2008年5月14日 (水)

鳳仙花二題――植民地韓国の辛酸と自国独立への希望を託した歌

 植民地支配下の朝鮮人の痛恨と独立への希望を託した「鳳仙花」
 NHK教育テレビ(一部総合テレビ)で放送される「名曲アルバム」を10年ほど前からよく聴いている。この34年はNHKのホームページに解題付きで掲載される「今月の放送曲目」を印刷し、録画予約をするのが習慣になった。各曲にまつわるエピソード、歴史的背景を説明した字幕付きの映像を見ながら曲を聴くのは音声だけ聴く場合とは一味違った趣がある。夫婦で出かけたウイーンやプラハなどの風景が映るときは、旅の思い出がよみがえり会話がはずむ。
 この5月の放送曲目の中では「鳳仙花」(作曲 洪蘭坡/編曲 金子仁美/演奏 北原幸男<指揮>、NHK交響楽団/映像 ソウル)の美しいメロディと作曲者洪蘭坡の生い立ちに惹きつけられた。

 洪蘭坡(ホン・ナンパ。18971941年)は韓国の「楽聖」と呼ばれた同国の近代音楽の先駆的作曲家であるが、バイオリン演奏、評論も手がけた人物でもある。1917年から東京音楽学校で学んでいたが、31独立運動を機に帰国し、独立運動に参加した。帰国後、彼は「哀愁」という題の曲を作り、声楽家、金享俊(キム・ヒョンジュン)が5年後にこれに詩をつけたのが「鳳仙花」だった。表向きは鳳仙花の四季のうつろいを詠んだ歌であるが、実際は、日本の植民地支配で祖国を滅ぼされた朝鮮人の哀切を、秋風に花を散らせ、北風に吹きつけられる鳳仙花の悲しげな姿に託すとともに、のどかな春風の季節に蘇る鳳仙花になぞらえて祖国の独立を夢みる朝鮮人の希望を代弁した歌である。メロディはこの詩にふさわしく、静かな哀切調の中に、自国の独立、人間としての尊厳を固持しようとする朝鮮人の強靭な意思をにじませて実に美しい。

 洪蘭坡の苦難の生涯
 しかし、「鳳仙花」の成り立ちを調べていくにつれ、この歌は作曲者、洪蘭坡の苦難の生涯と切り離して語ることはできないと悟った。名曲アルバムも映像の字幕で紹介していたが、日本の官憲は鳳仙花の歌詞に込められた抗日・祖国独立の隠喩を嗅ぎつけ、洪蘭坡を日本の朝鮮支配に抵抗する危険人物と見なして日常的に監視し出した。その圧力に耐えかねた彼は1941年、43歳の若さで他界した。太平洋戦争開戦の3か月前だった。

 しかし、洪蘭坡を死においやった理由はこうした官憲の監視による精神的肉体的疲弊だけではなかったと考えられる。彼は日本軍国主義による朝鮮統治が頂点に達した時期に日本に強要されて数編の軍歌を作曲するとともに、京城放送管弦楽団の指揮者として「皇国精神にかえれ」、「愛馬進軍歌」、「太平洋行進曲」など日本の軍歌を指揮・演奏した。音楽活動を通じて朝鮮民族の痛恨と誇りを代弁しようとした彼にとって、こうした反民族的行為への服従がいかに耐えがたい残忍なものであったか、想像を絶する。

 後世、韓国内では洪蘭坡のこうした日本軍国主義への「協力」行動を理由に彼を「親日派」に加える動きがある。たとえば、韓国民族問題研究所は本年4月に「親日人名辞典」に掲載するリストを改訂するにあたり、洪蘭坡を親日派のリストに加えた。これについて『朝鮮日報』は本年51日の紙面に「親日・反日の尺度では量りきれない歴史」と題する社説を掲げ、次のように記している。

  「しかし日帝が朝鮮を支配した1910年から45年までの36年間、この地で生きた朝鮮人の数多くの人生を、親日と反日の二分法で区分するにはあまりにも事情が複雑だ。日帝時代に青年から壮年の時期を過ごした世代は、洪蘭坡(ホン・ナンパ)が作曲した数百の韓国歌曲、中でも『成仏寺の夜』『鳳仙花』などを口ずさみながら、国を失った民の悲しみと悲哀を骨身に染みて痛感し、祖国を取り戻さなければならないという思いを新たにしていた。もちろん洪蘭坡 は日本による統治が最悪の状況に至った当時、日本に強要された数編の軍歌も作曲した。現在は独立した国である大韓民国で心穏やかに日々を過ごしているわれわれが、あたかも批評や論評でも加えるかのように、洪蘭坡に対して『親日派』のレッテルを貼っていいものだろうか。・・・・・親日派リストを発表した当事者たちが、あの過酷だった植民地時代を生き抜き、『自らに対しては霜柱のように、他人に対しては春風のように対せよ』という『持己秋霜 待人春風』の姿勢を持っていたなら、今回のような行いをすることは決してなかっただろう。」

 もうひとつの「鳳仙花」
 ――在日二世の哀切と憤怒を歌った李正子――
 洪蘭坡の「鳳仙花」について調べている中で、李正子の歌集『鳳仙花のうた』があることを知った。私が読んだのは、磯貝治良・黒古一夫編『<在日>文学全集17巻 詩歌集Ⅰ』勉誠出版、2006年に収録されたものである。この歌集には、李正子の別の歌集『ナグネタリョン―永遠の旅人』も収録されている。

 巻末の年譜によると、李正子(イ・チョンジャ)は1947年に三重県上野市に生まれた在日韓国人二世である。中学生の時に短歌に出会い、20歳の頃から「朝日歌壇」に投稿をしていた。その後、上野市で喫茶店を営む傍ら、近藤芳美が主宰する「未来」の同人として作歌に打ち込んだ。『鳳仙花(ポンソナ)のうた』(雁書館)は彼女が37歳の1984年に刊行された第一歌集である。第二歌集の『ナグネタリョン―永遠の旅人』(河出書房新社)が刊行されたのはそれから7年後の1991年だった。収録された歌はどれも彼女の生い立ちが投影し、植民地時代の朝鮮人が日本軍国主義から受けたつめ跡と哀切が随所にほとばしり出ている。また、他者の痛みをいまなお感受できない日本人への抑えがたい怒りが噴出した歌もちりばめられている。以下、数首を書き出しておきたい。

 替えられし弁当の砂に額伏せて食(は)めばたちまち喚声あがる
 喚声にかこまれて食(は)む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは
 泣きぬれて文盲の母を責めたりき幼かりし日の参観日のわれ
 国籍の壁越え得ねば去る君の弱さが憎しじっと目を伏す
 隠滅のはてに還らぬ慰安婦ら朝鮮おみなと知れば哀しく
 誰が為に征(ゆ)きて還らず鮮人の兵に国なく慰めもなく
 臨時休業の札かけ見知らぬ町へゆく広き優しき海を見むため
 あきらめることも生き方とゆき戻るわれの歩みを波が消しゆく
 日本の男はみな卑怯者弱虫と日本のおとこのみ愛して知りぬ
 世界史に残しおくレジスタンス「三・一」いま暴動と記され傷む


 今回、「名曲アルバム」で放映されたのを機縁に二つの「鳳仙花」を知った。どちらの鳳仙花にも日本軍国主義が朝鮮半島で侵した戦争犯罪が今日まで朝鮮人の心身に残した深いつめ跡への直視を迫るものだった。それだけに、一人の日本人として李正子の歌に背筋を正される思いがしたのである。

 侵略戦争語らず詫びず恥じるなく戦後を了(お)えて日本は強し
 ひとりよがりの平和うたがうこともなく四十二年は日本人のもの

(追記)
洪蘭坡作曲「鳳仙花」(ホン・ナンパ)は523日(金)55分からNHK教育テレビ「名曲アルバム」で再度放送される。この記事をご覧いただいた方はぜひ視聴していただきたいと思う。

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2008年4月16日 (水)

歴史の荒波を生き抜いたプラハの人々~NHK世界遺産の旅 チェコ・プラハ編をみて~

 412日夜、NHK総合で放送された「世界遺産の旅 奇跡の美 街に宿る不屈の心~チェコ・プラハ~」を録画に撮り、食後のひとときにみた。画面に現れたプラハの街の各所は2003年秋に夫婦で出かけた所でもあり、山根基世さんの気さくなリポートで進んだこの番組を感慨深く終わりまで観た。ご覧になれなかった方、見過ごされた方は、次のとおり再放送が予定されているので、ぜひ、ご覧いだけたらと思う。
 417日(木)   330 413
 418日(金) 16051648
 http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr108.html

 人形はプラハの言語を守った命綱

 プラハは「建築博物館の街」といわれるだけあって、完成までに長年月が費やされた由緒ある建築物が点在する。プラハ城内にある聖ヴィ-ト大聖堂は現在のゴシック様式に改築されるまでに実に600年を要したという。プラハ市博物館に所蔵されている1873年当時の市街地の模型は11年がかりで歩いて街を回り、歩幅で距離を測って製作したという。

 しかし、長い時間を経過したのは建築物だけではない。番組では、プラハの歴史遺産を守り抜くために一つの仕事に長年月打ち込んできた人々の姿も紹介していた。中でも国立マリオネット劇場を拠点とする人形劇団の中には52年間劇団のメンバーとして仕事を続けている人がいた。ほかにも、49年間、30年間、28年間、劇団で活動しているという人々が紹介された。
 チェコにとって人形劇は「文化の命綱」といわれている。そのわけは、チェコを支配したハプスブルグ家あるいはドイツ軍がドイツ語を公用語として強制したことから、チェコ語が忘れ去られようとした時期に劇団はチェコ語を使った人形劇を各地で公演し、母国語を守る砦になったからである。
 また、人形を売る店の若い店員は腹話術を交えて操り人形を動かしてみせた後、「人形は単なるおもちゃではなく、自分の気持ちを表現する手段」と語ったのが印象的だった。

 歴史の荒波を生き抜いたプラハの歌手、マルタ・クビショヴァ

 番組全体を通して私がもっとも感銘を受けたのは激動の歴史を生き抜いたプラハ人の象徴ともいえる女性歌手、マルタ・クビショヴァさんが
3度、登場した場面だった。

 最初の場面は、チェコで進みつつあった自由化の波(「プラハの春」)に危機感を抱いたソ連軍率いるワルシャワ条約機構軍が1968820日にチェコに侵攻した時だった。番組では侵攻軍を惑わすため、市内の標識を取り外す一方、帰ってほしい行先(モスクワなど)だけ残す若者の姿を映していた。しかし、プラハを武力で制圧した侵攻軍は放送局も占拠した。そこで、市民は工場の地下に秘密のラジオ局を設けて放送を流した。その時、人々の耳に聞こえてきたのは当時、デビュ-曲「マルタの祈り」が大ヒットしていた人気歌手、マルタ・クビショヴァの歌声だった。しかし、地下のラジオ局も閉鎖され、ソ連の影響を受けた共産党政権が成立すると、マルタ・クビショヴァは歌の世界から永久追放され、レコードはすべて廃棄されてしまった。

 次に、番組の中でマルタ・クビショヴァさんが登場したのは、秘密警察が幅を聞かせた共産党一党支配に対する市民の批判が噴出したいわゆる「ビロード革命」の時だった。1989年、学生の抗議行動に端を発し50万人のデモにふくれ上がった民衆の力で一滴の血も流さず共産党一党独裁政権に終止符を打った喜びに沸きかえる広場の正面の建物のバルコニーに20年ぶりに姿を現わしたマルタ・クビショヴァはあの「マルタの祈り」を歌いあげたのだった。20年間、歌の世界から追放された彼女は内職で生活をしのいできたという。長い苦難の生活のせいか、やつれてはいたが、逆境を生き抜いた強靭な知性を彷彿とさせる場面は感動的だった。

「祖国の自由」への意思を込めて
~マルタ・クビショヴァが歌ったもう1つの「ヘイ・ジュード」~


 マルタ・クビショヴァさんが最後に登場したのは番組が終わりに近づいた時だった。山根さんが、ぜひ出かけたいといって足を運んだのはマルタさんが常連で歌っているというライブハウスだった。小さな舞台に登場したマルタさんが歌ったのは、ビートルズが歌った「ヘイ・ジュード」の歌詞を替えた歌だった。後で調べて見つけた日本語訳の最後の
2つの節を書き出しておく。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/d4a9ce618371d1d908587900069f289e を参照。)

 あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
 でも ジュード あなたと遠くはなれても
 心はあなたのそばに行ける
 今 私はなす事もなく あなたの歌を聴く自分を恥じて いる
 神様私を裁いてください
 私はあなたのように歌う勇気がない

 ジュード あなたは知っている
 口がヒリヒリ 石をかむようなつらさを
 あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
 不幸の裏にある「真実」を教えてくれる

 これも後で調べてわかったことだが、この曲は1969年、プラハの春の時期にレコ-ディングされた。マルタ・クビショヴァは「ジュード=祖国の自由」という意味を込めて、この歌をアルバムの最後に入れた。しかし、レコードが売り出される頃、ソ連軍の武力侵攻で「プラハの春」は挫折し、それ以来、マルタさんはこの歌を歌う機会に恵まれなかった。そのためか、ビロード革命の後、カレル大学に招かれたマルタさんは学生たちからこの歌をリクエストされたが、「長い間歌っていないので〔歌詞に〕自信がない」というと、学生たちは「僕らは(何度も歌って)知っている。教えますから」と答えたという。

 不条理な迫害に屈せず苦しい時代を生き抜いたマルタ・クビショヴァ、そして彼女の強靭な意思に応えたプラハの人々――番組はこうした感動のドラマを見事に描き切っていた。

(追記)20011月、NHK総合で「世紀を刻んだ歌:ヘイ・ジュード~革命のシンボルとなった名曲」というタイトルの番組が放送された。しかし、残念ながら私は見損なった。NHKアーカイブスにも入っていないようだ。

プラハの思い出のアルバムから


 以下、番組を見ながら思い出に耽ったプラハの街並みのアルバムの中からいくつかを載せておきたい。

上から順に、
1.人出でにぎわう旧市街広場
 (向かいの建物の2階にあるカフェ・ミレナから撮影。カ  フカの恋人の名を冠したカフェと聞いて入った。)
2.プラハ城正面玄関広場での観閲式
3.プラハ城内の大統領府がある聖十字礼拝堂
4.プラハ城からみおろした街並み
5.国立博物館からみたヴァツーラ広場の遠景
6.悠然と流れるヴァルタヴァ川
7.旧市街広場でボヘミアの踊りに興じる人々
8.旧市街広場で並んだ出店(焼き菓子店)
9.カレル橋

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2008年3月13日 (木)

「Requiem 東京大空襲 広瀬美紀写真展」に出かける

NHK首都圏ネットワークで知って
 最近、平日の夜610分から放送される「首都圏ネットワーク」を録画してみることが多い。310日の分を帰宅してみると、<リポート 東京大空襲 見えない痕跡を写したい>というタイトルで62年前の310日に東京を襲った大空襲の仮埋葬地と生き残った被災者の今を撮り歩いたフリ-・カメラマンの広瀬美紀さんのことを紹介していた。印象が強烈だったので、番組の中で紹介された広瀬さんの写真展「Requiem 東京大空襲」へ昨日、帰宅途中、出かけた。
 
  「Requiem 東京大空襲 広瀬美紀写真展」
  200835日(水)―18日(火) 
  10001900(最終日は1600まで)
  銀座Nicon Salon TEL: 03-5537-1469
  (ニコンプラザ銀座1F

知られていない東京大空襲の実態
 「東京大空襲」の始まりとなった1945310日の大空襲は深夜0015の空襲発令から約2時間半にわたって、344の米軍B-29が低空から江東区、隅田区、台東区域に向けてナパーム製焼夷弾を浴びせた惨事である。死者は10万人以上(うち、縁者が引き取った遺体約2万人、無縁仏・行方不明者約8万8千人)、被災者100万人、被災区域約409平方キロメートルといわれている。その後、524日には250機、25日にも250機のB-29が東京西部の焼け残った地域に飛来し、焼夷弾による絨毯爆撃を行った。

 記録によると、310日深夜の東京下町を襲った爆撃では、29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民の退路を断ったという。その後に大量の焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空から機銃掃射が浴びせられたという。

仮埋葬の場所となった公園、寺の数々の写真
 少し遅れて会場に着くと、先に着いていた連れ合いは展示を見はじめていた。銀座松坂屋の横のビアホール「ライオン」のすぐ近くにある小さなサロンだった。記帳を済ませて入り、展示された写真とその下に掛けられた記事(被写体の被災者の談)を見て回った。モノクロ55点だったが、メモをとりながら回ったので結構時間が経った。その多くは、名前もわからず、数年間、遺体を仮埋葬した各地の公園や寺院だった。都内に90か所近くあるこうした仮埋葬地を撮り続けると同時に、体験者の取材撮影も手がけることで、生き残った高齢の被災者の思いが永遠に封印されるのを食い止めたいというのが広瀬さんの動機だったという。
 浄心寺(現江東区、184人)、行船公園(現江戸川区、434人)、原公園(現墨田区、383人)、蔵前都有地(現台東区、773人)、法蓮寺(現江戸川区、25人)、妙久寺(現江東区、2865人)、隅田公園本所側(現墨田区、3682人)、・・・・・・と続く。

写真に添えられた被災者からの聞き書き
 こうした各地の仮埋葬地の写真の間に、生き残った被災者の取材写真が並び、その下に広瀬さんの聞き書きのプレートが添えられていた。その中でメモを取ったいくつかを転記しておきたい。

 「燃え上がる言問橋に人々が欄干にはりついていた。夜が明け、生き残った者が20人ほど集まったが他は全て焼死。本当の苦労はこれからだった。」K. Mさん、当時14歳、戦災孤児)

 「翌日、ひき上げてもひき上げても死体が浮き上がってくる。熱さ、爆風、ここから飛び降りた人の気持ちを思うと・・・・・」O.Mさん、当時10歳、戦災孤児)

 「翌朝、菊川橋の上は天井の高さ位に積み重なり、絡み合った黒こげ焼死体の山。川幅一杯、水も見えず覆われた水死体。公園で乾パン5粒。それが空襲から今まで公から頂いたもの。」MKさん、当時10歳、戦災孤児)

国家賠償を求めて提訴した被災者、遺族の写真も
 会場でもう一つ印象深かったのは、東京大空襲に対する賠償などを国に求めて2次にわたる提訴をしている被災者、遺族、裁判の写真が数多く展示されていたことだった。大空襲から62年を迎えた昨年39日、被害者や遺族計112人が国を相手どって、謝罪と賠償を求める訴えを起こした。そしてこの310日には新たに東京や埼玉など7都府県に住む6979歳の計20人が国に対して同様の訴え(第2次提訴)を起こした。戦争開始により大空襲を許した責任、戦後、旧軍人・軍属への補償をしながら、民間人の被害者に何の補償もしないのは不当というのが訴えの理由である。あわせて、補償の立法措置、犠牲者の追跡調査、国立追悼施設の建設を求めている。

前記のNHK・首都圏ネットワークが、今回の写真展のこの部分に全く触れなかったのは残念だった。東京大空襲の惨事を単なる過去の記憶としてではなく、現在、将来に突きつける課題を知らしめることも、おろそかにされてはならない。歴代の日本政府が東京大空襲の歴史的事実を後世に伝える責務を怠り、時の流れとともに人々の記憶から消えるままに放置しているなかでは、なおさらのことである。

展示会場での会話
 私たちが会場にいたのが夕方6時半ごろだったからか、入館者はまばらだった。そんな中、展示を見ているさなか、受け付けで挨拶をする広瀬さんに「1歳の時、父母を亡くした」、「7歳の時に自分も 被災した」などと話しかける人たちの声が聞こえてきた。連れ合いも実兄から聞いたという、川越街道を逃げ歩いた光景を広瀬さんに話しかけていた。私も広瀬さんと少し会話を交わしたが、気さくで気取りのない大変さわやかな方だった。「ブログに載せます」と告げて会場を後にした。
 この記事をご覧いただいた方にもぜひ、出かけていただければと思う。3月18日まで。

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2008年1月 6日 (日)

今に生きる内村鑑三の「愛国心」論

 国歌・国旗への「敬意」の強要
 
 近年、東京都はじめいくつかの地域の公立学校で、学校行事における国歌斉唱・国旗掲楊の場面で起立せず、斉唱に参加しない教員を教育委員会が処分をする事例が多発している。そればかりか、東京都では再発防止のためと称して、処分を受けた教員を呼び出し、国歌・国旗と無関係な一般的服務規律を筆記させるなどの「研修」を強制している。内容からして、「再発防止」という名目の公権力による「思想改造」の勧めの場といってよい。

君が代斉唱時に起立しなかった北海道文化賞受賞者

 このように国歌・国旗への「敬意」の強要は学校現場にとどまらない。昨年11月5日、札幌市内で開かれた北海道文化賞贈呈式で壇上にいた受賞者の一人で演劇作家の鈴木喜三夫氏(76歳)と夫人が、国歌斉唱時にいったん起立したものの、国旗に背を向けたまま自席に着席し、斉唱に参加しないという一幕があった。

 道教委は入学式や卒業式で国歌斉唱時に起立しない教職員を処分しており、今回の事態についても「道教委の行事で国旗・国歌を尊重しない行為があったことは問題だ」という声が上がっているという。道教委は「こういう事態は聞いたことがない。事前にこういう考えの人だとは聞いていなかったので、事情を調べる」(吉田洋一教育長)そうである。式典後、鈴木氏は「先の戦争で多くの仲間が特攻隊で死んでいった。とても立って(国歌を)歌う気になれない」と語ったという。
(以上、『産経新聞』2007年11月5日、17時16分配信)

 ちなみに、北海道教育委員会のHPにアクセスして、北海道文化賞の趣旨を調べてみると、「本道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した方々の功績を讃え」て贈呈すると記されている。では、吉田教育長の「こういう考えの人だとは聞いていなかった」という発言はどういう意味だろうか? 「国歌・国旗を尊重しない」人だとわかっていたら受賞候補者から外したという意味なのだろうか? また、吉田教育長の「事情を調べる」とは、どういう事情を調べるのだろうか? 「愛国心の欠けた人」を事前にチェックできなかった体制の不備を調べるということなのか? 調べてどうするのだろうか? 今後は受賞候補者のリストを作る際に、 「国歌・国旗を尊重する」人かどうかの思想調査をするということだろうか? そうだとしたら、、「本道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した」人かどうかだけでなく、思想傾向が教育委員会の審査基準にそわなければ受賞はかなわないということにある。
 しかし、このように、まるで教育委員会が人間の思想を裁く権限を持つかのようなふるまいは思想信条の自由を保障した憲法第19条をまっこうから踏みにじる行為である。

  人の真心はその愛国心によりて保証することあたわざるなり、そは愛国心はあまりに「悪漢の最後の拠り所」なればなり(内村鑑三)

 
昨年、あるきっかけで内村鑑三の著作を調べる機会があった。そして、その短い文章の中に現代に生きる鋭い時代評論が数多くあることに驚いた。その中に「病的愛国心」(Diseased Patriotism)と題する時評がある。『万朝報』1898年3月11日に掲載された短文である。以下はその一部である。

 「愛国心が純粋にして真実なる為には、其は無言にして無意識ならざるべ可からず。真実なる人にして己が国に対し熱裂なる愛を有せざる者は有り得ざるなり。・・・・・・我等に真の人を示せ、然らば彼の愛国心を保証せん。然れ共、人の真心は其愛国心に依て保証すること能はざるなり、そは愛国心は餘りに屢々『悪漢の最後の拠り所』なればなり。」

 「無言に畑に耕す農夫、
読書に勤む学生は、愛国心を説くことを職業とする人々より遙かに愛国者なり。しかして数百万の斯る無言の農夫と数十万の斯る勤勉なる学生のこの国にあるは、少数のこれら職業的愛国説教者のあるよりも、日本国民の愛国心のために多くを弁ずるものなり。・・・・・・」

 「しかして愛国心とは、我等が己れの国に負う明白なる義務を果すこと以外の何物なりや! 隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、謙遜にして鄭重なること、等々は、我等の見る所に依れば、国家の拡大を策し我国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合は其以上に愛国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要とするものは、深き、無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあらざるなり。」

 国に帰依する愛の危うさ

 「芝居がかりの愛国心」、「騒々しき愛国心」に対する内村鑑三の警鐘を読むと、研修が必要なのは、国歌斉唱・国旗掲揚の時に起立斉唱しなかった教員ではなく、「愛国心を悪漢の最後の拠り所」にするがごとき教育委員会であるといえる。

 しかし、私は内村鑑三の愛国心論に無条件に傾倒するものではない。私が内村鑑三の愛国心論と一線を画したいと思う所以は、彼が愛国心そのものの価値を認めたうえで、その方法――有言の他律的な方法による「注入」か、自然の内面からの涵養に委ねる自律的な方法か――を問題にしている点である。

 これに対して私はそもそも国に帰依する愛には危うさが付きまとうと考えている。ただし、議論の順序からいえば、愛の対象とする「国」とは何なのかを問うことが先決である。国=民衆なのか、それ自体が一個の巨大な「私」にほかならない国家権力なのかである。隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、勤勉にして鄭重なること、を指して愛国心というのが内村鑑三の愛国心の本旨であれば、それは前者の意味での「国」を対象にした愛である。それなら私は内村鑑三の愛国心論に異議はないどころか全面的に賛同する。

 しかし、「愛国心とは、われらが己れの国に負う明白なる義務を果たすこと以外の何物なりや」という時の内村鑑三の愛国心は後者の意味も混濁したあいまいさが拭えない。それは彼の真意ではなく、時代の空気へのぎりぎりの配慮だったのかもしれない。その推測は別にして、「国を愛する心」が再び高調される今日、国に帰依させる愛がしばしば排外的で偏狭な愛の喧伝に利用され、国境を超えたより普遍的な愛への進化を妨げる他律的なイデオロギーに通じることを認識する必要がある。
 自己への「愛」を強要する国家がいかほど民(たみ)に災禍をもたらしたかを私たちは歴史から学ぶ必要がある。

一周忌近づく姉犬の骨壺にかけし首輪の硬くなりける

姉犬が遺せし首輪妹犬の首に回せば寸法足りず

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2007年8月26日 (日)

「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?

加藤不二子さんからの一報

 去る8月24日の21時から23時24分まで、日本テレビで「終戦記念特別ドラマ」と題して、「私は貝になりたい―ー真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎―ー」が放送された。副題にあるとおり、このドラマは終戦時の1945年、新潟の俘虜収容所の所長をしていた主人公・加藤哲太郎(中村獅童役)が同収容所で起こった捕虜射殺事件(犯人不明)の責任を一人で被る決意をし、3年に及ぶ逃亡を続けた末逮捕され、BC級戦犯裁判にかけられた事件を題材にしたものである。原作は加藤哲太郎が各所に匿名で発表した手記を収録して出版された『私は貝になりたい』(1994年、春秋社)である。

 その日の朝刊のテレビ番組表と各紙の番組予告欄でドラマ放映のことを知っていたが、午後に加藤不二子さんから電話をいただき、ぜひ視てほしいという知らせをもらった。番組をご覧になった方はすぐおわかりのことと思うが、加藤不二子さんはドラマでは優香が演じた、加藤哲太郎の妹さんで、死刑判決が下った兄の助命をマッカーサーに嘆願するため、皇居前のGHQに出向き直訴文を手渡した並外れた正義感と行動力の持ち主である。

『私は貝になりたい』の出版記念会で

 今から15年ほど前、ある機縁で加藤不二子さんのことを知り、2、3回私信を交わしたころ、上記の『私は貝になりたい』(1994年、春秋社刊)の出版記念会の案内状をいただいた。確か、皇居前(旧GHQ本部近く)の東京會舘で開かれたと記憶している。私のような縁の薄いものにまで案