素木しづ評~心の友 尾崎翠の作品に寄せて(3・完)~

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 『尾崎翠全集』(1979年、創樹社)に「素木しづ氏に就いて」と題する組み上げ3ページの短文が収録されている。『新潮』191610月号が組んだ特集「余が最も期待する新進作家の一人」に寄稿した一文である。かくいう翠自身、当時二十歳で「悲しみを求める心」を発表してから半年後の寄稿だった。

人生の暗さを思ふ

         「素木しづ氏に就いて」(抜粋)

 「私の素木しづ氏に捧げる敬慕は、小川未明氏に対するものと大変よく似た点を持ってゐます。」
 「私の持ってゐる未明氏としづ氏の類似点は、作品の取材や、筆致、技巧などの点からといふよりは、作家の態度から起つた物であります。・・・・
 此の頃の未明氏の作品を読んで私の受けるものは、氏の神経衰弱的な、懐疑的な気分と、北国の暗い自然とに胚胎した痛ましい、重苦しい感じであり更に人生の暗さを思ふ心であります。つまり作者の人生に対する懐疑をそのまゝ読者の胸にきざみつけずには置かない、それを見せつけられるのは読者に取っては苦痛なことではありますけれど、また其処には悲しい共鳴も起こって来ずには居ません。
 未明氏は決して安定の世界に居てその世界を私共に示して呉れようとする作家ではありません。読み終わって『うまい』とうなずかせる作品を作り得る人ではありません。けれど所謂『うまい』と思はせる人人の態度の不明な、お上手な作品が多いなかに、氏の如何な一篇も無駄ではないことを思はせます。」

 「私の両氏の類似を認めたのは始め言った通り、作者の態度にあります。未明氏の人生に対する懐疑心から来る真剣な態度は、しづ氏の肉体の不良から来る、健全者には見ることの出来ない真剣さであります。草平氏は気を負った女と言はれましたけれどそれは反つてしづ氏の真剣な態度を示す物でした。戯作的な分子は微塵も持たないすべてが悲痛な心に滲透されて私共の前に示される、それのみでも氏の作は意義ある物でなければなりません。」

私は小説により世の中に復讐し、真実な生を送らうと考へた
   ~素木しづ~

 
 尾崎翠が敬慕した素木(しらき)しづは1895329日札幌生まれ。札幌高等女学校4年のとき、登山中に転倒したのがもとで結核性関節炎にかかる。1912年一家で上京したが病状は悪化。10月に赤十字中央病院で右脚切断の手術を受けた。不自由な生活を送るうちに詩や短歌に時間を費やすことが多くなり、森田草平に師事して文学に傾倒していった。
 15歳の時、札幌高女の『会誌』5号(1910年)に次のような短歌を投稿している。
  われとわが腕を吸ひてかすかにもにじむ血を見るあはれなるかも

 後年、しづは文学を志した自身を次のように振り返っている。

 「自分は小説家たるべき天分と運命とを生まれながらにそなへてゐると信じました。私は小説によって世の中の復讐すべきものを復讐し、愛すべきものを愛し、人々の上に真面目な真実な生を送らふと考へたのでした。」
 (「私一人のこと」『新潮』19161月)

 加藤武雄はしづの作品を「宵暗にさく月見草に似たはかなさ」と評すると同時に、彼女のことを「かなり勝気な才走った人」と評した。外界に向けた気負いが自己顕示に流れず、尾崎翠をして、読者に向かって悲痛な心を滲透させずにはおかないと語らせた魅力は、生の暗さを内省し、作品に昇華させた彼女の強烈な個性と営為のたまものと思える。
 (以上、内野光子『短歌に出会った女たち』1996年、三一書房、
  127142ページに依った。)

一心にいいものを書いて原稿料でお返ししますので
   ~寸借を懇願した素木しづの手紙~


 この記事を書く途中で、日本近代文学館編集の『文学者の手紙』第5巻『近代の女性文学者たち』2007年、博文館新社)に、上司小剣に宛てた素木しづの手紙が収録されているのを知った。日付は1916(大性5)年115日となっている。400字詰原稿用紙4枚の分量である。当時のしづの生活状況を伝える貴重な資料と思えるので紹介しておきたい。

      上司小剣宛て 素木しづの手紙(抜粋)

「私は茅ケ崎にお互の病気や疲れの為めに仕事も出来ませず七十円あまりの店に月の借りがたまつたので御坐います。初めての私は不安と、もはや逃れられなくなりやしまぬかという恐れとの為め茅ケ崎の一日一日の生活が苦しくてならなくなつたので御座います。それに私の身体も心よくなりましたのと上の山さんの茅ヶ崎ではお金をとる仕事が出来ない
2のとで、今のうちにぜひ出なくてはならないと思ひまして先日も金策の為めにみんなで出て来ましたが、私がすぐ眼を悪くしまして手術をしそのまゝ仕方なく茅ケ崎に帰りました。・・・・まだ世の中を知らない、そしてあまり外に出たことのない私があらゆる考へと方法とをつくしたので御座いますが、出来ませんでした。」

「坊やのおしめを洗ふタラヒも御座いません。そして私は近所の人になんと云つたら
いゝかわかりません。どうしてもあの茅ケ崎においてあるなつかしい私たちのわずかばかりの道具をとりよせなければならないので御座います。それで私が今度読売に書きます小説の原稿料をどうぞどうぞあなた様が御立替下さいますことが出来ませんでせうか。私はその時少しもお金をいただきません

私は、そして今年中にきつといゝものを書きましてあなた様までお届けいたしませう。本当にいゝものを。私はお金を先にいただいたからといつてはり合いがないから書けないなんていふことが御座いません。私はどんなに一心になつて書くかわかりません。どうぞそれだけのことを本当にお聞きとどけ下さいませんか。」

「私の身体はあまりにこはれすぎて居ります。私はなが生しないでせう
。いま二十二ですから二十五まで位、きつといゝ作をしやうと思つて居ります。
どうぞおきゝとどけ下さいますやうに。
すべての事をおゆるし下さいまして。
                           早々
 上司小剣様へ
                        しづ  」

 (注2)夫の上野山清貴は放浪画家のため一所滞在では画を描くこと
    が出来ない。

 しづは、二十五歳位まで生きて、と書いたが、この手紙を書いた1年後の19181月に死去した。満22歳だった。
 尾崎翠といい、素木しづといい、文学者である前に、極度の貧困と悪戦苦闘する生活者でなければならなかった。彼女らの小説は、結果として、そうした苦悶を酵母として一世紀後に知る人ぞ知るの評価を得る作品を残したと思える。 

悧口振るのは止めるがいい ~高見 順~

 尾崎翠の素木しづ評の中に、読み終わって「うまい」とうなずかせる作品、所謂『うまい』と思わせる「お上手な」作品が多いなかで、という文章があった。昨今、この手の「お上手な」人間は、文学の世界に限らず、増殖している。尾崎翠のこの言葉を聞いて思い起こす高見順の詩がある。

          樹 木 五
          ――ある作家の感想録を讀んでの自戒――

     窓の中の人間よ
     悧口振るのは止めるがいい
     意味ありげな言葉は止めるがいい

     俺はただ枝を張るだけだ
     この俺に
     意味ありげな枝振りがあるか
     悧口ぶった枝があるか

     窓の中の人間よ
     わが枝を學ぶがいい
     樹木の成長を學ぶがいい

     (『高見順全集』第20巻、1974年、勁草書房、392393
       
ページ)




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木犀~心の友 尾崎翠の作品に寄せて(2)~

2018630

私が毎夜作る紙反古はお金になりません

 『尾崎翠全集』(1979年、創樹社)の中に「木犀」と題する随筆が収録されている。1929年、33歳の時の作品で、組み上げ6ページの短編である。以下はその末尾の文章である。

             木犀(抜粋)

 「三十銭は明日の電報料に取っておかなければならない。私は残りの四十銭を卓子に並べて店を出た。
 階段に端書が来てゐた。『木犀の香りの中を抜け』――N氏が拙い詩を一ぱい書きつけた端書だった。氏も木犀の中を通って牛の処へ帰って行ったらしい。
 さて私は明日郷里の母に電報を打たなければならない。私は金をありたけN氏の詩の上にはたき出した。お君ちゃんの店で残した十銭玉三つの他に銅貨が四つあるだけだ。お母さん、私のやうな娘をお持ちになったことはあなたの生涯中の駄作です。チャップリンに恋をして二杯の苦い珈琲で耳鳴りを呼び、そしてまた金の御無心です。しかし明日電報が舞ひ込んでも病気だとは思はないで下さい。いつもの貧乏です。私が毎夜作る紙反古はお金になりません。私は枯れかかった貧乏な苔です。」

 ちなみに『尾崎翠全集』の末尾に収録された年譜(稲垣真美作成)によると、この短編は『女人芸術』19293月号に掲載されたものである。その月の28日に兄哲郎が37歳で死去している。
 『女人芸術』はその前年19287月に長谷川時雨が中心になって発刊された女性文学誌である。翌8月、林芙美子は同誌に『放浪記』を発表し始めた。翠も林に誘われて同誌編集部を訪ねていた。

尾崎翠と林芙美子~対照的な文学的基質と文学者的運命~
 当時の様子を稲垣真美は同じく全集に収められた「解題」(569ページ)の中で次のように記している。

 「『木犀』と『アップルパイの午後』の二編は十分構成されたモチーフの展開とまとまりを持つ。しかしこの二編も含めてこれらの諸篇は、尾崎翠の培養し得た独創的パン種を、そのまま千切り千切り、『女人芸術』という女性だけのやや手狭な花壇の合間合間に、断想的に植えつけられていった
感じを否み得ない。
 おなじく『女人芸術』に連載された、林芙美子の『放浪記』の場合は逆であった。その読者への印象はともかく、表現手法、モチーフなどの点を尾崎翠の諸編と比べると、とくに新しかったわけでもなく、心理的な掘り下げがあったともいえない。ただ、『放浪記』の場合には、それはもはやパン種ではなく、口ざわりよく醗酵を経てそれ以上ふくらみ得ない、手ごろな作品に次々と仕上げられていた。そこから新たな文学の可能性の種子を得るべきものではなく、出来上がった商品として、ショウウインドーにそのまま並べられて人目を惹く体のものであった。・・・・
 だが尾崎翠の作品の場合はちがう。その断想的作品のなかには、文学に新たな次元を開く可能性のパン種や、すばらしい芳香や光彩を放つための酵母を秘蔵しつつ、『女人芸術』
という女だけの園に、僅かなページを与えられて、片鱗をのぞかせていたのである。まさに林芙美子の作品とはその性格も辿った運命も逆であった。」


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悲しみを求める心~心の友 尾崎翠の作品に寄せて(1)~

2018630

もはやいかなる権威にも倚りかかりたくない

 茨木のり子は「倚りかからず」と題する詩の中でこう綴った。
 
  もはやできあいの思想には倚りかかりたくない・・・
  もはやできあいの学問には倚りかかりたくない・・・
  もはやいかなる権威にも倚りかかりたくはない 
  ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
  (『倚りかからず』1999年、筑摩書房、所収)

 茨木のり子がこう書き留めたのと同じ年齢になって私も同じことを実感している。
 今どきの「リベラル」とやらの薄っぺらな言動、狭い同心円の中でしか通用しない、威勢のよい安倍批判をぶって喝采を浴び、得意げになっている「学者」面々、なぜ後退したかを吟味せず、減ったから増やせとハッパを掛ける組織の不条理な方針に(表向き?)忠実に従う「前衛」党員・・・・どれも私には偽善としか思えない。

 それでも、私にとって「心の友」と呼べるのは数人の故人――金子ふみ子、高見順、坂口安吾、茨木のり子など――である。もはや自分を偽る後知恵を持たないという安心感からだけではない。
 尾崎翠(1896~1971 もその一人だが、彼女のことを知ったのは、連れ合いが集めた女性文学者の書物の書棚にあった『尾崎翠全集』1979年、創樹社)を何気なく開いたのがきっかけだった。今から78年前のことだったと思う。

死の悲しみに心を打ちつけて居たい

 前置きはこれくらいにして、今でも私を惹きつける彼女の作品3編を順次、書き留めておきたい。
 以下で紹介する短編について、『全集』に付けられた「尾崎翠年譜」(稲垣真美作成)には、こう記されている。
 「1916年(大正5) 20
  4月、『文章世界』論文欄(相馬御風選)に「悲しみを求める心」
  が入賞。少女時代の父の死を振り返ったもので、肉親の死を超え
  た生死の姿への洞察がみられる。」

          悲しみを求める心(抜粋)

 「私は死の姿を正視したい。そして真に悲しみたい。その悲しみの中に偽りのない人生のすがたが包まれてゐるのではあるまいか。其処にたどりついた時、もし私の前に宗教があったら私はそれに帰依しよう。又其処に美しい思想があったら私はそれに包まれよう。」

 「私が願ふのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに心を打ちつけて居たいのである。それは決して無意味な悲しみではない。私の路を見つけるための悲しみである。」

 「あの頃の私がたどったやうに、幼いから若いからと言ってそれに長いたのしい生を求めることは不可能なことであった。死を悲しむ後に見出す生のかがやき。それを得ようと私は一歩ごとの歩みをつづけて行かなければならない。」

苦しみの日々、悲しみの日々はひとを少しは深くするだろう

 冒頭、引用した茨木のり子の詩集の中にもこんな詩がある。

       苦しみの日々 哀しみの日々(抜粋)

  苦しみの日々 
  哀しみの日々
  
それはひとを少しは深くするだろう
  
わずか五ミリぐらいではあろうけれど

  
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
  
あれはみずからを養うに足る時間であったと

  
苦しみに負けて
  
哀しみにひしがれて
  
とげとげのサボテンと化してしまうのは
  
ごめんである

  
受けとめるしかない
  
折々の小さな刺や 病でさえも
  
はしゃぎや 浮かれのなかには
  
自己省察の要素は皆無なのだから



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『歌集・広島』をマイリスト「詩歌に触れて」に追加

 画面右サイドのマイリストの「詩歌に触れて」に本ブログでも紹介した『歌集・広島』を追加した。この歌集は市民から応募があった6,500首のうちから15名の刊行委員が選んだ1,753首を収録して被爆9年後に刊行された。内容は「原爆万葉集」と呼ぶにふさわしい。そのなかから特に私が印象深く受け止めた137首を選んだ次の集成録を掲載した。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kashu_hirosima_sen.pdf

原爆投下直後の広島市内の生々しい光景と被爆者を襲ったその後の辛苦を綴った歌は読む者の胸を突き刺すと同時に被爆の実相を短詩形作品に凝縮して伝える貴重な記録ともなっている。

 なお、本ブログに掲載した「長崎の原子野で被爆者の辛苦を綴った詩人・福田須磨子」
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/65-632e.html
で紹介した福田須磨子の生涯が「朝日新聞」長崎版の「ナガサキ・ノート」に20回(2010925日~1015日)にわたって掲載された。
 http://mytown.asahi.com/nagasaki/newslist.php?d_id=4300046
 これまで知られていなかった福田須磨子の素顔を伝える有意義な連載記事である。

 

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醍醐志万子 第九歌集『照葉の森』の出版によせて

 昨年9月に死去した姉・醍醐志万子の一周忌にあわせて、このたび志万子の第九歌集『照葉の森』を短歌新聞社から出版した。20053月に出版した第八歌集『田庭』以後、亡くなるまでの間の既発表、未発表の作品の中から選び、ほぼ制作順に収録したものである。私も出版社との交渉、校正に多少関わったが、編集・校正の大半は2人の姉(清水和美、安倉瑞穂)があたった。短歌に関わっている私の連れ合いも協力してくれた。
 改めて、読み返してみると、姉のこと、姉が80数年過ごした郷里のことがなつかしく思い出される。特に、親子ほど年が離れた私にとって、女学校時代を回顧した姉の歌から、戦中・戦後を生きた姉の姿に思いをはせることになる。また、姉が晩年に詠んだ歌に目を止めると、遠からず自分も向き合わなければならない老いの世界を考えさせられる。
 以下、弟として、また一人の人間として、印象深く思われた作品を、短い感想を添えて、書きとめておきたい。

  それの名も練兵場の花といひし花ふえて咲くわが庭のうち

  
今はなき村を発ち
来しバスならん朱のバスの行く雨しぶく中

 郷里・兵庫の丹波篠山の実家周辺の風景を詠んだ歌である。実家の隣は広大な練兵場で実家の向かいは兵隊の宿舎だった。そのため、実家は慰問にやって来た兵士の家族の宿になったことがあった。小学生の頃、裏山で遊んでいると斜面の土中から演習用に使われた銃弾がぞろぞろ出てきた。

  父と子と二代のえにしと 誄歌賜ぶ歌を作らぬわが父のために

   長命の母を言ひ出でこの人も励ましくるる有難きかな

 
姉の終生の友人、遠藤秀子さんに「解説」をお願いしたが、その中で遠藤さんは「人は誰しもそうだが単純な優しさとのみは限らない。しばしば身震うほどの嘆きもあったろう。しかし『歌』に向かうとき、その感情の殆どを浄化した」(236ページ)と書いておられる。上の二首をそうした感情の起伏、清浄を思い浮かべながら読みかえすと感慨を覚える。

  戦前も戦中戦後もわがうちを通り過ぎゆく一つくくりに

   大阪に二十代歌人会ありきわが二十代終は
らんころに

   戦後終はらんころに終はりし二十代ただ一つの思想を思想と呼びて

 
一首目の歌の意味は人それぞれに解釈があるだろう。ただ、三首とも遠い過去のことを飾り気のない簡明な言葉でずばりと表現したところに凛とした作者の性格を感じさせる。

  八十年たつた八十年住みし家に別れんとしてお辞儀一つす

   照葉の森に氏神おはすとぞ八社(はっしゃ)大神と鳥居に掲ぐ

   丹波より来し干し柿をくらはんと身をさかしまにひよのとりゐる

 
亡くなる2年ほど前に八十年住みなれた兵庫の実家を離れ、わが家の近くのマンションへ転居した前後に詠んだ作品である。マンションの近くの八社大神へは数回、車いすで出かけた。遠方からやって来た下の姉2人と出かけたこともあった。ひんやりとした冷気の森の急な坂道を足を踏ん張りながら押して上がった。実家では広い庭にいろんな植物を育てていたが、ひよどりがひっきりなしにやってきて柿の実をつついていた。転居先のマンションのベランダにもひよがやってきたのは姉にとって心温まる光景だったに違いない。

  病人の思ひを今にして知る清しとばかり言いてもをられず

   たちまちに夕焼けの色うすれゆきひとつところにともしびの色

   つぎつぎと思ひ出だしぬ白蘭と紫蘭の花の群れ咲ける庭


 すべてこのブログに転載した姉の死の直前の手作りの個人誌「暦」に収められた作品である。あれから1年経った今、読み返すと姉の心境をより冷静に受け止められるような気がする。気力、体力ともに限界に近づいた中で、このような凛とした歌を詠んだ姉の強靭な精神に身の引き締まる思いがする。
 最後になるが、遠藤秀子さんが渾身の思いで執筆された「解説」の中の一節を引用させていただく。

 「醍醐志万子は時流に媚びず、分析の痕跡を単念に消し、直載・単純な作風を好んだが内容は濃密である。
 ≪照葉の森≫も平明な言葉を選び、心身の衰えを受容しながら穏やかな晩年の心象風景を描こうとしている。しかし一首一首に心血を注いだその作品は、時に生命の根源に触れて怖ろしい。草木・虫・食べ物・人への愛情を作品に仕立てるまでの渾身の力を、醍醐志万子はしばしば『仕事』或いは『働く』と言った。それは四六時中『歌』で物事を考え、熟成の過程を苦しみ抜いた人のゆるぎない言葉だったと思う。病弱ゆえ家の周辺に在るものを対象とせざるを得ない環境が、限られた視界を見る目の確かさを養ったのであり、観察の深さ、鋭さにそれがよく現れている。」(233ページ)

 上 「戦前も戦中戦後もわがうちを通り過ぎゆく一つくくりに」 
 下 『照葉の森』表紙
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鉄線によせて

 だいぶ前のことだが今年もわが家の道路沿いの生垣と庭の隅に色違いの鉄線が咲いた。

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 鉄線は中国産の落葉つる科植物でヨ-ロッパ産のクレマチスの改良交配種だそうだ。強靭なつるが延びていくことから子孫繁栄の文様とも言われる。以前、犬の歌を選ぶ時に参考にした千勝三喜男編『現代短歌分類集成―
20世紀“うた”の万華鏡』(2006年、おうふう)の植物編を見ると、鉄線、鉄線花を詠んだ短歌12首が収録されている。

  梅雨の庭おぼおぼしきに鉄線蓮(てっせん)の花見えてゐてまた降り  こめぬ
                          北原白秋

  鉄線がするどく天へのぼる夜半わすれがたしも虚仮(こけ)のむらさ  き
                          永井陽子

 しかし、この集成に収められた12首にはないが、鉄線を季語にした短歌のなかで好きなのは次の歌である。

  鉄線花むらさき沁みる家垣に二人となりし夕餉整ふ

                          森 淑子

 連れ合いに作者のことを尋ねると書棚から『戦後歌人名鑑』(増補改訂版、1993年、短歌新聞社)を出してくれた。それによると森淑子さんは昭和5年生まれ、雙葉高女時代から作歌し、結社「をだまき」に入社、とあった。

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陽だまりを移動する飼い犬

 西日本や日本海側は大雪というが、千葉は穏やかな晴天に恵まれた3が日だった。一日中自宅で過ごす日が続くと飼い犬と向き合う時間が多くなる。とはいっても、休み明け前に仕上げなければならない仕事とゼミ生の卒論のコメントに追われる毎日である。そのため、このブログに論説めいた記事を載せるのはままならない。

 その代わりといっては何だが、飼い犬と過ごす時間になにげなく思いついた短歌を日記帳に書きとめた。文字どおりの駄作であるが、日々の思いを書きとめる励みのつもりで載せることにした。


姉犬が逝きて翌年の年賀状に姉妹と記して写真を挿入(いれ)る

陽だまりにあわせて居場所を移す犬の胴毛に手をやり鼻すり寄せる

紐を解けば飼い犬小さき庭を駆け夕べの散歩を私にせかす

遠からずファミリーマンションが建つという高台に響く「野ばら」のメロディ
 

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