テレビの報道番組「真相報道バンキシャ!」が昨年11月に放送した番組――岐阜県の裏金問題を取り上げた番組――に偽証に頼った事実無根の内容があったとして、BPOが日本テレビに対し、検証番組の制作と放送を求める異例の勧告を行った矢先である。

 昨年起こった関西テレビの「発掘!あるある大事典II」における捏造の時もそうだが、総務省はまるで放送局の「不祥事」を奇貨とするかのように自己の規制権限強化の機会をうかがうのが常習になっている。こうした動きは、近年、BPOのプレゼンスが向上している現状に対する総務省のあせりのあらわれとみることもできよう。


オピニオン・ショッピング
 しかし、そもそも、総務省ほか各行政機構を含む公権力機関はメディアの監視を受ける対象である。その公権力機関が放送番組を監視する新たな機関の設置を唱えるのは主客転倒もはなはだしい。もっとも、佐藤総務相は総務省が規制をするとなると圧力的な話になるので、総務省から「少し離れた」立場で、一定の権限を持った機関が放送番組を監視するというシステムが望ましいといっている。問題は「少し離れた」機関の中身である。それが端的に試されるのは委員の人選であって、例外なく委員の選任は所管省庁に委ねられている。そのため、過半の委員が行政によってオピニオン・ショップされたメンバーで占められるのが常といってよい。そして、これら委員は行政が自分を選んだ理由、自分に何を期待し、何を期待していないかを誰よりも心得ている。だから、委員の顔ぶれが決まった時点で委員会の結論はほぼ決まっているのが常態である。
 
権力による監視と自己検閲は表裏一体
 ここで銘記しておく必要があるのは権力による放送の監視と放送人の自己検閲は対立するどころか、表裏の関係にあるということである。なぜなら、権力による監視が強まると、放送人による自己検閲が強まる関係にあるからである。これについて先頃刊行されたボブ・フランクリンほか著/門奈直樹監修『ジャーナリズム用語事典』(国書刊行会、2009年6月)に次のような解説がある。

 「自己検閲(self-censorship) ・・・・・自己検閲は欺瞞的なものである。なぜなら自分の仕事を発表し、仕事を確保しキャリアを積みたいジャーナリストたちは、ある政治的争点を詮索すべきでないことや、ニュース・ルーム内の支配的価値にしたがって仕事をすべきであることに気付いているからである。自己検閲は自己の利益への奉仕であり、直感の反映であり、浅薄で党派心の強いアプローチであり、客観主義と公正の概念かたはほど遠いものである。・・・・・
 圧政的な政府によって報道の自由が抑制されている国家では、ジャーナリストが政府の検閲を受け大変な目に遭いたくないと思うならば、国家によって科される刑罰を避けるため、自己検閲は欠くことのできないものとなる。・・・・・」(110111ページ)

 このような解説を念頭においていうと、BPO・放送倫理検証委員会がETV2001番組改編問題に関して公表した意見の中で記した、「・・・・内閣官房副長官である有力政治家からは公平・公正にと念を押されるなかで、幹部職員らは番組の質よりも安全を優先することを、おそらくは『自主的自律的』に選んでいった・・・」(20ページ) という指摘は、有力政治家の意向を忖度したNHK幹部職員による番組改編の指示が、自己検閲と呼ぶにふさわしいものだったことを再認識させるのである。


 

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政権交代の虚像をあぶり出した西松献金事件(1)

「この時期になぜ」ではなく、「この時期だからこそ」
 今回、東京地検が小沢一郎氏周辺への強制捜査に踏み切った西松建設の政治献金事件をめぐる識者やブロガーの意見を読んで強い違和感を覚えたので、私も西松献金問題について自分の意見を書くことにした。
 かなりの識者やブロガーに共通するのは、政権交代が現実のものとなりかけたこの時期に、次期首相の下馬評が高い小沢氏を狙い打ちしたかのような強制捜査は解せない、というものである。「捜査は自民党には及ばない」という漆間官房副長官のオフレコ会見での発言がこうした観測に輪をかけた。
 これについて先回りしていうと、「この時期になぜ」ではなく、「この時期だからこそ」というのが私の意見である。これに立ち入る前に、小沢氏本人の主張をまとめておこう。
 問題にされた献金は現行の政治資金規正法で適法とされている政治団体からの寄付金であり、なんらやましいものではない。かりに、西松建設からの寄付金であれば政党支部で受領したまでのことである(注:現行の政治治資金規正法では政治家個人やその資金管理団体への企業献金は禁止されているが、政党本部や支部への献金は適法とされている)。
 献金元の政治団体がどういう団体であるかは秘書に任せており個別に把握していない。重要なことは献金の出所を詮索することではなく、政治資金の出入りを公開することである。それが政治家にとっての潔白証明になる。
 かりに政治資金収支報告に不備があったとしても、従来は訂正報告で済まされてきた。それが今回はなぜいきなり強制捜査なのか、国家権力の濫用としか思えない。

大谷昭宏氏の自己撞着の<ガチンコ勝負>論
 今回の西松建設献金事件については、ブログ上でも議論が活況を呈している。その中で、大谷昭宏氏は<政治と司法のガチンコ勝負――怒れる小沢か正念場の検察か>というタイトルで日刊スポーツ・大阪エリア版の平成2139日号に発表した論説を自身のWEBコラムに転載している。その中で大谷氏は次のように述べている。

 「小沢さんは記者会見で辞任をきっぱり否定したが、民主党内でも小沢降ろしの声が高まっている。だが、私は小沢さんがこの捜査を国策捜査と非難するのであれば、絶対に辞任すべきではないと思っている。言うまでもなく、国民の8割が不支持を表明している麻生内閣、選挙をやれば、民主党に政権を持って行かれるのは目に見えている。焦った政権政党は検察、警察をはじめ、あらゆる公安、情報機関を駆使して、民主党のスキャンダル探しをしているという声が聞こえる。小沢さんが国策捜査と非難するのも、この点を指してのことだろう。
 まして秘書が逮捕された容疑は政治資金規正法違反。今回の虚偽記載をはじめ、記載漏れや誤記載はすべての国会議員の収支報告書を精査して行けば数十件はあるだろうといわれている容疑だ。こんな捜査が罷り通ったら、気に入らない党の代表は追い落して国民の意志と関わりなく、検察が政治を支配することになる。だから国策捜査と決めつけるなら、小沢さんは代表を辞任するべきではない。とりあえず代表を降りて裁判で戦うといった手法は検察の筋書き通りということになる。」

 では、検察はどうすればよいのか。大谷氏は、「道はただ一つ、虚偽記載した献金の悪質性を証明するしかない」と述べ、かりにこの献金が胆沢ダムなど公共工事受注に便宜を図ってもらった見返りの金であり、斡旋収賄罪にあたるとなれば小沢氏に代表続行の目はない、と結んでいる。

 虚偽記載した献金の悪質性の立証がポイントになると考える点では誰しも異論はないだろう。事実、ここ数日の報道によると、西松建設以外の大手ゼネコン各社も小沢氏の公設第1秘書で小沢氏の資金管理団体・陸山会の会計責任者である大久保隆則氏から献金やパーティ券購入の依頼を受け下請業者を使ってこれに応じていたという(『毎日新聞』2009314日、夕刊)。また、西松建設ととともに小沢氏側に迂回献金した疑いが持たれている大手ゼネコン3社が200308年にかけて、胆沢ダムの主な工事を受注していたことも判明し、東京地検特捜部は大久保秘書らがこの時の受注に便宜を図った事実がないかどうか、関係者から事情を聴取しているといわれている(『朝日新聞』2009314日)。

 不可解なのは、大谷氏が献金の悪質性の立証がポイントになると言いながら、東京地検がその立証に着手したことを、政権交代の可能性に焦った政府与党が検察などあらゆる公権力を駆使して民主党のスキャンダル探しをしているかの見方があながち、根拠のないものではないかのように述べていることである。立証が必要というなら、それに着手する捜査を「国策捜査」と非難するのは筋違いも甚だしい。それどころか、小沢氏側が献金を見返りに公共工事に「口利き」をした可能性を疑わせる事実が献金元の関係者の証言で浮かび上がっているにもかかわらず、捜査を見合わせるとすれば、それこそ、不公正な捜査の「不作為」である。肝心の献金の原資について、個別のことは秘書に任せており把握していないとうやむやの逃げを打って、「国策捜査」というフレーズで自らに降りかかった疑惑を進んで明かそうとしない小沢氏の姿勢を擁護する理由は全くない。

政権交代の意味を問いかける事件
 <せっかく政権交代が目前に迫ったこの時期になぜ?>といぶかる意見が多い。しかし、私に言わせると、政権交代が現実味を帯びた時期だからこそ、現政権から小沢氏が率いる政権への移行の意味を考えることが重要である。
 なぜなら、今回の事件は、自らに振りかかった政治とカネをめぐる疑惑に空疎な説明しかせず、質問が肝心の献金の出所に及ぶと、<秘書に任せている>、<公開さえすれば、資金の出所は問わない>と居直る政治家に政権を担う資質があるのかどうかを問いかけているからである。「国策捜査」と付和雷同する前に、今回の事件で露見したような資質の政治家が首班に指名されるであろう政府・与党に政権が移行したとして、それが国民にとってどういう意味があるのかを胸に手を当てて考えてみてはどうか――問われているのは有権者の理性なのである。

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ジャーナリズムの真髄をラジカルに綴った警世の書:   原寿雄『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書、2009年1月刊)を読んで

 本書は著者、原寿雄氏が12年前に同じ岩波新書として出版した『ジャーナリズムの思想』の続編として書かれたものである。全体をとおして、この十余年のジャーナリズムの潮流と問題点を言葉の本来的意味でラジカル(根源的)に問い直すとともに、現状批判に終わらず、とかく空気のように忘れられがちなジャーナリズムの存在価値と可能性にも随所で言及している。
 著者はいうまでもなく、戦後60年の間、(社)共同通信社の編集局長・専務理事・編集主幹、民放連放送番組調査会の委員長などを歴任した日本のジャーナリズム界の重鎮である。その現場体験と重厚な見識から蒸留されたメディア批評と提言を読み終えて、私は問題の核心を射る著者の思考の鋭さに深い感銘を受けた。紹介し、感想を記したい箇所は多々あるが、以下では次の4つのテーマを取り上げることにした。
 読売グループ会長・主筆の渡邊恒雄による政党大連立工作にみるジャ  ーナリズムと政治の距離(序章)
 「編集の自由」をめぐるジャーナリズムの自律と自主規制(第3章)
 ③政治的多数派が放送を支配する体制への警鐘(第4章)
 ④座標軸を持たないジャーナリズムが「世論ととともに立ち上がる」危  険性への警鐘(第5章)

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権力を監視すべきジャーナリストが権力づくりに加担する腐食の構造

 著者は「はじめに」の中で、政治報道を本書の柱の一つにしたきっかけは、200711月に発覚した読売グループ会長・主筆の渡邊恒雄による自民・民主両党の大連立工作であったと記すとともに、現役新聞人が政界工作に奔走することに対して無関心を装うメディアの現状に対する危機感が政治報道に重点を置いた動機であったと記している。著者はこの時の渡邊の行動を次の3点にわたって厳しく批判している。
 第1に、現役新聞人によるこうした政治活動はジャーナリズム倫理の基本にもとるということ。
 第2に、その倫理違反が日本新聞協会会長という、日本のジャーナリズムを代表する経歴をもった人物によって行われたこと。
 第3に、現代の日本の新聞・放送が、ジャーナリズムの倫理の基本を逸脱したこの行為を大勢として黙認しているばかりか、政治評論家の間からは共鳴や支持の声さえ挙がったこと。
 これに対して、原氏は、「非当事者原則は、ジャーナリスト活動の出発点であり、権力を監視すべき役割を担う者が権力づくりに加担しては、ジャーナリストとは呼べない」(4ページ)と断罪している。
 と同時に、こうしたマスコミ人の政治活動が渡邊恒雄に限られたわけではない、と本書はいう。古くは、平民主義から国権主義に変身し、超国家主義者として時の政府を擁護する論陣を張った徳富蘇峰、近くは、「組閣になるとたくさんの代議士が私に挨拶にきた」と与党政治家との関係を誇らしげに語った元NHK会長・島桂次、「日本は天皇を中心とした神の国」発言で窮地に立たされた森善朗首相(当時)の記者会見での応答をNHK記者が指南したといわれる事件など、権力とマスコミ人の癒着はわが国ジャーナリズムに連綿と続いていると著者はいう。しかも、著者が重視するのは、メディア界の中から、こうした動きに自律的な批判が出るどころか、「ナベツネさんの憂国の情は単なるマキャベリストのものではない」(岩見隆夫)などと共鳴の声が上がったことである。
 こうしたマスコミ人の言動の背景には、「有力政治家にアドバイスするくらいになって初めて政治記者として1人前」という考えがあるという著者の指摘を読んで、日本のマスコミ人、特に有力政治家との親交や人脈を誇らしげに語る論説委員、与党政治家の「ぶら下がり取材」に明け暮れる番記者の倫理感覚のマヒが浮かび上がってくる。

トラブルを避ける保身の術にすり替えられた編集の自由
 20084月、最高裁はETV番組改ざん事件について、これを上層部による編集権の濫用とした東京高裁の判断を覆し、被告NHK逆転勝訴の判決を言い渡した。しかし、著者は、この判決を評して、「政治的干渉を拒否するための『編集の自由』が、政治的圧力を受け入れる自由として保障されてしまった」(75ページ)と手厳しく批判している。さらに著者は批判の矛先をNHK執行部にも向け、「編集の自由」が「トラブルを避ける経営上の安全運転の自由」に変質し、「編集の自由」を「自己検閲」の口実にしていると警鐘を鳴らしている。
 しかし、「編集の自由」への脅威は目に見える外部からの介入だけではない。著者は、ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』を例に挙げて、目にみえにくい「空気による社会支配」(79ページ)が自主規制の連鎖を生む構図にも注意を促している。なぜなら、「法的な規制は目に見えやすいが、社会的政治的な圧力はそれと気づかないうちに醸成される」(79ページ)からである。たとえば、本書でも紹介されているが、198917日の昭和天皇の死去に際し、放送界は「歌舞音曲中止」、「広告スポンサーなし」の自粛サスプロ(自主番組)に徹した。こうした放送界のお行儀のよさを、「自粛」という名の「他粛」と評されたのを思い起こす。
 表現はどうであれ、「『法律上は自由だが実際は不自由』という、この深刻なギャップが埋まらない限り、表現の自由は確立できない。圧力をおそれ、自粛・自主規制が安易に横行する日本の現状は法治国家とは言えない」(79ページ)という著者の言葉は鋭く、かつ重い。

「知性を排除するメディア」に朽ちないために 
 「放送ジャーナリズムを支えるもの」というタイトルの第4章にも含蓄に富んだ記述がちりばめられている。「視聴率に支配されるテレビ」と題するこの章の最初の節で著者は、「大衆の喜びそうなものは何でも食いついてゆく。そこに価値判断というものがない。量があって質がない」という大宅壮一の言葉を引用し、「昨今のゴールデンタイムのバラエティ番組を見ていると『テレビは本質的に知性を排除するメディアだ』との批判に反論し切れない」(92ページ)と述べている。
 犯罪事件報道への偏重や「俗悪番組」にみる面白主義の幼児化に共通する背景として視聴率至上主義、視聴率がそのまま広告料金に跳ね返る仕組みがあることは衆目の一致するところである。ところが、本来、財政基盤を視聴率に依存しないNHKまで最近、「接触者率」を経営目標の一つに掲げ、民放で売れたタレントを次々に娯楽番組に起用して、民放と区別がつきにくいまでにお笑いバラエティ番組をならべているのはどうしたことか? 紅白歌合戦の視聴率が数ポイント下がるたびに、「NHK離れ」を騒ぎたてるマスコミ、その喧噪に焦るかのようにお笑いタレントや著名人を応援団、審査員に動員して視聴率の「失地回復」に躍起になるNHKを見ていると、何のための「テレビへの接触」なのかを問い返したい思いに駆られる

国会の多数派に監視されてよいのか?
 これに関連して、問題になるのは、番組の質(倫理違反かどうか、政治的に公平かどうかなど)を「誰が」判断するのかということである。視聴率至上主義が番組の俗悪化や「やらせ」を生む土壌であることは先に述べたとおりであるが、誰がこれを判断するのかということは放送の自主自律と関わる大問題である。
 これについて、本書は19784月の衆議院逓信委員会における石川晃政府委員の答弁と199310月の衆議院逓信委員会における江川晃正放送行政局長の答弁を対比して、番組の倫理違反、政治的公平の判断をする主体についての政府見解が転換したこと(郵政省には判断する権限がないという見解から、最終的には郵政省が判断するという見解への転換)に注意を促している。その上で著者は、「放送界が一致して『規制的な行政指導など受け入れない』という強い態度を表明すれば、状況は変えられる」にもかかわらず、「ジャーナリズムが監視すべき行政から逆に監視され、指導を受け入れるような現状は、表現活動を業とする放送界として情けない」(101ページ)という原氏の言葉を現役の放送人はどう受け止めるのだろうか?

 こうした番組内容への行政の関与と関連して私が注目したのは、NHKの予算、決算、経営委員の任命等に政府・国会が直接関与するわが国の現行の仕組みに関する著者の見解である。著者はNHKの運営費のほぼすべてが視聴者が支払う受信料で賄われていることから、「本質的に見れば、内閣や国会など政治の関与はまったくのフィクションに過ぎない」(107ページ)とし、「政治と政治を監視すべき報道機関の代表選出を、同質に論じることはできない。政治的な多数派が文化である放送まで支配する仕組みは文化を歪める」(107ページ)と断じている。
 このような著者の考えに私も諸手を挙げて賛成である。なぜなら、別の場(拙稿「視聴者に開かれたNHK経営委員会をめざして」『放送レポート』No.21720093月、所収)で述べたが、多様な意見が出会い、影響し合う「言論の広場」を提供すると同時に、時々の政治体制の権力行使を監視することを使命とするジャーナリズムには多数決原理はなじまないからである。この意味で、会長の任命権などNHKの重要な事項を議決する権限を持つ経営委員の選任を、与党の意思で決着する国会の同意人事に委ねている現在の仕組みは、NHKの政治からの自立という点で大きな問題を抱えている。「政治的な多数派が文化である放送まで支配する仕組みは文化を歪める」という本書の指摘は現在のNHKが抱える制度問題の根幹に迫る論点提起といえる。

ジャーナリズムに求められる自立した座標軸
――世論とともに危険な道を歩まないために――
 本書の目次を概観してまず目に止まったのは、第5章の一節に付けられた「『国民とともに立たん』の危険性」(135ページ)という小見出しである。いうまでもなく、この言葉は朝日新聞が1945117日に発表した戦後の再出発宣言のタイトルである。これについて、著者は「趣旨はわかるが」と断ったうえで、次のように書いている。

 「私には、『国民の声を聞き国民とともに戦ってきてしまった15年戦争ではなかったか』との思いのほうが重くのしかかる。新聞経営者は戦犯追放で一時退いたが、朝日新聞の従業員は、むのたけじ記者ら終戦とともに退社したごく一部を除いて、天皇と同じく戦後も変わっていない。」「『国民とともに立ち上がるのは危険だ』いう事実こそ、ジャーナリズムにとって最大の歴史的教訓ではなかったのか、そう思えてならない。」

 戦中・戦後のジャーナリズムの世界を生き抜いた著者ならではの重い反語に身の引き締まる思いがする。そしてこの後で著者が引用した『記者たちの戦争』(北海道新聞労働組合。径書房、1990年)の次の一文は、今なお、不条理な同一化圧力が社会の隅々に行きわたる日本において、ジャーナリストが引き受けるべき特別な役割を記した決意の表明といえる。

 「少数者であることの恐怖に打ち勝つ力を身に付ける以外に、道はありそうもない。それは異端を許し、少数意見を尊重する心を育むことにもつながる。新聞も同じである。『国民感情』との確執を恐れず、異端を切り捨てない幅の広い紙面づくりをめざし――。」

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強迫的な日銀総裁空白リスク報道に思うこと

横並びの思考停止報道の標本

 最近の新聞、放送を見ていると、横並びの思考停止報道を繰り広げるメディアの腐食ぶりを思い知らされる。

 アメリカ民主党大統領候補の予備選をめぐって「オバマ候補はどういう政策を掲げているのか、クリントン候補とどこが具体的に違うのか」にほとんど触れず、オバマ・ブームだけをあおる報道が続いている。これでは、一国の大統領候補を選ぶ政治報道として落第である。

 あるいは、日銀総裁のポストが1日でも空席になったら、市場から不信を突きつけられ、株価がさらに暴落する一大事かの強迫的報道は何を根拠にしているのか? 総裁ポストが空席になることは異例には違いない。しかし、期日までに誰でもよいから決めればよいというものではない。総裁、副総裁候補として名前が挙がった人物は過去、日銀が採用してきた超金利政策をどう評価しているのか、今後、物価上昇にどう対処しようとするのかなど、日銀首脳候補に不可欠な見解を問うことなく、経歴ばかりに焦点を当て、空白責任をめぐる与野党の駆け引きばかりをズーム・アップする報道も政局報道ではあっても政治・経済ジャーナリズムに値する報道ではない。
 
自分の持ち場で直球勝負を

 一昨日(321日)の『毎日新聞』朝刊2面の「発信箱」に経済部記者の中村秀明氏筆の<歴代総裁の責任>というタイトルの短い論評が載っていた。中村氏はその冒頭で次のように記している。

 「マスコミの編集幹部が数人集まった会合で、だれかが言った。『いまさらだけど、日銀総裁って、大事な仕事なのかな?」

 そう思うなら、仲間うちの雑談で済ませず、コラム欄でやんわりと疑問をもらすのではなく、自分の持ち場の政治・経済紙面で日銀総裁人事の核心に迫る記事を書くのがメディアに携わる人間の本領ではないのか――そう思いたくなるコラム記事であった。

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オバマ氏は何をしたいのか? メディアは何を伝えるべきなのか?

オバマ氏は何をしたいのか?
 このところ連日、アメリカ大統領候補の民主党予備選挙の話題で日本のメディアも持ち切りである。これだけ長期間にわたり各候補が数十億円の資金を投入して選挙運動を繰り広げる様は、有権者の直接選挙で大統領を選ぶというアメリカの事情はさておくとしても、日本人にはなじみにくいように思える。

 それは別にして、この件の報道を見るたびにもどかしく思うのは「オバマ氏はいったい何をしたいのか?」がなかなか伝わってこないということである。これはオバマ氏と接戦を続けるヒラリー・クリントン氏についてもいえることであるが。

 そんな中、214日(木)午後730分からのNHK総合「クローズアップ現代」が<大逆転? 猛追オバマの舞台裏>と題する番組を放送した。放送時間の大半はオバマ氏の猛追の背景に何があるのか? オバマ氏のどこが有権者、特に若者を惹きつけるのかの解説に割かれた。

 番組の中では、その背景を探るために、タイムズ誌の政治アナリスト、マーク・ハルぺリン氏のインタビューを入れていた。同氏によると、「原宿で立候補演説をしたら当選すると想像してほしい」、「政治のイメージを身近かで格好よいものにしたことが若者を惹きつける要因ではないか」と語っていた。
 また、番組の中ではオバマ氏の「言葉では言いにくい笑顔やふるまいが人々を感動させる」とも解説していた。

 確かに、支持票の騰落のたびに感情の起伏を表に出すクリントン氏と比べて、オバマ氏は終始、クールな身のこなしで「短いフレーズ」を散りばめた演説のスタイルがぶれない。そうした冷静沈着な選挙運動のスタイルにおいては年長のクリントン氏とあべこべとさえ思える。

 このようなイメージを流し続ける「クローズアップ現代」にいささかのいらだちを感じていたところ、残り5分ほどになって、前記のマーク・ハルぺリン氏が再び登場し、国谷裕子キャスターと次のようなやりとりをした。

 「アメリカは多くの問題を抱えているのに、なぜシンプルな<変革>を訴えるオバマ氏に人々は惹きつけられるのか?」

 「それは非常に重要な問題です。アメリカ人はオバマ氏がいう<団結>という言葉に惹かれている。しかし、有権者は若くて経験不足の彼が大統領になることの不安をよく考えていない。」

 メディアは何にペンを、マイクを、向けるべきなのか?
 私としては、最後の約5分間でやりとりされた問題にこそ、もっと時間が割かれるべきであったと思えた。
 オバマ氏にアメリカの有権者の熱い視線が注がれる背景には、国内での経済不況、災害に弱いアメリカをよそ目に、「テロとのたたかい」を標ぼうして、イラクをはじめ、世界各地で武力介入を続け、各国で「アメリカ嫌い」を生みだしたブッシュ政権への不満があると想像できる。

 しかし、オバマ氏の言う「変革」が、そうした不満の出口となりうるのかどうか――メディアが伝える彼の演説をいくら聞いても読んでも伝わってこない。今回のアメリカ大統領選挙でオバマ氏についていえば、

 ①国内の医療制度の危機、貧困に対しオバマ氏はどのような政策を提起しているのか、その点でクリントン氏とどこがどのように違うのか、
 ②オバマ氏はイラク派兵や対北朝鮮外交について、どのような政策を提唱しているのか?
 ③オバマ氏はサブプライムローン問題で揺れる国内経済の立て直し、格差是正にどのような政策と実行プランを提唱しているのか?
 ④オバマ氏は地球温暖化対策としてアメリカは何をすべきと考えているのか?

 少なくともこれらのテーマについて、踏み込んだ取材をし情報を提供することこそ、メディアの政治報道に不可決の課題である。こうした地に足のついた調査・取材報道がないまま、耳障りのよいワン・フレーズとスタイルだけを追い続け、垂れ流すのでは政治ジャーナリズムとして失格である。
 それは、元小泉首相が呼号した<改革>というキャッチ・フレーズを、その内実を問うことなく思考停止のまま<善なるもの>と予断して垂れ流し、有権者の郵政民営化をめぐる判断に資するなにほどの資料、情報も提供しなかった日本の政治ジャーナリズムの荒廃と同質である。

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「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?

加藤不二子さんからの一報

 去る8月24日の21時から23時24分まで、日本テレビで「終戦記念特別ドラマ」と題して、「私は貝になりたい―ー真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎―ー」が放送された。副題にあるとおり、このドラマは終戦時の1945年、新潟の俘虜収容所の所長をしていた主人公・加藤哲太郎(中村獅童役)が同収容所で起こった捕虜射殺事件(犯人不明)の責任を一人で被る決意をし、3年に及ぶ逃亡を続けた末逮捕され、BC級戦犯裁判にかけられた事件を題材にしたものである。原作は加藤哲太郎が各所に匿名で発表した手記を収録して出版された『私は貝になりたい』(1994年、春秋社)である。

 その日の朝刊のテレビ番組表と各紙の番組予告欄でドラマ放映のことを知っていたが、午後に加藤不二子さんから電話をいただき、ぜひ視てほしいという知らせをもらった。番組をご覧になった方はすぐおわかりのことと思うが、加藤不二子さんはドラマでは優香が演じた、加藤哲太郎の妹さんで、死刑判決が下った兄の助命をマッカーサーに嘆願するため、皇居前のGHQに出向き直訴文を手渡した並外れた正義感と行動力の持ち主である。

『私は貝になりたい』の出版記念会で

 今から15年ほど前、ある機縁で加藤不二子さんのことを知り、2、3回私信を交わしたころ、上記の『私は貝になりたい』(1994年、春秋社刊)の出版記念会の案内状をいただいた。確か、皇居前(旧GHQ本部近く)の東京會舘で開かれたと記憶している。私のような縁の薄いものにまで案内をもらったときは驚いたが、自分の世界を広げるためにと思い立って出席した。確か、日立鉱山の俘虜収容所で哲太郎氏と一緒だったという高齢の人が同じテーブルに着き、「なぜ自分がB級で○○がC級なのか、わからない」と話しておられたのが記憶に残っている。

 あの日の記念会が加藤不二子さんとは初対面だったが、各テーブルをこまめに回って多くの出席者と精力的に挨拶を交わしておられた姿が印象に残っている。そのとき、会場の受付で『私は貝になりたい』を買った。これまで何度か読み返したが、今回、放送後に改めて読み直し、ドラマで伝えられたこと、伝えられなかったことを確かめることができた。

原作と脚本のはざまで

 新聞数紙でドラマの予告記事を読んだとき、原作がどのようにドラマ化されるのか、期待半分、不安半分だった。A級戦犯の裁判の陰に埋もれがちなBC級戦犯の裁判の実態に光を当て、長時間の放送枠を組むこと自体、貴重な企画に違いない。加藤不二子さんからの電話で日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた。

 ただ、新聞の試写室欄を読むと、逃亡生活中に出会った女性・倉沢澄子さん(飯島直子役)との純愛物語あるいは肉親の助命を必死に嘆願する家族愛の物語に仕立て上げられたのではないかという危惧も拭えなかった。

 実際、放送されたドラマの前半を見た限りでは、この危惧が当たらずとも遠からずだった。とりわけ、哲太郎との出会いから結婚、逃亡の身の哲太郎に寄り添うことを決意した澄子の一途な姿、逃亡・逮捕、そして絞首刑の日が刻々と迫る中、哲太郎の安否に気をもむ加藤家の煩悶の描写にかなりの時間が割かれ、BC級戦犯を生み出した時代背景、哲太郎が獄中から何を訴えたかが背後に追いやられているという印象を拭えなかった。

 こんなドラマ仕立てを見ながら、番組制作・放送局への取材協力者の信頼の利益をどのように保証するのかという大きなテーマが頭をよぎった。そして、テレビで取り上げてもらおうと思えば、原作者や取材協力者はどの程度の脚色を受け入れ(甘受し)なければならないのかという複雑な問題を当事者ではない私も考えさせられた。

 ただし、どこまでが原作でどこからが脚色かは正直、私もわからない部分があったが、ドラマの後半で、哲太郎が死刑の執行を免れるために発狂を装ったことから入院させられた米軍361病院での目を覆うような虐待(原作117~118ページ)、狂人のまねを止めて巣鴨の死刑囚ブロックに戻されてから「死の待合室」で同居した中村雅俊役の元軍医との会話、元軍医が絞首台に連行される際に残した叫びは、このドラマを締めくくるにふさわしい圧巻だった。また、脚色の功罪は別にして哲太郎役の中村獅童、不二子役の優香、上記の中村雅俊など、スタッフ一同、それぞれの持ち役に徹した熱演はさすがだった。

 しかし、こうしたドラマの功の部分を認めながらも、最後まで見終えた私には、「終戦記念特別ドラマ」と銘打つなら、ぜひに伝えてほしかった原作の真髄の部分がさらりと流された印象を拭えなかった。それは哲太郎が巣鴨刑務所から危険を覚悟で匿名で書き付けた手記(原作に収録)の中の次のようなくだりである。

BC級戦犯釈放は再軍備の引換え切符ではない

 「下されたカーテン〔講和条約のこと―ー醍醐〕の中で両者は妥協へと急いだ。吉田〔茂〕は事実上の再軍備、即ち漸進的な予備隊の強化を約し、ダレスは将来に於て戦犯釈放の可能性への道を残した。そして其の時期は日本が再軍備をした時であった。」(原作92~93ページ)

 「私達は再軍備の引換え切符ではない。私達は戦争地獄へ渡る三途の川の渡し守へ支払う一文銭であってはならない。
 私達が欲するのは、人道的見地を盾にとった、他からきり離して戦犯釈放だけを対象とした、死の商人達の運動のおかげで釈放されることではない。
 私達が望むのは、祖国がそのすべての旧交戦国と友誼的な平和条約を結び、植民地の圧制から独立し、平和を愛する諸国民の寛大な取りはからいによって、私達が戦争に協力した道徳上の罪を赦され、暖かい日本国民の懐に帰り、平和愛好の国民の一員として祖国の独立と平和とを守り、以って人類の幸福に貢献し得る機会を与えられることである。」(原作95~96ページ。この手記は『世界』1952年10月号に「一戦犯者」の匿名で発表されたもの。)

天皇陛下、こんご日本人に生まれかわってもあなたの思うとおりにはなりません

 「天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか? 私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長い間の苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんご日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。」(原作、26~27ページ。この手記の日付は1952年10月20日。飯塚浩二編『あれから七年』光文社、1953年に志村郁夫の名で収録されたもの)

 私の拙い解説はもはや不要だろう。原作の末尾に収録された内海愛子さんの解説で引用された資料によると、起訴されたBC級戦犯容疑者は5,700人、有罪者は3,419人、うち984人が死刑であったが、死刑囚の11%は俘虜収容所関係者だったという。
 
 思えば、私が生まれた1946年、哲太郎は絞首刑の恐怖におびえながら逃亡生活を続けていたことになる。BC級戦犯とその裁判の実相、13段の絞首台に引き出されるのが明日とも知れない極限の状態で彼らが必死に書き残したメッセージは60年近く経った今でも極く限られた人々にしか知られていない。それを次世代の若者に伝えるのは、BC級戦犯にならずに済んだ私たち戦後世代の道義的責任である。

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不公平な政見報道に対する抗議と予防的申し入れ

 1ヶ月近く更新が滞ってしまったが、この間、掲載したい題材は山積している。取り急ぎ、私も参加している「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が「NHK問題を考える会(兵庫)」と連名で、今日(7月11日)、不公平な政見放送を行った民放3局宛てに送った抗議声明を掲載する。このほか、当会と兵庫の会は、同日、他の報道機関(NHK、全国紙、民放各社)にも政治的に公平な報道を求める申し入れ書を送った。

 なお、民放3局に対する抗議の文書の末尾に記しているように、3局が当会の要求に応じない場合は、BRC(報道と人権等権利に関する委員会)に苦情の申し立てをする予定である。

 下記の文書の後に、私のコメントを掲載したので、併せてご笑覧いただけるとありがたい。

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                           2007年7月11日

    放送法第3条に反した報道に対する緊急抗議声明

 日本テレビ 御中
 ラジオ日本 御中
 テレビ東京 御中

                      NHK問題を考える会(兵庫)
              NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ

 日本テレビ、ラジオ日本、テレビ東京の各局は、7月5日から6日にかけて、自由民主党総裁である安倍晋三首相のみを生出演させ、その主張を自由に述べさせました。参議院議員選挙という民主主義の根幹をなす選挙を目前に控えたこの時期になされた本報道が国内放送の編集等について、放送事業者に対して課した規定「放送法第3条の二第1項 二 政治的に公平であること」に違反し、一党に偏したものであることは明白であり、当会はここに強く抗議します。

 そもそも、放送メディアが、数千万の市民に、同時一斉に言論・情報を提供する媒体の独占・寡占を許すのは、放送法に従った報道の遵守が確約されているからです。本件は上記3局がこうした放送メディアの使命を没却した蛮行であり、とうてい認めることは出来ません。直ちに自由民主党以外の政党に謝罪すると共に、各政党の党首を生出演させ、同様の意見表明の場を提供するよう要求します。

 なお本件は、「放送と人権等権利に関する委員会(BRC)」が定めた「公平・公正を書いた放送により著しい不利益を被った」に相当する報道と判断し、当会の要求が受け入れられなかった場合は同委員会に苦情申立をいたします。

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(コメント)

 そもそも「言論の公共空間」としての公共放送・メディアの根幹的使命は、市民が政治・社会のあり方を思索し、有権者として事情に通じた意思決定をするのに必要な知見を提供すること、異なる意見が交わる場を提供し、思考の可塑性を保つのに貢献する点にある。

 いわゆる「従軍慰安婦」問題や第二次大戦末期の沖縄での集団「自決」強要問題などを歴史教科書から抹消しようとするわが国政府の策動や、プレスコードによって原爆被害の実態を伝えることを禁じた占領期のアメリカ当局の出版・報道統制は、市民が世代を超えて歴史認識を継承・共有し、連帯するのを寸断しようとする野蛮な行為にほかならない。

 「押し付け憲法」論や「戦後レジームからの脱却」などという一部の政治家の戯言も、歴史認識の世代間分断を図り、それを拠り所にして、主権者たる市民を「自分の思い」に沿う方向に誘導するための傲慢で悪質な政治的レトリックといわなければならない。

 むしろ、市民が国境と世代を超えて、戦争と平和の歴史、現代の政治・経済・社会等をめぐる根幹的な事実を共有しあい、異質な思考と交わる機会を保ってこそ、各人の思考の固定化(少数派が陥りがちな引き籠もり的独善主義も含め)を防ぎ、理性を共通の基盤にした対話を成り立たせることができるのである。

 その結果、今日の少数説が明日は多数説に入れ替わる可能性も担保し、多数説と少数説が互いに切磋琢磨して社会全体の理性の水準を底上げするーーこうした民主主義の成熟に寄与するところに、不特定多数の市民に同時一斉に言論・情報を提供できる媒体の寡占を許されたメディアの使命があることを、報道と言論に携わる関係者は銘記すべきである。

 上記のような特定の政党を引き立てる偏向した報道のみならず、有権者の「関心」に応えるという標榜の下に、「政権交代」が国政選挙の焦点かのように描き、2大政党・党首の動静を別格扱いする報道にも、上記のようなメディアの使命に照らして、厳しい批判の目を注ぐ必要がある。

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全国紙4社と菅野俊秀氏に対して公開質問書を発送――NHK経営委員長「内定」報道をめぐって――

 このブログの直近の3つの記事で取り上げたNHK経営委員長の「内定」報道について、本日、NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ、NHK問題を考える会(兵庫)、メディアの危機を訴える市民ネットワーク事務局の三者連名で、朝日新聞社、読売新聞社、毎日新聞社、日本経新聞社の4社と、この問題に関してコラムを執筆した(5月25日の朝日新聞朝刊に掲載。その内容はこのブログの前回の記事に収録)菅野俊秀氏宛に公開質問書を発送した。6月20日までに文書による回答を要請している。

 これら5つの質問書は、引用した記事の原文の表現上の違いを別にすると、ほほ同じ内容なので、ここでは朝日新聞社宛の質問書の全文を掲載することにしたい。その他の質問書はURLを貼り付けることにする。

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                           2007年6月8日
朝日新聞社 御中

  NHK経営委員長の人事をめぐる貴社の報道についての
               公開質問書

 時下、貴社におかれましてはご清祥のことと存じます。
 さる5月18日の貴紙朝刊1面に、「新経営委員長に古森氏 NHK経営委 富士フィルム社長」という見出しの記事が掲載され、その中で次のように記されています。

  「政府は17日、NHK経営委員会の新しい委員長に富士フィルムホールディングスの古森重隆社長(67)を起用する方針を固めた。今国会で経営委員に就くことに同意を得られれば、6月にも正式に就任する。」「17日午後の安倍首相と菅総務相の会談で内定した。」「NHKの経営委員は、国会の同意を得て首相の任命で決まる。委員長は12人の委員が互選する。」

 私たちは、この記事には、NHK経営委員長の選出をめぐる報道のあり方について、さらに、NHK経営委員会と政治の関係をめぐるジャーナリズムの見識について、重大な疑問があると判断し、以下の質問を提出します。これについて貴社の見解を6月20日までに文書で下記宛にお送りくださるよう、お願いいたします。

質問1 この記事について、これまでに、政府あるいは古森重隆氏側から、何らかの訂正の申し入れがあったでしょうか? あったとすれば、どのような申し入れだったのでしょうか?

質問2 上記の記事にも記されているように、NHKの経営委員長は経営委員の互選で選出することになっています(放送法第15条第2項)。したがって、内閣総理大臣が放送法第16条第1項に従い、両院の同意を得て特定の人物を経営委員に選任することと、その人物が経営委員長に選任されるかどうかはまったく別個の問題です。
 にもかかわらず、上記の記事で安倍首相と菅総務大臣の会談で経営委員長が「内定した」と記された根拠はどこにあったのでしょうか? 理由を明確にご説明ください。

質問3 記事にあるように、政府が個人名まで特定して、経営委員長の人事に介入しているとすれば、それは放送法第15条第2項に反する違法行為に当たることは明白です。にもかかわらず、上の記事がこうした政府の行為の違法性に一切触れず、古森氏の経営委員長就任が既定の事実となったかのように報道しています。これは、経営委員長の選任権を持つ経営委員を冒涜するものであるとともに、政府の違法な人事介入を追認するばかりか、それを喧伝・助長するものであると当会は考えますが、貴社はどのようにお考えか、ご回答ください。

質問4 同じ5月18日の貴紙朝刊の34面で、この件についての解説記事が掲載され、古森氏の起用は「首相との近さが決め手か 独立性に課題も」という見出しが付されています。また、この記事では、政府が目論む経営委員会の「権限強化は放送に対する政治介入の余地を生む恐れもある」と指摘しています。
 しかし、ほかでもなく、今回の経営委員長の人選をめぐる政府の動きは、時の政権トップの人脈・意向でNHKの最高意思決定機関の長を選ぼうとする、権力を笠に着た傲慢な政治介入そのものです。従って、「独立性に課題も」というなら、NHK経営委員会の独立性を侵す政府の介入を質してしかるべきところ、これを不問にした貴紙の記事は権力を監視すべきジャーナリズムの使命を放棄したのも同然と考えられます。これについて貴紙の見解をお聞かせください。

                                   以上

             NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
                                        共同代表:湯山哲守・醍醐 聰
          HP:http://space.geocities.jp/shichoshacommunity/
              メールアドレス:shichoshacommunity@yahoo.co.jp
                                              専用電話:048-873-3520

                     NHK問題を考える会(兵庫)
                                                            代表:貫名初子
                                        電話&FAX:078-351-0194

                メディアの危機を訴える市民ネットワーク事務局
                  HP:http://www.jca.apc.org/mekiki/index.html
              メールアドレス:mekikinet-owner@hayoogroups.jp

 ご回答は文書にて下記へお送りくださるよう、お願いいたします。(以下、省略)

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他の4通の公開質問書は次のとおり。

読売新聞社への公開質問書
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/situmonsho_to_yomiurisinbun20070608.pdf

毎日新聞社への公開質問書
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/situmonsho_to_mainichisinbun20070608.pdf

日本経済新聞社への公開質問書
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/situmonsho_to_nikkeisinbun20070608.pdf

菅野俊秀氏への公開質問書
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/situmonsho_to_sugano20070608.pdf

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NHK経営委員長人事への政府の違法な介入を追認し免罪する報道人の腐食したジャーナリズム精神

  5月25日夜、知人から、今朝の『朝日新聞』にNHK新経営委員長云々の記事が載っている、という連絡をもらった。朝方、あわただしく主要記事に目を通すだけだったので、あわてて紙面を繰ると27面に、「試される経営委員長の手腕」という見出しで菅野俊秀氏筆の囲みの記事が載っていた。
2007_0525_1










そして、読み進むにつれ、知人がいわんとしたことがわかった。

 経営委員長の選出方法をなぜ示さないのか?
 記事は、「NHK経営委員会の新委員長に、富士フィルムホールディングスの古森重隆社長が内定した」という書き出しで始まっている。それに続く文中でも、「新委員長」という表現が2度登場する。記事の趣旨は、見出しの通り、「NHKの新経営委員長に内定した古森氏が課題山積のNHKの職務の執行を監督する経営委員会の長として、いかに手腕を発揮するか」を問うというものである。

 この記事のそもそもの問題は、さりげなく記された次の一節にある。

  「経営委員は国会の同意を得て首相が任命する。同委員会の権限強化は、政府の影響力が増す恐れも指摘されている。」

 放送法を知らない人が読むと、「そんなものか」で終わりそうである。しかし、このブログの直近の2つの記事をお読みいただいた方なら、「あれ」と感じられたのではないだろうか? くどいようだが、NHKの経営委員ならびに経営委員長の選任方法を定めた放送法条文を再掲しておく。

  「第15条2 経営委員会に委員長1人を置き、委員の互選によってこれを定める。」

  「第16条1 〔経営〕委員は・・・・・・両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。」

  上の記事で菅野氏が取り上げているのは経営委員の選任ではなく、経営委員長の選任であり、新たに政府が古森重隆氏を委員長に起用する方針を固めたという報道を受けた論説である。とすれば、菅野氏は経営委員の選任方法を定めた放送法第16条1ではなく、経営委員長の選任方法を定めた同法15条2を示すのが道理ではなかったのか? 現に、NHK経営委員会は放送法第15条第2項の定めに従い、新しく選任される経営委員も含めて6月に開催される委員会で、新経営委員長を互選することになっている。

政府の違法な人事介入を追認し免罪するジャーナリズム精神の腐食現象
  いずれにしても、政府あるいは安倍首相が経営委員長就任含みで古森氏を経営委員に選任しようとするのであれば、それは政治権力を笠に着た傲慢かつ違法な政治介入というべきものである。こうした政権中枢の動きを論評抜きに、「新経営委員長内定」と報道するのでは、政府の違法行為を追認し免罪するに等しい。報道関係者から聞くところでは、5月18日に各紙がいっせいに掲載した「新経営委員長内定」の報道は官邸情報に基づく記事であるらしい。

 権力を監視する使命を負い、政治との距離に敏感であるべき報道人が、時の政権トップが公共放送の最高意思決定機関の長を直々に任用しようとする異常な状況を追及しないばかりか、政権中枢からの「おこぼれ」情報を無批判に垂れ流すのでは、政府広報とどこが違うのか? ジャーナリズム精神の腐食現象をまざまざと見せつけらる一齣であった。

 「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は、この事態を重く見て、近く、全国紙各紙と菅野氏宛てに公開質問書を出し、文書での回答を求める準備をしている。

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