「戦争責任言われつらい」(昭和天皇)→「すごい言葉だ」(半藤一利)→ちっともすごくない、当たり前すぎる

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「戦争責任言われてつらい」? 
 8月23日の『毎日新聞』朝刊の1面に「戦争責任言われてつらい」侍従記録 晩年の昭和天皇吐露」という見出しの記事が掲載され、28面には「昭和天皇の苦悩 克明に」という見出しで故小林忍侍従日記の要旨(1975428日~19901122日)が摘記された。
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 この中の198747日の日記には、次のような昭和天皇の言葉が記されている。昭和天皇が死去する19カ月前のことである。

 「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなる。近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。」

 また、これより7年近く前の1980527日の日記にはこんなことが記されている。

 「華国鋒首相の引見にあたり、陛下は日中戦争は遺憾で遭った旨おっしゃりたいが、長官、式部官長は反対の意向とか。右翼が反対しているから、やめた方がよいというのでは余りになさけない。かまわず御発言なさったらいい。大変よいことではないか。」

 この28面の記事には、「すごい言葉だ」という見出しで作家の半藤一利さんのコメントが載っている。最初の6行を引用しておく。

 「昭和天皇の『細く長く生きても仕方がない。〈中略〉戦争責任のことをいわれる』というのは、すごい言葉だ。昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があったのだとうかがわせる。」

 「戦争責任のことをいわれてつらい」という発言は昭和天皇の虚飾のない心境とは思うが、それがどうして「すごい言葉」なのか? 当たり前すぎる言葉である。

心境の詮索ではなく史実の検証を
 昭和天皇の戦争責任、さらには戦後責任に関する事実と自覚のほどを問題にするなら、次のような過去のオフィンシャルな言動をなぜ取り上げないのか?

近衛文麿の戦争終結の進言を拒み、戦禍を拡大させた責任
 1945214日、首相近衛文麿は内大臣木戸幸一とともに天皇と面会し、戦争の続行/集結について上奏した。その中で近衛は「敗戦は遺憾ながら最早必至なり」と始め、この「前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場寄りすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信候」と進言した。
 しかし、天皇は、もう一度、戦果を挙げてからでないと近衛の進言通りには進まないと思うと返し、戦争終結に応じなかった。(この時の天皇と近衛のやり取りについては、黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』、2004年、講談社学術文庫、170171ページに記載されている。)
 その結果、わが国にとっては「戦果」どころかおびただしい民間人に犠牲を強いる「戦禍」が一気に広がった。
 天皇が近衛の戦争終結論を斥けた2日後の1945216日には米空母機動部隊艦載機による本土初空襲が起こり、310日には一夜にして死者8万~10万人となった東京大空襲に見舞われた。その後、空襲は都内各地、名古屋、大阪、神戸、横浜、九州各地、立川、川崎などへ広がった。
 「本土」だけではない。天皇が近衛の戦争終結論を斥けてから40日後に始まった沖縄戦は1945623日まで続き、20万人と言われる死者を生む結果となった。

沖縄の軍事占領を米国に要望した天皇メッセージ
 昭和天応は1947922日、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に宛てて、米国による今後の沖縄の軍事占領に関するメモを送った。のちに「天皇メッセージ」と呼ばれた文書である。沖縄県公文書館が所蔵するその写しを貼り付けておく。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
メッセージ原文(PDF画像)
http://www.archives.pref.okinawa.jp/wp-content/uploads/Emperors-message.pdf 

 メモの要点は、米国による琉球諸島の軍事占領の継続~25年から50年あるいはそれ以上の借款による~を望む、ということである。寺崎を介して伝えられた天皇の意向によると、米軍による沖縄の占領統治を天皇が望んだ理由は、ロジアのみならず、国内の極右ならびに極左勢力の台頭に終止符を打つためだった。いうなれば、両極、実質は反共の砦の捨て石として沖縄の自治と平和をアメリカに売り渡したということだ。
 戦前・戦中の戦争遂行・終結の判断は法的には政府、軍当局の権限に基づくものであり、昭和天皇に問責する法的根拠はないという議論がある。
 しかし、上で示した2つの史実は昭和天皇が戦争遂行、沖縄処分の判断に直接かつ決定的な影響を及ぼしたことを意味している。
 さらに、付け加えると、昭和天皇は敗戦が濃厚となっていた1944(昭和19)年12月に招集された帝国議会の開院式において、「今ヤ戦局愈々危急真ニ億兆一心全力ヲ傾倒シテ敵ヲ撃墔スヘキノ秋ナリ」と戦争続行に向けた檄を飛ばす勅語を告示した(黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』、2004年、講談社学術文庫、168169ページ)。

沖縄を捨て石にした昭和天皇の3つの責任~『琉球新報』の社説~
 『琉球新報』は「昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」と題した2014910日の社説で次のように述べている。 
 
https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html 

 「
昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が『国体護持』の立場から19452月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の『捨て石』にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
 二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された『和平交渉の要綱』は、日本の領土について『沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする』として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から『捨てる』選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した『天皇メッセージ』だ。天皇は479月、米側にメッセージを送り『25年から50年、あるいはそれ以上』沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。『天皇メッセージ』から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して『軍事植民地』状態が続く。『象徴天皇』でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
 私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して『贖罪(しょくざい)意識』を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には『戦争責任』と『戦後責任』がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。」

 いずれも史実に裏付けられた正論である。これでも昭和天皇に戦争責任を問う根拠はないなどという議論は、それこそ「歴史の検証に耐えられない。」
 さらに、天皇の名において侵略した日本軍により、民間人を含む多数の犠牲者を出したアジア諸国民に対する天皇の戦争責任の苛烈さを思えば、来日した華国鋒首相との面会にあたり、天皇が「日中戦争は遺憾で遭った」と伝えたいと心中を語っていたことを指して「アジアの国にも配慮を見せている」(『毎日新聞』2018823日)と持ち上げるのは被侵略国の人々からすれば噴飯ものの「お気持ち」忖度論である。

曲学阿皇
 かくも昭和天皇の心中を忖度し、天皇の戦争責任に踏み込むのを躊躇う言動が幅を利かせる背景には、日本のメディアや通称「有識者」の間に、天皇の戦争責任に踏み込むのを畏怖する「天皇不敬」意識が今なお、根強く浸透していることを意味している。
 そして、天皇にこれほど一目を置く「穏健な」人物が常連のようにマスコミや論壇で発言の場を得るのは、「曲学阿皇」の体質が日本の言論界を今なお、蝕んでいることを物語っている。

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原爆投下の日 加害責任・戦禍拡大責任不問の祈りの日にしてはならない

2018817日 

長崎の被爆者の安倍首相への怒りの声を伝えた報道ステーション 
 
2週間ほど前
、幾人かの知人から、「報道ステーション」がおかしくなっている、という話を聞いた。その頃、私は「報道ステーション」を視ていなかったので、事実なら嘆かわしいと思って済ませていた。
 先日、テレビ・レコーダーを買い替え、多少、機能アップをしたことから、この1週間ほど各局の報道・ドキュメンタリー番組の録画を取って視てみたら、「報道ステーション」の中に大変、充実した特集報道あった。
 その一つが、89日の番組の中で「長崎73回目の原爆の日 『政府が先頭に立つべき』」というタイトルで放送された特集である。

  https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20180809-00000062-ann-soci 215秒~) 

 私が「充実した」と書いたのは、原爆の日の慰霊式典のあと、安倍首相と被爆者が面会した場面を詳しく、生々しく伝えた点である。

*安倍首相と向き合った田中重光さん(77才。4歳の時に被爆)の発言
 (抜粋)
 「総理、私たちは73年前、人間らしく生きることも人間らしく死ぬことも
     できない生き地獄を体験しました。」
 「広島、長崎のあいさつの中で核兵器禁止条約に一言も触れられていませ
  んが、その真意をまとめの発言で述べていただくようお願いします。」

 すぐ上の田中さんの発言は、被爆者代表が安倍首相に手渡した要望書の末尾に急遽、手書きで書き加えられた一文だった。「報道ステーション」のカメラはその部分を大写しした。大変、臨場感に富んだ場面だった。 

 さらに、番組では、安倍首相との面会の後で、面会に同席した被爆者にマイクを向け、生の怒りの声を伝えた。

 田中重光さん(上記)の発言
 「被爆者の願いは核兵器をなくすこと。そのことに触れないというのは、
  どんなつもりで来ているのかと思います。〔核兵器廃絶の先頭に立たな
  いんだったら〕言いなさんな 唯一の被爆国なんて」

 中島正徳さん(88才。15歳の時に被爆)の発言 
 「はっきり言えば、毎年似たようなことを言っている。・・・・ 要する
  に 適当に答えとけと」

安倍首相と被爆者の面会の模様を全国ニュースで伝えなかったNHK 
 NHK
9日夜7時、9時の全国ニュースで安倍首相と被爆者の面会の模様を伝えなかった。(選んで?)伝えた被爆者の声は、「兄に、しあわせで何とか食べているから安らに眠って下さいと伝えに来た」という言葉だった。それと長崎の爆心地で互いに繋いだ手を挙げて平和のバトンを受け取る高校生の姿だった。

生死を引き裂かれた家族の絆と愛情、平和の声を響かせ合う若い世代の動きも原爆投下後73年の被爆地の姿に違いはない。

 しかし、原爆投下は永井隆が意味ありげに唱えた「天災」ではないし、「神の啓示」でもない。アメリカが用意周到に実行した国家的犯罪行為である。

そうした犯罪としての原爆投下の認識、犯罪行為の主体を明示することなく、ただ、「平和を願う祈り」の姿を映すだけでよいのか? そうした映像を公共の電波で拡散することが、どのようなムード・メークになるのかを十分、読みこんだうえでの報道だとしたら、一種の「報道犯罪」と言っても過言ではない(この点、後で再論)。 

ただし、NHK長崎放送局は安倍首相と被爆者の面会の模様を伝えた。
 「首相に核禁条約賛同を求め要望書」
 (89日、1437分、NHK長崎NEWS WEB
 https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20180809/5030001613.html 

 「被爆者団体の代表が、核兵器禁止条約に署名・批准し、核兵器廃絶を推し進めるよう求めたのに対し、安倍総理大臣は『求められているのは核兵器国と非核兵器国の橋渡しをすることだ』と強調し、条約に署名・批准するつもりはないという考えを改めて示しました。」

 「長崎の5つの被爆者団体の代表は、・・・・『唯一の被爆国である日本の政府は、〔核禁条約に〕署名も批准もしないとしている。到底、理解できない』と述べ、政府の対応を批判しました。」
 「このあと、長崎県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は『去年の答と変わらず、1年間、前進がなかった。「橋渡し」と言うが、無理な話ではないか』と話していました。」 

 報道ステーションと比べれば、生々しい臨場感に欠けるが、安倍首相の応答を伝えたうえで、それに対する被爆者の反応(批判)を伝えたことは評価できる。
 逆に言うと、このようなやりとりがあった事実を全国ニュースで伝えなかったのは、「政権が知られたがらない事実は伏せる」NHKの体質を浮かび上がらせたといってよい。こうしたNHKに、いちばんくやしい思いをしたのは、ほかでもない長崎、広島の被爆者ではなかったかと思う。

核廃絶、プルトニウムを言うなら、なぜ日本の現実を直視し、報道しないのか?~NHKニュース・ウオッチ9を視て~
 89日、NHKニュース・ウオッチ9は安倍首相と長崎の被爆者代表との面会の模様を伝えない一方で、「被爆者が見た“核を生んだ町”」という特集報道を伝えた。
 http://www9.nhk.or.jp/nw9/digest/2018/08/0809.html 

 
番組は、有馬キャスターの「長崎に原爆が投下されて今日(9日)で73年。しかし、被爆者が訴えてきた『核なき世界』の道筋はいまだ不透明です。核の保有国と非保有国の認識が大きく隔たっているからです」という語りで始まった。

では、「不透明な道筋」、「認識の隔たり」の依って来る原因、『核なき世界』の実現を阻む壁に迫るのかと思いきや、話題は、一人の被爆者Mさんが核を生んだ町(アメリカ・ワシントン州のリッチランドを訪れ、そこで見たことを紹介するという企画だった。

 リッチランドでは、かつて長崎に投下された原爆に使われたプルトニウムが作られ、その後も核関連の産業が町の発展をけん引してきたという。番組は、レストランのメニューに原爆を誇示する「アトミック」の文字が使われ、町の高校の校章には原爆のキノコ雲が使われていることを伝えた。多くの住民が、原爆を生んだ町の歴史を「誇り」に思い、それに「栄光」を感じているという。
 同時に、番組は、この町で農業を営む男性の、核施設から拡散する放射能の被害に長年悩まされている、という声も紹介した。それを受けて、Mさんはこの男性に自分の家族の過酷な被爆体験を語り、2人は共感しあった。
 その後、場面はこの日の長崎原爆の慰霊式典に移り、「73年もたったが、核兵器廃絶への本当の、もっと力を込めて一歩を踏み出す。今年はそうではないかなと、私自身がそう思います」というMさんの言葉で締め括られた。

 アメリカの原発生産の地元住人の原発に関する今の意識を伝えたことは日本人にとっても意義のあることは確かだ。
 しかし、核兵器廃絶への本当の一歩というなら、はるかアメリカのリッチランドにではなく、抽象的な誓いの言葉でもなく、この日、核兵器禁止条約への参加をめぐって、長崎で交わされた安倍首相と被爆者のやりとりをなぜ伝えなかったのか?
 プルトニウムの今日的話題を取り上げるのなら、はるかアメリカのリッチランドに出かけなくても、日本の足もとの現実に焦点を充てるのが先ではないか?

 「英国にある約21トンは、現状では日本に持ち帰るのが難しい事情もある。英国のMOX燃料工場は2011年に閉鎖され、燃料に加工できない。加工する前のプルトニウムを日本に輸送すれば、核拡散への懸念から国際問題に発展しかねない。このまま『塩漬け』になれば多額の保管料を払い続けることになる。」

 保有プルトニウム、原子力委が削減方針 米などが要求」『朝日新聞DIGITAL, 20187311626分。)
 https://www.asahi.com/articles/ASL7Z7TNRL7ZULBJ01M.html

 メディアの報道の価値を左右する第一の最大のポイントはアジェンダ(焦点)設定の的確さ、先鋭さである。89日のNHKの「長崎原爆投下から73年」にちなんだ特集報道は、このポイントをたまたまではなく、それと意識して外したと思えた。

「被害者はいるが加害者がいない」 
 上の言葉は、今年の723日、山梨県牧丘町で開かれた金子文子の92回忌に出かけた時に来日された韓国の人が話した発言である。
 「加害者がいない」・・・・一瞬、意味を理解できなかったが、しばらくして、「被害を告発する者はいるが、加害責任を引き受ける者がいない」という意味だと理解した。
 戦後、アメリカに一度も原爆投下責任を問わないまま、オバマ大統領の広島訪問、安倍首相の真珠湾訪問で和解を演出しようとした日本。原爆投下の日を加害責任・戦禍拡大責任不問の「祈りと慰霊の日」にしてはならない、メディアが「祈りと慰霊の日」のムードメーカーになるのは、歴史に対する不忠であり、歴史の教訓に対する背信である。

碑文論争の混迷を克服することが思想的課題
 原爆投下に関して言うと、加害責任不在の「祈り・慰霊」への翼賛は広島での「碑文論争」に典型的に現われている。これについては、201194日にこのブログに投稿した記事に、自分なりに詳しく書いたので、その要旨を引用しておきたい。

碑文論争の今日的意味を考える~この夏も原爆の史跡めぐりに広島へ(Part2
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/part2-0e6a.html
 

 ここで「碑文」というのは広島平和公園に建てられた原爆慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)に刻まれた、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」を指す。「論争」とは、この碑文の「主語」は誰を指すのか、誰れ彼れを指すものではないのか、という議論である。

 碑文批判論者は、
この碑文では誰のどういう過ちかを何も語っていない、これでは被爆の教訓を伝えることにならないし、犠牲者を弔うことにもならない、と主張した。
 対して、碑文擁護論者は、原爆投下は誰のせいかを詮索することよりも人類全体への警告・戒めとして碑文の意味を受け止めるべきだと主張した。
 論争の詳細は上のブログ記事で詳しい目に書いたので、繰り返しは控えるが、原爆の日を「祈り・平和への誓い・慰霊の日」にすることを是とする論調は、碑文擁護論を基調とするものであることは明らかである。
 
 それを承知で私が共鳴するのは、碑文論争の端緒となったの『朝日新聞』(1957810日)の「声」欄に掲載された投書の次の一節である。

 「・・・・後文については、私は大いに異議がある。『あやまちは繰り返しません』では『過誤は我にあり』ということになろう。これで犠牲者が、安らかに眠れようか。残虐きわまりない原爆を落としたのはたれだ。米国人は一様に『原爆投下は終戦を早め、無用の抵抗によるより大きい犠牲を防ぐために・・・・』との弁解をするが、それは決して原爆の残虐性を帳消しにする理由にはなるまい。ここでこの戦争の責任をとやかく論議しようとは思わぬが、日本の、広島の当局者がいまなおわけもなく卑屈にみえることを、実に遺憾に思うのである。・・・・後文はよろしく『過ちは再び繰返させませんから』と刻み直すべきであろう。」(中村良作=短期大学教授)

 私流に言い換えると、「過ち」と認めない当事者を不問にして「過ちを繰返さない」と誓うのは空語に等しい。「誰の」「どういう」誤りかを不問にし、誤りを犯した当事者(原爆投下を用意周到に準備し、実行したアメリカ政府、戦禍拡大を放置した日本の天皇・政府・軍部)が自らの過去の行為を今日なお「誤り」と認めていない足元の事実を直視せず、「皆さまの尊い犠牲の上に戦後の日本は繁栄を遂げました」などと歴史を偽造する言葉をシレッと語り続ける日本政府の無責任を質すことなく、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」とは欺瞞もいいところだ。

 安らかに過ちは繰り返へしません」という墓碑銘はウォール街に
 でんと建てよ                    増岡敏和(工員)
                       (『歌集広島』1954年、所収)

 総懺悔などと美辞もつ過去がありて原爆死すら言へざりき日本 
                           小山誉美(短歌長崎)
  (201091日に訪れた長崎県立図書館に配架されていた長崎歌人会
   編『原爆歌集ながさき』に収められた短歌より)

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再度、志位和夫氏に問う~「日韓合意」をめぐる談話の撤回が不可決~

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日本共産党も同調圧力に飲み込まれたのか?

 「日韓合意」から2年目にちなんだ一つ前の記事で、「こと日韓・日中の歴史問題となると、日本の『進歩的』論者やリベラル政党さえも、日本社会に垂れ込める『同調圧力』に飲み込まれてしまうのか?」と書いた。
 この点で、私が今なお、大変不可解に思うのは、「日韓合意」が発表されて以降、今日に至るまでの日本共産党の態度である。

 日韓合意が発表された翌日20151229日の『しんぶん赤旗』に志位和夫委員長の談話が掲載された。私が驚いたのは志位氏が談話の末尾で、今回の合意において日本政府が「慰安婦」問題につき、軍の関与を認めて謝罪したことを挙げ、「合意」は「問題解決に向けての前進」と評価したことである。
 しかし、「日韓合意」で示された日本政府の謝罪は本当に「問題解決に向けての前進」と評価できるものだったのか? 

 (1)「日韓合意」から1週間後に『中央日報』が行った世論調査(201615日の同紙に掲載)で、「安倍首相の謝罪に誠意はあるか」という問いに対し、「ある」が21.5%(内訳:「非常にある」 1.7%、「ある程度ある」19.8%)だったのに対し、「ない」は76.6%(内訳:「あまりない」39.6%、「全くない」37.0%)だった。
 志位氏はこのような韓国での世論調査の結果をどう受け止めるのか? 韓国市民の理解不足とみるのか? それとも「そんなはずではなかった」なのか?

 (2)「日韓合意」に関して韓国内で反発が強まる中、日韓の市民の間から安倍首相に対して、慰安婦被害者に手紙を送るよう要請されたのに対して、安倍首相は前記のように、「毛頭そのようなことは考えない」と拒否した。
 これでも志位氏は「日韓合意」に盛られた日本政府の「謝罪」を問題の解決に資するものと評価するのか? 安倍首相の発言は「問題の最終的解決」にそぐわないと考えたのなら、なぜ抗議なり批判なりを表明しなかったのか? 

 (3)日本政府からの強い要求で「少女像」の移転に関する一項が「合意」に盛り込まれた。しかし、上記の『中央日報』の世論調査によると、20代では86.8%が移転に反対し、30代でも76.8%、40代では68.8%と、若い世代を中心に移転に反対が圧倒的に多かった。その後の世論調査でもこうした傾向は一貫している。
 この点を志位氏はどう受け止めるのか? それは談話を出した後の調査結果なので関知しないということなのか? 
 そもそも、志位氏は「少女像」が韓国内でどのような経緯で設置されたかを知らなかったのか? 外国公館の近辺にあのような像などを設置することは類似の先例に照らして「ウイーン条約」に抵触するものではないという事実認識が志位氏にはなかったのか? 
 (注)これについては筆者作成の次の資料(1314ページ)を参照いただきたい。
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kurogen_shozyozou_siryo.pdf

 (4)志位氏は、戦争犯罪の反省と継承に「最終的不可逆的」解決~ある時点を以て戦争犯罪を語り継ぐことを封印するという了解~があると本気で信じるのか? そんなことは断じてないというなら、「最終的不可逆的」解決という文言がキーワードになった「日韓合意」を十分吟味もせず、なぜ、早々に「問題解決に向けた前進」などと評価したのか? 

 (5)河野談話(1993年)では、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と謳われた。
 しかし、日本の高校の歴史教科書では2011年の検定で「慰安婦」関連記述がすべて消え、2015年の検定で「強制連行を直接示す資料は発見されなかった」という日本政府の見解を併記することを条件に、かろうじて1社の教科書に「慰安婦」関連の記述が復活したにとどまる。
 これは、日本政府が20141月に「教科書検定基準」を改定して、「閣議決定(閣僚会議議決)など政府の統一された見解がある場合には、これに基づいて記述すること」を要求したことの帰結と考えられる。
 志位氏は、河野談話とも相容れない、こうした日本政府の歴史教科書検定方針を不問にしたままで、従軍慰安婦問題の「最終的不可逆的解決」があり得ると考えているのか? そんなことはないというなら、慰安婦問題の記憶と継承を封印しようとした「日韓合意」は真の問題解決に向けた「前進」どころか、「逆行」だとなぜ批判しなかったのか? 

良心の「北斗七星」を自負するのなら

 私は2016128日にこのブログにアップした記事の中で、「日韓合意」に関して「日本共産党への4つの質問」を書いた。

「誤った12.29談話とのつじつま合わせに陥っている日本共産党への4つの質問~『従軍慰安婦』問題をめぐる日韓政治「決着」を考える(8)~」
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/122948-2d17.html

 長くなるので、再録は控えるが、末尾に「日本共産党が今回の日韓合意後も、正しい見地に立って『慰安婦問題』の解決に貢献する運動に取り組むには、合意を『前進』と評価した1229日の志位談話を撤回することが不可欠である。あの談話の誤りに頬かむりしたまま、合意後に示された韓国の世論、元『慰安婦』の意思とつじつまを合わせようとするから、我田引水の強弁に陥るのである」と書いた。

志位談話を撤回する意思があるのか、ないのか


 ここで、改めて志位氏に問いたい。
 日本共産党が今回の日韓合意後も、正しい見地に立って『慰安婦問題』の解決に貢献する運動に取り組むには、合意を『前進』と評価した1229日の志位談話を撤回することが不可欠と私は今でも考えている。
 志位氏はあの談話を撤回する意思があるのか、ないのか、ぜひ、答えてほしい。

 日本共産党は、戦前の日本共産党の一貫した立場を、自らの立ち位置を測る「北斗七星」にたとえた鶴見俊介氏の言葉を紹介してきた。
 また、かつて自民党が党内用の教科書で、「終始一貫戦争に反対してきた・・・・共産党は、他党にない道徳的権威を持っていた」と認めていたとも語ってきた。
 
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-15/2013071502_01_1.html

 私は道徳に権威は要らないと考えているが、厳しい弾圧と圧迫が吹き荒れた戦中も、天皇を頂点にした国家権力に抗って、非戦と平和、人権と市民の生活擁護のために戦った党員の献身に畏敬の気持ちを持っている。
 現在の日本共産党がそうした伝統を自党の「強み」と自負するのなら、戦時に国籍を問わず、無垢の女性を従軍慰安婦に駆り出し、彼女らの人間としての尊厳を極限まで蹂躙した国家犯罪の解決を軽々に扱ったとしか言いようがない志位談話を撤回するのが不可欠である。それをしないで、良心の「北斗七星」を自認できるはずがないし、「他党にない道徳的権威」を自負する資格もない。




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「日韓合意」の破綻の真因を逆立ちさせる日本政府とメディア、それに口をつむぐリベラル政党 

201816

 
遅まきながら、皆さま、よい新年をお迎えのことと思います。今年もよろしくお願いいたします。
 
今年の干支は戌年(いぬどし)。年賀状には一緒に過ごし、先に逝った姉妹犬の写真を載せました。

Photo


 新年の抱負といわれても、過去を引きづってしか先のことを考えない性分ですから、新年だからと言って、穏やかな記事を書かねばという意識はありません。

「日韓
合意」の欺瞞を暴いた韓国タスクフォースの報告書 

 韓国の旧日本軍「慰安婦」被害者問題合意検討タスクフォース(以下「TF」)は、2年前に日韓外相が発表した「慰安婦」問題に関する「日韓合意」に至る協議の過程を調査した報告書を昨年1227日に公表した。
 報告書によると、合意の核になった「不可逆的」という言葉は、もともとは韓国側が「謝罪の不可逆性」を強調するため先に言及したものだったという。それまで、日本政府が「謝罪」を表明した後も与党政治家などからそれを覆す発言繰り返されたことを踏まえて韓国の被害者団体が要求したことを受けた対応だった。
 ところが20154月の第4回高官級協議では日本側の強い要求によって「謝罪の不可逆性」が慰安婦問題「解決の不逆性」に反転した。
これでは国内世論の反発は避けられないと判断した韓国外交部は、「不可逆的」の表現を削除することが必要だという意見を大統領府に伝えたが受け入れられなかったという(「『最終的かつ不可逆的』慰安婦合意の文言は日本の返し技だった」『ハンギョレ新聞』日本語版、20171228日)。

以上、『ソウル聯合ニュース』20171227日、1501配信)も参照。
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171227-00000034-yonh-kr 

 また、報告書は、「日韓合意」には発表内容とは別に「裏合意」があったことを明らかにした。具体的には、
 ➀
(日本)韓国の市民団体「挺対協」が合意に不満を表明した場
  合、韓国政府が説得してほしい
  
(韓国)関連団体が意見表明を行った場合、政府として説得
   に努める、

 ⓶(日本)在韓日本大使館前の少女像を移転する韓国政府の計画
  を尋ねたい
  
(韓国)関連団体との協議を通して適切に解決されるよう努
   力する、

 
(日本)第三国における「慰安婦」像の設置は適切でない
  
(韓国)韓国政府としてそのような動きは支援しない、
 
 韓国政府が今後、「性奴隷」という単語を使わないよう希望
  
(韓国)公式名称は「日本軍慰安婦被害者問題」であること
   を再度、確認する、
というものだった。

 『ハンギョレ』(日本語版、20171229日、1327)は、こうした裏合意は実質的には日本政府の言い分のほとんどすべてを韓国政府が聞き入れたものと論評している。実際、報告書は、「裏合意」の存在およびその内容は「合意が被害者中心、国民中心ではなく、政府中心で行われたことを示している」と指摘した。

国賓級礼遇で慰安婦被害者を遇した文在寅大統領

 こうした検証結果の報告を踏まえ、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は4日、慰安婦被害者たちを大統領府での昼食会に招き、日本の謝罪と賠償を求めて一生を闘ってきた彼女たちを「1228合意」で再び傷つけた韓国政府の無分別を謝罪した。

「国賓級礼遇でハルモニら迎えた文大統領…『12・28拙速合意』正すための第一歩」(『ハンギョレ』(日本語版、201814日、2215
 
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29409.html


 スピーチの中で文大統領はこう述べて慰安婦被害者に謝罪したという。

『国を失ったとき、国民を守れず、解放によって国を取り戻した後は、ハルモニたちの傷を癒し、痛恨を晴らさねばならなかったにもかかわらず、それができなかった。むしろハルモニたちの意思に反する合意をしたことについて申し訳なく思っている。」 


 これに対し、被害者の一人、イ・ヨンスさんはこう答えた。
 「1228合意以来、毎日胸がつかえたように息苦しく、恨みがこみ上げてきた。大統領が合意が間違っていることをひとつひとつ明らかにしてくれて、胸がスカッとしており、ありがたくて泣きに泣いた。」「慰安婦問題に対する(日本政府の)公式謝罪、法的賠償を26年間も叫んできた。必ず闘って解決したい」
 同じく被害者のイ・オクソンさんは「私たちは先が長くない。謝罪だけは受けさせてほしい。大統領と政府を信じる」と語った。

 しかし、慰安婦被害者に対して行った韓国大統領の謝罪は、本来、加害国・日本の首相がとっくの昔に~百歩譲っても河野談話を発表した時に~慰安婦被害者のもとへ出向き、行うべきものだったはずです。それが被害者に通じるささやかな謝罪のはずだ。
 安倍首相自ら真珠湾へ出向き、米国側の戦死者に向けた謝罪と同じことを、なぜ韓国の、それも当時の日本軍の管理下で多くの兵士による性暴力によって、個人の尊厳を蹂躙された無垢な女性たちに対して、しない理由は何なのか?

謝罪を底抜けさせた安倍首相の「毛頭」発言

 しかし、安倍首相の口から出たのは謝罪の手紙を出すことさえ、「毛頭考えていない」という言葉だった。その理由は「手紙は合意に含まれていない」から、だった。

 「慰安婦被害者への手紙 安倍首相『毛頭考えていない』」
 (『聯合ニュース』2016 10 3 1548) 
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2016/10/03/0400000000AJP20161003000800882.HTML 

 この発言ほど、安倍首相の謝罪を以て、戦時慰安婦問題は区切りがついた、などと言えるものではないことを裏付ける事実はない。
 ところが、私が知る限り、この安倍発言を正面から批判した日本のメディアも(革新)政党も皆無だった。日本の論壇からも、立憲を自称する野党からも、こうした政府の対応を正面から批判する声はまったく聞こえてこない。

 日本政府も大方のメディアも、名ばかりの「謝罪」とお金を出したことで、日本は加害責任を果たした、慰安婦被害者、支援団体、韓国政府は、日本からのお金を受け取った以上、過去の被害、謝罪をもう、つべこべいうな、という心根なのか? 
 26年間、日本政府からの公式の謝罪と法的補償を待ち続けた慰安婦被害者が、不本意でも生きているうちに日本政府からの拠出金を受け取ったからといって、それと引き換えかのように、歴史上の問題を言い立てるなという道徳的資格があるのか? 

・日本はいつから、こんなに卑しい、理性の荒廃した国になったの
 か?

・「外国人」の尊厳は日本国憲法の、日本人の良識の「蚊帳の外」
 なのか?

・それとも、こと日韓・日中の歴史問題となると、日本の「進歩的」
 論者やリベラル政党さえも、日本社会に垂れ込める「同調圧力」
 に飲み込まれてしまうのか?
 


「北朝鮮問題で連携しなければならない時に」は誰に向かっていうべき言葉なのか? 

 韓国のタスクフォースの報告書に関し、河野外務大臣はさっそくコメントを発表。「合意に至る過程に問題があったとは考えられない」、「日本政府としては、韓国政府が報告書に基づいて既に実施に移されている合意を変更しようとするのであれば、日韓関係がマネージ不能となり、断じて受け入れられない」と語った(『産経ニュース』20171228日、0924) 
 安倍首相は韓国側のTF報告書に表立って反応していないが、『日本経済新聞』電子版(20171227日、2337)によると周囲に「合意は1ミリも動かない」と語ったという。
 これより先、安倍首相は昨年1219日に来日した康京和韓国外相と会談した際、「韓国とはさまざまな課題もあるが、両国がしっかりとコントロールしながら未来を切りひらいていきたい」と語り、日韓合意の着実な履行を強く要求したという(『毎日新聞』2017年1219日)。

 要するに、日本政府の反応に目新しいことは何もない。日本は「日韓合意」を忠実に履行してきた、合意の履行が暗礁に乗り上げているのは、挙げて韓国側が「不可逆的」にすると約束した「慰安婦」問題を蒸し返すことにある、という主張に尽きている。それに加えて、北朝鮮と米国間の軍事的緊張が高まっているなか、日米韓の連携が大事な時に、それを妨げるような歴史問題を再燃させるべきではないというのが日本政府の言い分である。

 しかし、北朝鮮問題が大事だからというなら、北朝鮮問題を歴史問題と絡めて軍事的な暴発の危険を回避する行動を妨げているのは誰なのか?
 韓国政府はもともと、北朝鮮問題と日韓の歴史問題を切り離す「ツートラック」方針を採用してきた。その結果、韓国側の呼びかけで南北朝鮮間の対話の場が曲がりなりにも開かれた。対話の行方は楽観できないし、北朝鮮が易々と軍事的挑発を止めるとは考えにくい。が、非難と軍事的挑発の応戦を繰り返すより、好ましい状況であることは間違いない。

 他方、トランプ政権は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が「核兵器のボタンは私の机の上にある」と威嚇発言したのに対し、「私の机の上にある核のボタンはもっと大きい」と言い返すなど、軍事的緊張を煽るような発言を繰り返している。そして安倍首相は、軍事的攻撃も含めたあらゆる選択肢があると公言するトランプ政権と世界で一番近い首脳になっている。

 
NHK政治部の岩田明子記者は、安倍政権5年目の日のニュース7に登場して、安倍首相がトランプ氏、プーチン氏らと信頼関係を築いたことを安倍政権の外交的成果と持ち上げた。
 
NHKの元気象予報士、半井小絵さんは安倍首相を囲む新春対談に登場し、「首相はプーチン露大統領やトランプ米大統領ら癖のある外国首脳と親しいので『猛獣使い』とも呼ばれているそうですが、何かコツがあるんでしょうか」と、賛辞にこれ努めた。
 しかし、そのトランプ氏はいまや国内でも国連でも孤立を極め、政権の維持さえ、危ぶまれる状況になっている。そうした手詰まり状態を「打開」するため、北朝鮮と「瀬戸際作戦」の競い合いをされてはたまらない。

 以上をまとめると、「北朝鮮問題で連携しなければならない時に」という言葉は韓国政府にではなく、トランプ政権とその「盟友」を自認する安倍首相にこそ向けなければならないのである。

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沖縄愛楽園で見たこと、知ったこと (上)

2017221

ハンセン病隔離収容所の史跡と資料館を訪ねて
 24日から3泊で沖縄へ出かけた。5日午後に那覇市内で開かれる歌人の集いに参加する連れ合いに同伴する形だったが、その前後、どこへ出かけるか、沖縄の地図と時刻表をにらみながら、いろいろ思案した。早い時期に決まったのは連れ合いが所望した名護市の屋我地にある愛楽園だ。
 19381110日、国頭(くにがみ)愛楽園として開園されたが、194171日には国に移管され、国立療養所となった。戦時中は米空軍の激しい爆撃に遭い、施設はほぼ全滅した。1952年、琉球政府が誕生したのに伴い、同政府の所管となり、沖縄愛楽園と改称された。さらに、1972年に沖縄の本土復帰に伴い、厚生省の所属となり、国立療養所となって現在に至っている。
 しかし、1938年の開園当初から、ハンセン病患者の療養所というより「隔離所」で、戦後も長く「らい予防法」によって、ハンセン病患者を隔離収容した「絶望の島」だった。
 
 24日、定刻の1325分に那覇空港に到着、空港のバスターミナルから高速バスに乗り継いで名護市へ。終点の名護バスターミナルで下車して予約していたタクシーに乗車。すく近くのホテルに荷物を預けてそのままタクシーで愛楽園へ向かうというあわただしい日程になった。
 といっても、愛楽園交流会館(ハンセン病問題の歴史を記す資料を所蔵・展示する施設)17時で閉館なので、館内の展示の閲覧は明日に回し、この日は夕暮れが迫った園内の史跡を道に迷いながら巡った。結局、廊下ですれ違った職員に教わって、沖縄戦の時に当時の早田園長が入所者に強権的に命じて掘らせた壕(早田壕)の跡地にたどり着くだけで日没となった。 

 翌5日は7時半にホテルを出発して貸し切りタクシーで桜が開花した今帰仁(なきじん)城址へ出かけた(詳しくは別の記事で書きたい)。1時間ほど懇切にガイドをしていただいたYさんにお礼を言って城址を出発、9時過ぎに愛楽園交流会館に到着した。2015年に開館したばかりの、ハンセン病問題の資料館だ。前もって連絡をしていた学芸員のAさんに玄関でお目にかかり、挨拶をして1階の資料展示室へ。

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 ハンセン病を医学的に説明した資料から始まり、愛楽園の開園当初の状況、入所者の手記などが展示されていた。

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 最初に私の目にとまったのは開園式の模様を撮った写真の下に展示された、愛楽園創設の功労者・青木恵哉が入所者を代表して述べたあいさつ文だった。

 「私等の真の悲しみと言うのは、そして最大の不幸と言うのは・・・癩者と名前を付けられると共に、望みを失う、理想と言う世界から絶縁される、其処にあるのです。」 

 参列者が次々と祝辞を述べる開園式で、その後、60年以上にわたって、ハンセン病患者、元患者が味わった苦難と絶望の歴史を予知するかのような言葉ではないか。あるいは、開園に至るまで、施設開設に猛反対の運動に遭遇し、水もない無人の小島に追いやられ、そこで孤独な生活を続けた青木恵哉ならではの言葉というべきか。 

私は動物以下なのか! 
 日中戦争が勃発した翌年1938年に設置された厚生省は戦争遂行のための「健民健兵」の名のもとに国民の体力向上を謳った。その流れのなかで、ハンセン病は近視、花柳病とともに兵力を削ぐ「三大国辱病」とみなされ、「撲滅」「駆除」すべきものとされた。そのために採られたのが武力を背景にした日本軍による「強制収容」だった。その時の模様を記した次のようなパネルがあった。当時19歳、沖縄島中部生まれの女性の手記である。

 「私は動物以下か  今すぐ来なさいって何も用意なかったよ。洗面道具と着替え12枚持って。大通りに行ったらね、トラックがあって待っていた。1人来てない人がいて待っていたから人がたくさん見に来てるんだ。『私見せ物か、追っ払え。私は帰る』言うたよ、『帰らせん』言うていたけどね。トラックの荷台にもうそのままよ。上もないしね。あちこち寄って、人乗せて。15名、・・・途中で雨降って。『傘ください』言うたら傘ないって。『バショウの葉っぱでも取っておきなさい』と言うからよ、『私は動物ですか。動物でもカバーかぶせるんだよ、雨濡らしたり、動物以下か。あんなのあるか』って怒ったよ。」

 その横には、乳飲み子と引き離され、車に乗せられて園に連れて来られたという当時34歳の女性の手記が展示されていた。

銃剣で威嚇して親族から引きはがし
 軍部による強制収容の中でも最大規模のものは、沖縄に配置された第9師団の軍医・日戸修一が中心になって19449月に行われた「日戸収容」だった。この時は当時の園長・早田や県衛生課、警察、保健婦も動員された。展示は、その時の模様をこう記している。

 「住民と将兵が地域で混在する中、日本軍はハンセン病患者に注意を向け始めた。住民と接触する機会が増えた将兵にハンセン病がうつることを恐れたのである。患者は家の裏座や離れ、家畜小屋の屋根裏などでひっそりと暮らしていたが、日本軍は武力を背景に、患者を愛楽園へ強権的に収容していった。」

 「日本刀や銃剣で威嚇し、農作業中の者を着の身着のままトラックに詰め込んだり、親族から無理やり引きはがしたりするなど有無をいわせぬものであった。」

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すべての夢を捨てないと暮らしていけない
 ではこうして家族から強制的に絶縁させられ、愛楽園に隔離された人々の「壁の中の暮らし」はどのようなものだったか?

 「壁の中の暮らし 療養所の壁の中に入ると、壁の向こうを『社会』と呼ぶようになる。ここで生きるしかないと思っても、家族への断ち難い思いがある。
 対岸の国頭(くにがみ)を望む東の浜は、鳥の卵を取る子どもたちの活躍の場になり、夕暮れともなれば、昼間は患者作業で働く若い男女の語らいの場になる。
 夕暮れ時、向こう岸を走る車の付いたり消えたりする灯りを一人浜に座って眺める少年は『ここから出て家に帰ることができるのだろうか』と涙を流す。
 東の浜は、家族と断たれた人々が岩場に身を投げ、松の枝に体を下げ、自らの命を絶った場所でもある。そして、堕胎された胎児が埋葬されたのも東の浜である。」

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 こうした当時の療養所の様子を収容された1人の男性(推定年齢20歳代前半)は次のように語っている。

 「夢を捨てて 社会にいることは許されなかったし、家に帰れば、家全体に迷惑もかかるし、どちらを向いても自分たちの出ていく場所はなかったわけです。
 もちろん、こういう解放される時代もあるといえば、出ていくための準備もしていたでしょうが、どうしても療養所で一生を終えるんだという気持ちで過ごしてきたんですから。私たちが社会で家庭をつくるということはもうまったくの夢の夢でね。夢の中でもない。全ての思いを、すべての思いを捨て去っていく。そうしなければ暮らしていけないという、そういう当時の現実ですから。」


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「和解」という名の歴史の抹消に抗って

20171月2日

新年のごあいさつを申し上げます。
今年も交誼のほど、よろしくお願いいたします。

  年は改まっても現実に切れ目はない。私にとって印象深かったのは、安倍首相が真珠湾訪問にあたって日米間の戦争責任問題の幕引きに「和解」というフレーズを使ったこと、このフレーズは「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓「合意」の伏線となった朴裕河氏の言説のキーワードと奇しくも一致したということである。
  ベルラーシのノーベル文学賞作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシュエービッチは昨年11月に来日し、東京外語大で学生と対話した。その時、彼女は「福島を訪ねて何を思ったか」と尋ねられ、「日本社会にはロシアと同様、抵抗という文化がないように感じる」と語った(『東京新聞』(20161129日)。

「抵抗の文化」の日韓落差
  私には比較文化論を語る素養はないが、この「和解」というフレーズは、日本における「抵抗の文化」の脆弱さと大変親和的である。個別の政策では政権が目指す方向に反対の意見が過半であるにも関わらず、安倍内閣支持率が横ばいか、上向く傾向さえある有力な理由として、現政権に代わる受け皿が有権者に見えてこないという政治状況がある。
  それとともに、安倍首相が巧みに駆使する情緒的話法―――「和解」、「寛容」、「将来の世代にまで過去の罪を背負わせてはならない」、「未来志向で世界の平和を語るべき」といった情緒的な語りかけ―――に漠然と共感し、歴史を直視する理性がへたれてしまう日本国民の心性が安倍政権への支持を繋ぎとめる一因になっているように思える。

  これに対し、韓国では、日韓「合意」から1年経った今でも、「合意」の破棄を求める意見が59.0%を占め、「維持すべきだ」(25.5%)の倍以上になっている(韓国世論調査会社・リアルメーターが昨年1228日に行った調査結果。『ソウル聯合ニュース』20161229日) 合意直後の一昨年1230日の調査では、合意は「韓国政府の誤りだ」とする回答が50.7%、「評価する」という回答が43.2%だったことと比べると、昨年1年間で日韓「合意」に対する否定的意見が増えたことになる。
 
  このような世論に押されてか、与党セリヌ党内の非朴派29人が同党から離党したことに伴い、第1党に浮上した最大野党「共に民主党」の禹相虎(ウ・サンホ)院内代表は、日韓慰安婦合意は屈辱的だとして、「政権交代後、(日韓合意を)必ず無効にするよう努力する」と発言している(『ソウル聯合ニュース』20161228日)。
  さらに、日韓「合意」の破棄を求める市民団体や地元大学生らは、昨年大晦日、プサン(釜山)の日本総領事館前に「慰安婦」問題を象徴する少女像を設置し、除幕式を行った。地元区長は、いったんは像の設置を許可せず強制撤去したものの、市民から抗議が殺到、「この問題をめぐる世論の反発に地方自治体が耐えるのは難しい」として、一転、少女像の設置を容認した。

「リベラル有識者」にまで浸透した「和解」というマジック・ワード
  ところが日本では、右派だけでなく全国紙も、安倍首相の歴史認識には一定の批判を加えるものの、日韓関係、「慰安婦」問題となると、社説で、「合意の着実な実行」を促す状況である。
  NHKは韓国側の世論の動向など意に介さないかのように、「慰安婦問題での合意を契機に日韓関係は去年、大きく改善しました」と伝え、その例として、安全保障上の機密情報を共有・保護するための協定=GSOMIAが締結されたことを挙げた(NHK NEWS WEB, 201711日、404)。
    「慰安婦」問題での「合意」の成果として、教科書での「慰安婦」問題の記憶と継承などには一切触れず、異次元の安全保障に関する協定の成立を挙げるとはどういう心算なのか? 

  さらに、市民団体や通称「リベラル有識者」の間でも、「和解」論を唱えられると、腰が引ける状況が続いている。それどころか、「和解の力」を信奉し、説法 する人物さえ現れている。朴裕河『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』2006年、平凡社、の帯に付けられた上野千鶴子氏の次のような跋は、その典型である。

  「朴さんは、和解があるとすれば、それは被害者の側の赦しから始まる、という。それを言える特権は『被害者』の側にしかない。わたしたち日本の読者はそれにつけこんではならない。彼女の次の言葉をメッセ-ジとして受け取る、日本の読者の責任は重いだろう。 『被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になるはずである。」

  突っ込みどころ満載の短文である。

  「和解があるとすれば、それは被害者の側の赦しから始まる」?! 被害者が赦しの態度を示さなければ、和解は進まない、とはどういう意味か? 韓国人としての度量を示したかったのか? 歴史認識が問われる場で、そんな度量は必要ないばかりか、歴史修正主義をはびこらせ、過去を忘れさせたい加害者を喜ばせるだけの情緒的愚論である。
 
   「わたしたち日本の読者はそれにつけこんではならない。」?! つけこんでいるのは、ほかならぬ上野千鶴子氏ではないか。被害者の赦しから和解が始まるという朴裕河氏の言葉に飛びつき、「被害者の度量と加害者の慎み」を天秤にかける上野氏の言葉こそ、被害者の「度量」につけこむ悪質で低俗な発想である。

  日韓「合意」をめぐって、この1年間、韓国内で起こった出来事と日本国内で起こった言説を対比すると、「抵抗の文化」の彼我の落差を痛感させられる。数少ない救いはというと、昨年、わが国で『忘却のための「和解」-「帝国の慰安婦」と日本の責任』(世織書房)という鋭い書名の書物が出版されたことである。著者は鄭栄桓氏である。この記事のタイトルも、鄭氏の書物の書名をヒントにしたものである。

  安倍政権の「棄民政治」と対峙し、退場させるには、安倍政権の個別の主要な政策に過半の有権者が反対している民意の受け皿を作ることが緊急の課題である。目下、野党各党が唱えている「野党と市民の共闘」がそれに応えるものか、私は懐疑的であるが、懐疑しているだけでは現実は動かない。今の政権がダメというなら、それに代わる政権構想とそれを担う主体作りの形を指し示す必要がある。
   一介の研究者に何ができるかと言われるとそれまでだが、論壇をハシゴする口まかせの「著名人」に任せては市民の災禍は加重しかねない。「有識者」などという官製用語、マスコミ愛用の呼称を跳ねつける気概を持って、一人一人の市民が「主人なし」の自律した立場に徹して、意見を発信し、行動を起こす以外ない。
 その際には、「アベ政治を許すな」と唱和するだけでなく、自分たちも情緒的安倍話法に
毅然と対峙できる理性と知力を研ぎ澄まし、安倍話法に染まりがちな世論を対話の中で変えていく努力が不可欠である。

領事機関の威厳を害するのは誰か?
  プサンの日本総領事館前に「少女像」が設置されたことについて、1230日、外務省の杉山事務次官は「少女像の設置は去年12月の日韓合意の精神に反するもので極めて遺憾だ。領事機関の安寧を妨害し威厳を侵害するもので、問題だ」と韓国のイ・ジュンギュ駐日大使に電話で伝えたという(NHK NEWS WEB, 2016.12.30,19:00)。
 
 領事機関の安寧を妨害する? どういう安寧がどう妨害されるのか? 残忍な加害の歴史を抹消し、次世代にその責任を負わせず、日本の誇りを高からしめたいと願望する安倍首相の心情の安寧は害されるかもしれないが、戦時にアジア諸国の女性の人権と尊厳を蹂躙する行為を犯した日本人兵士も同じ思いなのか? 何よりも安倍氏の心の安寧と元「慰安婦」の人間としての尊厳とどちらが重いのか?

  領事機関の威厳を侵害する? どういう威厳がどう侵害されるのか? 被害国のアジア諸国の政府、市民からばかりか、アメリカからさえも明確な反省を求められている「慰安婦」問題について、一片の手紙を外務大臣に託すのみで、謝罪の手紙を直接、元「慰安婦」に届けるよう求められると、「毛頭そのつもりはない」と言い放つ安倍首相の傲慢な態度こそ、日本の品格と威厳を損なう世界的羞恥である。

ドイツのナチス戦争犯罪記憶の碑を見よ
 〔ユダヤ人のための記念碑〕
 領事館の近くに、自国が犯した戦争犯罪の記憶をとどめる像を設置されること国会の威厳に係わる行為とみなすこと自体、国際比較では特異な発想である。ドイツにおける戦争犯罪の記憶と継承の試みは、それを悟るための好例である。
 ベルリンを訪ねた人なら誰でも、ポツダム広場からブランデンブルグ門に向かって進むと間もなく、広大な無記名の石碑に出くわす。ホロコーストで「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための
記念碑」である。

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                            2008年8月25日撮影

   建設計画は東西ドイツの統一前の1988年に提起されたが、慰霊の対象をユダヤ人だけにするのか、規模はどれくらいにするのかなどをめぐって議論が続いた末、1999年連邦議会の決定で建設が本決まりになった。完成したのは2005年である。
  ここで留意したいのは、①発議から完成までの間にドイツ国内でさまざまな議論があったが、「国の威厳を害する」などといった反対は問題にならなかったこと、②被害国に要求されてではなく、自国の連邦議会の決定として建設されたこと、③ベルリン屈指の観光地、ブランデンブルグの近くに設置されたこと、である。

 〔シンティ・ロマの記念碑〕
  上で、ユダヤ人のための記念碑の建設に長い年月を要した大きな理由の一つは慰霊の対象をユダヤ人に限るのか、ナチスによるその他の迫害・虐殺の犠牲者――シンティ・ロマ(通称、ジプシ-と呼ばれたが、ナチスが用いた差別的用語であるとして、現在は使われていない)や障害者なども含めるのかをめぐって激しい議論が続いたことにある。
  結局、2005年にブランデンブルグ門の南に設置されたホロコースト記念碑は対象をヨーロッパのユダヤ人に限ることで決着した。20088月に私が連れ合いとベルリンを訪ね、ポツダム広場からブランデンブルグ門まで歩いた時に出あったのもこの石碑だった。
  ところが、201410月にベルリンを再訪し、連邦議会議事堂へ向かう歩道を通り過ぎようとすると、道路わきにアーチ型の入り口があり、広場の中を覗くと円形の池とそのまわりにまだ日も経たない花が地面に置かれているのが見えてきた。「何だろう、確か、2008年に来た時にはこんな広場はなかったはずだが」と戸惑いながら、広場の池に近づくと、「EU COMISSION」と記名された帯が添えられた花が目にとまった。

40_3             2014年10月26日撮影

  池をゆっくり一周してなにやら碑文が刻まれた塀に近づくと、「Chronologie des Volkermordes an den Sinti und Roma」というタイトルが付いた説明版があった。予備知識がなかったので詳しい意味は分からなかったが、”Roma”という用語から、どうやら「ジプシー」の慰霊の碑らしいとわかってきた。
  後で調べると、”Sinti und Roma”もナチス・ドイツの時代に劣等人種と決めつけられ、強制収用所(「ジプシー収容所」と呼ばれた)に送り込まれるなど残酷な迫害を受けていたこと、そのため、ユダヤ人だけでなく、彼ら彼女らの迫害の歴史も後世に伝える記念碑を残すべきだという議論が続いていたことが分かった。
  この「シンティ・ロマの記念碑」が建設されたのは201210月。私たちが最初にベルリンを訪ねてから4年後のことだった。その場所は、連邦議会議事堂とブランデンブルグ門に挟まれたベルリンでも有数の観光地である。道路を隔てた向かいは広大なティアガルテンである。
  本国のこうした場所に自国が犯した戦争犯罪・民族迫害の歴史を記す建造物を自らの意思で設置したドイツと、海外の大使館、領事館のそばに、自国の戦争犯罪の歴史を記す像を被害国の市民の意思で設置されたことを「自国の威厳を犯すものと」と抗議し、撤去を要求する国と、どちらが国家としての品格を備えているか、わずかな理性があれば、答えは明らかである。



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敗戦の日に想い起こす原爆の詩歌

2016815

 815日になると私は自分が惹きつけられた詩歌を想い起す。そして、万言にも優る詩歌の力―――記憶を伝承する力―――を再認識させられる。中でも、年中行事的な神妙でお行儀のよい「平和への願い」よりも、言わず語りに戦禍のリアルを詠んだ詩歌に惹かれる。

 「許させ」と掌を合わせつつ救い呼ばふ人を見過ごし夫護りてゆく
                     (原田君枝/主婦)

 親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔
                     (中 浄人/教員)

 生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
                     (小森正美/商業)

 濠内に妻を呼びつつ息絶ゆる鮮人の声しみて忘れず 
                     (名柄敏子/酒類商)

 原爆の責任裁判あって良し戦勝国の罪無しとは人道にあらず 
                     (小森正美/商業)

   (以上、『歌集 広島』1954年刊所収。ここでは家永三郎・小田
  切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』17、『原爆歌集・句集 
  広島編』(栗原貞子・吉波曽死/新編、1991年、日本図書セン
  ター所収による)


 炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明けを待つ

 ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらして泣きわめ
 き行く

 武器持たぬ我等国民(くにたみ)大懺悔の心を持して深信に生きむ

 (以上、正田篠枝、私家版歌集『さんげ』より)


 黒焦げの女が壁にへばりつき悪獣めきし血を滴らす

 総懺悔などと美辞もつ過去がありて原爆死すら言へざりき日本 
                      小山誉美(短歌長崎)

 タイヤなきリヤカー曳きて暗闇に重傷(いたで)の兄を乗せて避難
 す
                      阿鼻叫喚 木下隆雄

 (以上、201091日に訪れた長崎県立図書館に配架されていた
  長崎歌人会編『原爆歌集ながさき』に収められた短歌より)


  何も彼も いやになりました
  原子野に屹立する巨大な平和像
  それはいい それはいいけれど
  そのお金で 何とかならなかったのかしら
   “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”
  さもしいといって下さいますな、
  原爆後十年をぎりぎりに生きる
  被災者の偽らざる心境です。
  (福田須磨子『『原子野』(1958年刊の冒頭に収められた詩)

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映像で知った演劇人のむごたらしい被爆死 ~被爆71年 桜隊原爆忌に参加して~

201687
 
 昨日、目黒の五百羅漢寺で開かれた「被爆71 桜隊原爆忌」に参加した。朝から、この夏一番と思える夏の日射しがきつかった。私は3回目の参加だが、今年は連れ合いと一緒に出掛けた。

被爆71年 桜隊原爆忌 原爆殉難者追悼会
http://www.photo-make.jp/hm_4/sakura_53.html

移動劇団「桜隊」を知っていますか?
 「桜隊原爆忌の会」のHPに掲載されている説明文をそのまま引用させてもらう。

 「移動演劇隊『桜隊』は、194586日、広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し、居合わせた9名全員の命を奪われました。
 メンバーには、存命であれば戦後の演劇界を大きく変えたであろうといわれる、名優丸山定夫。元宝塚スターで「映画無法松の一生」で全国のファンを魅了した園井恵子。裸体にシーツをまとい避難列車で帰郷し、東大病院へ入院し原爆症一号患者として亡くなった仲みどりなどがいます。・・・・・
 戦後、徳川夢声氏の呼びかけで、多くの関係者の協力により目黒の五百羅漢寺に『桜隊原爆殉難碑』が建立され、今日まで毎年86日に「移動演劇・桜隊原爆忌」として追悼会を催しております。」

 「桜隊原爆忌」の第1回は19751019日。参加者52名。1981年以降、毎年86日と定着したという。
 
9名全員が命を奪われたというが、約半数が宿舎でほぼ即死と見られ、生き延びた人々のその後の消息はバラバラだった。

初めて見た映画「さくら隊散る」
 今年の「桜隊原爆忌」の特徴は、碑前祭のあと、桜隊の記録映画「さくら隊散る」(新藤兼人監督、1988年作品)が上映されたことだった。生き延びた丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどりの被爆後の消息と最期の姿を再現するとともに、彼らにゆかりの人々の生前の証言が随所に織り込まれ、緊迫感がみなぎる作品だった。
 丸山定夫の名優ぶりと剛毅な中にも繊細な人柄を語った千田是也、滝沢修ら、園井恵子の魅力を語る宝塚歌劇団の同僚、2ヶ月後に結婚しようという言葉を残して高山象三と別れたという当時の恋人、遠路上京して母の実家に着いた仲みどりを診察した東京帝国大学の医師・医学生などの証言は誠に生々しく、貴重な原爆受難記録にもなっていた。

 また、長椅子に横たわった宇野重吉が戦時中、大政翼賛会文化部に呼び出され、国策への忠誠を誓う誓約書に署名をさせられた屈辱を何度も語る姿が痛々しくも、表情に悔しさがにじみ出ていた。と同時に、そうした戦時中の屈辱的体験について、今なお口をつむぐ文化人がいかにおびただしいことかと想像もした。

軽薄で欺瞞的な「未来志向」
 それにしても、映画を見終えて脳裏に刻まれたのは、丸山定夫、高山象三、園井恵子、仲みどりの最期の姿の共通性である。日を追うごとに髪の毛がごそっと抜け落ち、布団、ベッドの上で水を求めてのたうちまわる姿、吐血とともに息を引き取る姿・・・・どれも被爆死のむごたらしさを赤裸々に伝えるシーンだった。

 こうしたシーンをみて私は、オバマ大統領の広島訪問を実現するための譲歩かのように「広島の被爆者は謝罪を求めない」という物言いが広まったことを思い起こした。しかし、それが被爆者の今となってはの一面の心情ではあっても、本心であろうはずがない、いわんや、無念の死を強制された被爆者の本意を代弁するかのように語り広めるのは死者に対する冒涜であるという思いを再認識した。

 核なき世界を求める未来志向? 自らが犯した人道に対する罪と向き合わず、不都合な過去から顔をそむけて何が未来志向か!
 むごたらしい被爆死、無念の被爆死のリアルな実態を直視し、そこからこみ上げる恨み、憤怒に突き動かされ、それらを昇華した平和へのエネルギーこそ、この先、1人の被爆者も生まないための運動に向かう本物の未来志向ではないのか? 過去と未来を身勝手に切り分けるな!

 貴重な記録映画を残した関係者、桜隊の被爆死を慰霊し、その実相を伝える活動に務めておられる方々の尽力に深い敬意を覚えた。

 慰霊忌のあと、連れ合いは、偶然、会場で出会った元職場の友人とお茶を飲みながら話をするというので、私は一足先に帰路についた。余りの暑さに、2時間足らずかけて帰宅すると、すぐに冷えた「プラム」をかじって一息ついた。


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「謝罪を求めない被爆者」の舞台裏

2016531

「歴史的和解」の政治ショー
 527日夕刻、広島平和公園で演説を終えたオバマ米大統領が目の前で演説を聴いた日本原水爆被害者団体協議会(以下、「日本被団協」と略す)代表委員の坪井直さんと笑みを浮かべながら握手を交わし、同じく感極まって涙ぐむ被爆者の森重昭さんを抱きしめる姿がテレビ、新聞に大きく掲載された。原爆投下をめぐる歴史的和解を演出するのにふさわしい映像となった。
 また、原爆投下への謝罪はしないという条件でオバマ大統領が広島を訪問することが決まって以降も、「謝罪を巡り揺れる被爆者」(『朝日新聞』2016513日)といった記事が見られた。しかし、それから10日後には「『謝罪求めない』78% 被爆者115人アンケート 米大統領訪問優先の傾向」(共同通信調査、『東京新聞』2016523日)という記事が大きく掲載され、<被爆者の多数は謝罪を求めていない>が定説になった感があった。

 ところが、528日、ネットでこの問題に関する情報を検索しているうちに、日本被団協事務局次長の藤森俊希さんが519日に日本外国特派員協会で行った記者会見で気になる発言をしていたことを知った。 ネットでその記者会見の全容を記録した録画を探したら、すぐに見つかった。プレゼンテ-ターは日本被団協事務局長の田中煕巳さんと藤森さんの2人。
https://www.youtube.com/watch?v=abdpDmLXRbU&feature=youtu.be&t=29m3s

舞台裏を語った日本被団協事務局次長・藤森俊希さん
 私が注目した箇所はいくつかあったが、この記事のタイトルに関わる藤森さんの発言録を摘記しておく。( )内の数字は各発言の開始時刻。

 (1520~)「藤森 私たち被爆者が〔518日にまとめた要望書で〕最初にアメリカに対して掲げているのは、あの原爆投下は人道に反し、国際法に反したものだと大統領が確認するということです。その非人道的で国際法に違反する原爆投下について謝罪することを以て、その違法性、非人道性を確認することを私たちは要求しています。」

 (2903~)「藤森 この間、私は、ここにいらっしゃる方ではありませんけれども、メディアの方からたくさん取材を受けました。そのほとんどの人がなんとか私の言葉からオバマ大統領への謝罪を求めないという言葉を引き出そうとしておりました。要するに、オバマ大統領がサミットのあと、広島へ来られるように雰囲気として謝罪しないというムードを盛り立てようという力が働いたのだと思います。その力がどこから働いたかはちょっと控えておきますでも、多くの被爆者は謝罪しなくていいとは思っておりません。」

 このような藤森さんの発言と、528日、夕刻のTBS「報道特集」が「歴史的瞬間!大統領の演説に被爆者は・・・」と題して放送した番組のなかで中国放送の小林秀康キャスターが発言した次の言葉と重ね合わせて、いまさらながら「空気による世論形成」の薄気味悪さを痛感した。

議論を封じ込めた「空気」
 「小林康秀 ・・・・オバマ大統領の訪問を多くの被爆者、広島市民が好意的に受け止めています。しかし、訪問が取りざたされてから気になっていたのは、大統領が来ると言う事実ばかりが重視されてしまいまして、アメリカに謝罪を求める声であるとか、原爆投下の是非を議論するといったような声を発しにくい空気があると感じたんですね。少なからず、そう思っている被爆者や広島市民はいます。
 それは過去のあやまちを認めなければ、未来も同じことを繰り返してしまうのではないかという思いからなんですけれども。だからこそ、オバマ大統領が来たということだけで浮かれてはいけないと思うんです。彼が今後、どういう行動を取っていくのか、それを冷静に見て行かなくてはいけないと思います。」

 空気によって作られる世論・・・・・わが国の民意の質を考える時、避けて通れない重いテーマである。
 今回のオバマ大統領の広島訪問について、私は書きたいことが山積しているが、すぐにとはいかない。そこで、これだけはと思うことを書いておく。

生を絶たれた被爆者の意思を誰が代弁するのか
 それにしても、広島の被爆者に向かってオバマ大統領に謝罪を求めるかと問いかけること自体、愚問である。藤森さんも発言したとおり、被爆者が謝罪を求めるか否か以前に、原爆投下による民間人の殺傷は国際法に反する反人道的違法行為である。それは真珠湾奇襲で日本軍が多数の米国人を殺害した事実と相殺できるはずがない。
 そうした原爆投下で一瞬に生を断ち切られた人々、さらに言えば、戦争末期に日本各地で行われた米軍による無差別空襲で命を絶たれた多くの人々の意思を誰が代弁できるのか? 彼らの無念を置き去りにして「被爆者の8割は謝罪を求めていない」などと報道する無神経さを指摘する人間が見当たらないことこそ異常である。

モルモットにされに行くなとABCCの被爆調書をやぶりて捨つる
                     (今元春江/文選工)

広島の乙女の顔のケロイドはアメリカのなせし烙印にして
                    (河内 格/獣医師)

原爆乙女の顔面整形を援助すとスターらサインす花やかに悲し
                    (竹内多一/無職)

声涼しくアリランの唄歌ひたる朝鮮乙女間もなく死にたり
                    (神田満寿/無職)

濠内に妻を呼びつつ息絶ゆる鮮人の声しみて忘れず
                    (名柄敏子/酒類商)

「許させ」と掌を合わせつつ救い呼ばふ人を見過ごし夫護りてゆく
                    (原田君枝/主婦)


親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔
                    (中 浄人/教員)

生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
                    (小森正美/商業)

原爆の責任裁判あって良し戦勝国の罪無しとは人道にあらず
                    (小森正美/商業)

(以上、『歌集 広島』1954年刊所収。ここでは家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』17、『原爆歌集・句集 広島編』(栗原貞子・吉波曽死/新編、1991年、日本図書センター所収による)



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徐京植氏の和田春樹氏に対する全面批判の論稿を読んで(上)~「従軍慰安婦」問題をめぐる日韓政治「決着」を考える(9)~

2016312
 

 標題の連載テーマについて128日に8回目の記事を書いてから、次は朴裕河『帝国の慰安婦』論やら、上野千鶴子氏の「従軍慰安婦」論について論評したいと思いながら、長らく中断してしまった。
 今回、続編を書こうと思い立ったのは今朝の『ハンギョレ』新聞に「日本知識人の覚醒を促す 和田春樹先生への手紙」と題する徐京植(ソギョンシク)氏の長文の寄稿が掲載されたことを知ったのがきっかけである。まずは、3回に分けて掲載された徐氏の論稿のURLと小見出しを書き出しておきたい。

徐氏の論稿の構成
 
1http://japan.hani.co.kr/arti/international/23573.html
  ・「最終解決」
  ・暗鬱な風景
  ・初心
  ・「第四の好機」
2http://japan.hani.co.kr/arti/international/23576.html
  ・アジア女性基金
  ・亀裂
  ・初期設定の誤り
  ・逆方向のベクトル
  ・現実主義
  ・当事者のため?
3http://japan.hani.co.kr/arti/international/23577.html
  ・朴裕河現象
  ・「邪悪なる路」

理よりも「同志的」心情を立てる日本社会にとっての反面教師
 徐氏の論稿に触発された―――言うまでもなく無批判的な「共感」ではない―――のは2つの理由からである。
 一つは、徐氏が、「私自身の肉親も含めて、苦難を嘗めた者たちからみれば、恩人ともいえる」和田春樹氏に対し、心情を絡めず、和田氏の「和解の思想」に対し徹底した理性的全面的な批判を展開している点である。
 
たとえば、徐氏は、和田氏がアジア女性基金を推進する中心的人物に就いたことに「驚愕した」と記し、1953年、日韓会談が「久保田発言」で中断されたとき、当時17歳の高校生であった和田氏が、「昔のことはすまなかったという気持ちを日本側がもつか持たぬかは会談の基礎、この点について歩み寄りの余地はない」という韓国側の主張は「朝鮮民衆の声」であり傾聴されるべきだと思った、そのとき以来、自分は日本国民の考えが改められるように願ってきた、と語ったことを振り返り、「その思いがなぜアジア女性基金推進へと繋がっていくのか、論理がうまくつながりません」と疑問を突きつけている。

 さらに、徐氏は、「当事者のため?」という小見出しがついた箇所で、基金の「償い金」支給事業を正当化するときに、よく用いられる「被害当事者は高齢化しており残り時間は少ない。せめて償い金を受け取ってもらって心の安らぎを与えたい」という物言いを「国家責任回避装置であるアジア女性基金に『道徳』」という粉飾をこらす機能を果たしている」と切り込み、こうしたレトリックの普及に小さくない役割を買って出た「〔和田〕先生は徹頭徹尾、国家によって利用されたということになるでしょう」と断罪している。

 日本社会では、「世間」と称される空間ばかりでなく、左派とかリベラルとか称される人々の間でも、否、そうした人々の間ではよけいに、過去の親交とか「同志的配慮」とやらを理由(口実?)にして、原理原則に関わる意見の相違を脇に置く傾向が強まっているように見受けられる。それが強権政治や右派イデオロギーと思想的に対峙できない脆弱さの原因にもなっている。
 今回の徐氏の寄稿は、このような日本社会の理性よりも心情を立てる陥穽、長い目で見た共同の意思の思想的底上げよりも、当座の協調を重んじる機会主義的言動の危うさに身をもって警鐘を鳴らすかのような論理の切れの良さ、鋭さがちりばめられている。この点に私は魅せられた。

日本のリベラル知識人の思想の真贋に対する問いかけ
 
 私が徐氏の寄稿に注目したもう一つの理由は、「日本知識人の覚醒を促す」という寄稿のメイン・タイトルにもあるように、徐氏が和田春樹氏の「和解の思想」の質を問うだけでなく、「リベラル」という枕詞を付けられる日本の知識人の思想の質の真贋にまで鋭く、仮借なく切り込んでいる点である。

 たとえば、寄稿の(3)で徐氏は「朴裕河現象」を取り上げ、同書の歴史認識と「和解の思想」の特徴的な誤りを鋭く指摘すると同時に、「朴教授の著作そのものよりも深刻な問題は、それが日本で持てはやされている現象です」と危惧を提起している。
 この点をさらに、踏み込んで徐氏は、「『帝国の慰安婦』には(しばしば互いに矛盾する)いろいろなことが書かれていますが、執拗に繰り返される核心的主張は、慰安婦連行の責任主体は『業者』であり『軍』ではない、『軍』の法的な責任は問えない、というものです」と指摘すると同時に、「この主張は、実際のところ、長年にわたる日本政府の主張と見事に一致しています」、「安倍首相が『人身売買の犠牲者』という言葉を使うのも、『業者』に責任転嫁して国家責任を薄めようとする底意を表しています」と続けている。
 ここで徐氏が強調するのは、「嘆かわしいことは、このような朴教授の著書が日本ではいくつかの賞を受賞し、人気を得ている現象」である。徐氏は「なぜ、こういうことが起こるのだろうか?」と自問、かつての自著「和解という名の暴力」で述べた次のような推論を改めて記している。

 「朴裕河の言説が日本のリベラル派の秘められた欲求にぴたりと合致するからであろう。/彼らは右派の露骨な国家主義には反対であり、自らを非合理的で狂信的な右派からは区別される理性的な民主主義者であると自任している。しかし、それと同時に、近代史の全過程を通じて北海道、沖縄、台湾、朝鮮、そして満州国と植民地支配を拡大することによって獲得された日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じているのである。」

 徐氏のこの前段の指摘は、以前、この私設のブログにもコメントとして紹介があった。正直な感想として、「日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じている」という意識が日本のリベラル派にも浸透しているとまで私は考えていない。この点では徐氏と認識を異にしている。

「お詫び」は日本人が自らの「良心」を慰めるためのものではなかったか?
 しかし、ありていに言うと、安倍政権批判を繰り広げる日本の市民の間で―――さらに、そのような行動を呼びかけているメンバーや革新政党の間でもーーーアジア女性基金が「被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの『良心』を慰めるためのものだったのではないのか。それは謙虚の衣をまとった自己中心主義ではないのか、その心性を克服することこそが問われている課題ではないのか」(徐氏、今回の寄稿の(2))という洞察をどこまで理解できるのか、この問題にどれほど関心を向け、理性的に考える思想を持ち合せているのかという疑問を私は拭えないでいる。

 こうした疑義、批判、思想面のもろさは、昨年12月の日韓「合意」の際に安倍首相が従軍「慰安婦」問題について韓国政府に「お詫び」の言葉を伝え、「日本軍の関与」を認めたことを以てーーー「不可逆的」という条件が付けられたことも、10億円の拠出と交換条件で日本政府が「少女像」の撤去を要求したという加害国と被害国の関係を倒錯したような外交にも一切触れず―――「慰安婦」問題の解決に向けた前進と評価した日本の革新政党にも、当てはまる。

 徐氏も指摘するように、この日韓「合意」はアジア女性基金設立の時と同じ「和解の思想」を低意とし、韓国政府がそれに卑屈に同調した結果、成立したものである。そこでも、日本政府の「お詫びの言葉」は、朝鮮半島の「被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの『良心』を慰めるためのものだったのではないのか」という根本的疑義を私は持っているし、なによりも当の被害者や韓国社会にそのような疑義や不信が今も渦巻いている。こうした事実について黙して語らずの態度のまま、立憲主義の基礎には個人の尊厳を重んじる思想があると当の革新政党に言われても心底から信任はできないのである。


 替えられし弁当の砂に額伏せて食(は)めばたちまち喚声あがる

 喚声にかこまれて食(は)む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは

 隠滅のはてに還らぬ慰安婦ら朝鮮おみなと知れば悲しく

 侵略戦争語らず詫びず恥じるなく戦後を了(お)えて日本は強し

  (李正子『鳳仙花のうた』磯貝治良・黒古一夫編『<在日>文学全
    集 17巻 詩歌集』2006年、勉誠出版、に収録)



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