還らざる学友の碑~慶応三田キャンパスで~

 近頃、デジカメに凝っていて、どこかへ出かける時にはたいていカバンに入れて歩く。今年度後期(慶応義塾では秋学期と呼ばれている)、慶応義塾の商学研究科の会計職コースの「現代会計論」という講義科目を非常勤で担当している。この科目名からして、現代の会計問題なら何でも扱えるという自由を有難く思っている。最初の3回は最近、会計基準の国際的コンバージェンスの焦点の一つになっている「のれんの会計」を取り上げ、その後3回は「負債と資本の区分」を取り上げた。多くは私の講義中心であるが、時々、題材(文献)を指定して受講者(7名)にそのテーマ、文献に関する各々のコメント、見解をプリントで準備してきてプレゼンを求め、そのあと、全員で議論をかわすゼミ形式のやり方も採用している。先々週は「条件付償還義務株式の会計問題」をテーマにしてゼミ形式の授業をした。保有者のオプションで償還義務が生じる株式は、それを発行した企業にとって株式なのか負債(債券)なのかという問題である。なかなかユニークなコメントをする院生が多く、活発な議論になった。こういう授業は楽しいものである。

 さて、話をデジカメに戻すが、昨日(金曜日)は講義の日で、秋晴れに誘われてキャンパス風景を撮ろうとカバンに入れて家を出た。早めに三田キャンパスに着いたので中庭をぶらぶら歩きした。中央にある大銀杏は学生の待ち合わせ場所とかでキャンパスのシンボルになっているそうだ。ちょうど昼休みでいつもながら、弁当を広げたり談笑したりする学生で華やいでいた。そのうちに、図書館の北側にある細長い庭に何か音楽の指揮者の前に置かれる楽譜台のような形の碑が見えたので近づくと、読みとりにくい字で次のような言葉が刻まれていた。

    還らざる友よ
   君の志は
   われらが胸に生き
   君の足音は
   われらが学び舎に
   響き続けている


碑の裏側に回ると、さらに読みとりにくい字で次のよう文章が刻まれていた。

    還らざる学友の碑
  この碑は今次大戦において志半ばにして逝った
  学友を偲び慶応義塾が建立する
    平成十年十一月
    慶応義塾塾長 鳥居泰彦
 
 慶応義塾の名誉教授の白井厚氏は第二次大戦中、義塾が被った戦禍の記録と戦争体験の継承、戦没者名簿の作成などに取り組んできた人である。2005810日付『慶応キャンパス新聞』に掲載された同教授のインタビュー記事によると、194311月、慶応義塾でも出陣塾生壮行会が行われ、臨時徴兵検査を受けた学生4,268名のうち、3000人以上がこの時に入隊した。しかし、白井教授らがまとめた戦没者名簿によると、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は2,224名に上るという。
 また、白井教授は1991年から「太平洋戦争と慶應義塾」というテーマでゼミナールの学生と共同研究に取り組んできたが、その一環として行った昭和1724年卒業生7,500人を対象にしたアンケート調査(戦中の学生の生活と意識に関する調査)によると、勇んで戦地に向かったのは全体の2割程度、反対に、体質的、性格的に軍隊に向かない、あるいは反戦思想から、戦地に向かうのを嫌った学生が約1割だったという。残りの7割は仕方がない、と考えたようだ。そう答えた人たちの中には、小学校の同級生などの多くが戦地に向かう中、高等教育を受けた同年代の自分たちが学業を終えるまで徴兵を猶予されたことを申し訳なく感じていた人も多かったのだろうと白井教授は語っている。
 このインタビュー記事の最後で、今学生に伝えるべきことはと問われて白井教授は、日本で310万人が亡くなっただけでなく、アジアで2千万~3千万人が亡くなったと言われている、このことを知り、考えなければアジア諸国との友好関係は築けないと語っている。それに続けて、白井教授が「戦争の実態を知らないで平和を求めることはできません。日本では、戦争放棄は戦争研究放棄であるという雰囲気が少なからずあります」と語っていることに惹き付けられた。

上:還らざる学友の碑
下:三田キャンパスの風景
(いずれも2009年10月30日、撮影)
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NHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」を視て考えたこと

〔追伸〕「日本海軍 400時間の証言」が次の時間帯に再放送されます。
  98日(火) 010110 第1回 開戦 海軍あって国会なし

  9
9日(水) 010110 第2回 特攻 やましき沈黙
  9
10日(木)010110 第3回 戦犯裁判 第二の戦争

  現代史のなかでは私たち市民が知っているようで実はよく知らない、知らされていないことが少なくない。今年7月7日のNHKスペシャル「
JAPANデビュ-」第1回「アジアの“一等国”」が取り上げた日本による台湾統治はその一例である。さらに基本的な疑問として、あの太平洋戦争は具体的に誰のどのような発意で、どのようなプロセスを経て開戦に至ったのか、生きて帰れる道がない「特攻」という作戦は誰が発案し指揮したのか、東京裁判で死刑が軍部関係者6人に限られ、他に極刑を以て戦争責任を問われた者がいなかったのはなぜなのか?

「日本海軍 
400時間の証言」と題して89日から3回シリーズで放送されたNHKスペシャルは今まで謎に包まれていたこのような日本現代史の根本的な疑問に挑んだ番組だった。番組のタイトルにある400時間の証言とは海軍の基本作戦の立案・指導にあたった大本営の中枢ともいえる軍令部の元メンバーら(「水交会」と呼ばれた海軍OB会)の証言録のことである。彼らは昭和55年から11年間、秘密に集まって開戦から戦犯裁判までの経緯と戦争責任について延べ131回の「反省会」を開いていた。番組はそのやりとりを記録したテープを基本資料として編成された。ここでは3回シリーズを通して私の印象に強く残った点を記しておきたい。

「特攻は命令ではなく隊員の熱意から始まった」
 
1つは、「特攻」作戦が発案され、実行に移された経緯である。「自分が死ぬことでしか目的を遂げることができない」特攻作戦が始まったのは昭和1910月だった。当時、絶対防衛線と位置付けたアジア太平洋地域でアメリカ軍による攻撃を受け、大半の艦隊を失った日本海軍の中では「体当たりでやるしかない」といった空気が強まっていた。昭和188月の軍令部業務日誌には軍令部第2部長が「戦闘機による衝突撃」、「体当たり特攻機」を採用すべきと進言したとの記述が残されていた。さらに昭和20125日に総理大臣や陸海軍トップが参加して開かれた最高戦争指導会議では「1億総特攻」の名の下に特攻を主な戦力とすることが決定されていた。番組は海軍反省会の記録テープにこうした資料も添えて史実を固める作業を随所で施していた。
 
また番組では「自分の身体を兵器に代える」人間魚雷の訓練を受けた元隊員にも取材し、「鉄の棺桶」に入れられた時の恐怖、青年として生きたいという本能に変わりはなかったという述懐を伝えた。しかし、この「特攻」作戦を発案し指揮した軍令部のメンバーは反省会でも「あれは命令ではなく現場の熱意から始まった」、「命令ではなく、崇高な憂国の精神の発露だった」といってはばからなかった。その他のメンバーが自己責任に代えて異口同音に語ったのは、いかんともしがたい「組織の空気」になすすべなく「やましき沈黙」に流されたという釈明だった。
 特攻の最初の出撃基地フィリピンのマバラロットに建てられた碑文には“volunteer”(自ら志願した)という文字が刻まれている。また、この特攻隊の最初の出撃の12日前に戦果を鼓舞する電報を起案した源田実(戦後、航空幕僚長、国会議員を歴任)は神風特攻隊の慰霊碑に「青年が自らの意志に基づいて赴いた」と記していることも番組は紹介した。

「問題はどこで責任の遡上を食い止めるかだ」
 次に私の印象に強く残ったのは、元海軍軍令部のメンバーが第二復員省(二復)を拠点に東京裁判で旧組織のトップ(嶋田繁太郎元海相ほか)を守るために周到な作戦を練っていた事実を番組が生々しく伝えたことである。裁判を担当した豊田隈雄元大佐は東京裁判を「第2の戦争」と呼び、「与えられた裁判業務、これこそ私の戦場」と記している。彼らは出廷前の証人を密かに呼び出し、捕虜虐待は現場の判断によるものと証言するよう命じた。たとえば、東京裁判では潜水艦による魚雷が的中して海に浮かんだ連合軍隊員に機関銃を連射した日本海軍の行為に捕虜虐待の嫌疑がかけられたが、このような行為を命じたとされる軍令部の指示文書は何者かが偽造したものと言い張るよう命じた。しかし、実際はどうかというと、「口頭命令ではそのような行為はできない、やるなら文書による命令がほしい」という現場の指揮官の意向を受けて軍令部が文書で指示をしたものだった。

 また、番組は日本が中国本土への爆撃基地として香港の西、三灶島に第6航空基地を建設した際(昭和13~14年)に起こった現地住民迫害・虐殺事件を時間を割いて取り上げていた。日本軍は軍事機密を守るため、島民に島の外へ出ることを禁じ、家族の人数と名簿の提出を命じた。その記録と実際の人数が違った場合は逃亡の嫌疑がかけられ、厳しく追及された。番組では7歳の時に4人家族が日本軍に嫌疑をかけられたという現地住民が取材に応じ、山中に逃れ身を潜めていたところ幼い妹が泣き出した、自分たちが生き延びるため、心を鬼にして妹の首を絞めて殺したと嗚咽しながら語った。取材の過程で防衛研究所で発見された軍極秘の「三灶島特報」と題する資料によると、日中戦争勃発時に12,000人だった島民の人口は戦後は1,800人になっていた。大部分は逃走と考えられたが、資料には「一部に対し掃討作戦」とも記されていた。

 
東京裁判でオランダのローリング裁判官は元海相・嶋田繁太郎も死刑にすべきと主張したが、元軍令部の周到な裁判対策が功を奏し、嶋田は開戦の責任では有罪とされたが、捕虜虐待等の通常の戦争責任に関しては証拠不十分で無罪とされた。そして、嶋田は昭和30年には釈放された。反省会では「死刑になりさえしなければ終身刑でも講和条約まで頑張れば自由の身になれると考えていた」と証言したメンバーがいたが、現実はまさにそのとおりになったのである。
 
しかし、その一方で、捕虜虐待の罪で元海軍のBC級戦犯200人が死刑となった。番組では元軍令部のメンバーが作成したとみられる「弁護の基本方針」が紹介された。そこには、「天皇に累を及ぼさず。中央部に責任がないことを明らかにし、その責任は高くても現地司令官程度にとどめる。問題はどこで責任の遡上を食い止めるかだ」という記述があった。虐待を命じた者が最終的には無罪放免され、命令に従った者が死刑に処された――番組は侵略戦争の歴史のこうした悲劇を鮮烈に浮かび上がらせた。

「天皇に責任が及ばないためにはあらゆる場面で責任者がいなければならない」
 
最後に、私が注目したのは番組が海軍の東京裁判対策に触れる中で天皇に戦争責任の累が及ばないよう日米双方が水面下で突っ込んだ対策を練っていた実態を明らかにした点である。特に、マッカーサー元帥の軍事秘書官フェラーズ准将と接触した米内光政元海相の述懐として、アメリカ占領軍側は、「天皇が裁判に出されることは本国におけるマックの立場を不利にする」、「占領を円滑に進める上で、天皇には何らの罪はないことを日本側から明らかにしてほしい」、それには「東條(英機)に全責任を負わせることだ」とまで助言したという証言は東京裁判を検討する史実として注目に値する。
 番組は「戦犯裁判 第2の戦争」と題した3回目の放送の終盤で、海軍の用紙に記された「天皇の戦争責任に関する研究」という表題の文書を紹介した。そこには次のような記述があった。
 「天皇に責任が及ばないためには、あらゆる場面で責任者がいなければならない。」

 「軍隊は国民を守らない」という言葉をしばしば耳にする。しかし、それでもなお、日本の保守政権は国民のいのちと安全を守るためと称して防衛力強化を掲げ、「テロと戦う」アメリカへの軍事面での支援にまでのめりこもうとしてきた。では、その軍事力が本当に守ろうとするものは何なのか、軍事力の行使を発案した人間は常に安全地帯に身を置いて実働部隊を指揮すること、彼らは「戦後」の責任追及から生き延びる知恵にはたけていることを、知っておくことは無駄ではない。

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鳳仙花二題――植民地韓国の辛酸と自国独立への希望を託した歌

 植民地支配下の朝鮮人の痛恨と独立への希望を託した「鳳仙花」
 NHK教育テレビ(一部総合テレビ)で放送される「名曲アルバム」を10年ほど前からよく聴いている。この34年はNHKのホームページに解題付きで掲載される「今月の放送曲目」を印刷し、録画予約をするのが習慣になった。各曲にまつわるエピソード、歴史的背景を説明した字幕付きの映像を見ながら曲を聴くのは音声だけ聴く場合とは一味違った趣がある。夫婦で出かけたウイーンやプラハなどの風景が映るときは、旅の思い出がよみがえり会話がはずむ。
 この5月の放送曲目の中では「鳳仙花」(作曲 洪蘭坡/編曲 金子仁美/演奏 北原幸男<指揮>、NHK交響楽団/映像 ソウル)の美しいメロディと作曲者洪蘭坡の生い立ちに惹きつけられた。

 洪蘭坡(ホン・ナンパ。18971941年)は韓国の「楽聖」と呼ばれた同国の近代音楽の先駆的作曲家であるが、バイオリン演奏、評論も手がけた人物でもある。1917年から東京音楽学校で学んでいたが、31独立運動を機に帰国し、独立運動に参加した。帰国後、彼は「哀愁」という題の曲を作り、声楽家、金享俊(キム・ヒョンジュン)が5年後にこれに詩をつけたのが「鳳仙花」だった。表向きは鳳仙花の四季のうつろいを詠んだ歌であるが、実際は、日本の植民地支配で祖国を滅ぼされた朝鮮人の哀切を、秋風に花を散らせ、北風に吹きつけられる鳳仙花の悲しげな姿に託すとともに、のどかな春風の季節に蘇る鳳仙花になぞらえて祖国の独立を夢みる朝鮮人の希望を代弁した歌である。メロディはこの詩にふさわしく、静かな哀切調の中に、自国の独立、人間としての尊厳を固持しようとする朝鮮人の強靭な意思をにじませて実に美しい。

 洪蘭坡の苦難の生涯
 しかし、「鳳仙花」の成り立ちを調べていくにつれ、この歌は作曲者、洪蘭坡の苦難の生涯と切り離して語ることはできないと悟った。名曲アルバムも映像の字幕で紹介していたが、日本の官憲は鳳仙花の歌詞に込められた抗日・祖国独立の隠喩を嗅ぎつけ、洪蘭坡を日本の朝鮮支配に抵抗する危険人物と見なして日常的に監視し出した。その圧力に耐えかねた彼は1941年、43歳の若さで他界した。太平洋戦争開戦の3か月前だった。

 しかし、洪蘭坡を死においやった理由はこうした官憲の監視による精神的肉体的疲弊だけではなかったと考えられる。彼は日本軍国主義による朝鮮統治が頂点に達した時期に日本に強要されて数編の軍歌を作曲するとともに、京城放送管弦楽団の指揮者として「皇国精神にかえれ」、「愛馬進軍歌」、「太平洋行進曲」など日本の軍歌を指揮・演奏した。音楽活動を通じて朝鮮民族の痛恨と誇りを代弁しようとした彼にとって、こうした反民族的行為への服従がいかに耐えがたい残忍なものであったか、想像を絶する。

 後世、韓国内では洪蘭坡のこうした日本軍国主義への「協力」行動を理由に彼を「親日派」に加える動きがある。たとえば、韓国民族問題研究所は本年4月に「親日人名辞典」に掲載するリストを改訂するにあたり、洪蘭坡を親日派のリストに加えた。これについて『朝鮮日報』は本年51日の紙面に「親日・反日の尺度では量りきれない歴史」と題する社説を掲げ、次のように記している。

  「しかし日帝が朝鮮を支配した1910年から45年までの36年間、この地で生きた朝鮮人の数多くの人生を、親日と反日の二分法で区分するにはあまりにも事情が複雑だ。日帝時代に青年から壮年の時期を過ごした世代は、洪蘭坡(ホン・ナンパ)が作曲した数百の韓国歌曲、中でも『成仏寺の夜』『鳳仙花』などを口ずさみながら、国を失った民の悲しみと悲哀を骨身に染みて痛感し、祖国を取り戻さなければならないという思いを新たにしていた。もちろん洪蘭坡 は日本による統治が最悪の状況に至った当時、日本に強要された数編の軍歌も作曲した。現在は独立した国である大韓民国で心穏やかに日々を過ごしているわれわれが、あたかも批評や論評でも加えるかのように、洪蘭坡に対して『親日派』のレッテルを貼っていいものだろうか。・・・・・親日派リストを発表した当事者たちが、あの過酷だった植民地時代を生き抜き、『自らに対しては霜柱のように、他人に対しては春風のように対せよ』という『持己秋霜 待人春風』の姿勢を持っていたなら、今回のような行いをすることは決してなかっただろう。」

 もうひとつの「鳳仙花」
 ――在日二世の哀切と憤怒を歌った李正子――
 洪蘭坡の「鳳仙花」について調べている中で、李正子の歌集『鳳仙花のうた』があることを知った。私が読んだのは、磯貝治良・黒古一夫編『<在日>文学全集17巻 詩歌集Ⅰ』勉誠出版、2006年に収録されたものである。この歌集には、李正子の別の歌集『ナグネタリョン―永遠の旅人』も収録されている。

 巻末の年譜によると、李正子(イ・チョンジャ)は1947年に三重県上野市に生まれた在日韓国人二世である。中学生の時に短歌に出会い、20歳の頃から「朝日歌壇」に投稿をしていた。その後、上野市で喫茶店を営む傍ら、近藤芳美が主宰する「未来」の同人として作歌に打ち込んだ。『鳳仙花(ポンソナ)のうた』(雁書館)は彼女が37歳の1984年に刊行された第一歌集である。第二歌集の『ナグネタリョン―永遠の旅人』(河出書房新社)が刊行されたのはそれから7年後の1991年だった。収録された歌はどれも彼女の生い立ちが投影し、植民地時代の朝鮮人が日本軍国主義から受けたつめ跡と哀切が随所にほとばしり出ている。また、他者の痛みをいまなお感受できない日本人への抑えがたい怒りが噴出した歌もちりばめられている。以下、数首を書き出しておきたい。

 替えられし弁当の砂に額伏せて食(は)めばたちまち喚声あがる
 喚声にかこまれて食(は)む砂の粒声こらえつつ地を這うわれは
 泣きぬれて文盲の母を責めたりき幼かりし日の参観日のわれ
 国籍の壁越え得ねば去る君の弱さが憎しじっと目を伏す
 隠滅のはてに還らぬ慰安婦ら朝鮮おみなと知れば哀しく
 誰が為に征(ゆ)きて還らず鮮人の兵に国なく慰めもなく
 臨時休業の札かけ見知らぬ町へゆく広き優しき海を見むため
 あきらめることも生き方とゆき戻るわれの歩みを波が消しゆく
 日本の男はみな卑怯者弱虫と日本のおとこのみ愛して知りぬ
 世界史に残しおくレジスタンス「三・一」いま暴動と記され傷む


 今回、「名曲アルバム」で放映されたのを機縁に二つの「鳳仙花」を知った。どちらの鳳仙花にも日本軍国主義が朝鮮半島で侵した戦争犯罪が今日まで朝鮮人の心身に残した深いつめ跡への直視を迫るものだった。それだけに、一人の日本人として李正子の歌に背筋を正される思いがしたのである。

 侵略戦争語らず詫びず恥じるなく戦後を了(お)えて日本は強し
 ひとりよがりの平和うたがうこともなく四十二年は日本人のもの

(追記)
洪蘭坡作曲「鳳仙花」(ホン・ナンパ)は523日(金)55分からNHK教育テレビ「名曲アルバム」で再度放送される。この記事をご覧いただいた方はぜひ視聴していただきたいと思う。

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歴史の荒波を生き抜いたプラハの人々~NHK世界遺産の旅 チェコ・プラハ編をみて~

 412日夜、NHK総合で放送された「世界遺産の旅 奇跡の美 街に宿る不屈の心~チェコ・プラハ~」を録画に撮り、食後のひとときにみた。画面に現れたプラハの街の各所は2003年秋に夫婦で出かけた所でもあり、山根基世さんの気さくなリポートで進んだこの番組を感慨深く終わりまで観た。ご覧になれなかった方、見過ごされた方は、次のとおり再放送が予定されているので、ぜひ、ご覧いだけたらと思う。
 417日(木)   330 413
 418日(金) 16051648
 http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr108.html

 人形はプラハの言語を守った命綱

 プラハは「建築博物館の街」といわれるだけあって、完成までに長年月が費やされた由緒ある建築物が点在する。プラハ城内にある聖ヴィ-ト大聖堂は現在のゴシック様式に改築されるまでに実に600年を要したという。プラハ市博物館に所蔵されている1873年当時の市街地の模型は11年がかりで歩いて街を回り、歩幅で距離を測って製作したという。

 しかし、長い時間を経過したのは建築物だけではない。番組では、プラハの歴史遺産を守り抜くために一つの仕事に長年月打ち込んできた人々の姿も紹介していた。中でも国立マリオネット劇場を拠点とする人形劇団の中には52年間劇団のメンバーとして仕事を続けている人がいた。ほかにも、49年間、30年間、28年間、劇団で活動しているという人々が紹介された。
 チェコにとって人形劇は「文化の命綱」といわれている。そのわけは、チェコを支配したハプスブルグ家あるいはドイツ軍がドイツ語を公用語として強制したことから、チェコ語が忘れ去られようとした時期に劇団はチェコ語を使った人形劇を各地で公演し、母国語を守る砦になったからである。
 また、人形を売る店の若い店員は腹話術を交えて操り人形を動かしてみせた後、「人形は単なるおもちゃではなく、自分の気持ちを表現する手段」と語ったのが印象的だった。

 歴史の荒波を生き抜いたプラハの歌手、マルタ・クビショヴァ

 番組全体を通して私がもっとも感銘を受けたのは激動の歴史を生き抜いたプラハ人の象徴ともいえる女性歌手、マルタ・クビショヴァさんが
3度、登場した場面だった。

 最初の場面は、チェコで進みつつあった自由化の波(「プラハの春」)に危機感を抱いたソ連軍率いるワルシャワ条約機構軍が1968820日にチェコに侵攻した時だった。番組では侵攻軍を惑わすため、市内の標識を取り外す一方、帰ってほしい行先(モスクワなど)だけ残す若者の姿を映していた。しかし、プラハを武力で制圧した侵攻軍は放送局も占拠した。そこで、市民は工場の地下に秘密のラジオ局を設けて放送を流した。その時、人々の耳に聞こえてきたのは当時、デビュ-曲「マルタの祈り」が大ヒットしていた人気歌手、マルタ・クビショヴァの歌声だった。しかし、地下のラジオ局も閉鎖され、ソ連の影響を受けた共産党政権が成立すると、マルタ・クビショヴァは歌の世界から永久追放され、レコードはすべて廃棄されてしまった。

 次に、番組の中でマルタ・クビショヴァさんが登場したのは、秘密警察が幅を聞かせた共産党一党支配に対する市民の批判が噴出したいわゆる「ビロード革命」の時だった。1989年、学生の抗議行動に端を発し50万人のデモにふくれ上がった民衆の力で一滴の血も流さず共産党一党独裁政権に終止符を打った喜びに沸きかえる広場の正面の建物のバルコニーに20年ぶりに姿を現わしたマルタ・クビショヴァはあの「マルタの祈り」を歌いあげたのだった。20年間、歌の世界から追放された彼女は内職で生活をしのいできたという。長い苦難の生活のせいか、やつれてはいたが、逆境を生き抜いた強靭な知性を彷彿とさせる場面は感動的だった。

「祖国の自由」への意思を込めて
~マルタ・クビショヴァが歌ったもう1つの「ヘイ・ジュード」~


 マルタ・クビショヴァさんが最後に登場したのは番組が終わりに近づいた時だった。山根さんが、ぜひ出かけたいといって足を運んだのはマルタさんが常連で歌っているというライブハウスだった。小さな舞台に登場したマルタさんが歌ったのは、ビートルズが歌った「ヘイ・ジュード」の歌詞を替えた歌だった。後で調べて見つけた日本語訳の最後の
2つの節を書き出しておく。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/d4a9ce618371d1d908587900069f289e を参照。)

 あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
 でも ジュード あなたと遠くはなれても
 心はあなたのそばに行ける
 今 私はなす事もなく あなたの歌を聴く自分を恥じて いる
 神様私を裁いてください
 私はあなたのように歌う勇気がない

 ジュード あなたは知っている
 口がヒリヒリ 石をかむようなつらさを
 あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
 不幸の裏にある「真実」を教えてくれる

 これも後で調べてわかったことだが、この曲は1969年、プラハの春の時期にレコ-ディングされた。マルタ・クビショヴァは「ジュード=祖国の自由」という意味を込めて、この歌をアルバムの最後に入れた。しかし、レコードが売り出される頃、ソ連軍の武力侵攻で「プラハの春」は挫折し、それ以来、マルタさんはこの歌を歌う機会に恵まれなかった。そのためか、ビロード革命の後、カレル大学に招かれたマルタさんは学生たちからこの歌をリクエストされたが、「長い間歌っていないので〔歌詞に〕自信がない」というと、学生たちは「僕らは(何度も歌って)知っている。教えますから」と答えたという。

 不条理な迫害に屈せず苦しい時代を生き抜いたマルタ・クビショヴァ、そして彼女の強靭な意思に応えたプラハの人々――番組はこうした感動のドラマを見事に描き切っていた。

(追記)20011月、NHK総合で「世紀を刻んだ歌:ヘイ・ジュード~革命のシンボルとなった名曲」というタイトルの番組が放送された。しかし、残念ながら私は見損なった。NHKアーカイブスにも入っていないようだ。

プラハの思い出のアルバムから


 以下、番組を見ながら思い出に耽ったプラハの街並みのアルバムの中からいくつかを載せておきたい。

上から順に、
1.人出でにぎわう旧市街広場
 (向かいの建物の2階にあるカフェ・ミレナから撮影。カ  フカの恋人の名を冠したカフェと聞いて入った。)
2.プラハ城正面玄関広場での観閲式
3.プラハ城内の大統領府がある聖十字礼拝堂
4.プラハ城からみおろした街並み
5.国立博物館からみたヴァツーラ広場の遠景
6.悠然と流れるヴァルタヴァ川
7.旧市街広場でボヘミアの踊りに興じる人々
8.旧市街広場で並んだ出店(焼き菓子店)
9.カレル橋

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「Requiem 東京大空襲 広瀬美紀写真展」に出かける

NHK首都圏ネットワークで知って
 最近、平日の夜610分から放送される「首都圏ネットワーク」を録画してみることが多い。310日の分を帰宅してみると、<リポート 東京大空襲 見えない痕跡を写したい>というタイトルで62年前の310日に東京を襲った大空襲の仮埋葬地と生き残った被災者の今を撮り歩いたフリ-・カメラマンの広瀬美紀さんのことを紹介していた。印象が強烈だったので、番組の中で紹介された広瀬さんの写真展「Requiem 東京大空襲」へ昨日、帰宅途中、出かけた。
 
  「Requiem 東京大空襲 広瀬美紀写真展」
  200835日(水)―18日(火) 
  10001900(最終日は1600まで)
  銀座Nicon Salon TEL: 03-5537-1469
  (ニコンプラザ銀座1F

知られていない東京大空襲の実態
 「東京大空襲」の始まりとなった1945310日の大空襲は深夜0015の空襲発令から約2時間半にわたって、344の米軍B-29が低空から江東区、隅田区、台東区域に向けてナパーム製焼夷弾を浴びせた惨事である。死者は10万人以上(うち、縁者が引き取った遺体約2万人、無縁仏・行方不明者約8万8千人)、被災者100万人、被災区域約409平方キロメートルといわれている。その後、524日には250機、25日にも250機のB-29が東京西部の焼け残った地域に飛来し、焼夷弾による絨毯爆撃を行った。

 記録によると、310日深夜の東京下町を襲った爆撃では、29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民の退路を断ったという。その後に大量の焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空から機銃掃射が浴びせられたという。

仮埋葬の場所となった公園、寺の数々の写真
 少し遅れて会場に着くと、先に着いていた連れ合いは展示を見はじめていた。銀座松坂屋の横のビアホール「ライオン」のすぐ近くにある小さなサロンだった。記帳を済ませて入り、展示された写真とその下に掛けられた記事(被写体の被災者の談)を見て回った。モノクロ55点だったが、メモをとりながら回ったので結構時間が経った。その多くは、名前もわからず、数年間、遺体を仮埋葬した各地の公園や寺院だった。都内に90か所近くあるこうした仮埋葬地を撮り続けると同時に、体験者の取材撮影も手がけることで、生き残った高齢の被災者の思いが永遠に封印されるのを食い止めたいというのが広瀬さんの動機だったという。
 浄心寺(現江東区、184人)、行船公園(現江戸川区、434人)、原公園(現墨田区、383人)、蔵前都有地(現台東区、773人)、法蓮寺(現江戸川区、25人)、妙久寺(現江東区、2865人)、隅田公園本所側(現墨田区、3682人)、・・・・・・と続く。

写真に添えられた被災者からの聞き書き
 こうした各地の仮埋葬地の写真の間に、生き残った被災者の取材写真が並び、その下に広瀬さんの聞き書きのプレートが添えられていた。その中でメモを取ったいくつかを転記しておきたい。

 「燃え上がる言問橋に人々が欄干にはりついていた。夜が明け、生き残った者が20人ほど集まったが他は全て焼死。本当の苦労はこれからだった。」K. Mさん、当時14歳、戦災孤児)

 「翌日、ひき上げてもひき上げても死体が浮き上がってくる。熱さ、爆風、ここから飛び降りた人の気持ちを思うと・・・・・」O.Mさん、当時10歳、戦災孤児)

 「翌朝、菊川橋の上は天井の高さ位に積み重なり、絡み合った黒こげ焼死体の山。川幅一杯、水も見えず覆われた水死体。公園で乾パン5粒。それが空襲から今まで公から頂いたもの。」MKさん、当時10歳、戦災孤児)

国家賠償を求めて提訴した被災者、遺族の写真も
 会場でもう一つ印象深かったのは、東京大空襲に対する賠償などを国に求めて2次にわたる提訴をしている被災者、遺族、裁判の写真が数多く展示されていたことだった。大空襲から62年を迎えた昨年39日、被害者や遺族計112人が国を相手どって、謝罪と賠償を求める訴えを起こした。そしてこの310日には新たに東京や埼玉など7都府県に住む6979歳の計20人が国に対して同様の訴え(第2次提訴)を起こした。戦争開始により大空襲を許した責任、戦後、旧軍人・軍属への補償をしながら、民間人の被害者に何の補償もしないのは不当というのが訴えの理由である。あわせて、補償の立法措置、犠牲者の追跡調査、国立追悼施設の建設を求めている。

前記のNHK・首都圏ネットワークが、今回の写真展のこの部分に全く触れなかったのは残念だった。東京大空襲の惨事を単なる過去の記憶としてではなく、現在、将来に突きつける課題を知らしめることも、おろそかにされてはならない。歴代の日本政府が東京大空襲の歴史的事実を後世に伝える責務を怠り、時の流れとともに人々の記憶から消えるままに放置しているなかでは、なおさらのことである。

展示会場での会話
 私たちが会場にいたのが夕方6時半ごろだったからか、入館者はまばらだった。そんな中、展示を見ているさなか、受け付けで挨拶をする広瀬さんに「1歳の時、父母を亡くした」、「7歳の時に自分も 被災した」などと話しかける人たちの声が聞こえてきた。連れ合いも実兄から聞いたという、川越街道を逃げ歩いた光景を広瀬さんに話しかけていた。私も広瀬さんと少し会話を交わしたが、気さくで気取りのない大変さわやかな方だった。「ブログに載せます」と告げて会場を後にした。
 この記事をご覧いただいた方にもぜひ、出かけていただければと思う。3月18日まで。

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今に生きる内村鑑三の「愛国心」論

 国歌・国旗への「敬意」の強要
 
 近年、東京都はじめいくつかの地域の公立学校で、学校行事における国歌斉唱・国旗掲楊の場面で起立せず、斉唱に参加しない教員を教育委員会が処分をする事例が多発している。そればかりか、東京都では再発防止のためと称して、処分を受けた教員を呼び出し、国歌・国旗と無関係な一般的服務規律を筆記させるなどの「研修」を強制している。内容からして、「再発防止」という名目の公権力による「思想改造」の勧めの場といってよい。

君が代斉唱時に起立しなかった北海道文化賞受賞者

 このように国歌・国旗への「敬意」の強要は学校現場にとどまらない。昨年11月5日、札幌市内で開かれた北海道文化賞贈呈式で壇上にいた受賞者の一人で演劇作家の鈴木喜三夫氏(76歳)と夫人が、国歌斉唱時にいったん起立したものの、国旗に背を向けたまま自席に着席し、斉唱に参加しないという一幕があった。

 道教委は入学式や卒業式で国歌斉唱時に起立しない教職員を処分しており、今回の事態についても「道教委の行事で国旗・国歌を尊重しない行為があったことは問題だ」という声が上がっているという。道教委は「こういう事態は聞いたことがない。事前にこういう考えの人だとは聞いていなかったので、事情を調べる」(吉田洋一教育長)そうである。式典後、鈴木氏は「先の戦争で多くの仲間が特攻隊で死んでいった。とても立って(国歌を)歌う気になれない」と語ったという。
(以上、『産経新聞』2007年11月5日、17時16分配信)

 ちなみに、北海道教育委員会のHPにアクセスして、北海道文化賞の趣旨を調べてみると、「本道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した方々の功績を讃え」て贈呈すると記されている。では、吉田教育長の「こういう考えの人だとは聞いていなかった」という発言はどういう意味だろうか? 「国歌・国旗を尊重しない」人だとわかっていたら受賞候補者から外したという意味なのだろうか? また、吉田教育長の「事情を調べる」とは、どういう事情を調べるのだろうか? 「愛国心の欠けた人」を事前にチェックできなかった体制の不備を調べるということなのか? 調べてどうするのだろうか? 今後は受賞候補者のリストを作る際に、 「国歌・国旗を尊重する」人かどうかの思想調査をするということだろうか? そうだとしたら、、「本道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した」人かどうかだけでなく、思想傾向が教育委員会の審査基準にそわなければ受賞はかなわないということにある。
 しかし、このように、まるで教育委員会が人間の思想を裁く権限を持つかのようなふるまいは思想信条の自由を保障した憲法第19条をまっこうから踏みにじる行為である。

  人の真心はその愛国心によりて保証することあたわざるなり、そは愛国心はあまりに「悪漢の最後の拠り所」なればなり(内村鑑三)

 
昨年、あるきっかけで内村鑑三の著作を調べる機会があった。そして、その短い文章の中に現代に生きる鋭い時代評論が数多くあることに驚いた。その中に「病的愛国心」(Diseased Patriotism)と題する時評がある。『万朝報』1898年3月11日に掲載された短文である。以下はその一部である。

 「愛国心が純粋にして真実なる為には、其は無言にして無意識ならざるべ可からず。真実なる人にして己が国に対し熱裂なる愛を有せざる者は有り得ざるなり。・・・・・・我等に真の人を示せ、然らば彼の愛国心を保証せん。然れ共、人の真心は其愛国心に依て保証すること能はざるなり、そは愛国心は餘りに屢々『悪漢の最後の拠り所』なればなり。」

 「無言に畑に耕す農夫、
読書に勤む学生は、愛国心を説くことを職業とする人々より遙かに愛国者なり。しかして数百万の斯る無言の農夫と数十万の斯る勤勉なる学生のこの国にあるは、少数のこれら職業的愛国説教者のあるよりも、日本国民の愛国心のために多くを弁ずるものなり。・・・・・・」

 「しかして愛国心とは、我等が己れの国に負う明白なる義務を果すこと以外の何物なりや! 隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、謙遜にして鄭重なること、等々は、我等の見る所に依れば、国家の拡大を策し我国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合は其以上に愛国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要とするものは、深き、無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあらざるなり。」

 国に帰依する愛の危うさ

 「芝居がかりの愛国心」、「騒々しき愛国心」に対する内村鑑三の警鐘を読むと、研修が必要なのは、国歌斉唱・国旗掲揚の時に起立斉唱しなかった教員ではなく、「愛国心を悪漢の最後の拠り所」にするがごとき教育委員会であるといえる。

 しかし、私は内村鑑三の愛国心論に無条件に傾倒するものではない。私が内村鑑三の愛国心論と一線を画したいと思う所以は、彼が愛国心そのものの価値を認めたうえで、その方法――有言の他律的な方法による「注入」か、自然の内面からの涵養に委ねる自律的な方法か――を問題にしている点である。

 これに対して私はそもそも国に帰依する愛には危うさが付きまとうと考えている。ただし、議論の順序からいえば、愛の対象とする「国」とは何なのかを問うことが先決である。国=民衆なのか、それ自体が一個の巨大な「私」にほかならない国家権力なのかである。隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、勤勉にして鄭重なること、を指して愛国心というのが内村鑑三の愛国心の本旨であれば、それは前者の意味での「国」を対象にした愛である。それなら私は内村鑑三の愛国心論に異議はないどころか全面的に賛同する。

 しかし、「愛国心とは、われらが己れの国に負う明白なる義務を果たすこと以外の何物なりや」という時の内村鑑三の愛国心は後者の意味も混濁したあいまいさが拭えない。それは彼の真意ではなく、時代の空気へのぎりぎりの配慮だったのかもしれない。その推測は別にして、「国を愛する心」が再び高調される今日、国に帰依させる愛がしばしば排外的で偏狭な愛の喧伝に利用され、国境を超えたより普遍的な愛への進化を妨げる他律的なイデオロギーに通じることを認識する必要がある。
 自己への「愛」を強要する国家がいかほど民(たみ)に災禍をもたらしたかを私たちは歴史から学ぶ必要がある。

一周忌近づく姉犬の骨壺にかけし首輪の硬くなりける

姉犬が遺せし首輪妹犬の首に回せば寸法足りず

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「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?

加藤不二子さんからの一報

 去る8月24日の21時から23時24分まで、日本テレビで「終戦記念特別ドラマ」と題して、「私は貝になりたい―ー真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎―ー」が放送された。副題にあるとおり、このドラマは終戦時の1945年、新潟の俘虜収容所の所長をしていた主人公・加藤哲太郎(中村獅童役)が同収容所で起こった捕虜射殺事件(犯人不明)の責任を一人で被る決意をし、3年に及ぶ逃亡を続けた末逮捕され、BC級戦犯裁判にかけられた事件を題材にしたものである。原作は加藤哲太郎が各所に匿名で発表した手記を収録して出版された『私は貝になりたい』(1994年、春秋社)である。

 その日の朝刊のテレビ番組表と各紙の番組予告欄でドラマ放映のことを知っていたが、午後に加藤不二子さんから電話をいただき、ぜひ視てほしいという知らせをもらった。番組をご覧になった方はすぐおわかりのことと思うが、加藤不二子さんはドラマでは優香が演じた、加藤哲太郎の妹さんで、死刑判決が下った兄の助命をマッカーサーに嘆願するため、皇居前のGHQに出向き直訴文を手渡した並外れた正義感と行動力の持ち主である。

『私は貝になりたい』の出版記念会で

 今から15年ほど前、ある機縁で加藤不二子さんのことを知り、2、3回私信を交わしたころ、上記の『私は貝になりたい』(1994年、春秋社刊)の出版記念会の案内状をいただいた。確か、皇居前(旧GHQ本部近く)の東京會舘で開かれたと記憶している。私のような縁の薄いものにまで案内をもらったときは驚いたが、自分の世界を広げるためにと思い立って出席した。確か、日立鉱山の俘虜収容所で哲太郎氏と一緒だったという高齢の人が同じテーブルに着き、「なぜ自分がB級で○○がC級なのか、わからない」と話しておられたのが記憶に残っている。

 あの日の記念会が加藤不二子さんとは初対面だったが、各テーブルをこまめに回って多くの出席者と精力的に挨拶を交わしておられた姿が印象に残っている。そのとき、会場の受付で『私は貝になりたい』を買った。これまで何度か読み返したが、今回、放送後に改めて読み直し、ドラマで伝えられたこと、伝えられなかったことを確かめることができた。

原作と脚本のはざまで

 新聞数紙でドラマの予告記事を読んだとき、原作がどのようにドラマ化されるのか、期待半分、不安半分だった。A級戦犯の裁判の陰に埋もれがちなBC級戦犯の裁判の実態に光を当て、長時間の放送枠を組むこと自体、貴重な企画に違いない。加藤不二子さんからの電話で日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた。

 ただ、新聞の試写室欄を読むと、逃亡生活中に出会った女性・倉沢澄子さん(飯島直子役)との純愛物語あるいは肉親の助命を必死に嘆願する家族愛の物語に仕立て上げられたのではないかという危惧も拭えなかった。

 実際、放送されたドラマの前半を見た限りでは、この危惧が当たらずとも遠からずだった。とりわけ、哲太郎との出会いから結婚、逃亡の身の哲太郎に寄り添うことを決意した澄子の一途な姿、逃亡・逮捕、そして絞首刑の日が刻々と迫る中、哲太郎の安否に気をもむ加藤家の煩悶の描写にかなりの時間が割かれ、BC級戦犯を生み出した時代背景、哲太郎が獄中から何を訴えたかが背後に追いやられているという印象を拭えなかった。

 こんなドラマ仕立てを見ながら、番組制作・放送局への取材協力者の信頼の利益をどのように保証するのかという大きなテーマが頭をよぎった。そして、テレビで取り上げてもらおうと思えば、原作者や取材協力者はどの程度の脚色を受け入れ(甘受し)なければならないのかという複雑な問題を当事者ではない私も考えさせられた。

 ただし、どこまでが原作でどこからが脚色かは正直、私もわからない部分があったが、ドラマの後半で、哲太郎が死刑の執行を免れるために発狂を装ったことから入院させられた米軍361病院での目を覆うような虐待(原作117~118ページ)、狂人のまねを止めて巣鴨の死刑囚ブロックに戻されてから「死の待合室」で同居した中村雅俊役の元軍医との会話、元軍医が絞首台に連行される際に残した叫びは、このドラマを締めくくるにふさわしい圧巻だった。また、脚色の功罪は別にして哲太郎役の中村獅童、不二子役の優香、上記の中村雅俊など、スタッフ一同、それぞれの持ち役に徹した熱演はさすがだった。

 しかし、こうしたドラマの功の部分を認めながらも、最後まで見終えた私には、「終戦記念特別ドラマ」と銘打つなら、ぜひに伝えてほしかった原作の真髄の部分がさらりと流された印象を拭えなかった。それは哲太郎が巣鴨刑務所から危険を覚悟で匿名で書き付けた手記(原作に収録)の中の次のようなくだりである。

BC級戦犯釈放は再軍備の引換え切符ではない

 「下されたカーテン〔講和条約のこと―ー醍醐〕の中で両者は妥協へと急いだ。吉田〔茂〕は事実上の再軍備、即ち漸進的な予備隊の強化を約し、ダレスは将来に於て戦犯釈放の可能性への道を残した。そして其の時期は日本が再軍備をした時であった。」(原作92~93ページ)

 「私達は再軍備の引換え切符ではない。私達は戦争地獄へ渡る三途の川の渡し守へ支払う一文銭であってはならない。
 私達が欲するのは、人道的見地を盾にとった、他からきり離して戦犯釈放だけを対象とした、死の商人達の運動のおかげで釈放されることではない。
 私達が望むのは、祖国がそのすべての旧交戦国と友誼的な平和条約を結び、植民地の圧制から独立し、平和を愛する諸国民の寛大な取りはからいによって、私達が戦争に協力した道徳上の罪を赦され、暖かい日本国民の懐に帰り、平和愛好の国民の一員として祖国の独立と平和とを守り、以って人類の幸福に貢献し得る機会を与えられることである。」(原作95~96ページ。この手記は『世界』1952年10月号に「一戦犯者」の匿名で発表されたもの。)

天皇陛下、こんご日本人に生まれかわってもあなたの思うとおりにはなりません

 「天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか? 私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長い間の苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんご日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。」(原作、26~27ページ。この手記の日付は1952年10月20日。飯塚浩二編『あれから七年』光文社、1953年に志村郁夫の名で収録されたもの)

 私の拙い解説はもはや不要だろう。原作の末尾に収録された内海愛子さんの解説で引用された資料によると、起訴されたBC級戦犯容疑者は5,700人、有罪者は3,419人、うち984人が死刑であったが、死刑囚の11%は俘虜収容所関係者だったという。
 
 思えば、私が生まれた1946年、哲太郎は絞首刑の恐怖におびえながら逃亡生活を続けていたことになる。BC級戦犯とその裁判の実相、13段の絞首台に引き出されるのが明日とも知れない極限の状態で彼らが必死に書き残したメッセージは60年近く経った今でも極く限られた人々にしか知られていない。それを次世代の若者に伝えるのは、BC級戦犯にならずに済んだ私たち戦後世代の道義的責任である。

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NHKスペシャル「日本国憲法誕生」を視聴して

 昨夜(4月29日、午後9時~10時14分)、NHKスペシャル「日本国憲法 誕生」を視聴した。さきほど、その感想をE・メールでNHKスペシャル担当へ送ったが、600字以内という字数制限のため、用意した原稿を大幅に削らざるを得なかった。そこで、元の原稿をこのブログに掲載することにした。

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 予告で番組を知り、視聴しました。全体を通して、豊富な資料を駆使し、関係者の肉声での証言も交えて、新憲法の制定過程を丹念に検証したドキュメンタリー番組であったと感じました。特に、天皇制の護持に執着する日本政府と日本の再軍備の脅威を根絶しようとするGHQの思惑、さらには天皇の戦犯と天皇制そのものの廃止まで迫ろうとした極東委員会の構成国の意思が絡み、戦争放棄と象徴天皇制が抱き合わせで盛り込まれた経緯が克明に描かれたのが印象的でした。

 しかし、こうした国際的な交渉の狭間で、日本の民間人あるいは各党代表者からなる憲法研究会、小委員会等の発案で生存権条項の追加、義務教育の年限の延長、戦争放棄の条項の補足等がなされた事実が史実に沿って明らかにされたことは貴重でした。こうした知見を提供するところにドキュメンタリー番組の真髄があると感じました。

 個別的なことをいいますと、「至高」か「主権」か、「前掲」か「前項」か、「輔弼」か「助言と同意」かなど、条文の一字一句をめぐる論議にも立ち入った場面は、解釈改憲が叫ばれる今日、示唆に富んだ編集であったと感じました。

 総じて、「押し付け」憲法論が喧伝されてきた中で、①日本人が自主的に新設・補足した条項が少なくなかった点を照射したのは貴重な知見の提供であったと思います。②他面、GHQや極東委員会の強い意思で制定された条項が少なくなかったことも事実として直視すべきと感じました。

 その上で、極東委員会の強い意向で主権在民が明文化されたこと、当時22歳だったベアテ女史の強い進言と起草で女性の地位向上を定めた条項が盛り込まれたこと等を「押し付け」、「戦後レジームからの脱却」などというレトリックで清算しようとしてよいのかという問いかけが重要と思われました。(ちなみに、安倍首相自身の思考回路について言えば、「戦後レジームからの脱却」ではなく、「戦前レジームからの脱却」が強く求められている。)

 
「押し付け」を言う前に、市民の総意を集約して自律的に新憲法を創造する基盤が成熟していなかった当時の日本社会における民主主義の成熟度こそ、現在・将来への反省を込めて、問いかけられるべきであった(ある)と思われてなりません。

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被爆少女の手記にまで及んだGHQによる原爆記録の検閲

NHKアーカイブス(川口)へ行く
 一昨日(43日)、川口市にあるNHKアーカイブスへ出かけた。
 (道順と番組ライブラリーはこちら↓)
 http://www.nhk.or.jp/archives/kawaguchi/access/index.html
 このブログの前回の記事で取り上げた正田篠枝の足跡を記録した「耳鳴り~ある被爆者の20年~」を視るのがもともとの目的だった。しかし、数日前から、WEB上で「番組ライブラリー」を調べるうちに、原爆の記録や報道を取り締まった当時の占領軍の検閲制度を扱ったドキュメンタリ-が数点、保存されていることを知り、それらも併せて視ることにした。

 アーカイブスは埼玉県が中心となって推進しているSKIPシティ(中小企業、映像関連産業を核とした、さいたま次世代産業拠点)の一画にある。JR川口駅からバスで13分ほどで、11時過ぎに着いた。平日とあって70ほどあるブースの約3割が埋まっていた。受付で、「2時間交代制」と告げられた。荷物を置いたまま長時間、席を離れる人がいるため、こういう時間決めにしたそうだ。ただし、平日で比較的空いているので、間違いなく更新できると告げられ、1630分ごろまで3回転で落ち着いて視聴できた。

 この日は次の5点を視聴した(括弧内の年月日は初回放送日)。
  1.耳鳴り~ある被爆者の20年~(平和アーカイブス)(196511   28日。)
  2.人生読本 「ヒロシマを語りつぐ」(1)栗原貞子(198285    日。ラジオ)
  3.人生読本 「ヒロシマを語りつぐ」(2)栗原貞子(198286    日。ラジオ)
  4.NHKスペシャル あの炎を忘れない~被爆少女の手記とGHQ   検閲~(199389日)
  5.ドキュメンタリー 爆心地のジャーナリスト(198086日)

 以下では、4番目に視た「あの炎を忘れない~被爆少女の手記とGHQ検閲~」のあらましと感想記を書きとめておきたい。次回のブログ記事では、5番目の「爆心地のジャーナリスト」を取り上げたい。

検閲に抵抗した父親
 アメリカ・メリーランド州立大学に保存されているプランゲ文庫で、14歳の時、長崎で被爆した石田雅子さんが兄の勧めで家族新聞用に書いた手記をまとめた『雅子斃れず』と題する手書きの稿本が発見された(注:これは、おそらく、モニカ・ブラウ著/立花誠逸訳『検閲 19451949 ――禁じられた原爆報道――』283ページで注記されている、検閲用に提出された仮刷版ではないかと思われる。日付は1947620日となっている)。

 プランゲ文庫とは、メリーランド州立大学教授のままGHQの参謀Ⅱ戦史室に勤務していたゴードン・W.プランゲ氏が持ち帰った出版物を同大学が「プランゲ文庫」と名づけて保存している日本占領期の資料集である。この書物の元原稿を手がかりに、被爆当時の長崎市内の模様を綴った日記風の手記にまでGHQの事前検閲が及んでいた実態に迫ろうとしたのが、この番組である。

 番組の主な舞台は石田家であり、存命の雅子さんをはじめ、兄の譲一氏、さらには当時の民間検閲官、長崎軍政府代表団に所属した司令官らも登場する。しかし、主役は雅子さんではなく、原爆投下の当時、雅子さんと宿舎で2人暮らしをしていた父、壽(ひさし)氏である。壽さんは当時、長崎地方裁判所の所長の職にあったが、この番組は、職業上の法律知識と広い人脈を活かして、わが子が記した被爆の記録を書物にしようと奔走した壽さんの執念の行動を貴重な資料や関係者の証言をまじえながら生々しく再現している。

推薦状を書いて出版に力添えをした長崎軍政府司令官
 (旧姓)石田雅子さんは爆心地から1.5キロ離れた兵器工場で働いていたところで被爆した。長崎県立高等女学校の3年生の時だった。その時の模様を「雅子斃れず」という表題で家族新聞に掲載したのを壽さんは手書きの書物にして民間検閲支隊福岡支部に提出した。当時は、1945919日付で発出された「プレスコード」によって一切の出版物に事前検閲がしかれ、ゲラ稿を検閲当局に提出しなければならなかったからである。しかし、6日後、福岡の検閲当局から、「申請は手書きでは受け付けない、活字にして2部提出せよ」という簡単な返事が届いた。

 そこで、壽氏は出版許可を待たず、乏しい紙をかき集めて印刷にとりかかる一方、交友のあった長崎軍政府デルノア司令官に推薦状を依頼した。この書物が反米感情をあおるおそれありとしてプレスコードにひっかかるのを恐れたからである。番組制作当時、マサチュセッツ州に在住し、インタビューに応じたデルノア氏は、壽氏が「娘さんの作文を持ってきたときは親バカだと思ったが、読んでみてすばらしい内容で娘さんに敬意を持った」と当時の様子を語った。その心情をデルノア氏は当時作成した推薦状に次のように記している。

  「我々アメリカ人が原子爆弾の意味を正しく認識すること、多くの日 本人が体験したことと、その心境を知ることが今、大切である。」

「公共の安寧を害する」との理由で発禁処分
 しかし、1947716日、福岡の検閲当局は『雅子斃れず』を発禁処分にした。その理由はプレスコード第2条に違反するというものだった。念のため、この条文を原文で引用しておく。

  Nothing should be printed which might, directly or indirectly,   disturb the public tranquility.

 福岡地区検閲官ソロブスコイ少佐は1947716日に九州軍政府司令官に宛てて送った回答の中で次のように記している。

  「本地区は、小説『雅子斃れず』が日本における公共の安寧を乱す であろうということ、そしてその小説が、爆撃は人道に対する犯罪で あることをほのめかすものであると信じるものである。」「戦争の傷跡 をあけたり、敵意をふたたびあおりたてるような風潮がもっとしずまる とき」までは日本では出版されるべきではない。(モニカ・ブラウ著/ 立花誠逸訳、前掲書、133ページ)

 その際、ソロブスコイ少佐の返信では、原爆の傷跡をあまりに写実的に描いている箇所として次のような文章を引用していた(モニカ・ブラウ著/立花誠逸訳、前掲書、133ページ)

  「火傷で皮ふがむきだしの裸体、皮をむいた桃のような死体・・・・。 私は気が動転していました・・・・。死体、脚が大きな川を埋めていま した。・・・・親子が抱き合って其の儘焦げちじれている死体・・・・。  ああ、何と悲惨な光景でありましょう。・・・・」

 結局、『雅子斃れず』はゲラ奥付の「昭和22630日発行」という年月日を削除のうえ、仮刷のまま、私家本として100部(一説では200部)を非売品として個人的に配布された(武市銀治郎「アメリカの対日占領期における検閲政策――原爆報道を中心にして――」『防衛大学校紀要』19969月、75ページ参)。

検閲隠し
 占領期の言論・出版に対する検閲のなかで、特筆すべきことは、検閲の事実を一般読者の目に触れないよう、隠蔽する措置が取られたという点である。これについて、「GHQ占領下のジャーナリズムと原爆文学研究」(平成13年度~平成15年度科学研究費補助金〔基盤研究C〕、研究代表者:岩崎文人)は、CCD(民間検閲支援隊)がプレスコードの運用指針として配布した補足文書「出版社への注意書」の中で次のような事細かな注意書きを記していたことを明らかにしている(2ページ)。

  「一.削除を指令されたる場合は左の如き行為をせず必ず組み変え印刷すること
    1.墨にて塗りつぶすこと
    2.白紙をはること
    3.○○○等にて埋めること
    4.白くブランクすること
    5.頁を破り取ること」
 こうした指示が、検閲の痕跡を消す意図をもってなされたことは明らかである。


人道の罪で他者を裁きつつ、自ら原爆投下という人道の罪を抱えた米国の自己撞着

 19471015日を機に、占領軍の事前検閲は事後検閲に移行し、194910月には事後の検閲も廃止された。壽氏が検閲当局を尋ねて、この書物にも事後検閲が適用されると知ったのは19489月だった。そして、『雅子斃れず』が婦人タイムズ社(長崎)から出版されたのは、半年後の1949220日だった。

 武市銀治郎、前掲論文は、「占領軍が自由唱道の表看板の裏で徹底した“検閲隠し”を実行し」たこと、原爆記録の出版が事後検閲へ移行と同時には増加せず、それからしばらく経って(極東国際軍事裁判が終了して以降に)遅延した背景をいくつかの文学作品等を例にして考証し(『雅子斃れず』もその一例として)、次のような仮説を提示している。

  「極東国際軍事裁判の遂行過程と原爆報道の抑制との関連は、 極めて密接である。それは、裁判の対象になった『平和に対する罪』 『人道に対する罪』『戦争法規違反に関する罪』のいずれに対しても、広島・長崎〔へ〕の原爆投下が大きな障害になり得る可能性を孕み、その実態報道を禁圧する必要に迫られたからである。」(78ページ)

 もとより、現存する資料から、この仮説を完璧に立証するのは至難のことだろう。しかし、当時の米国占領軍が、平和に対する罪、人道に対する罪で日本人戦犯を裁き、日本に言論・出版の自由を回復する措置を講じる一方で、自らも原爆投下という平和に対する罪、人道に対する罪を抱えるという抜きさしならない自己撞着を抱えていたことは疑う余地がない。原爆被害に関する言論・出版に殊のほか目を光らせ、過敏なまでの検閲を敷くと同時に、検閲の痕跡を残さない措置も周到に講じた理由は、こうした自己撞着のなせる業ではなかったと考えられる

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正田篠枝:原爆歌集『さんげ』に触れて

 『毎日新聞』の327日朝刊の「発信箱」に玉木研二氏筆の「小さきあたまの骨」と題する論説が掲載されたのを連れ合いから教えられた。34歳で被爆した広島の歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)が自らの体験を詠んだ私家版歌集『さんげ』を紹介した小論である。連れ合いは以前、この歌集を取り上げ篠枝の短歌を批評する機会があったため(内野光子「正田篠枝―敗戦―正田篠枝が残したもの」『短歌研究』2005年8月)、資料を集めていた。
 そのせいで、私も著者の名前は記憶にあったが、紙面を覗き込み、しばし釘付けにされた。しばらくして目を離し、『さんげ』は手元にあるか尋ねたところ、手に入れたので探せば出てくるとのこと。
 次の日の夜、1983(昭和58)年に出版された複製版を連れ合いから受け取った。しかし、せっかちな私は職場の図書館で篠枝の関連文献を確かめ、この歌集も収録された栗原貞子・吉波曽死新編『原爆歌集・句集 広島編』1991年、日本図書センター(家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』⑰)、この歌集の解題も収録された水田九八二郎『原爆を読む』1982年、講談社)などを借り出して読み耽った。

 正田篠枝は194586日、35歳のとき、爆心地より1.7キロの広島市内平野町の自宅で被爆。満53歳のとき、県立広島病院で原爆症による乳がんと診断され、2年後の1965615日、自宅で死去した。54歳。19歳のとき、短歌誌に投稿を始め、短歌会「晩鐘」主宰の山隅衛、「短歌至上主義」主宰の杉浦翠子に師事した。
 この私家版歌集は占領軍民間情報局の厳しい監視・検閲の目をくぐり、広島刑務所印刷部でひそかに印刷・発行された。
 篠枝はこの歌集の書名の由来を後年(1962年)刊行した、『耳鳴り―被爆歌人の手記』の序文のなかで次のように記している。

  「この〔原爆の〕悲惨を体験し、何故、こういう目に 会わねばならないのであろうかについて、他を責むるの みではなく、責むるべきもののなかには、己れもあるの だと思いました。そうして、不思議に生き残って、病苦 に悩まなければならない、自分を省みて懺悔せずにおれ ないのでありました。それで『さんげ』と、題をつけま した。」

 篠枝は原爆症で苦しみながらも、1959年、「原水爆禁止広島母の会」の発起人となり、1961年に創刊された同会の機関紙「ひろしまの河」にも短歌やエッセイを寄稿した。また、亡くなる2ヶ月前の19654月に、篠枝が取材に応じたNHKテレビ番組「耳鳴り―ある被爆者の記録」が放映された。

 死ぬ時を強要されし同胞の魂にたむけん悲嘆の日記
 (この歌は本歌集の扉の見返しに描かれた原爆ドームの 下に添えられた篠枝自作の短歌である。)

 炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明け を待つ

 ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらし て泣きわめき行く

 筏木の如くに浮かぶ死骸を竿に鉤をつけプスットさしぬ


 酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこ涙に光る

 可憐なる学徒はいとし瀕死のきはに名前を呼べばハイッ と答へぬ

 大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつま れり

 (この歌は広島平和記念公園に設置された「教師と子ど もの碑」の台座に刻まれている。)

 武器持たぬ我等国民(くにたみ)大懺悔の心を持して深 信に生きむ
              
 篠枝が著した上記の『耳鳴り』によると、第2首は義姉が被爆して息を引き取るときにつぶやいて告げたものだという。この義姉は水泳ができなかったので死骸を筏木代わりにその上に乗っかるうちに段々と流れて死骸といっしょに本川橋の柱にひっかかったところを通りがかった人が助けてくれたという。しかし、この義姉も8月7日に息を引き取った。
 筏木のように浮かぶ死骸に乗っかって生きながらえる――体験者にしか表せない赤裸々な写実は、技巧的な喜怒哀楽の心境描写、お手軽な「原爆体験の風化」論を寄せ付けない切迫感を読者に伝えずはおかない。
(最初の段落を除いた本稿は、左サイドバーの「詩歌に触れて」に収録した。)

『さんげ』表紙の見返し(クリックすると拡大されます。原爆ドームは故吉岡一画伯の作) 
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『さんげ』の一節より(クリックすると拡大されます。)
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「従軍慰安婦」問題再論:日本政府に必要なのは身勝手な「証拠」ではなく、史実と被害者の叫びを直視する「理性」である

NHKは日本政府の北朝鮮政策のスポークスマンなのか?


 「従軍慰安婦」問題をめぐって安倍首相は持論を封印したり、開封したり、右往左往している。途中から河野談話を受け継ぐといい、一度は元慰安婦に「お詫び」を強調するなど持論を封印する姿勢を見せた。しかし、その後も強制連行という「狭義」の強制を裏付ける証拠はないと蒸し返し、16日に政府は「発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」という答弁書を提出した。


 こうした日本政府の発言に対する米国議会や各国政府・世論の批判の広がりは各紙でそれなりに報道された。しかし、不思議なことにNHK、特に夜7時のニュースはこうした動きを全くといってよいほど伝えていない。その一方で、北朝鮮の核開発問題をめぐる6カ国協議の報道を定番のように大きく報道し、北朝鮮への経済支援と絡めて日本人拉致問題を議題に乗せようと苦心する日本代表の姿を連日クローズアップしている。


日本政府は日本人拉致被害者に向けるのと同じ正義と人道を、なぜ他国の元慰安婦にも向けられないのか?


 北朝鮮による日本人拉致が極悪非道の行為であること、経済支援を引き出す交渉のカードのように拉致被害者を扱う北朝鮮政府の姿勢が常軌を逸していることは論を待たない。そして、年少期に家族から引き離され、人生を狂わされてしまった拉致被害者の一刻も早い帰国を果たすよう、日本政府が外交交渉を続けるのは当然のことである。しかし、それなら、日本政府は日本人拉致被害者に向けるのと同じ正義と人道の精神をなぜ、他国の元慰安婦にも手向けることができないのか?


 アジアをはじめとする諸国の多数の女性たちは、青春期に甘言や強制で慰安所に連れ込まれ、事実上の軟禁状態のもとで幾人もの元日本人兵士の性的処理の相手をさせられた。自分の一生を根こそぎ台無しにされ、生死をさまよい、その後の人生に深い傷を背負った点では日本人拉致被害者とどう違うのか?

 NHKも、「視聴者にできる限り幅広い視点から、情報を提供する」(新放送ガイドライン)というなら、従軍慰安婦問題に関する安倍発言に対して、米国下院外交委員会の公聴会で元慰安婦がどのような証言をしたかをなぜ伝えないのか? また、その証言を受けて、シエーファー駐日米大使が「私は元慰安婦の証言を信じる。元慰安婦は旧日本軍に強姦されたということだ」と語ったことをなぜ伝えないのか? オランダ外相がオランダ駐在の日本大使を呼んで「強制連行はなかった」という安倍発言に対し強い憂慮と不快感を伝えたことをなぜ報道しないのか? 先日来日したオーストラリアのハワード首相が訪問中に日本政府に対して「つまらない言い訳をするな」と警告したことをなぜ伝えないのか? 


 これでは、いかに「自主的な編集判断」と言っても、自国政府にとって追い風となる事実の報道には熱心な反面、自国政府に「耳の痛い」「不都合な」事実の報道には消極的だと推測されてもやむを得ない。自主自立は言葉でではなく、日ごろ「何を」「どのように」報道したかで具体的に試されるものである。

「家に乗り込んでいって強引に連れていったのでなければ強制にはあたらない、したがって謝罪する必要はない」と言っているに等しい安倍首相の、世界の物笑いになるような発言を垂れ流すだけでは、ジャ-ナリズムではない。

日本のメディアは「従軍慰安婦」、「日韓併合」をめぐる東国原知事の歴史認識をなぜ伝えないのか?

 さる3月15日、東国原宮崎県知事は東京有楽町の外国特派員協会で記者会見を行った。これについてはいくつかの民放が報道をしていた。しかし、その内容は、同知事が英語でジョークを混じえてスピーチをした模様を面白しろおかしく伝えたものだった。


 これに対して、The Japan Times HIROKO NAKATA 記者名の“Gov. Sonomanma: What sex slaves?” という見出しの次のような記事を掲載した(抜粋)。

 My position is that it is hard to make a comment (on the issue) unless the history is verified, “ he said. “Both cases of existence and nonexistence (of coercion) should be verified objectively. ”


  「(この問題については)歴史が証明するまではコメントするのはむずかしいというのが私の見解です。」「強制があったという主張も、なかったという主張も、どちらも事実にもとづいて立証されなければなりません」と彼は語った。

Aside from the question of whether there was coercion to get the sex slaves into the trothels, Higashikokubaru said he believes there was nothing wrong with Japanese engaging in the sex trade in pre-1945 Korea, because under a “bilateral accord” in 1910, the Korea Penisula became part of Japan, where the sex business had been allowed under certain regulations.
 

  東国原氏は次のように発言した。「性的奴隷を慰安所に集めるにあたって強制があったかどうかは別にして、朝鮮半島が“双方合意のうえで”日本に併合された1910年から1945年当時は、売春は合法だったから、朝鮮半島から売春婦が日本へ来て性的な商売をするのはなんら問題なかった。」

 この報道から判断する限り、東国原氏は従軍慰安婦を慰安所に徴集する際に強制があったかどうか、不明と解釈していることになる。そればかりか、彼は従軍慰安婦を売春婦と同列に置くかのように認識していること、さらに日韓併合が両国「合意」の統治であったかのように受け止めていることがわかる。宮崎県知事がこうした歴史認識の持ち主であることをわが国の有権者に伝えることと、大リーグのキャンプ地での日本人選手の一挙一動を伝えることと、どちらを優先すべきなのか―――日本のメディアにはこのことが問われているのである。

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ためにする強制の「広狭」論ーー「従軍慰安婦」問題をめぐる安倍首相の理性に耐えない言辞―ー

河野談話を継承すると言いつつ、謝罪を拒む安倍首相の支離滅裂な言動
 米下院外交委員会の「アジア太平洋・地球環境小委員会」が「従軍慰安婦」問題で日本政府に対して、元慰安婦への明確な謝罪を求める決議案を審議している。これに関して、安倍首相は5日午前に開かれた参議院予算委員会で、「決議案には事実誤認がある。決議がされても謝罪することはない」と答弁した。

 安倍首相のこの国会答弁を聞いて、私は支離滅裂ぶりにあきれた。安倍首相が継承するという河野談話には次のようなくだりがある。

  「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めてその出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」

 ここには、元従軍慰安婦への謝罪と反省が明記されている。この河野談話を踏襲すると言いつつ、「謝罪はしない」と言うのでは、国の内外を問わず、言語意味不明である。


連行の強制性の「広義か狭義か」にこだわる底意
 安倍首相が謝罪をかたくなに拒むために持ち出すのが連行の「広狭」定義論である。そして、
その意図するところは、狭義の強制性が証拠で裏づけられないかぎり、学校教科書に載せるべきではないし、謝罪には及ばないという論法である。

 これについて安倍氏は昨年10月6日の衆議院予算委員会で、「本人たちの意思に反して集められたというのは強制そのものではないか」という問いに対して、次のように答弁している。


  「ですから、いわゆる狭義の強制性と広義の強制性があるであろう。つまり、家に乗り込んでいって強引に連れていってしまったのか、また、そうではなくて、これは自分としては行きたくないけれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういうことになったことについての関連があったということがいわば広義の強制性ではないか、こう考えております。」

 こういう物言いを聞くと、家に乗り込んでいって強引に連れていったのでなければ強制にはあたらない、したがって謝罪する必要はないとでも言いたいのだろうか? そうでないなら、強制の広狭を持ち出す意図はどこにあるのだろうか?

 安倍首相の上記の議論には、二つのレトリックが仕組まれていると考えられる。
 一つは、従軍慰安婦を徴集する際に「狭義の強制」があったかどうかだけが問題であるかのように議論を誘導し、これに該当しない「募集」業務は非難に当たらないという回答に着地させようとするレトリックである。
 もう一つは、従軍慰安婦制度の犯罪性を慰安婦「徴集の局面」に意図的に限定し、徴集後に慰安婦が「慰安所」でどのような状態に置かれていたかを不問にするというレトリックである。


慰安婦徴集の犯罪性に狭義も広義もない
 安倍首相が継承すると明言した「河野談話」は慰安婦の「募集」方法について、次のように記している。

  「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。」

 また、1994年に国連人権委員会によって「女性への暴力に関する問題に関する特別報告者」に任命されたスリランカの法律家クマラスワミ氏が1996年に提出した最終報告書は、慰安婦の徴集に次のような3つのタイプがあったと記している。
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM

 ①すでに娼婦であった女性と少女からの自発的応募
 ②料理屋や軍の料理人、洗濯婦と称して女性を騙すやり方
 ③日本の支配下にあった国々での大規模な強制と奴隷狩に匹敵す  る暴力的連行

 まず、指摘しておく必要があるのは、安部首相が言う「狭義の強制」的徴集も実在した証拠が提出されているということである。クマラスワミ報告にあるように、徴集方法は地域によって一様ではなかったが、国内では軍が直接自国民を慰安所へ連行するのは好ましくないと判断され、①が多く、一部②のやり方もあったようである。

 しかし、当時、日本軍の統治下にあった朝鮮、台湾、中国等では、軍人が直接現地の女性を拉致、誘拐して慰安所へ連行するケースや、現地のブローカーや地元の村幹部などを通じて女性を集めたケースが多かった。1956年に中国の瀋陽と太源で行われた日本人戦犯裁判で有罪判決を受けた45人の自筆供述書、前記のクマラスワミ報告に収められた元従軍慰安婦3人の証言、韓国政府が元慰安婦13人から聞き取り調査をした結果をまとめた中間報告書(1992年7月31日)などから、この事実を具体的に読み取ることができる。

 しかし、このことから、物理的強制(連行)を伴わない徴集なら問題はなかったなどと言い募るのは慰安婦徴集の実態に目をふさぐ暴論である。例えば、「よい仕事があるから」といった甘言で軍の慰安所に連れていかれ、最初は裁縫や洗濯などを割り当てられたが、しばらくたって兵士の性的処理の相手をさせられた女性がおびただしい数にのぼる。こうした女性に対して、「家に乗り込んでいって強引に連れていったわけではない」などと殊更に言い募るのはモラルの退廃というほかなく、そうした人物が「美しい国づくり」を語るのは笑止の沙汰である。

 本来、インフォームド・コンセントというのは、必要な情報を得たうえでの合意を意味し、詐欺や甘言で誤導された意思が「真正の意思」でないことは言うまでもない。それどころか、暴力的連行とは区別される詐欺・甘言(この事案では女給か女中として雇うという詐欺)による慰安婦の徴集を「国外移送目的の誘拐」として有罪とした大審院判決(1937年)が存在したことが「朝鮮人強制連行真相調査団」の手で発掘されている。

 

「慰安所」における女性の性奴隷としての実態
 先に触れたように、従軍慰安婦問題の犯罪性は徴集の局面がすべてではない。強制連行か甘言による拉致・誘拐かを問わず、慰安婦とされた女性の悲惨な姿は「慰安所」の実態を直視することなしには把握できない。これについて、「河野談話」と同時に内閣官房外政審議室が発表した「慰安婦関係調査結果の要旨」は、<慰安所の経営及び管理>と題する項で次のように記している。

  「慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営したケースもあった。民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した。

  慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために、慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務付けたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。いずれにせよ、慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられていたことは明らかである。」

 こうした記述を裏付ける資料や証言は少なくないが、前記のクマラスワミ報告は「慰安所」の状態に関する調査結果を次のように記している。

  「敷地は鉄条網で囲われ、厳重に警護され巡視されていた。『慰安婦』の行動は細かく監視され制限されていた。女性たちの多くは宿舎を離れることをゆるされなかったと語っている。」

  「・・・・・・そのような状態のなかで、『慰安婦』は一日に10人から30人もの男子を相手とすることを求められた。」

  「軍医が衛生検査を行ったが、『慰安婦』の多くの記憶では、これらの定期検査は性病の伝染を予防するためのもので、兵隊が女たちに負わせた煙草の押し焦げ、打ち傷、銃剣による死傷や骨折でさえもほとんど注意を払われなかった。」

  「そのうえ病気と妊娠にたいする恐怖がいつもあった。実際『慰安婦』の大多数はある程度性病にかかっていたように思われる。病気の間は回復のための休みをいくらか与えられたが、それ以外はいつでも、生理中でさえ彼女たちは『仕事』を続けることを要求された。ある女性被害者が特別報告者に語ったところでは、軍事的性奴隷として働かされていたときに何度も移された性病のため、戦後に生まれた彼女の息子は精神障害者となった。このような状況はすべての女性被害者たちの心に深く根付いた恥の意識と合わさって、しばしば自殺または逃亡の試みという結果をひきおこした。その失敗も確実に死を意味した。」

「楽しみもある代わりに死んでくれ、と言っているわけでしょう。」
ーー元日本軍兵士の尊厳をも冒涜する政治家の発言―ー


  「この程度のことは違う立場から見れば、戦争だったわけですから当然のことなんですね。これが強制連行と言ったらひどすぎますが、連れていくのに全然自由意思で『さあ、どうぞ』という話などないわけですね。
  しかし、この程度のことを外国に向けて本当にそんなに謝らなきゃいかんのか。誰がひどいと言ったって、戦争には悲惨なことがあるのであって、当時、娼婦というものがない時代ならば別ですけれども、町にあふれているのに、戦争に行く軍人にそういうものをつけるというのは常識だったわけです。働かせなきゃいけないんです。兵隊も命をかけるわけですから、明日死んでしまうというのに何も楽しみがなくて死ねとは言えないわけですから、楽しみもある代わりに死んでくれ、と言っているわけでしょう。」
 (日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編『歴史教科書への疑問』展転社、平成9年、435~436ページ)

 これは「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が河野洋平衆議院議員を講師として招き、同氏が官房長官時代(1993年8月4日)に発表した前記の談話(「慰安婦関係調査結果の発表に関する河野官房長官談話)の経緯を説明した後の質疑の冒頭で小林興起議員が行った発言の記録である。

 口を開けば、「英霊」と奉られる元日本軍兵士は、後世の政治家が自分たちのことを「娼婦をつけ、楽しみを与えるから死んでくれと言ったまでだ」と言ってのけるのを聞いてどんな思いをするだろうか? 意に背いて戦場へ連行され、性的奴隷扱いを受けたアジアの女性たちにとって、自分たちが受けた仕打ちを「この程度のこと」と言ってのける加害国日本の政治家の発言を聞かされるは、二重の意味でーー一度は戦場で、もう一度は戦後の歪んだ歴史認識の持ち主である日本の政治家の暴言でーー人格冒涜というほかない。

 ちなみに、前記の小林議員の発言に対し、河野洋平氏は次のように応答している。

 「なるほど。私は残念ながら意見を異にします。この程度のことと言うけれどもこの程度のことに出くわした女性一人一人の人生というものを考えると、それは決定的なものではなかったかと。戦争なんだから、女性が一人や二人ひどい目にあっても、そんなことはしょうがないんだ、というふうには私は思わないんです。やはり女性の尊厳というものをどういうふうに見るか。現在社会において、戦争は男がやっているんだから、女はせめてこのぐらいのことで奉仕するのは当たり前ではないか、と。まあ、そうおっしゃってもいないと思いますが、もしそういう気持ちがあるとすれば、それは、今、国際社会の中で全く通用しない議論というふうに私は思います。」
 (日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編、前掲書、436~437ページ)

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