正田篠枝:原爆歌集『さんげ』に触れて

 『毎日新聞』の327日朝刊の「発信箱」に玉木研二氏筆の「小さきあたまの骨」と題する論説が掲載されたのを連れ合いから教えられた。34歳で被爆した広島の歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)が自らの体験を詠んだ私家版歌集『さんげ』を紹介した小論である。連れ合いは以前、この歌集を取り上げ篠枝の短歌を批評する機会があったため(内野光子「正田篠枝―敗戦―正田篠枝が残したもの」『短歌研究』2005年8月)、資料を集めていた。
 そのせいで、私も著者の名前は記憶にあったが、紙面を覗き込み、しばし釘付けにされた。しばらくして目を離し、『さんげ』は手元にあるか尋ねたところ、手に入れたので探せば出てくるとのこと。
 次の日の夜、1983(昭和58)年に出版された複製版を連れ合いから受け取った。しかし、せっかちな私は職場の図書館で篠枝の関連文献を確かめ、この歌集も収録された栗原貞子・吉波曽死新編『原爆歌集・句集 広島編』1991年、日本図書センター(家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』⑰)、この歌集の解題も収録された水田九八二郎『原爆を読む』1982年、講談社)などを借り出して読み耽った。

 正田篠枝は194586日、35歳のとき、爆心地より1.7キロの広島市内平野町の自宅で被爆。満53歳のとき、県立広島病院で原爆症による乳がんと診断され、2年後の1965615日、自宅で死去した。54歳。19歳のとき、短歌誌に投稿を始め、短歌会「晩鐘」主宰の山隅衛、「短歌至上主義」主宰の杉浦翠子に師事した。
 この私家版歌集は占領軍民間情報局の厳しい監視・検閲の目をくぐり、広島刑務所印刷部でひそかに印刷・発行された。
 篠枝はこの歌集の書名の由来を後年(1962年)刊行した、『耳鳴り―被爆歌人の手記』の序文のなかで次のように記している。

  「この〔原爆の〕悲惨を体験し、何故、こういう目に 会わねばならないのであろうかについて、他を責むるの みではなく、責むるべきもののなかには、己れもあるの だと思いました。そうして、不思議に生き残って、病苦 に悩まなければならない、自分を省みて懺悔せずにおれ ないのでありました。それで『さんげ』と、題をつけま した。」

 篠枝は原爆症で苦しみながらも、1959年、「原水爆禁止広島母の会」の発起人となり、1961年に創刊された同会の機関紙「ひろしまの河」にも短歌やエッセイを寄稿した。また、亡くなる2ヶ月前の19654月に、篠枝が取材に応じたNHKテレビ番組「耳鳴り―ある被爆者の記録」が放映された。

 死ぬ時を強要されし同胞の魂にたむけん悲嘆の日記
 (この歌は本歌集の扉の見返しに描かれた原爆ドームの 下に添えられた篠枝自作の短歌である。)

 炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明け を待つ

 ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらし て泣きわめき行く

 筏木の如くに浮かぶ死骸を竿に鉤をつけプスットさしぬ


 酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこ涙に光る

 可憐なる学徒はいとし瀕死のきはに名前を呼べばハイッ と答へぬ

 大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつま れり

 (この歌は広島平和記念公園に設置された「教師と子ど もの碑」の台座に刻まれている。)

 武器持たぬ我等国民(くにたみ)大懺悔の心を持して深 信に生きむ
              
 篠枝が著した上記の『耳鳴り』によると、第2首は義姉が被爆して息を引き取るときにつぶやいて告げたものだという。この義姉は水泳ができなかったので死骸を筏木代わりにその上に乗っかるうちに段々と流れて死骸といっしょに本川橋の柱にひっかかったところを通りがかった人が助けてくれたという。しかし、この義姉も8月7日に息を引き取った。
 筏木のように浮かぶ死骸に乗っかって生きながらえる――体験者にしか表せない赤裸々な写実は、技巧的な喜怒哀楽の心境描写、お手軽な「原爆体験の風化」論を寄せ付けない切迫感を読者に伝えずはおかない。
(最初の段落を除いた本稿は、左サイドバーの「詩歌に触れて」に収録した。)

『さんげ』表紙の見返し(クリックすると拡大されます。原爆ドームは故吉岡一画伯の作) 
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『さんげ』の一節より(クリックすると拡大されます。)
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メディアが伝えなかった警察の不作為―ヤミ金自殺事件の報道に思うこと―

5回も相談を受けながら、動かなかった警察

去る7日、大阪府警など合同捜査本部は、20036月、大阪府八尾市で夫婦ら3人が、ヤミ金融業者の脅迫的な取り立てに悩んだ末、JR線路上にしゃがみ込み、心中した事件に関係したヤミ金グル-プの6人を(再)逮捕した。

38日の各紙朝刊はこの事件を社会面で大きく報道したが、それを見て、私は釈然としない思いがした。というのも、この夫婦は心中に至る前に八尾警察に2回、大阪府警に3回、相談していたにもかかわらず、警察は脅迫的な取り立てから夫婦を守る有効な手立てを講じなかった。警察のこうした不作為が3人を心中に追いやる一因であったと考えられるのに、今回の犯人グル-プ逮捕の報道は、そうした背景事情に一切触れていないのである。

私が、いまでもこの八尾市の事件に強く関心を持つ、もう一つの理由は、ちょうど事件当時、委員の一人として参加していた長野県外郭団体見直し専門委員会での経験からである。当時、私たち専門委員会が「長野県暴力追放県民センタ-」の廃止方針を打ち出した時、県警ばかりか、日本弁護士会や長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-が、この八尾市心中事件も例に挙げ、暴追センタ-の存続を執拗に訴えてきた。そこで、専門委員会は20031222日、日弁連ならびに長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-代表と、警察の「民事不介入」の評価をめぐって、報道関係者が傍聴する中、激しい論争を繰り広げた。

(専門委員会と弁護士会とのやりとりの概要は次の文書を参照いただきたい。)
 http://www.pref.nagano.jp/soumu/gyoukaku/s23/minutes23.pdfpp.27~)
 http://www.pref.nagano.jp/soumu/gyoukaku/boutsui.htm

民事不介入を盾にした警察の不作為をかばう弁護士会の怪

 私たち専門委員会は暴追センターや県警から提供された同センターの資料やヒアリングを通じて、
 ①センタ-の事業費の96.7%は県からの補助金・委託費で賄われている。
 ②人的な面でも、プロパ-職員は1名、管理職も1名(県警OB)のみで、センタ-に寄せられた相談の大部分は県警や弁護士会に回送され、センタ-自身で完結した案件はほとんどない、

という実態(数字は2002年度)を把握した。そこで、専門委員会は暴追センタ-には団体としての実体は希薄で、自立した業務といえるものがほとんどない以上、これを存続させる必要性はなく、暴追関係の相談業務は県警あるいは弁護士会が担当すれば支障はないと考えたのである。

 県警がこうした委員会の提言に抵抗したのは予想されたことだった。私たちにとって予想外だったのは、なぜか、長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-、さらには日弁連までが、警察の「民事不介入」を持ち出して、執拗に暴追センターの存続を訴えてきたことだった。彼らが専門委員会に提出した意見書の中で次のように記していることを、私は多くの人々に知らせたいと思う(下線は醍醐追加)。

  「そもそも警察は犯罪の捜査と治安の維持を任務とし、民暴被害の救済を任務としておらず、一般的に民事・商事の法律知識も持ち合わせていません。したがいまして、警察に民暴被害の救済を期待すること自体に無理があります。」(長野県弁護士会・民事介入暴力被害救済センタ-、意見書、20031216日)

  「最近、大阪府八尾市の老夫婦が早くから警察署に相談していたものの支援を受けることができずに命を絶った痛ましい事件があったが、仮に、暴力追放センタ-など然るべき相談機関に相談していれば、このような悲劇は防げたかもしれない。」(日弁連意見書、20031218日)

 しかし、民暴事件とは文字通り、民事に暴力(刑事)が絡んだ事案であり、民事か刑事かと線引きをして済まないところに特徴がある。弁護士会は百もそうしたことは承知のうえで、民暴を警察の守備範囲から外し、それを暴追センターの独自業務として描くことによって、なりふり構わず、同センターを存続させる必要性を訴えようとした底意が透けて見えた。

 「暴力追放センタ-など然るべき相談機関に相談していれば、このような悲劇は防げたかもしれない」という日弁連の意見は、夫婦が相談を行く先を間違えたと言いたげであるが、亡くなった夫婦を冒涜する発言である。日弁連が強調すべきは民事不介入を盾に夫婦の悲痛な訴えを受け止めなかった警察の不作為であって、この事件を引き合いに出して実体のない暴追センタ-の存続を正当化することではない。

 それにしても、長野県弁護士会・民事介入暴力被害追放センタ-があれほど暴追センタ-の存続に執心した理由は何だったのだろうか? 警察は身の危険を感じて駆けつけた市民の訴えを聞き流してでも優先しなければならない、どのような用務を抱えているのだろうか?

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社会福祉協議会はこれでよいのか?(2)

防災放送を住民主体で

――迷い犬の防災放送を断わられた経験から――

 今回の「住民座談会」は、「地域福祉計画」を作るために住民の意見を聞く機会ということなので、日頃、私が感じている要望を2つ出すことにした。

 その一つは、近くの中学校に取り付けられている防災放送を住民主体に運用できないかということ。これまでは、行方不明になった高齢者の情報提供を求める放送が大半だった。最近は近くの小学校の下校時刻を知らせる放送も始まった。しかし、私は、その他に、住民が主体になって地域限定的な緊急放送(災害情報のほかに、企画の案内放送や防犯放送なども)にも活用できないか、と思ったのである。

 話はそれるが、私がこんなことを考えたのは3年前、近所のコンビニで出くわした迷い犬を一時引き取ったときの経験からだった。コンビニのドアの外で中をじっとのぞきこむラブラードルを見て、店員に「どうしたんですか、この犬」と聞くと、「もう1時間もそうやっているんですよ」という返事。しばらくそばに居たが、飼い主は現れず、犬もその場を離れようとしない。仕方なく、家へ電話をして連れ合いにひもを持ってくるよう頼み、家へ連れて帰った。

 しかし、当時、わが家には2匹の犬がいた。連れ合いは、「もうこれ以上、うちは無理だからね。早くどうにかして!」と激しい剣幕。そこで、私はとっさに、防災放送で流せば、飼い主が現れるかもしれないと思って、市役所に電話をした。しかし、応対に出た職員は「私の一存では決められない。明日上司に確かめて返事をする」という「模範解答」。

 仕方なく、その日はあきらめて、コンビニ周辺の植木の柱や電柱に厚紙に書いたポスターをくくり付け、飼い主の現れるのを待ったが、音沙汰はなかった。翌朝早く、市役所から電話が入ったが、犬のことまで放送はできない、という素っ気ない(予想した)返事。

 結局、翌日夕方、わが家から300mほど離れた飼い主が現れ、慣れた様子で引き取って行った。後で考えると、その日の朝、ラブラードルと散歩の帰り道、飼い主宅のすぐそばを通ったが、犬はそちらに向かう気配はまったくなかった。

社協のために福祉があるのではない

 話が脱線したが、住民座談会の後半に数名の福祉委員から、次のような意見が出た。

「最近、住民の皆さんは個人情報に敏感になり過ぎているように感じる。あまりに神経質なので活動がしにくい」。

「役所は個人情報保護を理由に、どの世帯に高齢者がいるかという情報を我々にくれないので、活動がやりにくい。」

気持ちはわからないではない。しかし、高齢者(のいる世帯)からみたらどうだろうか? そう考えていたら、さきほど発言したKさんが再び立ち上がって、こう言った。

 「だから、私はそういうきめ細かな仕事は地域で日常的に活動をしている自治会がやるべきだと言うんですよ。だってそうでしょ、皆さんは地域のことをどこまで知っていますか?」

 そこで、私も1年ほど前に近所のある知人から聞いたこんな話を引きながら発言した。

 「ある日、民生委員が受け持ち区域の一人暮らしのお年寄り宅を訪ね、玄関先で、『何か困り事はありませんか?』と話かけたそうです。そのお年寄りはあたりさわりのない返事をして民生委員に引き取ってもらったそうですが、後で近所の知人に『面識もない人に突然訪ねられても、気持ち悪いわよねえ』と話したそうです。皆さんは、このお年寄りの感想をどう思いますか? 私は至極もっともだと思いました。

  個人情報があちこちで漏れる今の時代、住民が自分の個人情報に神経質になるのはやむを得ないことです。そういう意識を変えてほしいというのではなく、そういう意識を前提にして誰が何をできるかを考えるべきではないですか? その意味で私も、高齢者の人への声かけ運動などは、地域でネットワークのある自治会が担う仕事だと思います。」

 
帰宅後、このやりとりを連れ合いとしながら、あれでは、社協のために福祉があるかのような発想ではないかと思えてならなかった。

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社会福祉協議会はこれでよいのか?(1)

住民座談会に参加

今日は朝から春めいた晴天。去年12月に15歳の飼い犬が突然、三半規管の障害を起こし、狂牛病のように歩行できない状態になって以来、交代介護であわただしい毎日が続き、夫婦で遠出する機会はなかった。最近、ようやく、まっすぐ歩くことができ、一人で留守番もできるようになったので、河津桜を見に出かけたいと思っていたところだった。

しかし、今日は10時から近くの集会所で地区社会福祉協議会が開いた「住民座談会」に参加した。「住民座談会」とは、市町村が社会福祉法第107条で定められた「地域福祉計画」を策定するとき、「あらかじめ、住民、社会福祉を目的とする事業を経営する者その他社会福祉に関する活動を行う者の意見を反映させるために必要な措置」として開かれるものだ。

数日前からこの座談会に出ようと決めたのは、以前から、社会福祉協議会について、行政との境界のあいまいさ、地域福祉の分野でまるで指定席を与えられたかのような特恵的地位、募金や会費集めの仕方などに疑問を感じていたからだ。座談会には地区社協の役員や市役所の社会福祉課の職員も出てくると聞いていたので、疑問を質すよい機会だと思った。口頭だけでは伝わりにくいと考え、昨夜、3時ごろまで質問・意見書作りをして出かけた。

長野県外郭団体見直し委員会での経験

 私が社協にこだわりを感じる理由はそれだけではない。20032月から約11ヶ月間、長野県外郭団体見直し専門委員会の委員の一人として県内57の外郭団体の事業、財政状況を調査し、その結果を踏まえて各団体の存廃等について報告書をまとめた。そこで、団体と委員会側で意見が鋭く対立した一つが長野県社会福祉協議会だった。私の印象に鮮明に残っているには、その年の819日、丹治幹雄委員といっしょに長野市内にある長野県NPOセンターを訪ねて事務局長の市川博美さんからヒアリングをした時のことだった。

市川さんの強い要望で、同行したNHKスペシャルのカメラを止めて2時間にわたり、活動分野が重なる社会福祉協議会や長寿社会開発センター、国際交流協会との関係について意見を求めたところ、思いのほか、率直で手厳しい意見・要望が返ってきた。県NPOセンターの意見を要約すると、次のとおりだった。

先発の外郭団体は県からの豊富な補助金で事務所費や人件費を賄っている。そのため、去年、これら外郭団体と共同でボランティア学習研究集会を開いたとき、社協は無料。しかし、自前で事務所費等を負担しているNPOは有料。そうなると、企画の上では私たちの方が参加者のニーズにかなっているという自負があったのに、参加者は無料の社協の分科会に流れてしまった。

行政はどんな事業を委託公募するのか、情報をしっかり公開してほしい。そのうえで、先発の外郭団体も後発のNPOも対等の関係で応募し、各団体が企画を提案して、そのなかで利用者のニーズに最もかなったものを選ぶ仕組みに変えてほしい。

 こう語った市川さんは、「今日ヒアリングに来られると聞いたので、センター運営委員に外郭団体見直しについて意見を募ったら、こんな意見がメールで返ってきた」といって数枚の文書を取り出した。目を通すと、社協に対する厳しい意見が並んでいた。なかには、「社協の歴史的な価値は終了したので、早く解散すべきである」といった強硬意見もあった。長野県では社協とNPOの関係がギクシャクしていることがわかってきた。福祉、国際交流等のノウハウではNPOの方が優っているのに、社協は行政を後ろ盾にして既得の地位に安住し、利用者を囲いこもうとしているという批判・不信感がNPOの中に根強くあるのが摩擦の根源的な理由のようだった。

社協は指定席でなくなった

話を住民座談会に戻そう。1週間ほど前に自治会ル-トで座談会の案内文書が届いた。知人に声をかけられて、そこに列挙されていたアンケート項目に目を通して「あれ?」と思った。というのも、社会福祉協議会とは、文字通り、社会福祉の分野の活動をする民間組織のはずなのに、「道路の整備」、「住宅の整備」、「ゴミの減量化」、「子どものしつけや教育」、「学校教育」など、地域社会に関わるほとんどの問題が網羅されていたからだ。しかし、この種の疑問は「地域福祉計画」の議論からいえば、「入口」の話なので、文書での質問に回して、会場では触れないつもりで出かけた。

ところが、討論開始と同時に、Kさんが手を挙げて、「道路、住宅、ゴミ、学校教育などは、私が調べた社協の定款の範囲をはみ出ている。どうして、こういう問題まで社協が扱うのか」と質問した。前に並んだ社協の役員は一瞬、困惑した表情になったが、その中の1人がこう答えた。

「道路でいえば、たとえば、陥没なら社協が扱う問題ではない。しかし、バリア・フリーのことなら社協が扱う問題だ。いろんな問題を福祉の切り口で捉えて意見を出してほしい。」

すると、Kさんはすかさず、こう切り返した。

「しかしですね、今の社会、何だって突き詰めれば福祉に還元されるんですよ。そんなことをいったら、社協は何でもやるということになりますよ。」

 これを聞いて、前にならんだ社協の別の役員がこう言った。

  「いや、福祉にとらわれず、地域の生活での困りごとを何でも出してください。」

 ここまで言われると、私は黙っていられず、立ち上がった。

  「今の発言はどうかと思いますね。皆さんご存知のように、最近導入された指定管理者制度の精神から行くと、社協もone of them です。社協もNPOなどと対等の関係で企画を提案して、そのなかで利用者のニーズに一番かなっていると評価された団体の企画が行政の委託事業として採用される仕組みになっています。そうなると、社会福祉法から社協の名前が消える日も遠くないかも知れません。そういう時代に社協が行政を後ろ盾にして、福祉ばかりか、行政の代行業務を何でもやりますというのは、ずれていませんか?」

   

指定管理者制度の危うさ

しかし、「指定管理者制度」には重大な危うさがある。長野県で福祉や文化方面の外郭団体の現地を訪問して、それぞれのプロパー職員と直接意見交換したなかで、福祉事業では、人(職員)と人(施設入所者など)の信頼関係が事業の成否を左右する重要な要素であること、こうした信頼関係は長いつながりのなかで培われる「見えざる財産」であることを認識できた気がした。

また、文化の面では信濃美術館の学芸員の人たちや県立文化会館の舞台担当のプロパー職員の人たちと意見交換をするなかで、長年の職務で培われたノウハウを蓄積し活用することが、「県民益」に通じること、短期的な異動や身分の流動化でそうしたノウハウを切断するのは文化の価値を毀損させることを感じ取った思いがした。

そこで、私たち委員会は中間報告案で団体の廃止、あるいは指定管理者制度の導入としていた福祉・文化関係4団体を最終案では存続に変更した。

しかし、このように考えるとしても、行政の現役職員やOBが主要ポストを占める外郭団体に行政が独占的に事業委託をし続ける実態をそのままにしてよいわけではない。ついでにいうと、「官から民へ」というが、その場合の「民」は常に「民営化」を意味するわけではない。むしろ、「官業独占」の不公正、サービスの質の低さを問題にするなら、もっと福祉のノウハウとモチベーションが高いNPOなど非営利の組織へ官業を開放することが望まれる。ただし、その場合も「私人による行政」、「行政の私化」に伴う諸問題を慎重に検討し、法的なインフラを整備することが必須条件である。

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安全を脅かす整備の海外委託―日本航空の安全性問題を考える(2)―

整備の海外委託を容認した規制緩和
 運航乗務員、整備士、航空管制官などが参加する「航空安全推進連絡会議」(以下、「航空安全会議」と略す)は、「2005年民間航空の安全確保に関する要望書」を国交省に提出した。その中で、同会議はボーイング社が推奨していた「信頼性管理型」の機材整備方式は「実際に不具合が発生するまでは、状況の監視、追跡に頼り、大事に至った時だけ手直ししようとする後手に回る発想」であり、「人命を預かる航空機においてはなじまない」と指摘し、航空機整備は本来「予防整備主体」であるべきと提言している。こうした整備の哲学を踏襲すると、4、5年間隔で機材を分解手入れする「重整備」が重要な意味を持つ。
 ところが、わが国政府は、航空機のいわば「人間ドック」ともいうべき重整備も効率性追求のための規制緩和の遡上にのせ、1994年6月の航空法改定にあたって海外整備工場への重整備の委託を可とした。これを受けて、日航は中国アモイのTAECO社やシンガポールのSASCO社などへ重整備の発注を拡大していった。同社の『有価証券報告書』で2002年3月期まで開示された「事業費明細表」にもとづいて、整備の外注化の趨勢を示したのが表1である。

                 表1 日本航空における整備の外注率
                 
                整備費/事業費合計    外注費/直接整備費
     1991年3月期       12.5%             19.4%
     1992年3月期       12.9%             21.9%
     1993年3月期       12.2%             28.7%
     1994年3月期       11.4%             25.9%
     1995年3月期       11.3%             24.3%
     1996年3月期       11.0%             27.8%
     1997年3月期       10.3%             28.8%
     1998年3月期       10.5%             29.9%
     1999年3月期       11.2%             28.5%
     2000年3月期       11.1%             30.0%
     2001年3月期       11.0%             34.3%
     2002年3月期       12.0%             37.1%
 (注1)『有価証券報告書』より作成。親会社単独ベースの数値。日本航空は2003年3月期から事業費明細表を開示していないため、それ以降の外注費は不明)
 (注2)日本航空は整備費を「直接整備費」と「間接整備費」に区分し、前者の内訳として「外注費」を開示している。

海外委託による自社整備の空洞化
 表1から日航の外注率の時系列の趨勢を見ると、2002年3月期には1991年3月期の約2倍になり、絶対水準でも37%に達している。ただ、表1の外注費は国内の子会社等への委託と海外委託を込みにした数値なので、これだけでは海外委託のウェイトはわからない。委託先の国内外別に整備委託費を開示した資料は見当たらなかったが、国内航空各社が会員になっている定期航空協会が2003年6月19日に自由民主党内の国土交通部会・航空対策特別委員会航空小委員会宛に提出した説明資料(標題は「航空会社の経営合理化状況」)に、総工数ベースで見た機体整備(ドック部門)の実施場所別データが次のとおり示されている。

         表2 わが国航空各社の機体整備の実施場所の分布
                            1990年度   2002年度        
            自社整備             56%      26%     
            委託(グル-プ内)        38%            40%     
            外注                   6%            34% 
  

 そして、この資料の側注では、主な外注先はTAECO社、SASCO社、タイ航空で、これら各社における整備コストは本邦社の約1/3の水準であったこと、その結果、1990年度から2002年にかけて、外注化の拡大で135億円のコスト削減効果があったと記されている。ここからも、整備の外注、特に海外委託は整備費削減の見地から拡大されたことは明らかである。実際、前出の表1で示した日航の事業費合計に占める整備費の割合を見ると、1991年3月期には12.5%であったのが、一時は10%台にまで下がり、2002年3月期にどうにか12%台まで戻っている。  

 しかし、こうした整備の海外委託の拡大(国内整備も分社化された子会社、下請化された整備会社への委託が拡大)は裏を返せば、自社整備の空洞化を意味した。前記の航空安全会議の要望書によると、日航ではこの10年近く自社の整備員は採用されず、MD11型機の重整備を自社で実施したことは一度もないという。また、運航整備も世界の10空港に委託されているばかりか、委託先に日本人整備員はいない。こうした際限のない自社整備の空洞化の行き着く先はというと日航では中期事業計画どおりに進めば、2009年度には正社員の整備士はゼロになる、といわれている。

安全性を脅かす海外整備の実態
 問題は海外の委託先での整備の実態である。これについて、前記の航空安全会議の要望書は、次のような指摘をし、重整備の海外委託を早急に止める指導をするよう国交省に要望している(以下は摘記)。
 ①日航では、海外委託先での整備を完了して帰着した航空機を就航前に整備すると、20~30項目の不具合がある。
 ②全日空では、帰着後2~3日、就航前整備を実施している。
 ③TAECO社は2003年4月以降、6機並行で他エアラインの整備も実施している。そのため、同社の整備員が受注エアライン別に(委託社の個別の要求に合うよう)検査の目を変え得るというのは、ほとんどありえなくなっている。

 現に、例えば、
 ・ 2002年7月17日、SASCO社で整備を終えて日本へ回航中の日航B747機が離陸1時間後に航空燃料が噴出する事故を起した。その後の調査によると、燃料補給口の蓋が噴出していた。
 ・ 2003年2月3日、日航B747型機において4ヶ所で旅客用出入り口ドアの開閉の安全ピンが取り付けられたままになっていることが発見された。その後の調査によると、原因は前年4月にSASCO社で整備を実施した時に取り外すのを忘れていたためと推定された。
 ・ 2003年3月11日、SASCO社で重整備(実施期間、1月末~2月14日)したJA8180機がアンカレッジ空港で異常を発見した。調査で、防錆塗装の上にキリコがあったことから、機体に損傷をつけ、「不正修理」をした上で、その記録を残さなかったのではないかという疑いが持たれた(日航機長組合NEWS、17-210)。
 
 もっとも、整備にまつわる不安材料は海外委託に限ったことではない。航空安全会議の指摘によると、例えば、日航が国内での出発確認行為を委託しているJALNAMはパートタイム整備士にこの行為を行わせているが、短時間勤務のため最新情報が入りにくく、アップデートな教育ができていないという。

人事抗争ではなく、安全性問題に切り込む調査報道を
 
整備の海外委託や別会社委託は、安全運航にとっての短期的な懸念材料になるだけではない。長期的な視野で見た場合、自社整備の縮小は社内での技能の蓄積と伝授を困難にし、整備の専門性の低下は整備士としてのモチベーションの劣化につながる。
 従来、安全性への投資は業績向上とトレードオフ(二律背反)の関係にあるものとみなされてきた。しかし、トラブルが続発する日航から他社への乗客のシフトが起こっているのをみるにつけ、航空業界にとって運航の安全性は今や利用者を呼び戻す重要な競争力要因となっていることがわかる。
 ところが、わが国の多くのメディアは、目下の日航が抱える問題を人事抗争劇に歪曲し、その帰趨に焦点を当てて当事者を追いかける「どたばた報道」に終始している。しかし、今回の日航問題の発端になったのは相次ぐ運航上のトラブルの問題だったはずである。この核心に迫る冷静な調査報道に立ち返ることが社会の木鐸としてのメディアに強く求められている。
 
      

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御巣鷹の誓いはどこへ―日本航空の安全性問題を考える(1)―

安全性問題を正視して

 日本航空の内紛騒動をめぐってワイドショ-ばりの報道があふれている。私のところへも、同社と機長組合の裁判にかかわったというだけで、この一週間、週刊誌や某テレビ・ニュース番組から取材の仲介依頼が来た。しかし、問題の発端が、同社の航空機の相次ぐトラブル、それに起因すると見られる乗客離れだったことを正視して、問題の核心を掘り下げることが求められる。この記事では、日本航空の航空機の安全性に直結する機体整備の実態について、私が確かめた知見を記すことにしたい。

風化する安全の誓い

 1985812日、日航ジャンボ機ボーイング747SR100が群馬県御巣鷹の尾根に墜落して520名の犠牲者を出した。墜落の原因は特定されなかったが、この惨事を機に日航は機材の安全性確保のためにいくつかの改善策を講じた。なかでも、日航は事故までの約20年間、ボーイング社が推奨した信頼性整備方式(定期的な分解手入れをせず、定期的な点検・試験ないしは実際に発生じた不具合に関する情報の解析によって随時、部品の交換や修理等、必要な処置を行う方式)を採用していたが、御巣鷹山事故を機に747機について定例整備(45年間隔で行われる大規模な機体の構造検査・改修など。重整備とも言われる)を導入し、整備の自社主義を謳った。

 しかし、事故から10年経った頃から、機材整備に関する政府の規制緩和政策もあいまって、日航の整備に関する考え方は大きく転換してきた。その象徴ともいえるのは、次回、やや詳しく説明する重整備の海外委託である。しかし、それ以外にも、コスト削減を図るための整備の「簡素化」が次々と打ち出された。例えば、

 1. 御巣鷹山事故の後、日航は当時の最高経営会議の方針として、機材の安全性を高めるために航空機ごとに担当整備士を配置する機付整備士制度を導入した。しかし、2003年、日航経営者は限られた人員と部品を有効に使うと称してこの制度を廃止した。

 2. JALグル-プが昨年3月に発表した向こう3年間の中期経営計画では、これまでそれぞれの専門性の違いにもとづいて、機体整備部門と運航整備部門が分れていたのを、両方の整備ができるよう改めることにした。

 3. このほか、御巣鷹山事故以後も、海外メーカーの検査指針を鵜呑みにした定期検査がなお続いている。例えば、昨年8月に日航の子会社、JALウェイズのDC10型機が福岡空港を離陸直後にエンジンの異常燃焼が発生し、大量の金属片が落下するという事故が起こった。このエンジンの製造元の米国プラット・アンド・ホイットニー社は2500時間に1回の割合で定期検査を指示していた。しかし、このトラブルが前回検査から2292時間後に起きたものだったことから考ええると、ホイットニー社の指針には安全性に問題があったことになる。なお、日航は国交省の指導もあって、昨年8月以降は検査期間を1250時間間隔に、今年の2月からは1000時間間隔に短縮している。

整備の現場の声

 2004223日付で発行された航空労組連絡会の『航空連ニュース』No.169に、「安全アンケートからみた整備現場」というデータが掲載されている。そこで集計された整備ミス・インシデントの分類によると、「人員不足」(121件)、「規程違反」(105件)、「確認不足」(76件)、「時間的制約・定時出発率」(62件)が上位に並んでいる。これらは程度の差はあれ、どれも人為ミスといえるものばかりである。

また、このアンケートには、「発見した故障を、出発に支障がない様に時期をずらして発見したことにしたり、見ぬふりをした」、「交換部品の在庫が無い為ダメなものもOKにせざるを得なかった」、「欠航になってもおかしくない故障を、そのままにして定刻に出したことが賞賛される風潮はおかしい」といった声が寄せられたことも紹介されている。

これでは、御巣鷹山事故で尊い命を奪われた520人の人々とその遺族の無念の思いは報われようがない。

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