沖縄愛楽園で見たこと、知ったこと (上)

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ハンセン病隔離収容所の史跡と資料館を訪ねて
 24日から3泊で沖縄へ出かけた。5日午後に那覇市内で開かれる歌人の集いに参加する連れ合いに同伴する形だったが、その前後、どこへ出かけるか、沖縄の地図と時刻表をにらみながら、いろいろ思案した。早い時期に決まったのは連れ合いが所望した名護市の屋我地にある愛楽園だ。
 19381110日、国頭(くにがみ)愛楽園として開園されたが、194171日には国に移管され、国立療養所となった。戦時中は米空軍の激しい爆撃に遭い、施設はほぼ全滅した。1952年、琉球政府が誕生したのに伴い、同政府の所管となり、沖縄愛楽園と改称された。さらに、1972年に沖縄の本土復帰に伴い、厚生省の所属となり、国立療養所となって現在に至っている。
 しかし、1938年の開園当初から、ハンセン病患者の療養所というより「隔離所」で、戦後も長く「らい予防法」によって、ハンセン病患者を隔離収容した「絶望の島」だった。
 
 24日、定刻の1325分に那覇空港に到着、空港のバスターミナルから高速バスに乗り継いで名護市へ。終点の名護バスターミナルで下車して予約していたタクシーに乗車。すく近くのホテルに荷物を預けてそのままタクシーで愛楽園へ向かうというあわただしい日程になった。
 といっても、愛楽園交流会館(ハンセン病問題の歴史を記す資料を所蔵・展示する施設)17時で閉館なので、館内の展示の閲覧は明日に回し、この日は夕暮れが迫った園内の史跡を道に迷いながら巡った。結局、廊下ですれ違った職員に教わって、沖縄戦の時に当時の早田園長が入所者に強権的に命じて掘らせた壕(早田壕)の跡地にたどり着くだけで日没となった。 

 翌5日は7時半にホテルを出発して貸し切りタクシーで桜が開花した今帰仁(なきじん)城址へ出かけた(詳しくは別の記事で書きたい)。1時間ほど懇切にガイドをしていただいたYさんにお礼を言って城址を出発、9時過ぎに愛楽園交流会館に到着した。2015年に開館したばかりの、ハンセン病問題の資料館だ。前もって連絡をしていた学芸員のAさんに玄関でお目にかかり、挨拶をして1階の資料展示室へ。

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 ハンセン病を医学的に説明した資料から始まり、愛楽園の開園当初の状況、入所者の手記などが展示されていた。

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 最初に私の目にとまったのは開園式の模様を撮った写真の下に展示された、愛楽園創設の功労者・青木恵哉が入所者を代表して述べたあいさつ文だった。

 「私等の真の悲しみと言うのは、そして最大の不幸と言うのは・・・癩者と名前を付けられると共に、望みを失う、理想と言う世界から絶縁される、其処にあるのです。」 

 参列者が次々と祝辞を述べる開園式で、その後、60年以上にわたって、ハンセン病患者、元患者が味わった苦難と絶望の歴史を予知するかのような言葉ではないか。あるいは、開園に至るまで、施設開設に猛反対の運動に遭遇し、水もない無人の小島に追いやられ、そこで孤独な生活を続けた青木恵哉ならではの言葉というべきか。 

私は動物以下なのか! 
 日中戦争が勃発した翌年1938年に設置された厚生省は戦争遂行のための「健民健兵」の名のもとに国民の体力向上を謳った。その流れのなかで、ハンセン病は近視、花柳病とともに兵力を削ぐ「三大国辱病」とみなされ、「撲滅」「駆除」すべきものとされた。そのために採られたのが武力を背景にした日本軍による「強制収容」だった。その時の模様を記した次のようなパネルがあった。当時19歳、沖縄島中部生まれの女性の手記である。

 「私は動物以下か  今すぐ来なさいって何も用意なかったよ。洗面道具と着替え12枚持って。大通りに行ったらね、トラックがあって待っていた。1人来てない人がいて待っていたから人がたくさん見に来てるんだ。『私見せ物か、追っ払え。私は帰る』言うたよ、『帰らせん』言うていたけどね。トラックの荷台にもうそのままよ。上もないしね。あちこち寄って、人乗せて。15名、・・・途中で雨降って。『傘ください』言うたら傘ないって。『バショウの葉っぱでも取っておきなさい』と言うからよ、『私は動物ですか。動物でもカバーかぶせるんだよ、雨濡らしたり、動物以下か。あんなのあるか』って怒ったよ。」

 その横には、乳飲み子と引き離され、車に乗せられて園に連れて来られたという当時34歳の女性の手記が展示されていた。

銃剣で威嚇して親族から引きはがし
 軍部による強制収容の中でも最大規模のものは、沖縄に配置された第9師団の軍医・日戸修一が中心になって19449月に行われた「日戸収容」だった。この時は当時の園長・早田や県衛生課、警察、保健婦も動員された。展示は、その時の模様をこう記している。

 「住民と将兵が地域で混在する中、日本軍はハンセン病患者に注意を向け始めた。住民と接触する機会が増えた将兵にハンセン病がうつることを恐れたのである。患者は家の裏座や離れ、家畜小屋の屋根裏などでひっそりと暮らしていたが、日本軍は武力を背景に、患者を愛楽園へ強権的に収容していった。」

 「日本刀や銃剣で威嚇し、農作業中の者を着の身着のままトラックに詰め込んだり、親族から無理やり引きはがしたりするなど有無をいわせぬものであった。」

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すべての夢を捨てないと暮らしていけない
 ではこうして家族から強制的に絶縁させられ、愛楽園に隔離された人々の「壁の中の暮らし」はどのようなものだったか?

 「壁の中の暮らし 療養所の壁の中に入ると、壁の向こうを『社会』と呼ぶようになる。ここで生きるしかないと思っても、家族への断ち難い思いがある。
 対岸の国頭(くにがみ)を望む東の浜は、鳥の卵を取る子どもたちの活躍の場になり、夕暮れともなれば、昼間は患者作業で働く若い男女の語らいの場になる。
 夕暮れ時、向こう岸を走る車の付いたり消えたりする灯りを一人浜に座って眺める少年は『ここから出て家に帰ることができるのだろうか』と涙を流す。
 東の浜は、家族と断たれた人々が岩場に身を投げ、松の枝に体を下げ、自らの命を絶った場所でもある。そして、堕胎された胎児が埋葬されたのも東の浜である。」

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 こうした当時の療養所の様子を収容された1人の男性(推定年齢20歳代前半)は次のように語っている。

 「夢を捨てて 社会にいることは許されなかったし、家に帰れば、家全体に迷惑もかかるし、どちらを向いても自分たちの出ていく場所はなかったわけです。
 もちろん、こういう解放される時代もあるといえば、出ていくための準備もしていたでしょうが、どうしても療養所で一生を終えるんだという気持ちで過ごしてきたんですから。私たちが社会で家庭をつくるということはもうまったくの夢の夢でね。夢の中でもない。全ての思いを、すべての思いを捨て去っていく。そうしなければ暮らしていけないという、そういう当時の現実ですから。」


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「和解」という名の歴史の抹消に抗って

20171月2日

新年のごあいさつを申し上げます。
今年も交誼のほど、よろしくお願いいたします。

  年は改まっても現実に切れ目はない。私にとって印象深かったのは、安倍首相が真珠湾訪問にあたって日米間の戦争責任問題の幕引きに「和解」というフレーズを使ったこと、このフレーズは「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓「合意」の伏線となった朴裕河氏の言説のキーワードと奇しくも一致したということである。
  ベルラーシのノーベル文学賞作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシュエービッチは昨年11月に来日し、東京外語大で学生と対話した。その時、彼女は「福島を訪ねて何を思ったか」と尋ねられ、「日本社会にはロシアと同様、抵抗という文化がないように感じる」と語った(『東京新聞』(20161129日)。

「抵抗の文化」の日韓落差
  私には比較文化論を語る素養はないが、この「和解」というフレーズは、日本における「抵抗の文化」の脆弱さと大変親和的である。個別の政策では政権が目指す方向に反対の意見が過半であるにも関わらず、安倍内閣支持率が横ばいか、上向く傾向さえある有力な理由として、現政権に代わる受け皿が有権者に見えてこないという政治状況がある。
  それとともに、安倍首相が巧みに駆使する情緒的話法―――「和解」、「寛容」、「将来の世代にまで過去の罪を背負わせてはならない」、「未来志向で世界の平和を語るべき」といった情緒的な語りかけ―――に漠然と共感し、歴史を直視する理性がへたれてしまう日本国民の心性が安倍政権への支持を繋ぎとめる一因になっているように思える。

  これに対し、韓国では、日韓「合意」から1年経った今でも、「合意」の破棄を求める意見が59.0%を占め、「維持すべきだ」(25.5%)の倍以上になっている(韓国世論調査会社・リアルメーターが昨年1228日に行った調査結果。『ソウル聯合ニュース』20161229日) 合意直後の一昨年1230日の調査では、合意は「韓国政府の誤りだ」とする回答が50.7%、「評価する」という回答が43.2%だったことと比べると、昨年1年間で日韓「合意」に対する否定的意見が増えたことになる。
 
  このような世論に押されてか、与党セリヌ党内の非朴派29人が同党から離党したことに伴い、第1党に浮上した最大野党「共に民主党」の禹相虎(ウ・サンホ)院内代表は、日韓慰安婦合意は屈辱的だとして、「政権交代後、(日韓合意を)必ず無効にするよう努力する」と発言している(『ソウル聯合ニュース』20161228日)。
  さらに、日韓「合意」の破棄を求める市民団体や地元大学生らは、昨年大晦日、プサン(釜山)の日本総領事館前に「慰安婦」問題を象徴する少女像を設置し、除幕式を行った。地元区長は、いったんは像の設置を許可せず強制撤去したものの、市民から抗議が殺到、「この問題をめぐる世論の反発に地方自治体が耐えるのは難しい」として、一転、少女像の設置を容認した。

「リベラル有識者」にまで浸透した「和解」というマジック・ワード
  ところが日本では、右派だけでなく全国紙も、安倍首相の歴史認識には一定の批判を加えるものの、日韓関係、「慰安婦」問題となると、社説で、「合意の着実な実行」を促す状況である。
  NHKは韓国側の世論の動向など意に介さないかのように、「慰安婦問題での合意を契機に日韓関係は去年、大きく改善しました」と伝え、その例として、安全保障上の機密情報を共有・保護するための協定=GSOMIAが締結されたことを挙げた(NHK NEWS WEB, 201711日、404)。
    「慰安婦」問題での「合意」の成果として、教科書での「慰安婦」問題の記憶と継承などには一切触れず、異次元の安全保障に関する協定の成立を挙げるとはどういう心算なのか? 

  さらに、市民団体や通称「リベラル有識者」の間でも、「和解」論を唱えられると、腰が引ける状況が続いている。それどころか、「和解の力」を信奉し、説法 する人物さえ現れている。朴裕河『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』2006年、平凡社、の帯に付けられた上野千鶴子氏の次のような跋は、その典型である。

  「朴さんは、和解があるとすれば、それは被害者の側の赦しから始まる、という。それを言える特権は『被害者』の側にしかない。わたしたち日本の読者はそれにつけこんではならない。彼女の次の言葉をメッセ-ジとして受け取る、日本の読者の責任は重いだろう。 『被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になるはずである。」

  突っ込みどころ満載の短文である。

  「和解があるとすれば、それは被害者の側の赦しから始まる」?! 被害者が赦しの態度を示さなければ、和解は進まない、とはどういう意味か? 韓国人としての度量を示したかったのか? 歴史認識が問われる場で、そんな度量は必要ないばかりか、歴史修正主義をはびこらせ、過去を忘れさせたい加害者を喜ばせるだけの情緒的愚論である。
 
   「わたしたち日本の読者はそれにつけこんではならない。」?! つけこんでいるのは、ほかならぬ上野千鶴子氏ではないか。被害者の赦しから和解が始まるという朴裕河氏の言葉に飛びつき、「被害者の度量と加害者の慎み」を天秤にかける上野氏の言葉こそ、被害者の「度量」につけこむ悪質で低俗な発想である。

  日韓「合意」をめぐって、この1年間、韓国内で起こった出来事と日本国内で起こった言説を対比すると、「抵抗の文化」の彼我の落差を痛感させられる。数少ない救いはというと、昨年、わが国で『忘却のための「和解」-「帝国の慰安婦」と日本の責任』(世織書房)という鋭い書名の書物が出版されたことである。著者は鄭栄桓氏である。この記事のタイトルも、鄭氏の書物の書名をヒントにしたものである。

  安倍政権の「棄民政治」と対峙し、退場させるには、安倍政権の個別の主要な政策に過半の有権者が反対している民意の受け皿を作ることが緊急の課題である。目下、野党各党が唱えている「野党と市民の共闘」がそれに応えるものか、私は懐疑的であるが、懐疑しているだけでは現実は動かない。今の政権がダメというなら、それに代わる政権構想とそれを担う主体作りの形を指し示す必要がある。
   一介の研究者に何ができるかと言われるとそれまでだが、論壇をハシゴする口まかせの「著名人」に任せては市民の災禍は加重しかねない。「有識者」などという官製用語、マスコミ愛用の呼称を跳ねつける気概を持って、一人一人の市民が「主人なし」の自律した立場に徹して、意見を発信し、行動を起こす以外ない。
 その際には、「アベ政治を許すな」と唱和するだけでなく、自分たちも情緒的安倍話法に
毅然と対峙できる理性と知力を研ぎ澄まし、安倍話法に染まりがちな世論を対話の中で変えていく努力が不可欠である。

領事機関の威厳を害するのは誰か?
  プサンの日本総領事館前に「少女像」が設置されたことについて、1230日、外務省の杉山事務次官は「少女像の設置は去年12月の日韓合意の精神に反するもので極めて遺憾だ。領事機関の安寧を妨害し威厳を侵害するもので、問題だ」と韓国のイ・ジュンギュ駐日大使に電話で伝えたという(NHK NEWS WEB, 2016.12.30,19:00)。
 
 領事機関の安寧を妨害する? どういう安寧がどう妨害されるのか? 残忍な加害の歴史を抹消し、次世代にその責任を負わせず、日本の誇りを高からしめたいと願望する安倍首相の心情の安寧は害されるかもしれないが、戦時にアジア諸国の女性の人権と尊厳を蹂躙する行為を犯した日本人兵士も同じ思いなのか? 何よりも安倍氏の心の安寧と元「慰安婦」の人間としての尊厳とどちらが重いのか?

  領事機関の威厳を侵害する? どういう威厳がどう侵害されるのか? 被害国のアジア諸国の政府、市民からばかりか、アメリカからさえも明確な反省を求められている「慰安婦」問題について、一片の手紙を外務大臣に託すのみで、謝罪の手紙を直接、元「慰安婦」に届けるよう求められると、「毛頭そのつもりはない」と言い放つ安倍首相の傲慢な態度こそ、日本の品格と威厳を損なう世界的羞恥である。

ドイツのナチス戦争犯罪記憶の碑を見よ
 〔ユダヤ人のための記念碑〕
 領事館の近くに、自国が犯した戦争犯罪の記憶をとどめる像を設置されること国会の威厳に係わる行為とみなすこと自体、国際比較では特異な発想である。ドイツにおける戦争犯罪の記憶と継承の試みは、それを悟るための好例である。
 ベルリンを訪ねた人なら誰でも、ポツダム広場からブランデンブルグ門に向かって進むと間もなく、広大な無記名の石碑に出くわす。ホロコーストで「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための
記念碑」である。

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                            2008年8月25日撮影

   建設計画は東西ドイツの統一前の1988年に提起されたが、慰霊の対象をユダヤ人だけにするのか、規模はどれくらいにするのかなどをめぐって議論が続いた末、1999年連邦議会の決定で建設が本決まりになった。完成したのは2005年である。
  ここで留意したいのは、①発議から完成までの間にドイツ国内でさまざまな議論があったが、「国の威厳を害する」などといった反対は問題にならなかったこと、②被害国に要求されてではなく、自国の連邦議会の決定として建設されたこと、③ベルリン屈指の観光地、ブランデンブルグの近くに設置されたこと、である。

 〔シンティ・ロマの記念碑〕
  上で、ユダヤ人のための記念碑の建設に長い年月を要した大きな理由の一つは慰霊の対象をユダヤ人に限るのか、ナチスによるその他の迫害・虐殺の犠牲者――シンティ・ロマ(通称、ジプシ-と呼ばれたが、ナチスが用いた差別的用語であるとして、現在は使われていない)や障害者なども含めるのかをめぐって激しい議論が続いたことにある。
  結局、2005年にブランデンブルグ門の南に設置されたホロコースト記念碑は対象をヨーロッパのユダヤ人に限ることで決着した。20088月に私が連れ合いとベルリンを訪ね、ポツダム広場からブランデンブルグ門まで歩いた時に出あったのもこの石碑だった。
  ところが、201410月にベルリンを再訪し、連邦議会議事堂へ向かう歩道を通り過ぎようとすると、道路わきにアーチ型の入り口があり、広場の中を覗くと円形の池とそのまわりにまだ日も経たない花が地面に置かれているのが見えてきた。「何だろう、確か、2008年に来た時にはこんな広場はなかったはずだが」と戸惑いながら、広場の池に近づくと、「EU COMISSION」と記名された帯が添えられた花が目にとまった。

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  池をゆっくり一周してなにやら碑文が刻まれた塀に近づくと、「Chronologie des Volkermordes an den Sinti und Roma」というタイトルが付いた説明版があった。予備知識がなかったので詳しい意味は分からなかったが、”Roma”という用語から、どうやら「ジプシー」の慰霊の碑らしいとわかってきた。
  後で調べると、”Sinti und Roma”もナチス・ドイツの時代に劣等人種と決めつけられ、強制収用所(「ジプシー収容所」と呼ばれた)に送り込まれるなど残酷な迫害を受けていたこと、そのため、ユダヤ人だけでなく、彼ら彼女らの迫害の歴史も後世に伝える記念碑を残すべきだという議論が続いていたことが分かった。
  この「シンティ・ロマの記念碑」が建設されたのは201210月。私たちが最初にベルリンを訪ねてから4年後のことだった。その場所は、連邦議会議事堂とブランデンブルグ門に挟まれたベルリンでも有数の観光地である。道路を隔てた向かいは広大なティアガルテンである。
  本国のこうした場所に自国が犯した戦争犯罪・民族迫害の歴史を記す建造物を自らの意思で設置したドイツと、海外の大使館、領事館のそばに、自国の戦争犯罪の歴史を記す像を被害国の市民の意思で設置されたことを「自国の威厳を犯すものと」と抗議し、撤去を要求する国と、どちらが国家としての品格を備えているか、わずかな理性があれば、答えは明らかである。



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敗戦の日に想い起こす原爆の詩歌

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 815日になると私は自分が惹きつけられた詩歌を想い起す。そして、万言にも優る詩歌の力―――記憶を伝承する力―――を再認識させられる。中でも、年中行事的な神妙でお行儀のよい「平和への願い」よりも、言わず語りに戦禍のリアルを詠んだ詩歌に惹かれる。

 「許させ」と掌を合わせつつ救い呼ばふ人を見過ごし夫護りてゆく
                     (原田君枝/主婦)

 親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔
                     (中 浄人/教員)

 生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
                     (小森正美/商業)

 濠内に妻を呼びつつ息絶ゆる鮮人の声しみて忘れず 
                     (名柄敏子/酒類商)

 原爆の責任裁判あって良し戦勝国の罪無しとは人道にあらず 
                     (小森正美/商業)

   (以上、『歌集 広島』1954年刊所収。ここでは家永三郎・小田
  切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』17、『原爆歌集・句集 
  広島編』(栗原貞子・吉波曽死/新編、1991年、日本図書セン
  ター所収による)


 炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明けを待つ

 ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらして泣きわめ
 き行く

 武器持たぬ我等国民(くにたみ)大懺悔の心を持して深信に生きむ

 (以上、正田篠枝、私家版歌集『さんげ』より)


 黒焦げの女が壁にへばりつき悪獣めきし血を滴らす

 総懺悔などと美辞もつ過去がありて原爆死すら言へざりき日本 
                      小山誉美(短歌長崎)

 タイヤなきリヤカー曳きて暗闇に重傷(いたで)の兄を乗せて避難
 す
                      阿鼻叫喚 木下隆雄

 (以上、201091日に訪れた長崎県立図書館に配架されていた
  長崎歌人会編『原爆歌集ながさき』に収められた短歌より)


  何も彼も いやになりました
  原子野に屹立する巨大な平和像
  それはいい それはいいけれど
  そのお金で 何とかならなかったのかしら
   “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”
  さもしいといって下さいますな、
  原爆後十年をぎりぎりに生きる
  被災者の偽らざる心境です。
  (福田須磨子『『原子野』(1958年刊の冒頭に収められた詩)

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映像で知った演劇人のむごたらしい被爆死 ~被爆71年 桜隊原爆忌に参加して~

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 昨日、目黒の五百羅漢寺で開かれた「被爆71 桜隊原爆忌」に参加した。朝から、この夏一番と思える夏の日射しがきつかった。私は3回目の参加だが、今年は連れ合いと一緒に出掛けた。

被爆71年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会
http://www.photo-make.jp/hm_4/sakura_53.html

移動劇団「桜隊」を知っていますか?
 「桜隊原爆忌の会」のHPに掲載されている説明文をそのまま引用させてもらう。

 「移動演劇隊『桜隊』は、194586日、広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し、居合わせた9名全員の命を奪われました。
 メンバーには、存命であれば戦後の演劇界を大きく変えたであろうといわれる、名優丸山定夫。元宝塚スターで「映画無法松の一生」で全国のファンを魅了した園井恵子。裸体にシーツをまとい避難列車で帰郷し、東大病院へ入院し原爆症一号患者として亡くなった仲みどりなどがいます。・・・・・
 戦後、徳川夢声氏の呼びかけで、多くの関係者の協力により目黒の五百羅漢寺に『桜隊原爆殉難碑』が建立され、今日まで毎年86日に「移動演劇・桜隊原爆忌」として追悼会を催しております。」

 「桜隊原爆忌」の第1回は19751019日。参加者52名。1981年以降、毎年86日と定着したという。
 
9名全員が命を奪われたというが、約半数が宿舎でほぼ即死と見られ、生き延びた人々のその後の消息はバラバラだった。

初めて見た映画「さくら隊散る」
 今年の「桜隊原爆忌」の特徴は、碑前祭のあと、桜隊の記録映画「さくら隊散る」(新藤兼人監督、1988年作品)が上映されたことだった。生き延びた丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどりの被爆後の消息と最期の姿を再現するとともに、彼らにゆかりの人々の生前の証言が随所に織り込まれ、緊迫感がみなぎる作品だった。
 丸山定夫の名優ぶりと剛毅な中にも繊細な人柄を語った千田是也、滝沢修ら、園井恵子の魅力を語る宝塚歌劇団の同僚、2ヶ月後に結婚しようという言葉を残して高山象三と別れたという当時の恋人、遠路上京して母の実家に着いた仲みどりを診察した東京帝国大学の医師・医学生などの証言は誠に生々しく、貴重な原爆受難記録にもなっていた。

 また、長椅子に横たわった宇野重吉が戦時中、大政翼賛会文化部に呼び出され、国策への忠誠を誓う誓約書に署名をさせられた屈辱を何度も語る姿が痛々しくも、表情に悔しさがにじみ出ていた。と同時に、そうした戦時中の屈辱的体験について、今なお口をつむぐ文化人がいかにおびただしいことかと想像もした。

軽薄で欺瞞的な「未来志向」
 それにしても、映画を見終えて脳裏に刻まれたのは、丸山定夫、高山象三、園井恵子、仲みどりの最期の姿の共通性である。日を追うごとに髪の毛がごそっと抜け落ち、布団、ベッドの上で水を求めてのたうちまわる姿、吐血とともに息を引き取る姿・・・・どれも被爆死のむごたらしさを赤裸々に伝えるシーンだった。

 こうしたシーンをみて私は、オバマ大統領の広島訪問を実現するための譲歩かのように「広島の被爆者は謝罪を求めない」という物言いが広まったことを思い起こした。しかし、それが被爆者の今となってはの一面の心情ではあっても、本心であろうはずがない、いわんや、無念の死を強制された被爆者の本意を代弁するかのように語り広めるのは死者に対する冒涜であるという思いを再認識した。

 核なき世界を求める未来志向? 自らが犯した人道に対する罪と向き合わず、不都合な過去から顔をそむけて何が未来志向か!
 むごたらしい被爆死、無念の被爆死のリアルな実態を直視し、そこからこみ上げる恨み、憤怒に突き動かされ、それらを昇華した平和へのエネルギーこそ、この先、1人の被爆者も生まないための運動に向かう本物の未来志向ではないのか? 過去と未来を身勝手に切り分けるな!

 貴重な記録映画を残した関係者、桜隊の被爆死を慰霊し、その実相を伝える活動に務めておられる方々の尽力に深い敬意を覚えた。

 慰霊忌のあと、連れ合いは、偶然、会場で出会った元職場の友人とお茶を飲みながら話をするというので、私は一足先に帰路についた。余りの暑さに、2時間足らずかけて帰宅すると、すぐに冷えた「プラム」をかじって一息ついた。


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「謝罪を求めない被爆者」の舞台裏

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「歴史的和解」の政治ショー
 527日夕刻、広島平和公園で演説を終えたオバマ米大統領が目の前で演説を聴いた日本原水爆被害者団体協議会(以下、「日本被団協」と略す)代表委員の坪井直さんと笑みを浮かべながら握手を交わし、同じく感極まって涙ぐむ被爆者の森重昭さんを抱きしめる姿がテレビ、新聞に大きく掲載された。原爆投下をめぐる歴史的和解を演出するのにふさわしい映像となった。
 また、原爆投下への謝罪はしないという条件でオバマ大統領が広島を訪問することが決まって以降も、「謝罪を巡り揺れる被爆者」(『朝日新聞』2016513日)といった記事が見られた。しかし、それから10日後には「『謝罪求めない』78% 被爆者115人アンケート 米大統領訪問優先の傾向」(共同通信調査、『東京新聞』2016523日)という記事が大きく掲載され、<被爆者の多数は謝罪を求めていない>が定説になった感があった。

 ところが、528日、ネットでこの問題に関する情報を検索しているうちに、日本被団協事務局次長の藤森俊希さんが519日に日本外国特派員協会で行った記者会見で気になる発言をしていたことを知った。 ネットでその記者会見の全容を記録した録画を探したら、すぐに見つかった。プレゼンテ-ターは日本被団協事務局長の田中煕巳さんと藤森さんの2人。
https://www.youtube.com/watch?v=abdpDmLXRbU&feature=youtu.be&t=29m3s

舞台裏を語った日本被団協事務局次長・藤森俊希さん
 私が注目した箇所はいくつかあったが、この記事のタイトルに関わる藤森さんの発言録を摘記しておく。( )内の数字は各発言の開始時刻。

 (1520~)「藤森 私たち被爆者が〔518日にまとめた要望書で〕最初にアメリカに対して掲げているのは、あの原爆投下は人道に反し、国際法に反したものだと大統領が確認するということです。その非人道的で国際法に違反する原爆投下について謝罪することを以て、その違法性、非人道性を確認することを私たちは要求しています。」

 (2903~)「藤森 この間、私は、ここにいらっしゃる方ではありませんけれども、メディアの方からたくさん取材を受けました。そのほとんどの人がなんとか私の言葉からオバマ大統領への謝罪を求めないという言葉を引き出そうとしておりました。要するに、オバマ大統領がサミットのあと、広島へ来られるように雰囲気として謝罪しないというムードを盛り立てようという力が働いたのだと思います。その力がどこから働いたかはちょっと控えておきますでも、多くの被爆者は謝罪しなくていいとは思っておりません。」

 このような藤森さんの発言と、528日、夕刻のTBS「報道特集」が「歴史的瞬間!大統領の演説に被爆者は・・・」と題して放送した番組のなかで中国放送の小林秀康キャスターが発言した次の言葉と重ね合わせて、いまさらながら「空気による世論形成」の薄気味悪さを痛感した。

議論を封じ込めた「空気」
 「小林康秀 ・・・・オバマ大統領の訪問を多くの被爆者、広島市民が好意的に受け止めています。しかし、訪問が取りざたされてから気になっていたのは、大統領が来ると言う事実ばかりが重視されてしまいまして、アメリカに謝罪を求める声であるとか、原爆投下の是非を議論するといったような声を発しにくい空気があると感じたんですね。少なからず、そう思っている被爆者や広島市民はいます。
 それは過去のあやまちを認めなければ、未来も同じことを繰り返してしまうのではないかという思いからなんですけれども。だからこそ、オバマ大統領が来たということだけで浮かれてはいけないと思うんです。彼が今後、どういう行動を取っていくのか、それを冷静に見て行かなくてはいけないと思います。」

 空気によって作られる世論・・・・・わが国の民意の質を考える時、避けて通れない重いテーマである。
 今回のオバマ大統領の広島訪問について、私は書きたいことが山積しているが、すぐにとはいかない。そこで、これだけはと思うことを書いておく。

生を絶たれた被爆者の意思を誰が代弁するのか
 それにしても、広島の被爆者に向かってオバマ大統領に謝罪を求めるかと問いかけること自体、愚問である。藤森さんも発言したとおり、被爆者が謝罪を求めるか否か以前に、原爆投下による民間人の殺傷は国際法に反する反人道的違法行為である。それは真珠湾奇襲で日本軍が多数の米国人を殺害した事実と相殺できるはずがない。
 そうした原爆投下で一瞬に生を断ち切られた人々、さらに言えば、戦争末期に日本各地で行われた米軍による無差別空襲で命を絶たれた多くの人々の意思を誰が代弁できるのか? 彼らの無念を置き去りにして「被爆者の8割は謝罪を求めていない」などと報道する無神経さを指摘する人間が見当たらないことこそ異常である。

モルモットにされに行くなとABCCの被爆調書をやぶりて捨つる
                     (今元春江/文選工)

広島の乙女の顔のケロイドはアメリカのなせし烙印にして
                    (河内 格/獣医師)

原爆乙女の顔面整形を援助すとスターらサインす花やかに悲し
                    (竹内多一/無職)

声涼しくアリランの唄歌ひたる朝鮮乙女間もなく死にたり
                    (神田満寿/無職)

濠内に妻を呼びつつ息絶ゆる鮮人の声しみて忘れず
                    (名柄敏子/酒類商)

「許させ」と掌を合わせつつ救い呼ばふ人を見過ごし夫護りてゆく
                    (原田君枝/主婦)


親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔
                    (中 浄人/教員)

生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
                    (小森正美/商業)

原爆の責任裁判あって良し戦勝国の罪無しとは人道にあらず
                    (小森正美/商業)

(以上、『歌集 広島』1954年刊所収。ここでは家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』17、『原爆歌集・句集 広島編』(栗原貞子・吉波曽死/新編、1991年、日本図書センター所収による)



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徐京植氏の和田春樹氏に対する全面批判の論稿を読んで(上)~「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓政治「決着」を考える(9)~

2016312
 

 標題の連載テーマについて128日に8回目の記事を書いてから、次は朴裕河『帝国の慰安婦』論やら、上野千鶴子氏の「従軍慰安婦」論について論評したいと思いながら、長らく中断してしまった。
 今回、続編を書こうと思い立ったのは今朝の『ハンギョレ』新聞に「日本知識人の覚醒を促す 和田春樹先生への手紙」と題する徐京植(ソギョンシク)氏の長文の寄稿が掲載されたことを知ったのがきっかけである。まずは、3回に分けて掲載された徐氏の論稿のURLと小見出しを書き出しておきたい。

徐氏の論稿の構成
 
1http://japan.hani.co.kr/arti/international/23573.html
  ・「最終解決」
  ・暗鬱な風景
  ・初心
  ・「第四の好機」
2http://japan.hani.co.kr/arti/international/23576.html
  ・アジア女性基金
  ・亀裂
  ・初期設定の誤り
  ・逆方向のベクトル
  ・現実主義
  ・当事者のため?
3http://japan.hani.co.kr/arti/international/23577.html
  ・朴裕河現象
  ・「邪悪なる路」

理よりも「同志的」心情を立てる日本社会にとっての反面教師
 徐氏の論稿に触発された―――言うまでもなく無批判的な「共感」ではない―――のは2つの理由からである。
 一つは、徐氏が、「私自身の肉親も含めて、苦難を嘗めた者たちからみれば、恩人ともいえる」和田春樹氏に対し、心情を絡めず、和田氏の「和解の思想」に対し徹底した理性的全面的な批判を展開している点である。
 
たとえば、徐氏は、和田氏がアジア女性基金を推進する中心的人物に就いたことに「驚愕した」と記し、1953年、日韓会談が「久保田発言」で中断されたとき、当時17歳の高校生であった和田氏が、「昔のことはすまなかったという気持ちを日本側がもつか持たぬかは会談の基礎、この点について歩み寄りの余地はない」という韓国側の主張は「朝鮮民衆の声」であり傾聴されるべきだと思った、そのとき以来、自分は日本国民の考えが改められるように願ってきた、と語ったことを振り返り、「その思いがなぜアジア女性基金推進へと繋がっていくのか、論理がうまくつながりません」と疑問を突きつけている。

 さらに、徐氏は、「当事者のため?」という小見出しがついた箇所で、基金の「償い金」支給事業を正当化するときに、よく用いられる「被害当事者は高齢化しており残り時間は少ない。せめて償い金を受け取ってもらって心の安らぎを与えたい」という物言いを「国家責任回避装置であるアジア女性基金に『道徳』」という粉飾をこらす機能を果たしている」と切り込み、こうしたレトリックの普及に小さくない役割を買って出た「〔和田〕先生は徹頭徹尾、国家によって利用されたということになるでしょう」と断罪している。

 日本社会では、「世間」と称される空間ばかりでなく、左派とかリベラルとか称される人々の間でも、否、そうした人々の間ではよけいに、過去の親交とか「同志的配慮」とやらを理由(口実?)にして、原理原則に関わる意見の相違を脇に置く傾向が強まっているように見受けられる。それが強権政治や右派イデオロギーと思想的に対峙できない脆弱さの原因にもなっている。
 今回の徐氏の寄稿は、このような日本社会の理性よりも心情を立てる陥穽、長い目で見た共同の意思の思想的底上げよりも、当座の協調を重んじる機会主義的言動の危うさに身をもって警鐘を鳴らすかのような論理の切れの良さ、鋭さがちりばめられている。この点に私は魅せられた。

日本のリベラル知識人の思想の真贋に対する問いかけ
 
 私が徐氏の寄稿に注目したもう一つの理由は、「日本知識人の覚醒を促す」という寄稿のメイン・タイトルにもあるように、徐氏が和田春樹氏の「和解の思想」の質を問うだけでなく、「リベラル」という枕詞を付けられる日本の知識人の思想の質の真贋にまで鋭く、仮借なく切り込んでいる点である。

 たとえば、寄稿の(3)で徐氏は「朴裕河現象」を取り上げ、同書の歴史認識と「和解の思想」の特徴的な誤りを鋭く指摘すると同時に、「朴教授の著作そのものよりも深刻な問題は、それが日本で持てはやされている現象です」と危惧を提起している。
 この点をさらに、踏み込んで徐氏は、「『帝国の慰安婦』には(しばしば互いに矛盾する)いろいろなことが書かれていますが、執拗に繰り返される核心的主張は、慰安婦連行の責任主体は『業者』であり『軍』ではない、『軍』の法的な責任は問えない、というものです」と指摘すると同時に、「この主張は、実際のところ、長年にわたる日本政府の主張と見事に一致しています」、「安倍首相が『人身売買の犠牲者』という言葉を使うのも、『業者』に責任転嫁して国家責任を薄めようとする底意を表しています」と続けている。
 ここで徐氏が強調するのは、「嘆かわしいことは、このような朴教授の著書が日本ではいくつかの賞を受賞し、人気を得ている現象」である。徐氏は「なぜ、こういうことが起こるのだろうか?」と自問、かつての自著「和解という名の暴力」で述べた次のような推論を改めて記している。

 「朴裕河の言説が日本のリベラル派の秘められた欲求にぴたりと合致するからであろう。/彼らは右派の露骨な国家主義には反対であり、自らを非合理的で狂信的な右派からは区別される理性的な民主主義者であると自任している。しかし、それと同時に、近代史の全過程を通じて北海道、沖縄、台湾、朝鮮、そして満州国と植民地支配を拡大することによって獲得された日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じているのである。」

 徐氏のこの前段の指摘は、以前、この私設のブログにもコメントとして紹介があった。正直な感想として、「日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じている」という意識が日本のリベラル派にも浸透しているとまで私は考えていない。この点では徐氏と認識を異にしている。

「お詫び」は日本人が自らの「良心」を慰めるためのものではなかったか?
 しかし、ありていに言うと、安倍政権批判を繰り広げる日本の市民の間で―――さらに、そのような行動を呼びかけているメンバーや革新政党の間でもーーーアジア女性基金が「被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの『良心』を慰めるためのものだったのではないのか。それは謙虚の衣をまとった自己中心主義ではないのか、その心性を克服することこそが問われている課題ではないのか」(徐氏、今回の寄稿の(2))という洞察をどこまで理解できるのか、この問題にどれほど関心を向け、理性的に考える思想を持ち合せているのかという疑問を私は拭えないでいる。

 こうした疑義、批判、思想面のもろさは、昨年12月の日韓「合意」の際に安倍首相が従軍「慰安婦」問題について韓国政府に「お詫び」の言葉を伝え、「日本軍の関与」を認めたことを以てーーー「不可逆的」という条件が付けられたことも、10億円の拠出と交換条件で日本政府が「少女像」の撤去を要求したという加害国と被害国の関係を倒錯したような外交にも一切触れず―――「慰安婦」問題の解決に向けた前進と評価した日本の革新政党にも、当てはまる。

 徐氏も指摘するように、この日韓「合意」はアジア女性基金設立の時と同じ「和解の思想」を低意とし、韓国政府がそれに卑屈に同調した結果、成立したものである。そこでも、日本政府の「お詫びの言葉」は、朝鮮半島の「被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの『良心』を慰めるためのものだったのではないのか」という根本的疑義を私は持っているし、なによりも当の被害者や韓国社会にそのような疑義や不信が今も渦巻いている。こうした事実について黙して語らずの態度のまま、立憲主義の基礎には個人の尊厳を重んじる思想があると当の革新政党に言われても心底から信任はできないのである。


 替えられし弁当の砂に額伏せて食(は)めばたちまち喚声あがる

 喚声にかこまれて食(は)む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは

 隠滅のはてに還らぬ慰安婦ら朝鮮おみなと知れば悲しく

 侵略戦争語らず詫びず恥じるなく戦後を了(お)えて日本は強し

  (李正子『鳳仙花のうた』磯貝治良・黒古一夫編『<在日>文学全
    集 17巻 詩歌集』2006年、勉誠出版、に収録)



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(再録)ためにする強制の「広狭」論 ~「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の理性に耐えない言辞 ~

2014625

 このブログの
200737日付けの記事として、「ためにする強制の「広狭」論 ~「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の理性に耐えない言辞 ~」というタイトルの記事を掲載した。
 
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_d9fe.html 

 ところが、政府は620日、「従軍慰安婦」の問題をめぐって日本政府としての謝罪と反省を明らかにした1993年の河野官房長官談話の作成にあたり、韓国側と事前に綿密に調整していたなどとする有識者の検証結果を衆院予算委員会理事会に提出した。その一方で、政府は河野談話を引き続き踏襲していくとも述べている。
   しかし、自民党内には慰安婦の連行に「強制」があったか否かに関して河野氏の発言を質す必要があるとして同氏を国会に招致するよう求める意見が出ている。
 このような議論がむし返されるのを見て、私は7年少し前に書いた上記の記事を思い起こし、ぜひ、多くの方に一読いただきたいと願わずにはいられない気持ちになった。そこで、元の記事をそのまま、再録することにした。

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  200737
  ためにする強制の「広狭」論 ~「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の理性に耐えない言辞~

河野談話を継承すると言いつつ、謝罪を拒む安倍首相の支離滅裂な言動」
 米下院外交委員会の「アジア太平洋・地球環境小委員会」が「従軍慰安婦」問題で日本政府に対して、元慰安婦への明確な謝罪を求める決議案を審議している。これに関して、安倍首相は5日午前に開かれた参議院予算委員会で、「決議案には事実誤認がある。決議がされても謝罪することはない」と答弁した。
 安倍首相のこの国会答弁を聞いて、私は支離滅裂ぶりにあきれた。安倍首相が継承するという河野談話には次のようなくだりがある。

  「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めてその出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」

 ここには、元従軍慰安婦への謝罪と反省が明記されている。この河野談話を踏襲すると言いつつ、「謝罪はしない」と言うのでは、国の内外を問わず、言語意味不明である。

 
連行の強制性の「広義か狭義か」にこだわる底意
 
 安倍首相が謝罪をかたくなに拒むために持ち出すのが連行の「広狭」定義論である。そして、その意図するところは、狭義の強制性が証拠で裏づけられないかぎり、学校教科書に載せるべきではないし、謝罪には及ばないという論法である。
 これについて安倍氏は昨年106日の衆議院予算委員会で、「本人たちの意思に反して集められたというのは強制そのものではないか」という問いに対して、次のように答弁している。

 「ですから、いわゆる狭義の強制性と広義の強制性があるであろう。つまり、家に乗り込んでいって強引に連れていってしまったのか、また、そうではなくて、これは自分としては行きたくないけれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういうことになったことについての関連があったということがいわば広義の強制性ではないか、こう考えております。」

 こういう物言いを聞くと、家に乗り込んでいって強引に連れていったのでなければ強制にはあたらない、したがって謝罪する必要はないとでも言いたいのだろうか? そうでないなら、強制の広狭を持ち出す意図はどこにあるのだろうか?

 安倍首相の上記の議論には、二つのレトリックが仕組まれていると考えられる。
 一つは、従軍慰安婦を徴集する際に「狭義の強制」があったかどうかだけが問題であるかのように議論を誘導し、これに該当しない「募集」業務は非難に当たらないという回答に着地させようとするレトリックである。
 もう一つは、従軍慰安婦制度の犯罪性を慰安婦「徴集の局面」に意図的に限定し、徴集後に慰安婦が「慰安所」でどのような状態に置かれていたかを不問にするというレトリックである。

 慰安婦徴集の犯罪性に狭義も広義もない
 安倍首相が継承すると明言した「河野談話」は慰安婦の「募集」方法について、次のように記している。

 「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。」

 また、1994年に国連人権委員会によって「女性への暴力に関する問題に関する特別報告者」に任命されたスリランカの法律家クマラスワミ氏が1996年に提出した最終報告書は、慰安婦の徴集に次のような3つのタイプがあったと記している。
 http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM 

 ①すでに娼婦であった女性と少女からの自発的応募
 ②料理屋や軍の料理人、洗濯婦と称して女性を騙すやり方
 ③日本の支配下にあった国々での大規模な強制と奴隷狩に匹敵する暴力的連行

 まず、指摘しておく必要があるのは、安部首相が言う「狭義の強制」的徴集も実在した証拠が提出されているということである。クマラスワミ報告にあるように、徴集方法は地域によって一様ではなかったが、国内では軍が直接自国民を慰安所へ連行するのは好ましくないと判断され、①が多く、一部②のやり方もあったようである。

 しかし、当時、日本軍の統治下にあった朝鮮、台湾、中国等では、軍人が直接現地の女性を拉致、誘拐して慰安所へ連行するケースや、現地のブローカーや地元の村幹部などを通じて女性を集めたケースが多かった。1956年に中国の瀋陽と太源で行われた日本人戦犯裁判で有罪判決を受けた45人の自筆供述書、前記のクマラスワミ報告に収められた元従軍慰安婦3人の証言、韓国政府が元慰安婦13人から聞き取り調査をした結果をまとめた中間報告書(1992731日)などから、この事実を具体的に読み取ることができる。
 しかし、このことから、物理的強制(連行)を伴わない徴集なら問題はなかったなどと言い募るのは慰安婦徴集の実態に目をふさぐ暴論である。例えば、「よい仕事があるから」といった甘言で軍の慰安所に連れていかれ、最初は裁縫や洗濯などを割り当てられたが、しばらくたって兵士の性的処理の相手をさせられた女性がおびただしい数にのぼる。こうした女性に対して、「家に乗り込んでいって強引に連れていったわけではない」などと殊更に言い募るのはモラルの退廃というほかなく、そうした人物が「美しい国づくり」を語るのは笑止の沙汰である。

 本来、インフォームド・コンセントというのは、必要な情報を得たうえでの合意を意味し、詐欺や甘言で誤導された意思が「真正の意思」でないことは言うまでもない。それどころか、暴力的連行とは区別される詐欺・甘言(この事案では女給か女中として雇うという詐欺)による慰安婦の徴集を「国外移送目的の誘拐」として有罪とした大審院判決(1937年)が存在したことが「朝鮮人強制連行真相調査団」の手で発掘されている。

「慰安所」における女性の性奴隷としての実態
 先に触れたように、従軍慰安婦問題の犯罪性は徴集の局面がすべてではない。強制連行か甘言による拉致・誘拐かを問わず、慰安婦とされた女性の悲惨な姿は「慰安所」の実態を直視することなしには把握できない。これについて、「河野談話」と同時に内閣官房外政審議室が発表した「慰安婦関係調査結果の要旨」は、<慰安所の経営及び管理>と題する項で次のように記している。

 「慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営したケースもあった。民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した。」

 慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために、慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務付けたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。いずれにせよ、慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられていたことは明らかである。」

 こうした記述を裏付ける資料や証言は少なくないが、前記のクマラスワミ報告は「慰安所」の状態に関する調査結果を次のように記している。

 「敷地は鉄条網で囲われ、厳重に警護され巡視されていた。『慰安婦』の行動は細かく監視され制限されていた。女性たちの多くは宿舎を離れることをゆるされなかったと語っている。」

 「・・・・・・そのような状態のなかで、『慰安婦』は一日に10人から30人もの男子を相手とすることを求められた。」

 「軍医が衛生検査を行ったが、『慰安婦』の多くの記憶では、これらの定期検査は性病の伝染を予防するためのもので、兵隊が女たちに負わせた煙草の押し焦げ、打ち傷、銃剣による死傷や骨折でさえもほとんど注意を払われなかった。」

 「そのうえ病気と妊娠にたいする恐怖がいつもあった。実際『慰安婦』の大多数はある程度性病にかかっていたように思われる。病気の間は回復のための休みをいくらか与えられたが、それ以外はいつでも、生理中でさえ彼女たちは『仕事』を続けることを要求された。ある女性被害者が特別報告者に語ったところでは、軍事的性奴隷として働かされていたときに何度も移された性病のため、戦後に生まれた彼女の息子は精神障害者となった。このような状況はすべての女性被害者たちの心に深く根付いた恥の意識と合わさって、しばしば自殺または逃亡の試みという結果をひきおこした。その失敗も確実に死を意味した。」

「楽しみもある代わりに死んでくれ、と言っているわけでしょう。」
 
~元日本軍兵士の尊厳をも冒涜する政治家の発言~
 
 「この程度のことは違う立場から見れば、戦争だったわけですから当然のことなんですね。これが強制連行と言ったらひどすぎますが、連れていくのに全然自由意思で『さあ、どうぞ』という話などないわけですね
 しかし、この程度のことを外国に向けて本当にそんなに謝らなきゃいかんのか。誰がひどいと言ったって、戦争には悲惨なことがあるのであって、当時、娼婦というものがない時代ならば別ですけれども、町にあふれているのに、戦争に行く軍人にそういうものをつけるというのは常識だったわけです。働かせなきゃいけないんです。兵隊も命をかけるわけですから、明日死んでしまうというのに何も楽しみがなくて死ねとは言えないわけですから、楽しみもある代わりに死んでくれ、と言っているわけでしょう。」
 (日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編『歴史教科書への疑問』展転社、平成9年、435~436ページ)

 これは「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が河野洋平衆議院議員を講師として招き、同氏が官房長官時代(199384日)に発表した前記の談話(「慰安婦関係調査結果の発表に関する河野官房長官談話)の経緯を説明した後の質疑の冒頭で小林興起議員が行った発言の記録である。
 口を開けば、「英霊」と奉られる元日本軍兵士は、後世の政治家が自分たちのことを「娼婦をつけ、楽しみを与えるから死んでくれと言ったまでだ」と言ってのけるのを聞いてどんな思いをするだろうか? 意に背いて戦場へ連行され、性的奴隷扱いを受けたアジアの女性たちにとって、自分たちが受けた仕打ちを「この程度のこと」と言ってのける加害国日本の政治家の発言を聞かされるは、二重の意味で――度は戦場で、もう一度は戦後の歪んだ歴史認識の持ち主である日本の政治家の暴言で――人格冒涜というほかない。

 ちなみに、前記の小林議員の発言に対し、河野洋平氏は次のように応答している。

 「なるほど。私は残念ながら意見を異にします。この程度のことと言うけれどもこの程度のことに出くわした女性一人一人の人生というものを考えると、それは決定的なものではなかったかと。戦争なんだから、女性が一人や二人ひどい目にあっても、そんなことはしょうがないんだ、というふうには私は思わないんです。やはり女性の尊厳というものをどういうふうに見るか。現在社会において、戦争は男がやっているんだから、女はせめてこのぐらいのことで奉仕するのは当たり前ではないか、と。まあ、そうおっしゃってもいないと思いますが、もしそういう気持ちがあるとすれば、それは、今、国際社会の中で全く通用しない議論というふうに私は思います。」
 (日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編、前掲書、436~437ページ)

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移動劇団桜隊の原爆忌に参加して

2013810

 86日、10時半から目黒区の五百羅漢寺で開かれた桜隊原爆殉難者追悼会に参加した。昨年も同じ86日に行われた慰霊忌に参加の申し込みをしたが、急きょ、社会保障と税の一体改革に関する参議院中央公聴会に公述人として出席することになり、かなわなかった。今年は原爆忌の会から案内が届き、参加の返信を送っていた。

2
年前の夏に訪ねた広島の「さくら演劇隊原爆殉難碑」
 桜隊のことを知ったのは2年前の828日、広島を訪ね、原爆史跡巡りをした時だった。その時のことを同年831日付けでこのブログに書き留めている。

 

「『原爆』という文字を禁制したアメリカ占領軍のプレスコード~この夏も原爆の史跡めぐりに広島へ(Part1)」~ 2011831

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/part-b778.html

 この日、広島平和公園内の数々の慰霊碑を回って平和大橋の東詰に来たところで、ガイドブックにしていた澤野重男・太田武男ほか著『観光コースでない広島』(高文研)を取り出して位置を確かめた後、比治山を前方に見ながら平和通りの北側の歩道を西へ進むと、「廣島第一縣女原爆犠牲者追憶之碑」がある。碑の一角には「昭和2086日遭難 職員校長共20名、生徒277名及同窓生」と記され、「今学び舎のこの跡に受難のあとを弔いてみ墓の前にぬかずけば無量の思い胸にわく おお師の君よわが友よ 鎮まり給いて安らけく」という追憶の言葉が刻まれている。

 「さくら演劇隊原爆殉難碑」はそこから、100mも離れない場所にあった。上部が斜めに切られた三角柱の石碑の一面には「1945年没す」として「丸山定夫 高山象三 園井恵子 仲みどり 森下彰子 羽原京子 島木つや子 笠絅子 小室喜代」の9名の名前が彫られていた。石碑の右手に置かれた金属製の表示板には、「移動劇団さくら隊原爆殉難碑の由来」と題して次のような文章が記されていた。

 「広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951(昭和268月)中国新聞社芸能記者の人たちによって『丸山定夫・園井恵子 追慕の碑』として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設にあたっては徳川無声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどう会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と『演劇人戦争犠牲者記念会』の協力によって建立された。碑の『桜隊』の『桜』が『さくら』と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の『桜』は使用できなかった。 20009月 広島市民劇場」

20110828
桜隊の沿革
 桜隊の沿革は1923(大正12)年に土方与志と小山内薫が中心となって演劇組織/築地小劇場を結成し、同名の劇場建設と演劇運動を始めた時にさかのぼる。1930年、内部での意見の対立から劇団は解散、1940年には「国民新劇場」に改称した。しかし、翌4169日、内閣情報局によって「日本移動演劇連盟」が結成され、同年128日には日本は真珠湾攻撃を決行し、太平洋戦争に突入した。これに伴い、すべての演劇人も大政翼賛体制に組み込まれた。こうした不自由な状況から逃れようと丸山定夫らは劇団「苦楽座」を創立し、地方への慰問巡演活動を始めた。元宝塚歌劇団スターの園井恵子もこれに参加した。
 1945(昭和20)年75日、9名の劇団員は広島を出発して島根、鳥取など山陰地方を巡演して16日、広島に戻り、団を再編成して次の巡演地、山口県へ向かう予定の86日の朝、爆心地から750mの滞在先で一同揃って食事中に被爆。
 9名のうち、島木つや子、森下彰子、羽原京子、笠絅子、小室喜代の5人は即死。丸山定夫はかろうじて厳島の存光寺へ辿りついたが、発熱、脱毛、血を吐き悶え苦しんだ末に二週間後に死去した。
 園井恵子と高山象三は神戸へ辿りついたが丸山定夫と同じ症状で3週間後に血を吐いて亡くなった。
 仲みどりはシーツ一枚をまとう格好で避難列車に乗って東京杉並区の母の家に戻った。しかし、容態の異変に驚き、東大病院に入院したが、4週間後の24日、丸山、園井らと同じ症状で死去した(以上、新藤兼人「さくら隊ノート」、江津萩枝『桜隊全滅――ある劇団の原爆殉難記』、1980年、参照)。通常は血液1立方ミリメートル当たり6,0008,000個ある白血球が死亡直前には500600個ほどしかなかったという。
 
仲みどりについては、この84日の「朝日新聞」が「幻のカルテ68年ぶりに発見」という見出しで、世界で初めて原爆症と診断された仲のカルテなど診断記録の原本が同病院の診断記録保管庫で発見されたという記事が掲載された。

「その位で私達が倒れるとでも思ってゐるのか」
 
~仲みどりが残した激越な言葉~
 
 桜隊原爆忌のことに戻ろう。この日、目黒区では朝方激しい雨だったというが、碑前祭が始まった10時半には本堂の前に用意されたテントには夏の日差しが照りつけた。読経と参列者の焼香が続く間、テントの中に用意された椅子に一同座った。冷たい飲み物がふるまわれたが、時折、頬をなでる風に心地よかった。本堂前での焼香を終えると、今度は本堂の南の庭にある原爆殉難碑の前で順番に焼香。この碑文は徳川無声の作で、背面には柳原白蓮の短歌「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」が刻まれている(ただし、私はこの背面に気が付かず、白蓮の歌が刻まれていることを後で知った)。碑前祭終了後、全員で記念写真を撮り、2つの建物に分かれて食事。見渡したところ、70歳以上と思える方々がほとんどだった。

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 13時から「『築地小劇場――震災から戦災への軌跡』を制作して」と題して中央区教育委員会文化財調査指導員の野口孝一さんのお話、それに続いて、老若演劇人による朗読劇「桜隊前夜」が上演された。登場人物と朗読者は次のとおり。
 以下の写真の右から順に、岩手県芸術文化協会会長・盛田政志(40年後)→劇団俳優座・神山寛さん、同じく20代の盛田政志→テアトルエコー放送映画部・落合佑介さん、園井恵子→マーリエ企画・堀江真理子さん、丸山定夫→劇団文化座・青木和宣さん、三好十郎→劇団昴・鳥畑洋人さん)

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 知っているようでほとんど知らなかった築地小劇場の生い立ちから解散に至る歴史を朗読劇で学べたのは貴重な体験だった。劇中、盛岡地方の検事正・長谷川瀏(その後、最高検検事)が当時、特高にも睨まれていた丸山定夫や園井恵子ら苦楽隊に、岩手県公会堂でお忍びの公開稽古をするようけしかけたというエピソードが紹介されたのは興味深い知見になった。また、広島へ出発する前夜、演劇人といえども経済生活を度外視して芸を全うできないという新劇余力論を唱える丸山定夫と、演劇人は飯に気をとられず、演劇一筋に生きるべきという新劇本職論を唱える三好十郎の間で激しい論争が交わされたことを朗読で紹介されたのも興味深かった。

 さらに興味深かったのは野口孝一さんが会場で配布された「仲みどり資料」の中に収録されていた「メーデー記念東京左翼劇場・新築地劇団共同公演パンフレット」(昭和754日発行)に掲載された仲みどりの小文だった。

        越えて来た道
 
                             仲みどり

 私は宗教学校の生徒だった。自分達の罪も貧しい人達の不幸も、世の中の総べては、祈りによって、神によって解決出来ると教へられてゐた。けれどやがて、私には、それが、私達の心に燃え上がる真実の事を知らうとする気持をごまかすものだと云ふ事が判った。
 
 私は学校を出、家を出た。25
圓の浅草女優。
それも明日からはお拂ひ箱だ。家を出て2年――満足に飯を食った日が1日だってあるか? 浅草から向島の床ヤの2階の3畳の部屋まで、夜遅く私は疲れた身體をひきづつては歸つた。現実のこの社会の色々の階級そして自分の生活、これ等に對する疑問に答へて呉れる本をぼつぼつぼつ讀みはじめた。
 
 51日、私ははじめて築地小劇場の芝居を觀た。「勝利の記録」は私に 敎へて呉れる。私に叫びかける。万國の労働者團結せよ!私は、この時から前進ある事を覚えた。私は進むべき自分の道を見つけた。今は敎へられるのは自分ではない。かつての自分のやうな多くの人々に、叫びかける自分なのだ。
 
 彼奴等は、多くの同志を引っ張って行つた。だが、その位で私達が倒れるとでも思つてゐるのか、日本の全労働者農民と一緒に私達はゐるのだ!

 仲みどりの生年は1909(明治42)年だから、この文章を書いたのは23歳ごろである。「その位で私達が倒れるとでも思っているのか!」という強靭な精神があればこそ、宇品の収容所から一人抜け出して上京列車に乗り込み、丸2日がかりで東京に辿りつくという驚異的な避難行を敢行できたのだろう。死後、自分の診察記録を残したのも、むざむざ倒れてたまるかという彼女の気迫の遺産とも思える。

夏の恒例の風物化に抗う「歌集広島」
 毎年86日、9日を迎えるとマスコミは、被爆者の霊に祈りを捧げ、慰霊の灯篭を流す広島、長崎の人々の姿をまるで夏の風物かのように、押し殺した声で伝えるのが恒例になっている。
 しかし、この夏、ジュネーブで開かれた、核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた第2回準備委員会で、80ヶ国が賛同した核兵器の非人道性を訴える共同声明に日本は署名しなかった。北朝鮮の核開発など日本周辺の脅威に対して、アメリカの核抑止力に頼る日本の安全保障政策が手を縛られかねないというのが署名を拒んだ理由と伝えられている(「朝日デジタル」、201383日、321分)。
 日本に原爆を投下したことをいまだ人道上の罪と認めないアメリカの核の抑止力に頼ってしか、自国の平和は守れないと信じる(ふりをする)政府を選び続ける日本人の姿を見て、原爆に直撃され、悶え苦しみながら息を引き取った人々はどう思うのだろうか。慰めの祈りで無残に生を断ち切られた人々の無念が報われるとでもいうのか?

 父を返せ母を返せと壇上に叫ぶ乙女のケロイド光る

 横たはる死がいはくさりてはみ出した腸は長長と道にたれおり

 さながらに松の丸太を積む如く硬直せる死体トラックに積みぬ

 モルモットにされに行くなとABCCの被爆調書をやぶりて捨つる

 戦争の下請けせねばこの国はたたざるごとき日日の論調

 生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ

                (『歌集 広島』1954年刊、所収)

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碑文論争の今日的意味を考える~この夏も原爆の史跡めぐりに広島へ(Part2)

原爆慰霊碑の碑文論争
 広島平和公園を訪れた人なら、必ず立ち寄るのが公園中央にある原爆慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)である。一つ前の記事に載せた平和公園・周辺マップでいうと、番号20である。
 82812時過ぎ、きつい日差しが照りつける原爆慰霊碑に近づくと、某宗教団体の老若男女一行が碑の前に並んで引率者(?)の説明に聞き入っていた。次いで引率者は、「それではこれから代表者に花束をささげていただきます。代表として○○さんと○○さんにお願いします。皆様は唱和をお願いします」とマイクで語り、碑文を読み上げ出した。

      安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから

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 原爆慰霊碑は、「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい」という気持ちを込めて埴輪の家を形どり、195286日に完成したものである。碑文は一般から公募した文案をもとに濱井信三広島市長(当時)の委嘱を受けた雑賀忠義・広島大学教授(当時)が選考したものである(以上、澤野重男・太田武男ほか著『観光コースでない広島』高文研、20118月、40~41ページ参照)。

 ところが、この碑文をめぐって、その後、断続的に論争が繰り広げられた。「碑文論争」と呼ばれる議論である。論争の要旨をかいつまんでいうと、この碑文では誰のどういう過ちかを何も語っていない、これでは被爆の教訓を伝えることにならないし、犠牲者を弔うことにもならない、という碑文批判派(碑文を書き改めるべきという主張)と、誰のせいかを詮索することよりも人類全体への警告・戒めとして碑文の意味を受け止めるべきだという碑文擁護派(碑文はそのままでよいという主張)の対立である。

 私もこの論争について昨夏、広島を訪ねた前後に多少、文献を調べたことがある。その折、原爆と文学の会編『原爆と文学』誌に舟橋喜恵さん(広島大学教授・その後名誉教授)が2編の論文を発表しているのを知り、国立国会図書館に複写申込みをしようとしたが、雑誌を修理中とのことで入手できなかった。今回、828日の午後に、昨夏も利用した広島市立中央図書館の出かけ、3階の広島資料室で探し物をしていたところ、同誌のバックナンバーが開架に並んでいた。2007年版で廃刊となっていたが、それまでの各号を調べてみると、舟橋さんが1999年版、2000年版、2001年版、2007年版に計4本、碑文論争を扱った論文を発表しているのがわかった。

 ①舟橋喜恵「だれの『過ち』か」『原爆と文学』1999年版、5058ページ
 ②舟橋喜恵「碑文論争――パル博士のコメント」『原爆と文学』2000年版、    
   38~44ページ
 ③舟橋喜恵「1957年の碑文論争――もっとわかりやすい碑文を――」『原爆    
   と文学』2001年版、92102ページ
 ④舟橋喜恵「原爆碑文論争の再燃」『原爆と文学』2007年版、613ページ
 
(以下、引用に当たっては、舟橋論文①・・・と表記する。)

 これら舟橋論文を通読して、碑文論争は単なる表現の話でなければ、賛否の色分けをして済む問題でもなく、火種~一言でいえば、戦争責任をめぐる被害と加害の二重性~は今日もなお未解決のままくすぶり続けていると感じた。そこで、以下では、これら舟橋さんの論文を軸にして碑文論争の経緯と今日的意味を考えることにしたい。

「誰の過ち」なのか~碑文の主語をめぐって~
 世上、碑文論争は東京裁判でただ一人、日本人戦犯無罪論を主張したインドのラダビーノ・パル博士の碑文批判に端を発するかのように言われているが、舟橋論文①はこのような通説を斥け、論争は原爆慰霊碑の除幕式が行われた195286日直後の新聞投稿欄を舞台にして読者参加型で始まっていたことを、投書を引用しながら立証している。
 論争の口火を切ったのは1957810日の『朝日新聞』の「声」欄に掲載された「繰返させません」と題する次のような意見だった。(以下、A, B, C・・・・の記号は筆者が付けたもの)

 :「・・・・前文はたれも異存あるまい。・・・・しかし後文については、私は大いに異議がある。『あやまちは繰り返しません』では『過誤は我にあり』ということになろう。これで犠牲者が、安らかに眠れようか。
 残虐きわまりない原爆を落としたのはたれだ。米国人は一様に『原爆投下は終戦を早め、無用の抵抗によるより大きい犠牲を防ぐために・・・・』との弁解をするが、それは決して原爆の残虐性を帳消しにする理由にはなるまい。ここでこの戦争の責任をとやかく論議しようとは思わぬが、日本の、広島の当局者がいまなおわけもなく卑屈にみえることを、実に遺憾に思うのである。・・・・後文はよろしく『過ちは再び繰返させませんから』と刻み直すべきであろう。」(中村良作=短期大学教授)

 この投書が掲載されてから4日後の1952814日に、同じ『朝日新聞』の「声」欄に次のような2つに意見が掲載された。

 :「なるほどあのむごたらしい原爆はアメリカによって投ぜられ、広島、長崎の市民はいいようもない哀れな犠牲者であった。それにつけ満州事変、否もっと以前から日本を支配し、破局に導いたあまりにも非論理的な指導原理、われわれ国民のふがいないまでの盲従性、それらへの反省が昨今の逆行現象をみるにつけ、いま新にされるのである。われわれが繰返させまいと努力すべき対象は、国内にも、国外にも余りに多い。また自身の心のうちにもありはしないかということを考えたいと思う。」(福岡市・江崎文子=主婦)

 C:「・・・・この文字が日本人とか、広島人とかの狭い立場から刻まれたものであるとすれば、10日この欄の中村氏の非難は妥当であろう。しかしそうではあるまい。あの言葉は広く人類全体の誓いとして、永遠に消えない碑石に刻まれたものであり、碑前に立つ一人々々が『あやまち』に対する謙虚な反省と共に、将来誓う言葉として心に深く刻んで帰るべきものであると解したい。『過ちは繰り返させませぬ』――これは『繰返しませぬ』と誓った人の胸に当然帰結する厳粛な決意であるはずだ。・・・・・」(広島県・永井伸彦=学生)

 舟橋論文①はこの後、同じ年の8月から10月にかけて、『中国新聞』に掲載された堀田善衛氏、矢内原伊作氏、武谷三男氏の意見を紹介している。一言で言うと、堀田氏は、いつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立つ誓いであるなら、「繰返させませんから」でなければならないという意見、矢内原氏は立派な記念碑を建てることよりも加害者への怒りを燃え上がらすことの方が大切と指摘した。機知に富んでいるのは武谷氏の意見で、「私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちがくり返されそうです』と書きかえるべきだ」と訴えた。

パル博士の碑文に対する疑義
 パル博士の碑文批判が公になったのは、武谷氏の論評が『中国新聞』に掲載される4日前の『中国新聞』紙面だった。

 D:「この碑文に『過ちは再び繰返しませんから』とあるのはむろん日本人をさしていることは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う、ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものの手はまだ清められていない、・・・・・
 この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない、その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である、国民がその良心に重い罪の悩みをもっていれば、いかなる国民も進歩、発展はないということをよく記憶せねばならぬ、過ちを繰り返さぬということが将来武器をとらぬことを意味するならそれは非常に立派な決意だ、日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊をボウトクするものである、これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかったと私は思う。」

 この中で、「この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない、その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である」というくだりはパル博士が東京裁判で主張した日本戦犯無罪論の根底にあった太平洋戦争史観の延長線上のものといえる。そこには原爆犠牲者も含む戦争被害者としての日本人の立場、アメリカの原爆投下責任を厳しく追及する良識的判断を含む一方で、日本によって侵略されたアジア諸国に対する日本の重層的加害責任(侵略戦争を主導した天皇を頂点とする政・軍首脳の第一義的責任と、そうした侵略戦争の開戦・継続を許した日本人の第二次的責任)を看過するという弱点が併存していた。そのため、舟橋論文①も指摘したように、パル博士の主張は「日本に戦争責任はないという断固たる意見表明によって、『過ち』の中味を問う姿勢がおざなりになり後退することになった」のは否めない。
 また、こうした弱点があったがために、パル博士の碑文に対する疑義は、1950年7月にマッカーサーの指令によって結成された警察予備隊が5210 月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組されるというように再軍備への道を進みつつあった日本の政治情勢に対する警鐘の面があったにもかかわらず、それが軽視され、日本無罪論の面だけが脚光を浴びたため、碑文反対派(書き換え論者)を勢いづかせることになった。しかし、パル博士の主張と、その後に登場した「原爆慰霊碑は日本人の恥」と主張する自国中心主義的な碑文批判論(「原爆慰霊碑を正す会」の主張)を碑文批判派としてひと括りにするのはあまりに粗雑である。私が碑文に対する賛否の色分けで事足れりとしてはならないと考えるゆえんである。

濱井市長と雑賀教授の反論
 パル博士の碑文に対する疑義が掲載され、大きな反響を巻き起こした1952114日の『中国新聞』には濱井信三広島市長(当時)の次のような談話が掲載された。

 E:過去の戦争は明らかに人類の過ちであった、私は碑の前に建つ人々がだれであろうと『自分に関する限りはあやまちは繰り返さない』という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であり、また現在生きている人たちがそれを実践したときはじめて地下の英霊は安らかにに眠ることができるものである、碑の前に対してだれの罪であると個人をつかまえてせんさくする必要はないと思う・・・・・」

 また、碑文作成に携わった雑賀教授も、パル博士の考えは狭量で、そのような立場からは原爆の惨禍は防げない、過ちを繰り返さないと霊前に誓うのは世界市民としての広島市民の気持ちであり、全人類の過去、現在、未来に通じる良心の叫びであるという反論を『中国新聞』(19521111日)に寄せた(舟橋論文①、58ページ)。

 このように見てくると、舟橋論文①では前記Bの江崎文子さんの意見と濱井市長、雑賀氏の意見を碑文擁護派として一括りにしているが、少しく内容を吟味すると両者が似て非なるものであることがわかる。なぜなら、江崎さんの意見は、アメリカの原爆投下責任を厳しく指摘したうえで、しかし、碑文の意味をそれだけに解消することに同意せず、満州事変以前からの日本のアジア近隣諸国への加害責任、それになすすべなく盲従した日本国民の責任も直視するべきという主張であり、繰り返してはならない過ちが国内にも国外にも余りに多いことに警鐘を鳴らす言葉として原爆慰霊碑の碑文を肯定的に理解したものである。
 もし、碑文批判派と擁護派を、「過ち」=原爆投下とそれを許した責任の主体を明確に認識したうえで犠牲者を弔う言葉とするよう碑文を改めるべきと主張するのか、それとも、責任の主体を人類全体に拡散することによって原爆投下責任を希釈ないしは不問にするのか、という点で峻別するとすれば、江崎さんの意見は碑文批判派とまで言えないとしても、碑文擁護派では決してなく、碑文補強解釈派とでも呼ぶのが正しい。


 これに対して、濱井市長と雑賀氏の意見は過去の戦争に対する責任を人類全体の過ちに「昇華」させ、国民一人一人が人類の一員として過失責任の一端を担う誓いとして碑文を擁護し、誰の過ちかといった問いは必要ないか、狭量でさえあるといって原爆投下責任、戦争責任に立ち入ることに背を向けたのであるから、上の江崎さんの意見とは対極にあるとさえいえる。

「過ち」と認めない当事者を不問にして「過ちを繰返さない」と誓う空語

 原爆碑文論争を辿ってみて私が痛感するのは、「誰の」「どういう」誤りかが突きつめられなかったり、不問にされた結果、誤りを犯したとされる当事者(戦争・原爆投下を主導したアメリカ政府と日本の天皇・政府・軍部)が自らの過去の行為を今日なお「誤り」と認めていないという、足元の事実が直視されていないという点である。

 アメリカの歴代政府は、①戦争を早く終わらせるため、②犠牲者をこれ以上増やさないため、原爆投下は必要だったという主張を踏襲している。各種世論調査によると、アメリカ国民も、年代が下がるにつれて減っていく傾向にあるとはいえ、今なお、過半が政府のこうした見解を支持している。たとえば、1994923日、米上院は広島への原爆投下機エラノ・ゲイの展示を計画していたスミソニアン航空宇宙博物館に対して、同機が「第二次大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った」という決議を採択した。決議では、この展示会が「自由のために命をささげた米国人の思い出を非難するようなものになるのは避けるべきだ」として、計画の修正を求めた。下院でも同年8月に24人の議員が連名で上院と同様の要望書を同博物館に送付した(以上、『中国新聞』1994925日)。こうした動きもあって、スミソニアン航空宇宙博物館での原爆展は中止に追い込まれた。また、こうした動きと軌を一にするかのようにアメリカは199612月にユネスコが原爆ドームを平和のシンボルとして世界の文化遺産リストに登録することを決定した時、アメリカは不支持を表明した。

 それだけではない。アメリカは戦後、講和条約締結までの間、原爆投下に対する責任表明を拒んだだけでなく、19459月に発表したプレスコードによって、原爆投下の被害の実相を記録し、伝え、描く一切の言論・報道・著作を事前検閲によって禁圧した。たとえば、GHQは、プレスコード指令の前日ではあったが、「原爆使用と病院船攻撃は国際法に違反する」という記事を掲載した『朝日新聞』を48時間、発刊停止とした。原爆犠牲者の慰霊碑に「原爆」という文字を使うことさえ禁じたことは、このブログに掲載した一つ前の記事で紹介したとおりである。
 
 広島に投下された原爆は、その年末までに人口35万人の市民のうちの14万人を死に追いやり、その後66年間で総計275,230人(そのほとんどが民間人)を死に至らしめた。そうした原爆投下の責任を当事国が一切認めないというのは人類史上、前例をみない反理性・傲慢な態度である。このように自らの独善的正義を世界に押しつける反理性・傲慢な態度がその後のアメリカによるチリ社会主義政権への軍事干渉、ベトナム侵略、イラク爆撃など数々の不法な武力行使として繰り返されたことは周知のとおりである。こうした当事国に一度たりとも抗議もせず、その後も原爆を投下したアメリカの核抑止力にすがる日本政府を不問にしたまま、「過ちは繰り返しません」と誓われても、原爆犠牲者はとても「安らかに眠れ」まい。

 原爆慰霊碑の碑文について質すべきは、過ちの主語、過ちの中味もさることながら、それ以上に、原爆を投下した当事国・アメリカが原爆投下を今もって過ちと認めていないという厳然たる事実であり、そうした事実に日本政府ならびに日本人がどう向き合うのかということである。もちろん、その際には、日本の被害国としての歴史と同時にアジアの近隣諸国に対する加害国としての歴史を直視しなければならない。しかし、日本に加害の歴史があることと、自らに甚大な犠牲を強いたアメリカに原爆投下の責任を問い、被害の補償を請求することは相殺される性質のものではなく、両者相俟って追求されるべき課題である。こうした被害と加害の両面を「全人類の過ち」という漠たる美辞麗句に「昇華」させるのは、「各人各説の間に、一切を含んで、しかも何も意味し得ないような、空語をつくる」に等しい(田中美知太郎「ヒューマニズムの意味」、『田中美知太郎全集』第6巻、1969年、筑摩書房、所収、81ページ)。(この稿、続く)。

 生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
                          小森正美(商業)
 
 過ちは繰り返しませんと云ふ裏に再軍備は着着進みぬ  
                         西本昭人(公務員)

 「安らかに過ちは繰り返へしません」という墓碑銘はウォール街にでんと
 建てよ
                          増岡敏和(工員)

 親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔  
                          中
邑浄人(教員)

                         (以上、『歌集 広島』1954年、より)

6020110829
      全損保20周年記念碑
        なぜ あの日は あったのか なぜ いまもつづく
        忘れまい あの にくしみを この誓いを

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「原爆」という文字を禁制したアメリカ占領軍のプレスコード~この夏も原爆の史跡めぐりに広島へ(Part1)~

福岡で講演~税と社会保障の一体改革について~
 827日、福岡市社会福祉推進協議会が主催した市民公開講演会の講師に招かれ、空路、福岡へ出かけた。会場の福岡市民福祉プラザは福岡空港から地下鉄に乗り、「唐人町」で下車。黒門橋から北へ徒歩5分ほどのところだった。講演のテーマは「税と一体改革で社会保障が守れるのか」。主催者から時間は充分あるので、と言われ、途中20分ほどの質疑を挟んで2時間余り話をした。
 前半は、消費税の逆進性は複数税率を以てしても、昨今推奨される給付付き税額控除を以てしても解消するのは困難なこと、消費税が前提する税の転嫁には建前と現実に大きな乖離があり、売上高の規模が小さくなるほど転嫁率が下がっており、消費税の逆進性は転嫁の格差にも表れていることを話した。

 後半はもともとのテーマからややはみ出るのを承知で、私が最近まとめた研究の一端を話したいと思い、まず、①医療財政を圧迫させている高い薬価が生まれるメカニズム、その結果、医薬品製造業が異常に高い利益率を記録していること、高い薬価にメスを入れることが急務になっていることを話した。その後、②去る730日に財務省が発表した2010年度特別会計決算概要をもとにして、特別会計の決算剰余金(年金特別会計のように長期にわたる給付原資として留保しておくべき剰余金を除く)のうち、翌年度に繰り越された歳出見合いの財源(支払備金を含む)として翌年度の歳入に繰り入れる必要がある分を除いた18.4兆円は一般財源として、あるいは目下の復興財源として活用できることを指摘した。その際、2010年度の特別会計の決算剰余金の約73%を占める国債整理基金特別会計の決算剰余金30.7兆円の処分可能性について触れた。このうち、翌年度の早い段階に償還を迎える国債の借り換えに備えて前倒しで発行された国債(借換債)の発行額相当分16.9兆円は他に転用できないが、減債基金として積み立てられた残りの13.7兆円は、国債償還の原資として積立てるという趣旨は分かるとしても、財務省がまとめた平成31年度までの国債整理基金の資金繰り見通しからすると、2017年度を除き、毎年度の要償還額は各年度の経常的収入(定率繰入、借換債収入、他会計からの繰戻、運用益等)で手当てできる見通しであることから、当座、他に転用しても国債の償還に支障が生まれるわけではないことを指摘した。

 途中と最後の質疑では参加者から次々と質問が出て、こちらも手ごたえを感じることができた。なかには自分の勉強不足が露呈した場面(輸出企業に消費税が還付される仕組み)もあったが、一人の方から、「いつまでもお元気であちこちへ講演に出かけてください」と励まされた。

 会場を出てまた地下鉄で博多駅へ。1637分発ののぞみに乗車するまで少し時間があったので、改札口近くの土産物店で明太子シュウマイほかセットを発送。1830分過ぎには広島着。タクシーでホテルに着き、大浴場で汗を流して一息ついた。

「さくら演劇隊原爆殉難碑」へ
 今回の原爆史跡めぐりの予定を立てるのに参考にしたのは、この8月に出版されたばかりの澤野重男・太田武男ほか著『観光コースでない広島』(高文研)である。ここで解説された史跡のうち、去年、回れなかったところで特に関心をもった場所にまず出かけることにした。その一つが「移動劇団さくら演劇隊原爆殉難碑」である。翌828日、ちょうど10時に原爆ドーム前に着き、途中、一本東の通りにある爆心地中心の島外科・内科を回った後、元安川の東岸を平和大橋に向かって歩いた。木陰の切れ目に出ると、もうこの時間に強い夏の日差しが照りつけたが、徒歩約10分で平和大橋の東詰めに出た。

 平和記念公園・周辺マップ
 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/tour_mai.html

 上の書物(7879ページ)では、さくら演劇隊原爆殉難碑は平和大橋東詰めを左折して平和大通りの北側を比治山に向かって西に進むと中区中町の緑地帯にある、と記さている。上のURLで示した周辺マップでいうと37番が平和大通りで、右側の37番が平和大橋、そこから西(地図の右手)に向かって道路の北側を歩いた。このあたりはマップから切れているが、思ったより長い距離を歩くと、「廣島第一縣女原爆犠牲者追憶之碑」があった。碑の一角には「昭和2086日遭難 職員校長共20名、生徒277名及同窓生」と記され、「今学び舎のこの跡に受難のあとを弔いてみ墓の前にぬかずけば無量の思い胸にわく おお師の君よわが友よ 鎮まり給いて安らけく」という追憶の言葉が刻まれていた。
Photo_4
 「さくら演劇隊原爆殉難碑」はそこから、100mも離れない場所にあった。上部が斜めに切られた三角柱の碑は思ったより小さかったが、それがかえって清楚な姿に思えた。石碑の一面には「1945年没す」として「丸山定夫 高山象三 園井恵子 仲みどり 森下彰子 羽原京子 島木つや子 笠絅子 小室喜代」の9名の名前が彫られている。
 石碑の右手に置かれた金属製の表示板には、「移動劇団さくら隊原爆殉難碑の由来」と題して次のような文章が記されている。

 「広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951(昭和268月)中国新聞社芸能記者の人たちによって『丸山定夫・園井恵子 追慕の碑』として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設にあたっては徳川無声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどう会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と『演劇人戦争犠牲者記念会』の協力によって建立された。碑の『桜隊』の『桜』が『さくら』と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の『桜』は使用できなかった。 20009月 広島市民劇場」

20110828

慰霊碑にさえ「原爆」の文字を使えなかった言論管制
 次の日(829日)、広島平和記念資料館東館地下1階にある原爆情報資料室で見つけた江津萩枝『桜隊全滅―ある劇団の原爆殉難記』(1980年、未来社)によると、9人は市内の旧堀川町99番地(現在の福屋百貨店の横を南に下ったすぐのところに置かれた移動演劇聯盟中国出張所事務所兼寮に滞在中に原爆に遭遇した。爆心地から東へ750mの地点だった。島木、森下、羽原、小室、笠(島木の母)は被爆して崩壊した建物の下で白骨で発見されたが、隊長の丸山は宮島まで逃げ延びたが存光寺で死亡。高山(舞台監督兼俳優)と園井は神戸まで逃げたのち死亡。仲みどりは下着1枚で京橋川に入っていたところを宇品の船舶部隊に救助され、臨時収容所で一夜を過ごした後、9日には汽車で東京に帰り、16日に東大病院に入院して臨床医の診察を受けたが、824日に「原子爆弾症」と診断されて死亡した。

 なお、東京都目黒区の天恩山五百羅漢寺にも「移動演劇さくら隊原爆殉難碑 徳川無声」と記された石碑がある。私はまだ出かけていないが、江津萩枝、前掲書によると、1952年暮れに行われたこの記念碑の除幕式について徳川無声は『オール読物』19533月号に掲載された随筆の中で、「のびのびになって有難かったことは、ハッキリ『原爆』という文字を碑面に彫りつけることが出来るようになったことである」と記している。裏返せば、原爆投下から数年は占領軍が敷いたプレスコードによって、慰霊碑にさえ「原爆」という文字を入れることができなかったのである。

EMC2
~広島市立高女の慰霊碑に刻まれたこの文字の意味は~

 この点をより象徴的に示しているのが、平和大通りを挟んで平和記念館の向かい側にある広島市立高女の慰霊碑である。この場所は建物疎開作業に駆り出されていたさなかに被爆した教師8名、12年生544名の終焉の地である(上記の平和公園・周辺マップの番号35)。『広島原爆戦災誌』によると、そばを流れる元安川に架けられた仮新橋は半分焼け落ちていたため、多くの生徒は腰のあたりまで水につかりながら、ほとんど丸裸の状態で歩いて渡ろうとした。しかし、何百という生徒が川の途中で倒れ、事切れ、身体はゆでタコのように赤黒くなっていたという。
 
 ところで、広島市立高女の慰霊碑の中央の少女が抱いた手箱には、「EMC2」という化学式が彫られている。この文字の由来について、慰霊碑左手前に設置された説明版に次のように記されている。

 「1945(昭和25)年86日、現在地(旧材木町付近)で建物疎開作業中の12年生(当時1213歳)541人、教員7人の全員がなくなり、他の動員先を含め676人が被爆死しました。市内学校では、最も多くの犠牲者を出しています。
 この碑は1948(昭和23)年、広島市女原爆遺族会が母校校庭に建立し、13回忌にあたる1957(昭和32)年現在地に移されました。碑中央の少女が持つ箱には、原爆の原理になった相対性理論の原子力公式エネルギー『EMC2』が刻まれています。連合軍の占領下、『原爆』という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。

 ちなみに、この碑の制作者は山口県の近代彫刻家の河内山賢祐氏だが、「EMC2」という原子力の化学式を使って「原爆」の犠牲者という意味を伝えようというアイデアは湯川秀樹氏の発案といわれている。

Photo_3 
Emc2_60

「平和をいのる人のみぞここは」(湯川秀樹氏の歌碑)
 湯川秀樹というと、同氏の歌碑を刻んだ平和の像「若葉」がある。前記平和公園・周辺マップの32番で、広島市立高女の慰霊碑とは平和大通りを隔てて100mほど西の位置にある。マップの32番をクリックすると拡大画面が現れ、この像と歌が解説されている。

  まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる人のみぞここは(湯川秀樹)

 「まがつび」とは「禍つ日の神」の略で、災害・凶事を起こす神のこと。原爆投下を「災害・凶事の神のなせるわざ」にたとえるのは同意しかねるが、下の句は、ここ爆心地に来る人は観光スポットの見物で帰るのではなく、平和を誓う人であってほしい、そういう人に少しでも変わって帰ってほしいという気持ちを込めた言葉だろう。そう解釈すると、この地に眠る原爆犠牲者の魂を代弁する言葉といえる。
 円鍔勝三作のこのブロンズ像は、そばに立つ子鹿に左手をさしのべる少女の清楚で凛とした姿が平和の像に似つかわしい。

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