2008年3月11日 (火)

無謀無益な新銀行東京への追加出資

400億円の追加出資に公益性はあるのか
 累積赤字(利益剰余金のマイナス)1,016億円を抱えた新銀行東京へ都が400億円の追加出資をする案をめぐって都議会で議論が交わされている。これに先立って同行は220日、現在の6店舗を1店舗に、行員を450人から120人に、融資残高を2,218億円(20079月期末)から約700億円に縮小することを柱とする再建計画を発表した。これについて、同行の生みの親である石原都知事は「常識はずれの経営がされた」と旧経営陣を非難する一方で、「中小企業を支える銀行として重要な役割を果たしている」と強気の答弁を続け、400億円の追加出資をあくまでも貫く姿勢を変えようとしていない。そこで、このような財政支援に公益性(都が公金をつぎ込んでまで支援をする公益的理由)があるのかどうかを、あまり周知されていない財務データに基づいて検討しておきたい。

 財務データが物語る新銀行東京の空洞化
 まず、同行の預貸率{貸出金/(預金+譲渡性預金+債券)}の推移を地方銀行(64行)、地方銀行Ⅱ(46行)の平均値と比較してみよう。ここで取り上げる「預貸率」とは上の計算式からもわかるように、銀行が集めた預金のうち、どれだけを融資に回しているかを表す、金融機関の基本的機能のバロメーターといえる指標である。表1を見ると、新銀行東京は設立初年度こそ民間銀行を上回る高い比率であったが、次年度以降、2030%台へと急落し、その後は民間銀行よりも3035パーセント・ポイントも低い水準で推移している。

    1 新銀行東京と地方銀行の預貸率の比較

(期中平均:%)

          地方銀行  地方銀行Ⅱ  新銀行東京
2004
    71.6               74.4                   84.8
2005              71.6               74.4                   26.1
2006             72.2               75.8                   38.9
2007/9                                                          38.0

(出所)地方銀行、地方銀行Ⅱについては、『全国銀行
    財務諸表分析』、新銀行東京については、同行
    『ディスクロージャー誌』

 他方、資産構成に占める有価証券と貸出金の割合を比較してみると、表2のとおりである。

 2 新銀行東京と地方銀行の資産総額に占める
    有価証券と貸出金の割合の比較
    地方銀行  地方銀行Ⅱ  新銀行東京

2004          26.7               21.5                    

      64.3             68.5                    

2005          28.1              22.4                  
31.7
                 63.9              68.6                    34.3
2006          27.1              22.4                  
 
51.0
                 64.8              69.7                    34.6
2007/9                                    
                        
47.4
                                                                35.1

(注)上段は有価証券の割合、下段は貸出金の割合
(出所)地方銀行、地方銀行Ⅱについては、『全国銀行
    財務諸表分析』、新銀行東京については、同行
    の『決算短信』

 これを見ても、新銀行東京が地方銀行と比べて、貸出金の比重が低く、その反面、有価証券(20079月期でいうと、その87.4%は国債)保有額の割合が異常に高いことがわかる。

 そこで次に、新銀行東京の貸出金総額に占める中小企業向けの貸出金の割合を見てみると、表3のとおりである。

 3 新銀行東京の貸出金総額に占める中小企業
    向け貸出金の割合

    貸出金総額  中小企業向け  B
     (A               B           A

2004        92
百万円   92百万円   100.0
2005
    174,394          109,005                 62.5
2006         246,719          127,106                 51.5
2007/9 
     221,800          104,694                    
47.2
(出所)表1と同じ。

 これを見ると、初年度末こそ100%だったが、2005年度末には62.5%へと急落し、その後も急落傾向が続いている。
 
 極端に低い預貸率が意味するもの
――中小企業からも見放された無用無益な存在――
 
400億円の追加出資の構想が持ち上がったのを受けて、東京中小企業家同友会がこの2月末から3月にかけて会員企業に対して行ったアンケート調査(回答があったのは会員企業の1割弱の162社)によると、新銀行東京が役立っていないと回答したのは61.7%で、役立っているの9.3%を大きく上回っている。また、57.4%が同行について「早急に整理した方がよい」と回答している。これは、同行の貸出利率が民間銀行よりも高い例が珍しくないこと、融資期間が短いことなどによるものと考えられる(200835日、NHKニュース)。

 新銀行東京はこのように、主たる融資先であるはずの中小企業からさえ、そっぽを向かれているばかりか、開業当初に掲げた融資残高目標9306億円に対し、20079月期末現在の残高実績は2,218億円と目標額の4分の1にも達していない。これが極端に低い預貸率となって表れているのであり、中小企業以外でも貸出先を得るのに四苦八苦している実態が窺える。
 新聞報道によると、「大手銀行のある幹部は『発足まもなく、大企業向けで構わないので貸付先を譲ってほしいと打診があった。中小企業向けという理念が当初から破綻していた』と明か」(『朝日新聞』2008224日)している。これでは新銀行東京は中小企業支援行としてはもとより、一金融機関としての存在理由さえないに等しい。

 再建の効果も回収の見込みもない無暴な追加出資
 では、今回の400億円の追加出資が新銀行東京の財政再建に果たして寄与するのかどうか、最悪、出資を回収できる目途はあるのかどうかを検討してみよう。直近の20083月期決算の予測値によると、新銀行東京の累積赤字は1,016億円に達すると見込まれている。その結果、貸借対照表上の純資産は200億円を割り込むことになる。しかも、同行の資産内容を子細に吟味すると、後掲の表4で示したように不良債権(金融再生法開示債権)のうち、担保・保証、貸倒引当金で保全されていない債権が約100億円存在する。

 となると、今後、これら非保全債権が貸倒れになるとともに、それ以外にも非開示の不良債権が露見するなどして追加的な損失が発生すれば、同行は20083月期決算で債務超過に転落する可能性も否定できない。しかも、表1でみたように、貸出先を確保することさえ、ままならない同行へ新たな資金を供給しても中小企業に回る部分はわずかで、大部分は国債等の有価証券を買い込んで低利の運用で塩漬けされる公算が大である。となると、新銀行東京への都の追加出資は事業上の必要からではなく、もっぱら債務超過への転落を先送りする延命措置としての意味しかないことになる。したがって、今回の追加出資額も早晩、赤字の補てんのために毀損され、都の財政の浪費で終わる公算が大きい。にもかかわらず、事実上の役員任命権者としての自らの責任、支配的株主としての自らの経営監督を忘れ、まるで被害者かのようにふるまう石原知事の言動は的はずれで見苦しい限りである。
 
 このような無謀な出資が提案され、都議会がそれを可決するとすれば、都民に対する重大な背任を意味する。都民はこうした重大な背任行為が強行されないよう、石原知事をはじめとする都政当局と都議会を厳しく監視する必要がある。

1~表4(新銀行東京の財務データ)のオリジナル
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/singinko_tokyo_zaimu_deta.pdf


(追記)
 今日の都議会で、石原都政当局は、①ここで追加出資をしなければ、新銀行東京の自己資本比率は4%を割り込み、業務を遂行できなくなる。②今、清算するとしたら都の負担は預金者の取り付けに対応するため1,000億円の追加的貸付が必要になるが、追加の財政支援なら400億円で済むかのような答弁をしている。しかし、たとえ、追加出資をしてもそれが新銀行東京の再建に寄与しない以上、現在の預金者をどのように保護するかは追加出資の有無にかかわらず避けて通れない問題である。とすれば、他の要素をすべて無視してざっくり言うと、比較すべきは、1,000億円か400億円かではなく、1,000億円か1,400億円かである。なぜなら、今の空洞化した経営状況では追加出資の400億円もいずれ毀損する可能性が高く、ここで清算を遅らせれば400億円が無益に浪費される結果になる公算が大だからである。

 また、自己資本比率を4%以上に維持するのは目的ではなく、所要の業務(融資)をするのに必要な条件だからである。業務が空洞化しているなかで、手段だけを守ろうと追加出資をするのは本末転倒である。

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2007年2月 5日 (月)

「ワーキングプアⅡ」NHKふれあいミーティングに参加して

 印象深かった若い世代の参加
 2月3日、NHK放送センターで開かれた「ワーキングプアⅡ」ふれあいミーティングに夫婦で参加した。いきさつは、このブログの本年1月15日付の記事で触れたが、昨年12月10日に放送された「ワーキングプアⅡ」~努力すれば抜け出せますか?~をテーマに視聴者と番組制作者が直接意見交換をするという企画である。パートⅠの後に開かれたふれあいミーティングに応募したものの夫婦そろって抽選に外れたが、今回はどちらにも案内が届いた。

 開始時刻10分まえにNHK放送センターに着き、会場へ案内されると30人分ほど用意された席に20数名がすでに着席していた。
 正面のテーブルにはチーフプロデューサーのSさんほか5名のNHK関係者が着席していた。参加者の席を見渡して気がついたのは、20~30歳代と思われる若い男女が思いの外、多いことだった。もちろん、50~60歳代の男女、とくに男性も多かったが。特に、担当教員といっしょに参加した高校生、台湾出身の留学生が堂々と発言する様子を見ていて頼もしく感じた。
 
 “努力しても貧困から抜け出せない”現実にどう向き合うのか? 
 
参加者の発言で目立ったのは、個人の力では解決しようがない社会の歪みを番組がリアルに伝えたことを高く評価する意見だった。これからも続編を、という要望も多かったが、「努力しても貧困から抜け出せない原因に迫ってほしい」、「解決の道筋も触れてほしい」といった注文も少なくなかった。
 そうした中で議論が集中したのは、努力しても貧困からなかなか抜け出せない社会の現実を教育の現場で生徒にどう伝えるのか、自分はそれにどう向き合うのかということだった。途中で話題が中断したが、この問題について、次のような意見が交わされた。

 中学校教員:「努力しても貧困から抜け出せない社会の現実を生徒たちにどう見せていくのか、なかなか難しい。」

 参加者Aさん:「21世紀のワーキングプアの背中に乗っているのは誰なのか? 働く者の権利について学校で教えてほしい。」

 制作スタッフXさん:「あの番組から、正社員がえらいんだ、正社員にしがみつくんだといったような受け止め方をしてほしくない。」

 参加者Bさん:「私は経理関係の仕事をしているが、決算で忙しいときだけ、派遣の人を雇う。繁忙期が過ぎたらさっと止めさせている。そういう現実を見ていると、自分もワーキングプアの背中に乗っている一人かなと思うことがある。」

問われるべきは<景気回復の原動力は何か>ということ
 「21世紀のワーキングプアの背中に乗っているのは誰なのか?」という言葉でAさんが何を問いかけようとしたのか、私には今ひとつわからなかった。もしかしたら、働いても働いても貧困から抜け出せない大量のワーキングプアを生み出しつつ、「雇用調整」という名の下に人件費削減で業績を回復基調に乗せた大手企業のことを指していたのかも知れない。私自身、この番組に労働経済学の専門家として登場した八代尚宏さんの要旨次のような発言、

  「ワーキングプアが増えている最大の要因は長期の経済停滞にある。もっと高い成長を実現することによって雇用機会を増やすこと、それが何よりのワーキングプア対策である。」

という主張こそ、リアルな現実で検証されなければならない机上の議論だと考えている。そして、ほかでもないこの番組が八代さんの主張のリアリティを検証する場にもなったように感じた。
つまり、問われるべきなのは景気回復が先なのかどうかではなく、何を原動力とした景気回復なのか―ーコスト削減を主因にした景気回復なのか、それとも内需拡大を主因にした景気回復なのか―ーという点である。
 この問題を経済学説に翻訳すると、ケインズ学派と構造改革派の対立に帰着する。これについて私は2005年9月に書いた次の小論で自分の見解を述べた。
 http://www.dhbr.net/booksinreview/bir200509.html

 つまり、日本経済の最近の現実がそうであるように、コスト削減、特に「雇用調整」という名の人件費削減を主因にしたいびつな景気回復であれば、景気回復はワーキングプア対策どころか、ワーキングプアを拡大再生産させる主因ですらあるといえる。ワーキングプアⅡでも取り上げられた外国人留学生・実習生の低賃金雇用が国内の零細事業所内の賃金をさらに押し下げたり、これらの人々を正規から非正規へ、さらには失業へと追い立てる貧困の連鎖はその典型例といえる。
 逆に、家計の購買力の回復→内需拡大→景気回復→雇用の拡大、という循環を主因とするとき初めて、景気回復はワーキングプアの解消と両立することになる。

 正規職員vs非正規職員という構図の危うさ
 NHK側のスタッフXさんの上記の発言、―-制作する側として、非正規より正規職員の方がえらいんだ、といったような固定観念を生むといやだなあという思いがあるーーをめぐって議論が盛り上がった。その中で、自分もワーキングプアの背中に乗っている一人かも知れないという趣旨の発言が出たことに危うさを感じた。非正規職員を見下すような態度を自戒するという趣旨かと思う。

 しかし、ここで重要なことは、正規職員vs非正規職員という構図に分け入ることではなく、両者の垣根は流動的だということである。自分はいつ要介護あるいは認知症の状態になるかもしれない、そのとき自分を介護してくれる人、施設をあてにできるのか? 離婚や夫婦のどちらかが病に臥したら、夫婦双方あるいは、一方の生活は激変するのが通例である。一部の富める世帯は別にして、正規勤務の継続もままならないという場合も少なくないだろう。

 この点では、障害児学級に勤めているというある
参加者が「この世の中には障害者と健常者がいるのではない。誰しも潜在的障害者なのであり、発症の時期に違いがあるだけだ」という意味の発言をされたのが印象深かった。

 貧困を拡大させる原因に迫る企画を
 先に述べたように討論のなかでは、「貧困の原因にまで迫ってほしい」、「今の政治の問題にぶつかるとしてもひるまず伝えてほしい」、「解決の道筋にも触れてほしい」といった発言が少なくなかった。
 これに対して、NHKのスタッフからは、「NHKは政府批判をするつもりはない」、「評論よりも多くの人が知らない現実をあぶりだしていくことを心がけたい」という返答があった。

 私も過剰な主張ではなく、事実に語らせる、その解釈を視聴者に委ねるというスタイルに共鳴する。しかし、ここで重要なことは、「事実」か「評論・主張」かではなく、どのような「事実」をクローズアップするのかということである。この点で私は、生活保護行政を引き合いに出して、「現代日本の貧困の多くは行政被害と呼べるものである。この点で、ワーキングプアの原因と考えられる現実にタブーなく迫ってほしい」と発言した。

 最後になるが、討論の中で、この番組の取材にあたったCさんから、今回の取材の原点は家庭の状況にあるとして、ご自分の家庭内での経験を縷々発言されたのが印象深かった。

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2006年9月 2日 (土)

わいろ献金お助け判決―熊谷組政治献金判決を考える―

熊谷組の政治献金をめぐる係争事件の争点
  8月30日、福井地裁は熊谷組(本店福井市)の政治献金をめぐって争われた株主代表訴訟で原告(株主オンブズマン)の訴えを退ける判決を言い渡した。この件では数日前に『朝日新聞』福井総局と『毎日新聞』福井支局から判決に対するコメントの依頼を受けた。判決の翌日の両紙朝刊に掲載された記事は次のとおりである。私の元のコメントはもっと長いが、紙面の制約からかなりカットされた。

『朝日新聞』福井版、2006年8月31日
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kumagaigumi_kenkinhanketu_asahi.pdf

『毎日新聞』福井版、2006年8月31日
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kumagaigumi_kenkinhanketu_mainichi.pdf

  この訴訟の争点は、①熊谷組が1993~99年にかけて自民党長崎県連に対して行った政治献金(総額2500万円)は見返りとして諫早湾開拓企業に関連する公共事業の受注を期待したわいろにあたるのかどうか、②本件献金は国民の参政権、国民主権を侵害するものかどうか、③本件献金は株主の政治的信条の自由を侵害するものかどうか、④本件献金は熊谷組の定款の目的の範囲外の行為かどうか、⑤本件献金は選挙に関して寄附を行うことを禁じた公職選挙法第199条1項に違反するのかどうか、⑥本件献金は取締役の善管注意義務に違反するのかどうか、という点であったが、福井地裁判決はいずれの争点についても原告の訴えをほぼ全面的に退けるものであった。

見返りを期待すればわいろ、見返りを期待しなければ会社財産の目的外浪費
ーー政治献金に宿る二律背反ーー

  もともと、企業の政治献金は、見返りを期待するものであればわいろにあたり、見返りを期待しない(できない)ものであれば、取締役が株主から受託した財産を会社目的外に浪費したこと、つまり、取締役の職務遂行上の善管注意義務違反が成立するという二律背反の原罪を背負っている。今回の判決で私がもっとも注目したのは、企業の政治献金に宿るこのジレンマを裁判所がどのように裁くのかという点だった。これを本件の争点にあてはめていうと、争点①で被告無罪(見返りを期待した献金でない)となれば、争点⑥で被告有罪(会社財産の目的外浪費)とならざるを得ず、逆に争点⑥で被告無罪となれば、争点①で被告有罪とならざるを得ないのである。

  もっとも、争点①と争点⑥は同じ次元で両立するしないを論じられる性格の問題ではない。なぜなら、株主は違法行為を犯してまでも取締役に会社の利益を追求するよう期待することはできないから、争点①に関してある献金が違法と判断されれば、争点⑥に関して、その献金が会社に利益をもたらすと期待できるものであっても、そのことをもって争点①の違法性が相殺免責されるものではない。

福井地裁は政治献金に宿る二律背反をどのように裁いたか?
  上記の二律背反に関する福井地裁の判断は次のとおりである(以下、「判決要旨」より引用)。

  「熊谷組がほかのゼネコン各社とは全く異なる理由で本件寄附をしたという被告らの主張に副う各証拠をそのまま信用することはできず、少なくとも、本件寄附には、公共工事の受注上の不利益を回避する目的があったことは否定できないと認められる。
  そして、このような性質を有する県連に対する寄附は、発注先である県と企業との間の癒着を招き、贈収賄等の犯罪の温床となる危険性を有するから、コンプライアンス重視の観点からすれば、可及的に解消されることが望ましいといえる。」

  「しかしながら、熊谷組が営利法人であることを考慮すれば、競合する多数の会社が政治資金を寄附している状況下で、寄附を拒否することによって生ずる営業上の困難を防止するという意味で、本件寄付が会社の利益となっていたことは否定できないから、本件寄附をもって、熊谷組の目的の範囲外の行為であるということはできない。」

  一読してわかるように、判決は争点⑥では本件寄附が公共事業の受注に絡んで会社の利益に資するものであったことを認めた。そのうえで、争点①に関しても、一般論として企業の政治献金は贈収賄の温床になる危険性を有するから可及的に解消されることが望ましいとも述べている。
  ところが、本件寄附のわいろ性はどうかとなると、次のように述べて争点①についても被告無罪の判断を導いている。

  「長崎県連に対する寄附と長崎県からの公共工事の受注額との間に明確な相関関係があるとはいえないから、本件寄附が賄賂に近いものであると評価することはできない。」

  つまり、原理的にいえば、被告にとって二律背反の争点①と⑥について、福井地裁は「寄附と工事受注額の相関関係」という新たな判断基準を挿入することによって、本件寄附が会社の利益に資する見返りを期待できるものであることを認めながら、そのわいろ性を否定するというレトリックを仕立て上げたのである。

献金額と工事受注額の相関関係を使い分けて二律背反の宿罪を放免した判決
  しかし、争点①に関して寄附と工事受注額の相関関係を判断基準にするのであれば、争点⑥に関しても同じ相関関係を判断の拠り所にするのが首尾一貫した判決というものである。とすれば、同業他社との対比で寄附の額に比べて受注額が不相応に少ない分(わいろ性が乏しいと見なされる根拠になった対価性がない分)は会社財産の目的外浪費にあたると判断し、取締役の責任を問うのが道理である。ところが、判決は、争点⑥に関しては寄附と受注の金額の相関関係には何ら言及せず、献金をしなかった場合との対比で献金の効果を認定している。

  反対に、判決が争点⑥で示したように、同業他社との相対関係で献金と受注額の相関性を問題にすることなく、献金が会社の利益に資する効果を期待できるものであったとみなすのであれば、争点①で献金が見返りを期待するわいろにあたると認定するのが首尾一貫した判断である。

  このように献金額と工事受注額の相関関係を便宜的に使い分けて、原理的には二律背反の争点①と⑥を「双方両立」を導くよう仕立て上げたところに今回の福井地裁の最大の特徴がある。私が今回の福井地裁判決を「わいろ献金お助け判決」と評したのは、つぎはぎの判断基準で本件政治献金のわいろ性を退け、とにもかくにも被告無罪に着地する苦肉のシナリオを仕立てあげたと考えたからである。

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2006年8月10日 (木)

社会福祉を解体させる「小さな政府」路線

  中小商工業研究所が編集・刊行している『中小商工業研究』No.88, 2006年7月号に、「社会福祉を解体させる『小さな政府』路線」と題する小論を発表したが、編集部の了解を得て、このブログに転載することにした。ただし、本文に挿入した5つの図表は、ここでは別掲している。
  目次は次のとおり。
    1.社会福祉を標的にした「小さな政府」路線
    2.日本はすでに「小さな」政府
    3.国民負担率は国民の負担を表さない
    4.社会福祉が担う積極的役割

  本文  社会福祉を解体させる小さな政府路線
      「shakaifukusiwokaitaisuruchiisanaseifurosen.pdf」をダウン
      ロード

  図表1 OECD加盟国の家計の所得階層別の実質可処分所得の推
      移
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 図表2 国民経済に占める政府財政の比重(国際比較:2004年)
      「2_.pdf」をダウンロード
 図表3 国民負担率の国際比較
      「3.pdf」をダウンロード
 図表4 税と社会保障の所得再分配による所得格差是正効果(ジニ
      係数の改善効果)
      「4_.pdf」をダウンロード
 図表5 ジニ係数の概念図
      「fg5.pdf」をダウンロード
            
      
            
      
      
      
      

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2006年5月20日 (土)

「遷延性意識障害への理不尽な現実」(『毎日新聞』記者の目記事)を読んで

 519日『毎日新聞』朝刊の「記者の目」欄に掲載された「遷延性意識障害への理不尽な現実」(赤間清広稿)を読んで日本の社会福祉の現状を考えさせられた。そこで、今日、この欄の末尾に記された係宛にE・メールで次のような感想を送った。記事の全文は下記。

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/archive/news/2006/05/20060519ddm004070060000c.html

 なお、「遷延性意識障害」とは交通事故や病気で脳に重い障害が生じ、寝たきりとなった状態を指す。従来、「植物状態」呼ばれてきた。自力で食事が取れず、自分の意思を言葉や表情で伝えられないため、24時間の介護が必要とされる。

  *****************************************

毎日新聞「記者の目」係 御中

政治の光、メディアの光が当てられない社会の谷間に放置された人々の苦難に寄り添う「記者の目」の一連の記事を日頃から注意深く読んでいます。

特に目下、「社会福祉における小さな政府論」をテーマにした原稿を書いているのと、実家で一人暮らしをしてきた身内の高齢者が道路拡張工事で立ち退きを迫られ、住み替えの計画を立てたところ、行く先々のマンション、空家で高齢者の単身入居を拒まれ、日本の社会福祉の虚弱さを考えさせられているところです。

そうした最中に、519日付け貴欄に掲載された赤間清広記者の「遷延性意識障害への理不尽な現実」を読み大変啓発され、筆を取りました。なお、同じ赤間記者が執筆された「声が聞きたい:遷延性意識障害 現状と課題 県ゆずり葉の会・沼田会長に聞く/宮城」(200634日)も読みました。以下は記事を読んだ私の感想です。

1.障害の認定業務を名実ともに行政から独立した専門家から成る第三者機関で行う仕組みを確立する。「認定」業務と福祉「行政」が一体化すると、行政の不作為がまかり通る結果になりがちです。

2.実態調査が先決ですが、これについても行政は予算化に責任を負い、調査自体は企画の段階から報告書をまとめる作業まで独立した第三者機関に委ねることが重要と思います。

3.支援策は記事にあるとおり、専門施設の充実が喫緊の課題と思います。

4.施設さがし、費用の工面、介護者自身の健康管理などをワン・ストップで担当するマネ-ジャ-の養成が急務だと思います。

目下、わが国では「民にできることは民に」をスロ-ガンに、社会福祉を標的にした「小さな政府」路線が強行されようとしています。しかし、OECDの国際比較統計(添付-ここでは省略)をみても、日本は社会保障の分野でとっくに「小さすぎる」政府になっています。

遷延性意識障害者をたらいまわしする民間医療機関の実態を知るにつけても、今、日本で力説されなければならないのは、「民にできないことは公が」です。

追伸:
 「水俣病公式確認から50年」(200659日、平野美紀記者稿)にも大変啓発されました。特に、「政府代表の小池百合子環境相は『悲劇を二度と繰り返さない』と述べたが、『一度目』の悲劇は今も続いている」という指摘が胸に迫ってきました。

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2006年5月 3日 (水)

人を憎んでミスを憎まない日勤教育

 これまで2回の記事では、JR西日本が行ってきた日勤教育が乗務員の人格権をいかに蹂躙するものかを見てきた。今回は、日勤教育が安全教育という面でどういう意味を持っていたのかを考えてみたい。

ミスを憎んで人を憎まず――ヒュ-マン・エラ-への対処の原則――

 福知山線脱線事故の発端になったオ-バ-ランのような運転士(人間)の操作ミスは「ヒュ-マン・エラ-」と呼ばれる。その中には、ひとつ間違えれば大事故につながるような出来事も含まれる。こうした事故一歩手前のトラブル(ヒュ-マン・エラ-に限られないが)のことを「ヒヤリハット」と呼んでいる。ヒュ-マン・エラ-やヒヤリハットを、それらが起こった状況を分析することによって、有効な事故対策を立案するための生きた基礎資料として活用するというのが交通におけるリスク・マネジメントの基本とされている。
 しかし、企業内での取り扱いを見ると、ヒュ-マン・エラ-やヒヤリハットの調査はエラ-をおかした個人の責任追及のために行われる傾向が強い。そのため、ミスを起こした状況の共有化が進まず、安全教育は精神主義的な懲らしめに流れる場合が多いといわれている。これについて、二つの専門的文書に記された見解を紹介しておきたい。 一つは、国土交通省自動車交通局内に設置された自動車運送事業に係る交通事故要因分析検討会が2002年にまとめた報告書『ヒヤリハット調査の方法と活用マニュアル』https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/09/090722/03.pdfである。その中で次のような指摘がされている。
 「ヒヤリハット調査はヒヤリハットを起こしやすいドライバ-を特定し、個人責任の追及のために行うわけではない。ヒヤリハットの経験をドライバ-個人の経験に止めず、全てのドライバ-が共有することにより、ヒヤリハットの起こる状況、つまりヒヤリハットの起こる構造性をつかみ、より有効な事故リスクの低減のための対策を講じることにある。」
  こうした基本哲学に続けて報告書は、ヒヤリハット調査を成功させる3つの鍵を示しているが、その1つとして「ヒヤリハットの申告に対して、不利な扱いはしない」、むしろ、「申告を大いに歓迎し、事故対策の糧とする」と記している。報告書は、これとは逆に、ヒヤリハット調査失敗の3つの鍵の1つとして「ヒヤリハットの申告を個人の評価に使う」ことを挙げている。


 もう一つは、福知山線脱線事故をきっかけに国土交通省内に設けられた「公共交通に係るヒュ-マンエラ-事故防止対策検討委員会」がこの4月に公表した「最終取りまとめ」http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/01/010426/01.pdfである。その中に次のような指摘がある(下線は醍醐が追加)。
 「従来、ヒュ-マンエラ-が関連する事故やトラブルが発生すると、エラ-をおかした人間の不注意(ミス)のみがあげつらわれる傾向があるが、不注意は災害の原因ではなく結果である。なぜエラ-をおかした人間がそういう不注意を招いたかの背後関係を調べることが重要である。」 「このようなシステム全体を考えるアプロ-チをとらないと、『ヒュ-マンエラ-』を単なる『失敗』と同一視して、エラ-をおかした人間だけをどう改善するかということが問題視され、エラ-防止に有効なシステム改善がなされないで終わる危険がある。」
 以上のような考え方は一口でいえば、「ミスを憎んで人を憎まず」という安全対策の哲学と呼ぶことができる。

人を憎んでミスを憎まない日勤教育

 言われてみれば当たり前のことだが、これと対比してみると、JR西日本が行ってきた日勤教育は「人を憎んでミスを憎まない」前近代的な個人制裁と呼ぶべきものであったことが思い知らされる。つまり、

 1.日勤教育中、乗務手当を支給しないというやり方は、ミスの申告を個人の評価に用いないという原則と背反している。
 2.その結果、ミスをおかした状況の共有が妨げられる。福知山線脱線事故でオ-バ-ランをした運転士が車掌にミスを過小に報告するよう頼んだのはその一例といえる。
 3.日勤教育の内容はミスをおかした個人の責任追及、陰湿な制裁の場となっており、エラ-が起こった背後関係の調査・検討がなおざりにされるため、ミスを安全対策の基礎資料として活用する途が閉ざされている。
 4.さらに言えば、JR西日本は事故当時も、1秒単位で運転の遅れを報告させ、遅れの程度に応じてボ-ナスを減額する仕組みが採用されていたという。そうなると、運転士は途中で遅れが出た場合、「回復運転」と称する無理なスピ-ドアップに駆られる心理的状況に置かれるのは必定である。

 こうした事故の因果関係からすれば、JR西日本の運転管理者(使用者)が安全配慮義務違反ないしは業務